真・恋姫†無双〜李岳伝〜   作:ぽー

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第六十四話 ひとつの翼になって

 時空は運命を繋ぐ。

 この世に生まれ落ち、二度目の生を歩む中、李岳が痛感した真理である。奇妙な偶然に見える事象があろうとも、高次においては妥当な必然でしかない場合がある。回り道が他のどの選択肢よりも最短距離であったり、確信を抱いて選んだ近道が遥かなる旅路への入り口だったりする。

 それでも、再び目の前に現れた呂布の姿に李岳は動揺を抑えきれなかった。

 いつも向かい合っていながら、たえず同じ方向を歩きながら、しかしそのままでは永遠に交わることのない二重螺旋……だが、激情が(たぐい)まれな腕力を纏った時、岐路は歪曲し激突する。力づくで捻じ曲げられた運命もまた必然の亜種である。

 万の矢を単騎で退け現れた、万夫不当の武人の名は、呂奉先。熱情に燃えたぎるような紅の(まなこ)がピタリと李岳を見つめて動かない。

 呂布は再び李岳の前に立ったのだ、あらゆる全てをねじ曲げて。

「あいつ、只者やないで……冬至、あんたはどいとき」

「冬至様……ここは我らが」

 李岳の前を、張遼と赫昭が庇うように立ちはだかった。眼前には真紅の少女。

 張遼が唇を噛んで偃月刀を構え直した。関雲長との激闘の際、二の腕に傷を負った。浅傷ではあるが、眼前の武人を相手取るにはかすかな瑕疵でさえ致命的な隙であるということが痛いほどに理解できた。赫昭に至っては既に自分の力量では拮抗さえ出来ぬと見切ってしまうほど。

 二人の思惑は一致していた。多数で圧殺する、である。背後には万を超える騎馬隊がいる。それを一挙に殺到させてあの女ひとりを殺すのだ。武人の風上にも置けぬ、あるまじき恥辱を自覚しつつもそれしか方策はないだろうと思った。降り注ぐ矢の雨を軽々と切り開いた、息一つ乱さず堀を突破する人間など想定外である。

 紛うことなき最強の武人。個の武が、万の兵の士気を押し上げ怒濤の勢いをもたらすことは、現実にありうる。実際に、土嚢を運び込んでいる連合兵の勢いは凄まじい。

 しかし、李岳は二人を拒んだ。

「下がっていてくれ」

 制止しようと前に現れた赫昭と張遼を目で抑える。

「冬至様!危険です!」

「あんた、うちには一騎討ちやめろ言うてたやんけ……何考えてんねん、総大将!」

 しかし彼女たちの言葉は李岳には届かなかった。

「大丈夫、友達なんだ」

 ようやくそれだけを口にすることが出来た。李岳は一人、乙女と向き合うために前進した。敵味方からどよめきが起こり、何十万もの人間の耳目が一点に集中した。

 呂布はこちらを見ていなかった。ただ天を見ていた。青い天を。それに釣られて李岳も上空を見上げた。まるで吸い込まれてしまうような、今にも落ちていってしまいそうな空だ……想いは容易く空に溶け込み、戦場を離れ、懐かしの地へと舞い戻った。

 遠い日だった。二年、三年? 数百里? 遠かった。山河より遠い時の果て、そこに置き去りにしたはずの人、呂布。

 いま、李岳の髪を乱す乾いた風でさえ、雁門の北、北の大地の風に思える程だった。水の音が聞こえる。二人がいつもじゃれ合い、取っ組み合いをしていたあの川のせせらぎまでもが耳に鮮やかに蘇る。

 この場にはもう誰もいなかった。連合も官軍もない。蒼天がそのはからいで、二人を一瞬にしてあの森の中に戻してしまったのだ。

 李岳が視線を正面に戻すと、呂布もまた李岳を見た。懐かしさが押し寄せてきた。

 声を出せば相手に届く。その事実に李岳は今更のように気づいた。

「やあ」

「……おう」

 呂布の声はあどけなかったが、だからこそ李岳の心を刺激してやまなかった。

「元気だった?」

「……うっす」

「恋、まさか、照れてるのか?」

「死ね」

「ひどい」

 自然に笑みがこぼれたが、これはお互いの努力の結果である。まず二人がすべきことは何なのか、李岳にも呂布にもよくわかっていた。

 李岳は天狼剣に手を伸ばした。呂布もまた得物を握り直すが、比類なき握力により締め付けられた戟の握りが途端に悲鳴を上げる。

 鼻面を付き合わせた黒狐と赤兎が、ゆるりと馬体を平行させた。双方の間合いである。口火は呂布が切った。その斬撃には、何の躊躇いもなかった。

 空気が悲鳴を上げるほどの振りぬきであった。

 迎撃するは馬上の李岳、鍛えに鍛えた鋼鉄が、比類なき(じん)性を発揮する。たわみが呂布の繰り出した暴力を逃がすが、相対する摩擦のためにあでやかな火花が咲く。撃剣に曰く、火練りと呼ばれる鞘走り。それがほんの刹那でも遅ければその首ははじけ飛んでいただろう。

 再び距離を取った。挨拶がわりにしては目の覚めるような一撃だった。李岳は額の汗を拭い、待ち構えている呂布に向けて進んだ。呂布が待ち遠しそうな顔をしている。

 陽の光が眩しい――呂布が首を傾げて、そう言いたげであった。李岳も頷いて答えた。全く眩しい。恋、お前の顔がよく見えないくらいだ。

 陽光の照り返しさえ飲み込む漆黒の刀剣・天狼剣。黒い蛇が獲物の喉首を狙って、草むらから飛び出したかのような抜き打ちが放たれた。黒い光線をまとった秘剣は(いびつ)な軌道を描いて呂布の胸元へ、苛烈にも乙女の心臓を欲して進んだ。

 技を、呂布の力任せの横薙ぎが払いのけた。なまくらであれば容易(たやす)く断たれてしまっていたであろう。そのまま柄が襲いかかってきたが、風切り音は不吉であり、受ければ刀身ごと背骨を叩き折られてしまう不条理な気配に満ち満ちていた。李岳は黒狐の背から飛び降り、そのまま地を転がった。黒狐がすりよってくるが、李岳は拒んだ。地に足をつけていた方が力は確かに発揮できる。

 呂布も同じく馬から下りていた。馬を気遣う必要はなくなったため、闘気は地が震えるほどに増している。

 低く構えた。呂布が切っ先を水平に、腰だめに構えているのが見えた。底知れぬ破壊力が予感される。まともに受ければ終わりだろう。一撃目をくぐれるかどうかだ、と李岳は思った。くぐれなかった時のことは、なぜか考えなかった。

 間合いを詰め、一切の駆け引きを行うことなく踏み込んだ。呂布の横薙ぎに頭から突っ込んだ。風圧が李岳の髪を巻き上げかき分けた。間合い。天狼剣が曳光する。撃剣が誇る必殺の居合抜きを、呂布はこともなげに受け止めた。

 密着していた。二人の吐息が混ざり合う。呂布の存在を肌が感じる。今の李岳に、その体温はあまりに新鮮すぎた。

 何かを誤魔化すように血乾剣を抜いた。二刀が呂布の腹と首筋を同時に狙う。(かいな)の力で呂布は強引に戟を巻いて李岳の体を崩したが、李岳の身体は(ねば)く呂布の胴回りにまとわりつき、間合いを離さない。近づくほどに膂力の差は現れない。間合いを離せば終わりであった。李岳が繰り出し、呂布が粉砕にかかる。どれほどの技が交差しただろう。しかし双方共に全てを読みきっているかの如く、一撃もかすらない。まるで演舞であった。お互いを知り尽くした極限までに練磨された舞芸のよう。目まぐるしく動き回るお互いの残影が、影の反映さえ遅しと加速する。

 かすりさえしない数十合目、やがて距離を嫌い、呂布が跳躍した。呂布の目は本気である。大上段の振り下ろしは、当たれば人馬もろとも跡形もなくす。李岳は独楽のように体を回転させ、渾身の一撃を躱しきった。飛来する石礫(いしつぶて)の殴打に耐えつつ、双刀を突き出した。天狼剣は囮である。血乾剣が呂布の首もとを捉えた。だが、戟の先端もまた李岳の胸を捕まえていた。

 すぐ目の前にある紅い瞳。自ら突き放し、放り出して、見捨てて、置いてきたその瞳の色を、李岳は自分が片時も忘れていなかったことを思い知っていた。呂布と目が合った。それだけで胸が切られたように痛い。

 静止した時の中、お互いがお互いの死を握った。それは命を握ることと同義であった。

 二人はいま、ようやく同じ時を生きていた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「動かなくなったぞ」

 あれほど目まぐるしく位置を変えていた二人の姿が、今や微動だにせず動かなくなっていた。

 関羽が訝しげに目を細めるが、いかんせん距離がある。ピクリとも動かない二人の影をようやく認められるだけだ。

「やるな、李岳」

 心からの感嘆であった。口八丁で人を動かすだけの小男という人物像が、連合内での李岳の共通認識であった。匈奴の王を討ち取ったなどという話もどうせ箔付けのための法螺に違いないとあざ笑われていたが、今や疑う者はいるまい。

「……かなりの遣い手だ。恋の攻めをああも躱すとは」

「いや、恋相手だからだろう」

 隣にいた趙雲が首を振る。李岳とは既知であるそうだから、その言には説得力がある。

「どういうことだ」

「李岳本人がかなりの遣い手だというのは否定しない。強いぞ。しかし、恋に及ぶかというと決してそうではない」

「恋が手を抜いている?」

「そんな器用な真似ができる娘ではないのは知ってるだろう?」

 ではなぜ、という関羽の言葉に趙雲は答えた。

「わかりあっているから、ではないかな。次にお互いがどういう動きをするか、手に取るようにわかっている。そのような感じだな。信頼、と言いかえてもいい」

 関羽が何らかの理解を示す前に、趙雲はつやのあるため息を吐いた。

「……羨ましい話だ」

 趙雲の呟きに関羽はどう返せばよいやら判断できなかった。羨ましい。そのような感情が湧き上がる決闘には思えない。怪訝そうに自分を見つめる視線に気づいたのだろう、趙雲はおかしそうに口の端を歪めた。

「どうした、愛紗。不愉快そうな顔をしているな」

「不愉快など。星、お前が楽しそうなだけだ」

「楽しくないのかな?」

 突き返された質問に、やはりなんと答えればいいのかわからず関羽は戸惑った。趙雲はその様子を鼻で笑った。

「まだまだおぼこだな、関雲長も」

「なに!」

「私は羨ましい」

 趙雲の瞳は遠い。その視線の先で李岳と呂布はまだつばぜり合いを続けているが、その距離は一寸さえ遠ざからない。奇妙に密着したままの決闘は、お互いの吐息さえ交じり合うものだろう。

「あれは交感よ」

「交感……?」

「お互いに信頼しあっている。信頼しあっているから、遠慮なく全力をぶつけられる。きっと避ける。きっと当たらない……殺したくないが、殺しにかからなくては殺される。そんな戦いだ」

 趙雲の視線を追って、関羽も李岳と呂布を見た。関羽にはただ焦燥があるだけだった。仲間と認めた呂布が敵の総大将と一騎打ちをしている。その有り様を、当然応援すべきものとしてしか考えていない。

「李岳は恋に遠く及ばない。だが、きっと誰よりも恋のことをわかっている……だから避けられるし、だから張り合える。そういうことだ」

 交感。その言葉が当たっているとして、二人は一体何を分かち合っているのだろうか――想像したがはっきりとした答えは出てこない関羽に、声をかけたのは劉備であった。

「私には、わかるよ」

「桃香様」

「恋ちゃん、嬉しそうだもん」

 劉備の、何かを悟ったような悲しみに満ちた瞳……そこから関羽は目を離せなかった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 どれほどそうしていただろう。武器を突きつけあったままの二人である。先に口を開いたのは呂布であった。もやもやとした心の中のわだかまりが、ようやく微かな響きとなって現れた。

「……冬至」

 

 ――あの時いえなかった言葉がある。

 

 喉の奥に縮こまって出てこなかった言葉があった。誰よりも悩み、苦しんでいたのは李岳だった。あのとき自分は違う答えを出すべきだった。呂布は幾晩も悔いていた。

『付き纏われるのはもううんざりだ』

 その言葉が耳から離れなかった。うんざり、という言葉の意味を呂布はずっと考えていた。李岳はそう言って呂布を突き放し、去った。けれどその言葉こそが、李岳が最後に呂布に捧げた贈り物だったのではないか。

 付き纏うしかできなかった自分。挙句の果てに李岳に迷惑をかけるはめになった。生活のほとんどを李岳に頼り、彼の笑いに甘えていた。劉備との生活で得たものは多い。人としての営みを続けることと、動物たちを養うことを両立させる難しさ。戦いの中で生き延びることと、味方を生かすこと……李岳は無償で呂布に、それら全てを与えていたのだ。

 元来呂布は物事を二者択一的に見てきた。好きか嫌いか、良いか悪いか。けれど呂布は学んだ。その二つで割り切れないことがあり、それがどんなに分かち難くとも人はどちらかを選ばなければならない瞬間が訪れることもあるということを。自分もまた選ばれる側でもあるということを。李岳は呂布のいない世界を選び、呂布と一緒にいることを選ばなかった。

 呂布を捨て置き、自分だけただ一人で凄まじい戦場の中に飛び込んでいったのである。

 そのなんと傲慢なことか。李岳はいつまでも、呂布を守るべき荷物としてしか考えていなかったのだ。

 畢竟、物事には全て順序というものがある。李岳が選んだのなら、次は、呂布が選ぶ番である。

 届けるべき言葉、握るべき手があったのに動けなかったあの草原の日。そのためらいを、今ここで取り戻すのだと。

 刃を突きつけたまま、呂布は言った。

「うんざりさせにきた」

 李岳の表情がゆがんだ。呂布は続けた。

「うんざりさせる。道を決めるのは、恋。冬至がうんざりするのも、怒るのも、関係ない。冬至が決めることじゃない。恋は弱かった。でも、わかった。恋も弱い。けど冬至も弱い」

 むき出しの声。呂布は静かな声量のまま、叫んでいた。

「一人と一人。だから、大丈夫。冬至は一人じゃない。恋も一人だから。二人は、一人ずつだから。だから、大丈夫」

 言葉もない。李岳は呂布の目から視線を逸らすことさえ出来ないまま、何を決めることさえ出来ない。

「恋、俺は」

「弱い。二人とも弱い……だから、二人要る。違う?」

「何も、違わないな」

「うんざり?」

「うんざりしてない。あれは嘘だった」

「知ってた」

「恋は賢いな」

「冬至は、ばかだね」

 時間の流れがおかしい、早いのか遅いのか……構えを解かないまま、二人は見つめ合っていた。苛烈な動きのために心臓の鼓動は激しく脈打ち、胸を押し上げている。呂布も、李岳もそうである。荒い吐息、突き出された刃物、寸分たりとも動かない視線。吐息だけが混ざり合っている。むき出しの肌が、感覚が、相手の存在の全てを交感したいと欲張る。何かが混ざり、何かが融け合っている。やがて、呂布の唇が静かに李岳の顔に近づいていき――

「恋……」

 李岳は頬に手を当てた。温かい感触がある。呂布は、見間違いかと思うほどに、顔を真っ赤にし、そして拗ねたように上目遣いで言った。

「……恋は、冬至(ばか)と翔ぶ」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「りょ、呂布殿が戻ってきます」

 伝令の声に我に返ったのは張恰だった。間抜けな顔をしてボサッと突っ立ち決闘を眺めていた。唖然とするような戦いである。呂布の凄まじさはもちろん、それに拮抗した李岳もまた並の力量ではなかった。史に残るべき決闘のように思えた、途中までは。

 一騎打ちは明確な決着を見せなかった。鍔迫り合いに移った二人は、しばし密着したまま押し合っていたが、やがてゆらりと距離を置いてしまったのだ。そして再び打ち合うこともないままに、呂布はこちらに戻ってきた。そして李岳軍は追撃さえしないのだ。

 一つ目の堀は攻略した。今は二つ目の堀に土嚢を積み込んでいる最中である。呂布の貢献により被害はほとんどない。これで李岳を討ったのならば勲功第一は間違いなかったろう。だが眼前、馬上で佇む少女はそのようなことに微塵も興味はないとばかりにどこか超然としている様子であった。

 堀を挟んで呂布と張恰、その間にしばしの沈黙が流れた。先に口を開いたのは呂布であった。

「堀」

 呂布は自らの戟で足元の堀を指した。

「埋まる」

「……ああ、呂布殿の働きのおかげだ。それに見事な一騎打ちであった。李岳を討ち漏らしたのは極めて惜しいが」

 呂布は首を振った。興味などないとばかり。

「約束」

「約束? 何がだ」

「約束を、守る」

 呂布の様子に次第に苛つきを覚え始めた張恰であったが、やがてハッと出陣前の呂布とのやり取りを思い出した。

 

 ――そなた、やる気がないのか。

 ――祀水関に行けばいい?

 ――まあ、そうだが。

 ――ある。

 ――何がだ。

 ――やる気、ある。

 

「お主、始めから……」

 張恰は呂布の静かな目を見て、その『約束』という言葉の意味する所を知った。呂布は元より『祀水関に行く』としか言ってなかった。李岳を討つとも、祀水関を攻略するとも言っていない。

 堀を決して渡ろうとしないまま、呂布は戟を翻して宣言した。

「恋は冬至に会うために来た。会って決めると思ったから。会った。そして、決めた……恋は、冬至と共に戦う」

 じゃあ、と。何の未練も見せずに呂布は背を向け関の方へと戻っていった。呂布の勇姿に歓声を挙げていた連合兵たちの声が消沈していく。張恰は二の句も継げない。

 裏切り者! という声がどこかで響いた。だが蒼天の下で、嬉しそうに全速力で疾駆するその背中には何の意味も持たない罵倒であったろう。

 呂布は、寝返ったのである。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 半月の夜であった。空には雲ひとつなかったので、それでも明かりは十二分に天幕を照らしていた。今日は屋内ではなく、外で寝泊まりすると決めたので急遽用意させた。李岳がこのようなワガママを言うのは至極珍しく、李儒などはかなりの妄想を膨らませるほどだった。

 右肩を抑えた。矢を受けた箇所の打ち身はまだ完治していなかったが、それを押して全力で動き回ったために痛みがぶり返している。しかしどこか心地よい痛みでもあった。

 呂布は隣の天幕で眠っている。

 呂布の武を李岳軍の全員がお目にかかった。そして李岳の説得で寝返ったということにも疑問を挟む者はいるまい。問題は、李岳の心の内側にしかない。

「……来ちゃったのか」

 李岳はここ数年のことを思い返していた。呂布と出会ったのが全ての始まりだった。それを否定し、置き去りにした。彼女の幸せを願うだの何だのと言って。

 今ならばわかる。自分は壊れたかったんだ、ということを。正気を失いたくて仕方がなかった。まともな感性で戦争を指揮したり政治闘争に明け暮れたりは出来ないと思った。だから呂布が邪魔だった。彼女の目は、きっと苦しみもがく自分の本当の心の有り様を見抜いてしまうだろうと思ったから。

 実際、ここしばらくの自分の様子を振り返ってみるに、思い当たる節がないわけではなかった。自分の肩に手をやった。黒い、粘質なものが重くのしかかってくる錯覚、自分のものとは思えないほどの灼熱の殺意――

 何が正しいのか定かになる日なんて、来るわけない。一生を悩みながら過ごさなくてはならないだろう。ならばせめて後悔が少ない道を、納得できる後悔の道を選ぶべきだった。

 ふう、と溜息を吐いて李岳は椅子にもたれかかって目を閉じ、そして言った。

「――そこで何をしているのです、お客人?」

 李岳がそう言うと、背後の天幕にいつから映っていたのか、ゆらゆらと蠢く人影がスラリと動いて屋内に侵入してきた。白い着流しは妖艶さを漂わせ、青い髪は清冽さを表す。豪奢な飾り仮面で目元の面立ちを隠した乙女がそこにいた。ビシリ、と李岳を指さし高笑い。

「よくぞ見抜いた、李信達! その慧眼、褒めてつかわす。フーハハハ!」

「……不審者だ」

「ふ、不審者などではない!」

 滅多なことを言うな! と李岳を叱りつけ、不審者は改めて名乗りを上げた。

「我は美と正義の使者! その名も、華蝶仮面!」

「……なにやってんです趙雲殿」

「趙雲ではな~い! 我は……華・蝶・仮・面だ!」

 趙子龍こと華蝶仮面、とにかくそうしておいた方が賢明のようである。

「……まぁいいです、華蝶仮面殿、でしたっけ」

「うむ」

「ここは敵陣ですよ?」

 華蝶仮面はニヤリと笑った。

「華蝶仮面はどこの軍にも属していない。故に敵陣などないのだ」

「……なるほど」

 今ならどんな屁理屈も通りそうだ、華蝶仮面の中の人はよほど食えない者だろう。

「で、華蝶仮面殿。我が陣営にいかような用件でいらっしゃったのかな?」

「うむ。睦ごとを覗きに参った」

「正気かよこいつ」

 本音であった。シモの話を投げられるとは思ってもみなかった。

 華蝶仮面は盛大なため息を漏らした。

「好きだの会いたかっただの、恥ずかしい言葉を交わしながらイチャコラしてるところを是非拝みたいと思ったのだがな……とんだ期待外れだ」

「そんな期待に応えてたまるか!」

「半分冗談だ……さて、うむ。まぁ問題はないようで何よりだ」

「……残りの半分は、まともな用件なんでしょうね?」

「こいつさ」

 華蝶仮面は一巻の竹簡を投げてよこした。李岳はその場で一読した。公孫賛からの書簡である。刺激的な内容であった。

「公孫賛殿が、連合を離れるのか」

「残念そうだな」

 流石に目端が利くな、と李岳は舌を巻いた。

「あわよくば、陣営に留まったまま内部工作にいそしんで欲しい、といったところかな?けれどあの御仁にあまり器用な真似を期待するものではないぞ」

「こちらも手一杯でね。猫の手も借りたいくらいなんですよ」

「ニャン!」

 きっと、既に酒を飲んでいるのだろう。華蝶仮面は上機嫌な様子で猫の真似をした。李岳は無視した。華蝶仮面はその手に槍を握って李岳を脅し、もう一度ニャン、と鳴いた。かわいい、と李岳は棒読みで返答し、それでやっと納得したように槍をおろした。たちが悪い。

「……公孫賛殿も、覚悟を決めた、というわけか」

「うむ。反董卓連合を離脱するということは、つまり董卓側に着くということを示す」

「とはいえ、何か建前は考えているのでしょう?」

「烏桓の動きが不穏、とでも言っておけばどうとでもなるだろう」

 なるほど、と李岳はしばし黙考した。だがそれだけで納得する者は少ないだろう。やはり、連合離脱は董卓側につくと捉えられるに違いない。その言い訳はいずれ破綻する、ただの言い訳に過ぎない。

「自領に戻り、北方四州の争奪戦に本腰を入れるということ、か」

「劉虞、袁紹相手にな」

「厳しい戦いになりますよ」

 フフフ、と華蝶仮面は笑いをこぼした。

「嬉しそうですね、華蝶仮面殿」

「仮面の下を覗こうなどと、すけべだな」

 べっ! と舌を出して華蝶仮面ははしゃいだ。やはり上機嫌である。戦場ではいざしらず、政略面では優柔不断なところもある公孫賛が決断した。それを喜んでいるのだろう。

「さて、ここからが本題だ。李岳殿、ただで助力を得られるとは思うまいな?」

「私は何も公孫賛殿にお願いをしたわけではありませんが」

「陳留王殿下の居場所と護衛の配置を教えると言ってもかな?」

 胸元に隠し持っていた二本目の竹簡を見せびらかしながら、華蝶仮面は笑う。

「……なるほど、目ざとい」

「かなりの間諜を紛れ込ませているようだが、ここまでは遠いぞ? どうだ、安くはあるまい」

「ええ、そうですね。幽州牧の地位で足りますか?」

「負けておいてやるさ」

 現幽州牧は劉虞である。その地位を否定し、公孫賛に改めて勅命として印綬を与える。朝廷を一手に握る董卓ならさほど問題もない。だがしかし、それらも全てこの祀水関の戦いが董卓軍勝利で終わることが絶対条件である。

 対連合戦、公孫賛は李岳の勝利に賭けた。負ければ先はない。だが勝てば、今度は李岳と幽州の白馬軍団による挟撃が可能になる。大きな布石だ、李岳は鳥肌が立つのを感じた。

「全く、悪い顔をするようになった」

「洛陽住まいが長いとどうも」

「怖や怖や」

 ニヤリ、と笑みを浮かべて華蝶仮面はくるりと背を向けた。去るようだ、が、まだ大事なことを聞いていない。

「ところで華蝶仮面殿、趙雲殿という方をご存知ですか?」

「名前はよく聞く」

「あの方は、果たして公孫賛殿についていくのか、それとも劉備殿に臣従するのか、ご存知ですか?」

 華蝶仮面は、背を向けたままその顔の面を取った。月光を見上げながら答えた。

「心は決まっている、とだけ言っておこうか」

「……なるほど、私もそれがいいと思います」

「まだ何も言ってないではないか」

「わかるんですよ」

「そうか、わかるか」

「ええ」

「ならばいい」

 再び面をつけると、華蝶仮面は李岳に槍の穂先を突きつけた。

「もう恋を泣かすな。泣き方も知らず、膝を抱えている他ないやつだ。大事にしてやれ」

 返答に、躊躇はなかった。

「はい。もう放しません」

 一瞬キョトンとした華蝶仮面だが、次の瞬間破顔した。

「男らしくなったではないか!」

「確か、華蝶仮面とは初対面のはずだけど?」

「わかるのさ! それではまた会おう、健やかであれ!」

 現れた時と同じように、高笑いを響かせて華蝶仮面は月光の下、夜の闇に消えていった。それをしばし見送った後、李岳は背後に声をかけた。

「ご苦労だった、廖化」

「何ほどのこともなく」

 華蝶仮面――趙雲の手引きは廖化の仕事であった。彼女の身柄も永家の者が無事に送り届けるだろう。

 李岳は言った。

「勝つぞ、この戦い」

 ひざまずいていた廖化は、少し驚いたような顔をした。

「変わりましたな、李岳殿。どこか、明るくなった」

「そうかな?」

「よいことです。ただ明るいのは愚。現実を見て暗くなるのは凡でしょう。現実を見て、それでも明るく振る舞えるのは勇です」

「みんなのお陰だよ」

「それもまた、才」

 廖化をいざなって外へ出た。今日はみすみす堀の一列目を手放した。明日にでも二列目は陥落するだろう。敵の攻め手も鮮やかだったが、総大将である己がそれよりも呂布との一対一を優先したからだ。だがそうしなければ、呂布は死んでいただろう。

 後悔はない。味方も皆、李岳のわがままを認め、未だわだかまりはあろうとも呂布の参入を温かく認めてくれた。張遼などは既に旧知のように慣れ親しんでいる。早く董卓や陳宮にも会わせてやりたい、と思う。

 堀は埋められた。ならば敵はいよいよ、この城壁に直接攻めを寄せてくることになる。戦いはいよいよ本番、熾烈なものになるだろう。

 李岳は拳を握り、胸に当てた。空を見上げた。李岳は初めて、勝利を天に祈った。




おひさしブリーフ

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