真・恋姫†無双〜李岳伝〜   作:ぽー

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第六十二話 すぐには死なない毒

 さて、と田疇は筆を置いた。諜報部隊『黄耳』への指示は常に熟慮を要す。情報の価値は何にも増して重要だ。ここまでの諜報組織を作るのにかなりの費用もついやした。劉虞から引っ張ることの出来た幽州の予算とは別に、徐無山に本拠地を置く黄巾党、そこに属す人々からの布施の多くも流れ込んでいる。

「だが、甲斐はあった」

 今は益州牧・劉焉からの文を手にとっている。正しくは、益州官吏の法正からである。文面には益州方面――洛陽包囲西部戦線の戦況が詳述されている。

 曰く、厳顔を筆頭に益州軍は朱儁が指揮する長安守備軍先遣隊を撃破し、四つの関所を突破、二つの城郭を陥落させたという。戦況としては一方的に中央を押し込んでおり、最大の難所である大散関まであと五十里まで迫ったという。

 しかしこの勝勢はあくまで朱儁の策略であろう、とも書かれていた。益州の糧道は進軍する距離に比して不安定になり、攻め落とした拠点にも接収できるような物資はわずかも残されていないという。戦線は完全に伸びきっており、今はまだ荊州の助力があるから食いつなげているとはいえ、誘引され、長大となった補給線を断たんと朱儁が虎視眈々と狙っているという――そこまで書いた後に法正は、まことにもって万端全て予定調和である、と記して締めくくっていた。

 田疇は返書に、祀水関攻略戦の現状を簡潔に記し、これからのことは手はず通りよろしく、という言葉を末尾として連絡員に渡した。益州の法正の才能は信じている、人格には大いに問題のある人物だがその鋭敏さは益州では並ぶ者なしだろう。

 洛陽攻略戦は表向き反董卓連合軍と董卓軍の激突ということになっているが、裏ではこのように田疇による操作、指揮が行われていた。元々乗り気ではなかった反董卓連合による洛陽攻略であるが、今や積極的に協力を申し出ていた。益州、荊州との連絡も田疇が買ってでたものである。劉虞に二龍などは、田疇が見捨てられることを恐れて信頼回復に躍起になっていると思っていたが、その誤解を解こうとは田疇は思いすらしなかった。

 

 ――田疇が企てた天下蠱毒の計は、すなわち劉の一族による中華全土の内乱を前提としている。

 

 太平要術の書に描かれた田疇の理想を実現するための方策、それを具現化した計画であるが、李岳の活躍により計画には多大な修正が必要と相成った。

 太平要術の書は田疇の嘆きと限界に呼応し『見る者の願いを叶える』というその魔の法に従い記述を一変させた。田疇に新たな方策を示したのである。

 田疇は今やそれを元にして練り上げた新たな戦略を元に動いている。書の改変以来田疇の心中は穏やかである。書への信頼がそのまま自信となっていた。

 正午を回った。全体軍議の前にまず二龍に顔をだす、ということを日課にしており、田疇は自らの天幕を出て陣内中央の最も大きな天幕へと向かった。夏の日差しは容赦なく体力を奪う。田疇はわずかな距離を歩いただけで汗にまみれ、くたびれてしまった。

「お前はいつでも疲れてるね、田疇」

「はぁ……申し訳ありません」

 おかしそうに笑った劉岱に田疇は頭を下げた。劉岱の手には冷ややかな音を立てる杯が握られていた。この戦陣では不謹慎極まる飲み物が波を立てて揺れた。

 李岳の初撃により多くの物資が焼かれた。主に徐州勢の物品であったが、今の戦況では滞陣は長期化するという先行きが嫌でも立ち、開かれる軍議の内のかなりの割合で兵糧の見通しについて語られる。

 徐州の陶謙は慌てて追加の兵糧を本拠地に指示しているようだが、急場を凌ぐにはどうしても他勢の助力がいる。当然、誰もが渋った。本拠地が最も近く……というより今なお滞陣している兗州の地を支配する劉岱にはまず最初に申し出があったが、最後まで聞く前に『当方も物資に余剰があるわけではない』とにべもなかった。結局劉備、公孫賛の申し出で幽州から出てきた彼女たちの兵糧を束の間貸し与えるということで決着がついた――目的を一にして集まった連合軍であるが、その連携はお世辞にも良好とは言いがたい。

 所在なく立ち尽くしていた田疇に、くつくつと笑いながら劉岱は申し渡した。

「少し待て。もう一人来る」

「もう一人……ああ、ご決心なされましたか」

 田疇は関への攻撃が始まったその日から、一つの提案を劉岱に持ちかけていた。ようやくその決心がついたのだろう。劉岱は杯に口をつけながら満足そうに田疇に頷いた。

 やがて場に現れたのは、金色の輝きも眩しい曹操その人であった。怒りとも屈辱とも取れるような苦みばしった表情を浮かべている。

「孟徳、遅いよ」

「……時間通りのはずよ」

 曹操は武器を預かろうと近寄ってきた劉岱の側近を言葉で叩きのめした――曰く、武人が戦場で武器を手放すことなど寝台でおいてすらない――曹孟徳を侮るな、という大喝が陣幕を震わせる。

「……いやはや、気難しいね」

「当然のことを言ったまでよ」

「ま、別に構わないけど」

 劉岱はニヤニヤと笑みを浮かべたまま杯に口をつける。寝床にまで武器を抱いて持ち込む曹操と、昼から酒を嗜む劉岱。(いびつ)な対比が田疇は面白かった。だが直後に彼自身、面食らうことになる。

「貴様は?」

 貴様、といきなり呼びつけられ田疇は動揺した。気を呑まれ、その場で(かしず)かされかねない迫力に田疇はすんでのところで抗った。

「……名乗るほどの者ではございませぬ」

「二度言わせる気?」

 人並み以上に背の高い田疇であるが、小柄と言って差し支えない曹操をまるで見上げているような錯覚に陥った。自尊心の凄まじさに目眩を覚えるほどだ。尋常ではない気位の高さであり、まさに覇王の器であるといえる。

「……姓は田、名は疇。字は子泰と申します」

「曹孟徳よ」

「……はっ」

 それきり曹操は田疇に興味を失ったように目を背けた。劉岱は一連のやりとりを面白そうに眺めている。

「で、私は一体何の用でここに呼びつけられているのかしら?」

「今日呼んだのは他でもない。曹操、一つ面白いことを思い出したんだよね」

「……何かしら」

「君は陳留郡太守だったよな」

「それが?」

「僕はなにかな?」

 その一言で劉岱の用件を察したのだろう、田疇は曹操の顔に一瞬だけ走った苦み走った表情を見逃さなかった。

「……兗州刺史よ」

「うん。つまり、君は僕の配下と言っていいわけだ。陳留郡は兗州に属する」

「……そうね。貴方がまともな兗州刺史であるならば」

 ほう、と劉岱は面白そうだと杯を投げ捨てた。カラカラと純銅製の杯が地を転がる。

「まとも、ね?」

「兗州刺史とは名ばかり。洛陽にて起居し指示もなく、民の寝食にも興味がなく、賊も放置、傷ついた大地を手当てすることもなく自らの奢侈ばかり楽しみ権力闘争にかまけてきたのが貴方よ。それが今さら刺史として名乗りを上げることが出来ると思って?」

「これは剣呑」

 劉岱は呵々大笑。

「つまり君は、臣下でありながら上司の価値を問うといっているのかい?」

「人は常に問い、問われる存在よ。自らの権威にのみ固執しあぐらをかける者などどこにもいないわ。この連合軍だとて、自らの上位である董卓に牙を剥いている。貴方もその一人。語るに落ちてるわよ?」

 劉岱はいま半ば公然と侮辱されている――彼の気性を考えれば、あらゆる手段を用いて残虐な行いに出かねない。だが劉岱は屈辱もまた滋味深い前菜であるとばかりに笑みを浮かべていた。

「……なるほど。君は確かに立派な郡太守だ。陳留の租税は君が治めるようになってから安定し額も増えている。見事な手腕といえよう。けれど州の経営はまたそれとは一線を画す。己の身分をわきまえないまま駄々をこねるのは割りと恥ずかしことじゃないかな? ……はっきり言っておこうか。僕はいま、君の軍人としての素質を問うている」

 劉岱は立ち上がると、真っ直ぐ曹操に相対した。二人の身長はさほど変わらない、両者の双眸は火花を散らしている。

「君は初戦でどれだけの損耗を出した?」

「全ては軍議で挙げた通りよ」

「情けない数字だよね。残兵はどれほどだ? それにせっかく敵軍総大将の李岳と対峙したというのに、みすみす逃すとは。死んだ兵も浮かばれないだろう」

 曹操の瞳の輝きが一際増した。田疇の経験で言えば、それは人が暴発する直前に見せる爆発の予兆だ――だが曹操は理性で怒りを屈服させた。

「――そうね。兵の無念、それはこの曹孟徳の魂に余さず刻んでいるわ」

「美しいことだ」

「何がいいたいのかしら?」

 フ、と劉岱は目線を逸らして袖から書付を取り出して曹操に投げた。

「兵を貸してやる。兗州の兵たちだ。お前はこの劉岱、すなわち兗州の名代として前線指揮を担え」

 流石の曹操も意外な提案に戸惑うだろう――だがそれは田疇の侮りであった。曹操はそれさえも見越していた。まるで薄汚い物を見下すかのように書を一瞥する。

「……この曹孟徳を、幕僚にするとでも?」

「不服かい?」

「刺史に本来軍権はないわ」

「だが郡に関わる人事権はあるのさ。一々朝廷に手続きを問う時宜でもないだろう? 攻め込んでるわけだし……多くの兵を率いる自信がないのかな? それとも、他に理由が?」

 田疇は汗をかいた。曹操の瞳の熱が、田疇を焦がした。

「口さがない者は噂しているよ? 李岳と何やら手打ちを済ませた、とね。内通しているんじゃないかっていう話だって出かねない」

 口を開きかけた曹操を、劉岱はその唇に自らの人差し指をあてがって押しとどめた。 

「お前にとっても悪くない話のはずだ。兵を増やし、存分に戦う事ができる。まぁ嫌がれば、今の兵力のまま先鋒を務め続けてもらうことになる。それよりはいくらも良いだろうが。一挙に数万の兵の指揮は初めてだろうが、仕事はしろよ。見返りはたんまりくれてやる。いいか、僕はとっととこんなところを後にして洛陽に戻りたいんだよ」

「……」

(ひざまず)け」

 田疇は息を呑む。劉岱にはあの者の目に宿る炎が見えないのだろうか? ……見えないのだろう、と田疇は思った。今、目の前で跪いているその人は、金色の獅子――双瞳(そうどう)に炎を宿し、世界の全てを燃やし尽くすことさえ出来る人。それが劉岱には見えない。宮中で権威を振るってばかりであった彼には見えないのだ。(あまね)く全ては自らに服従すると信じて疑わない、宗室の傲慢――

 結局、曹操が劉岱の持つ兵の指揮を預かるということで話はついた。手柄も功績も劉岱のもの、というのが表向きの条件である。裏の条件はまた祀水関を突破した後に出す、ということであったが曹操は精々見抜いているだろう。劉岱の兵を指揮する武官として、登極に至る我が身を仰げ、という程度のものだ。

「みたかい? あの娘」

「恐ろしい覇気でした……」

「あはは」

 劉岱は酒に口づけしながら笑った。

「世渡りが下手な類の人間だね。ま、主の足の舐め方くらいはいずれじっくりと教えてやるさ」

「……さようですか」

「田疇、よくやったね。お前が李岳とのやりとりを持ち込んだから曹操に話を通しやすかったよ」

 いいえ、と田疇は首を振った。

「この程度、黄耳を用いればたやすいものです。幽州には多くの間者を紛れ込ませておきました。公孫賛の手勢には難しゅうございましたが、義勇兵を求めた劉玄徳、彼女の軍勢には幸いにも数人の耳がおります」

「うむ」

「万事は劉岱様の思うがままに」

 何の疑いもなく劉岱は酒を煽った。酩酊は彼に恍惚をもたらすのだろうか? だがそれは長い時ではないだろう。田疇は部下を呼び、追加の酒を持ち込んだ。劉岱が好む桃の薫りがする酒は全て田疇の差配で持ち込んでいる。他愛もない賄賂だった。

 この酒は毒だ。田疇は毒を盛った。それだけでは決して死なない毒。いずれ彼を殺し、それを苗床に宿敵さえも食い殺す毒を。

 貴方を殺すための努力ですよ、と――田疇は祀水関を見た。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 攻城戦は不毛である。登ることさえ一苦労する城壁の上の人間など、容易く倒せるものではない。矢の威力だとて上を目がければ減衰する。

 それに比べて守る側は下に射かけ続ければよく、その威力は物が上から下へ落ちる作用も相まって何倍にもなる。石の防壁に隠れることも出来るし、矢傷を受ければ後ろに下がればよい。城を落とすには三倍の兵力がいる、というのは控えめな表現なのかもしれない。

 そして舞台は難攻不落の祀水関である。崖に阻まれ包囲される心配もなく、防備側は一面の城壁に兵力を一点集中すればよいのだ。

「しかも、相手は用意周到と来た」

「うむ」

 公孫賛の愚痴に趙雲は気もそぞろといった風に答えた。

 連合が部隊を再編し、移動を再開して祀水関を目視可能な位置まで接近したのは初戦から五日が経ってからだった。部隊の再編にも時間がかかったが、またどこで李岳が伏兵を用いてくるか分かったのものではなかったので慎重に慎重を期す、という戦略判断による。はっきり言って連合は既に李岳の幻影に踊らされ縮み上がっているのだ。

 そして関に殺到したところでそれに変わりはなかった。

 李岳が用意した物資は膨大であり、一日中矢の雨が降り注ぐ程。それに加えて祀水関近傍に溝までこしらえてくる始末。これがクセモノで、溝とは言うものの半ば堀に近く、一息に渡ることが出来ないので攻城兵器が近づけない。それが二列。身を隠すには浅すぎ、攻城部隊は生身で接近する無謀を強いられ被害は目を覆いたくなる程だ。連合軍は未だ一列目の堀でさえ攻略できていない。

 公孫賛軍は現時点では一度も攻城戦には参加していなかった。初戦、李岳軍の埋伏の計で大敗北を喫した袁紹軍。その救出に功あり、損害ありとして後回しにされていた。劉備軍の功績なのであるが、彼女たちはあくまで公孫賛の配下として周囲からは見られている。

 その影には袁紹の尽力があったという。劉備のお陰で袁紹は自らと、股肱の臣である文醜の命が助かったと考えているらしく、あれから劉備にべったりなのだ。相対的に劉備の存在価値は連合の中で上昇している。完璧に思い通りというわけではないだろうが、大筋では諸葛亮の献策の通りにことは進んだ。

 とはいえ攻城は全く上手く行っていない。攻略の糸口が見つからなければいずれお鉢が回ってくるのは明らかで、手をこまねいて傍観が許されるのはそう長い時間ではないだろう。

「もどかしいな」

「心中お察しいたす」

「ほんとかよ」

 趙雲の様子を見るに、大して心配をしていないのは明らかだろう。

 公孫賛は初戦の日、追撃部隊として名乗りを上げた劉備にあえて趙雲を預けた。李岳の人格を連合で最も良く知るのは彼女である。実際に対面すれば李岳が権力欲に堕した邪臣に変わってしまったのか、それとも目的を持って狡猾に、懸命に動くあの李岳のままなのかはっきりすると思ったのだ。

 果たして趙雲は答えを持ち帰った――よくわからない、と。

 一度相まみえてはっきりするほど、物事は単純ではなかった。李岳の真意を問いただす役割を劉備が担うことになってしまったが、その問答の中身は記憶の中の李岳より荒んでいたように思える。

「そして張超が先走って恋がブチ切れ、か。張超が死なずに済んだのは本当不幸中の幸いだよ。よく止められたもんだ」

「万夫不当の称号、伊達ではなかった」

「李岳も無事、と」

「元気すぎるようですがね」

 兵力を頼みに寄せたが初戦で完敗したという連合にも一縷の希望はあった。李岳負傷の知らせである。あるいはもしものことがあったのではないか、という安易な死亡説も流れたが、関に到着した初日にその願望は瓦解した。城壁の一番先頭で、李岳は朝から晩まで矢を放ち続けたのである。

「弓兵としても一流だな」

「駆け寄ってくる兵の手足を綺麗に射抜き続けたわけですからな。尋常の腕前ではない。あれから毎日毎日城壁の上に現れていますよ。その度に連合の兵は自分が射抜かれるのではないかと怯え、董卓軍は我が将こそ無敵と意気軒昂。全く厄介だ」

「ほっとしてるな、星」

「白蓮殿も」

「……うわー! もう、そりゃそうだろ! やっぱり、知り合いだからな……ていうか勝手にだけど、友達だと思ってるし」

 今は一応敵同士になっているがゆえに、公孫賛は複雑な葛藤を見せたが、本心としてはやはり李岳が心配でたまらなかった。趙雲はその公孫賛の不器用さをニヤニヤと楽しんだが、やがて思わしげに呟いた。

「李岳殿も、あえて自ら城壁の上に立って弓矢の腕を披露しているのでしょうな」

「あえて?」

「自分は元気だと、ああやって見せつけている」

 矢が突き立った様子を趙雲は目撃している。もんどり打って落馬した李岳の様子を思い浮かべるともしものことがあってもおかしくはなかったと思う。肩当てに鉄板でも仕込んでいたのだろう、しかし決して無傷というわけではない。

「ま、無事を知らせる相手は私たちではないようですが」

 誰に知らせているのか、あえて確かめる必要はなかった――李岳が城壁に立っている姿を見た瞬間、呂布はそれまで沈ませていた瞳の色を、パッと輝かせたのだからわかりやすい。

 

 ――呂布の落ち込みようは尋常ではなかった。意気消沈もいいところで、べそべそと涙を流しながら膝を抱えて身じろぎもしなかった。よほど心配だったのだろうということと、自分がまた怒りのままに暴れまわったことが嫌になったのだろうと思えた。李岳の心配をすることよりも、李岳を傷つけた張超に切りかかったことを選んだこともきっと大間違いだったのだ、と思い詰めている様子であった。

 

「呼厨泉の時もそうであったと聞く。だいぶマシになったようだが、恋は辛抱が利かないのだよ。いいところでもあるのだが」

「星。その恋についてなんだがな」

「ん?」

「少し、嫌な噂がある」

 公孫賛は眉根を寄せて言った。

「それなら私も耳にしたよ、白蓮殿。多分同じものじゃないかな」

「恋が李岳に内通しているのではないかという噂、だな?」

 趙雲は思わず吹き出した。

「恋が間諜! そんな器用な人間ではないのはひと目でわかるものであるが」

「むしろ、その器用さがあれば今頃ここにはいないよ。とっくにあちら側さ」

「言えてる」

「ついでに、初日に捕虜になって解放された、袁紹軍の張恰将軍。彼もまた内通を疑われている」

「おう、あの中々にいい男ですな」

 公孫賛は一瞬ジト目で趙雲を見たが、当の本人は素知らぬ顔で涼しい表情。

「いい男かどうかはさておき、命惜しさに敵方に内通するような人間じゃないのはわかるよ。張恰と言えば冀州きっての剛将。内通するくらいなら自決を選ぶような男だ。疑うなんて馬鹿げてる、暇な奴らだよ」

 公孫賛は呆れ返って肩をすくめたが、続けて発された趙雲の言葉に目を丸くした。

「もうひとつ噂の延長ですが、出陣させよ、というものもありますぞ」

「え?」

「呂布と張恰。その二人の潔白を証明するには出陣させる他ない。二人を先頭に立たせ祀水関を攻めさせよ、と声が挙がっております」

「……張超か? 袁紹か?」

「どちらも違いますよ。二龍です」

「――あの、クズが!」

 公孫賛はらしからぬ怒声を放った。

 命令するのはいいものの、二龍は毎日毎日昼も晩も酒を飲んでは不毛な消耗戦でさえ戦であると、仲間の犠牲を笑いながら楽しんでいるのである。祀水関を早く落とせとけしかけながらも助力は避け、軍議の席では人一倍失敗を責めては罵倒し、力不足を糾弾している。初戦の敗北によりその地位を失墜させた袁紹に成り代わり、連合の盟主気取りだ。とにかく数で押せば勝てるとしか考えていないのである。

 呂布はあくまで公孫賛軍の将である。彼女が出陣するとなれば幽州三郡白馬義従が動かないわけにはいかない。公孫賛は我が事としても怒りを覚えた。

「……そんな真似、許せるはずがない!」

「疑われている二人は喜んでるようです」

「当たり前の反応だ! 誰だって怒る! ……ひぇっ!? 当たり前じゃないじゃん!?」

「白蓮殿は日に日にいじり甲斐が増すな」

「アホ! やめてくれ! それより、二人が喜んでいるって、どういうことだよ」

「張恰殿は自らの武将としての不名誉を払拭する名誉挽回の機会だと考えているようですな。これはとても良くわかる。恋の方は、いつも通り何を考えているのか全くわからん。多分ですが、李岳に近づけることが嬉しい。それだけなのではないかな」

 公孫賛は絶句した。

「それだけって……戦場だぞ」

「何か吹っ切れた様子」

 李岳が矢を放っている姿を見てから、呂布からソワソワした様子が消えていた。日がな一日中愛犬と愛馬の隣にいるか、昼寝しているかどちらかなのである。李岳が生きていて嬉しいのはわかるが、それとは別にどこでどう不安を払拭する要素があるのかとんと分からない。だが彼女には彼女なりの道理がある。

 そして翌朝、二人の会話の内容は現実となった。

 軍議において、張恰率いる袁紹軍再編部隊が攻城戦にとりかかることが決定されたのである。そしてその副将には呂布が選ばれた。名目上は袁紹、公孫賛の共同戦線である。二龍の強い要請により反論や反発はままならなかった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「もし!」

 呼びかけた張恰であるが、その相手は気付きもせずに通りすぎようとした。張恰は慌てて前に回りこんで再度呼び止めた。

「もし、と申したが」

「もし、なんて名前じゃない」

 赤い髪、紅い瞳の乙女であった。意図して無視したわけではないようである。

「……これは失礼仕った。呂布殿、だな。某は張恰と申す。此度同じ先鋒として任を(あずか)った」

「ん」

 呂布はおざなりに頷いた――張恰は訝しく思った。このぼんやりとした少女があの呂布?

 張恰は冀州の生まれ育ち、今は袁紹に仕える軍人である。若い頃から男伊達で通っており、将兵の信頼厚く今は司馬の職にある。袁紹麾下にて頭角を現し、いずれ軍の重鎮として立つものであると皆が認めていたが、主君である袁紹が見目麗しい女子を侍らすことを好むゆえに冷遇されているのだ、と口さがなく噂する者もいた。当の本人は(ひとえ)に自らの力量不足であると断じ耳を貸すこともなかったが、噂や勢力争いの場での立ち居振る舞いが不得手なために結果的に場を得ているとは言い難く、損な役回りを引き受けることが多かった。

 とはいえそれも実力で覆すことが出来ると思い定めて自己研鑚に励んで来たわけであるが、先日の戦では大いに落胆することとなった。殿軍を買ってでたとはいえ無様に敵軍に包まれ捕虜となり、おめおめと生き延びて帰ってきたのは紛れも無い事実なのである。己は所詮不甲斐ない弱兵だ、と張恰は自責の念に囚われていた。

(李岳はこの俺を生かして帰した……取るに足らぬ敵と思われたか、あるいはむざむざ連合の口減らしを手伝う必要もないと判断されたか……どちらにしても歯牙にもかけられなかったのは事実だ。この屈辱に甘んじて生きていくことは武人としての名折れよ……!)

 張恰は此度の城攻めがどのような意図があれ、決して逃すことの出来ない挽回の好機であると考えていた。先鋒を命じられるのは本望、汚名返上の好機である、と意気盛んな程である。

 故に、呂布の意気込みの少なさに張恰は肩透かしを食った。危うく味方を陥れかけたという不名誉な噂が陣内では渦巻いており、並の武人ならこの機に汚辱を(そそ)ごうと息巻くところであろうが、呂布にその様子は欠片もない。

「……なに?」

「いや、そなた、やる気がないのか」

「祀水関に行けばいい?」

「まあ、そうだが」

「ある」

「何がだ」

「やる気、ある」

 途端、にじみ出るような闘気が呂布の体から立ち昇った。張恰とて武技には相応の自信がある。羅条の法、と呼ばれる武門の流儀を収め剣技においては冀州にて一廉(ひとかど)であるという自負も持っている。

 そのような自負、自尊などただのまやかしだ、と思わず膝を屈したくなるような力量の違いを張恰はまざまざと思い知った。汗が浮き出て途端に顎から滴った。張恰は思わず口にしていた。

「……参った」

 立ち会ったわけでも、剣を握ったわけでもない。それでも張恰は敗北を宣言した。それが己の些細な矜持を維持するたった一つの手段であった。

 呂布は束の間張恰を見つめた後、コクリと頷いた。

「貴方も強い」

「いや、よしてくれ……頭を殴られたような思いだ」

「恋がとても強いだけ。貴方も強い。恋は、戦うことしか出来ない。兵のことは白蓮に」

 それじゃ、と手を上げて呂布は去っていった。

「世に人あり、己が足元を見よ、か」

 張恰は去りゆく背中を見守りながら、自らの名誉のためだけに戦おうといていた先ほどの自分の心の有り様を反省した。驕り高ぶり、その全てを吐き出して懸命に勝利だけを目指そう、と。


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