鎮守府の床屋   作:おかぴ1129

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後編
1.ひとそれぞれ


 暁ちゃんが轟沈してから1週間ほど経過した。轟沈した直後はそれこそ鎮守府の雰囲気は最悪だったが、今では皆、気持ちがだいぶ落ち着いたみたいだ。

 

 ただ、ビス子は少し変わった。

 

「ハル! 今日もシャンプーしてもらいに来たわよ!」

「おーう。んじゃシャンプー台に行ってくれー」

 

 今日もビス子は、バーバーちょもらんまに来店した。その笑顔は以前と同じく明るいものではあったが、少し陰がさすようになった。そして頭には、以前からかぶっていた黒の帽子ではなく、暁ちゃんの白い帽子がかぶられていた。

 

 ビス子は暁ちゃんが沈む様を間近で見たと聞いた。帰還したときのビス子の様子は悲惨だった。

 

『アカツキ……あなた半人前よ……だから……だから帰ってきてアカツキ……!!』

 

 彼女は、暁ちゃん本人から受け継いだ帽子を大事そうに抱え、怪我をした幼女のように泣き喚いていた。何度も何度も暁ちゃんの名を呼びながら泣き続け、その日は誰も彼女に声をかけることが出来なかった。

 

 その後立ち直った彼女は、暁ちゃんの形見の帽子をかぶるようになった。

 

『アカツキは半人前のレディーだったけど、私がアカツキと共にいてあげれば、合わせて一人前のレディーになれるでしょ?』

 

 ビス子は、俺達に笑顔でそう言った。暁ちゃんを助けられなかった自分は、半人前のレディーだと彼女は考えたらしい。でもそれを、今は亡き暁ちゃんで補おう、そうして、暁ちゃんの分まで一人前のレディーとして生きよう……そう決意したそうだ。

 

 シャンプーとトリートメントを済ませたビス子の髪をドライヤーで乾かしてあげる。俺の気のせいなのかも知れないが、あの日以来、ビス子の髪質が少し変わった。元々サラサラでしなやかだった彼女の髪が、少し柔らかくなったというか……女性の髪というよりは……

 

「なービス子」

「ん? どうかした?」

「お前さ。自分でも髪をトリートメントしたりしてる?」

「特にしてないわよ? どうして?」

「いや、こうして乾かしてると少し髪質が変わったというか……柔らかくなった?」

「へえ〜。特に自分ではそう思ったことはないわよ?」

 

 そう。女性の髪というよりは、子供の髪質に近い感じになった気がする。誤解を恐れずに言えば、暁ちゃんの髪質に近いというか……

 

「そうなの?」

「うん。辛いことを思い出させてしまって申し訳ないけど……」

「いいえ。アカツキの髪質に近くなったのならうれしいことよ。Danke」

 

 髪を乾かす俺を鏡越しに見つめるビス子の顔は嬉しそうに微笑んでいたが、変わらず陰が差していた。悲しみを含んだ笑顔ではない。提督さんのような泣きだしてしまうような笑顔でもない。心からの笑顔であることに変わりはない。ただ、陰が差していた。

 

「はい終わり! ビス子、おつかれ!」

「ほっ!」

 

 ビス子の髪を乾かし終わり、両肩をポンと叩いてやる。今までと同じく、ビス子の身体に終了を告げる俺なりの優しいインパクト。

 

「ふぅ気持ちよかった! ハル、Danke! 今日はこれからどうするの?」

「一旦執務室に行った後、球磨が店に来る予定だ。久しぶりに耳掃除したいんだと」

「相変わらず仲がいいのね。今日も膝枕かしら?」

「勘弁してくれ……」

「仕方ないわね。一人前のレディーの私はこれ以上はからかわないわよ」

 

 そして……ビス子は、以前よりも大人になった。本人が気付いてるかどうかは分からないが、以前に比べてほんの少しだけ、周囲の人間との距離を測るようになった。

 

 ビス子が店を後にした後、俺は提督さんが待つ執務室に向かう。今日は売上の請求というか……基本的にバーバーちょもらんまは鎮守府の面子から代金をもらってない。その代わり売上は一週間に一度、鎮守府に一定額を一括で請求する形を取っている。そうすることで、俺は安定した売上を上げ、鎮守府側は店を好きなだけ利用出来る仕組みだ。

 

「……てなわけで、今週の請求書です」

「確かに受け取った。支払いは雑費を差し引いた額を来週ということで」

「ういっす」

 

 売上といっても丸々もらうわけではない。俺は俺で、鎮守府での入浴施設の利用や食費、光熱費などを支払っている。最初はその都度金のやりとりをしていたのだが、お互い『金のやりとりがめんどくさい』という理由で、今では、毎週の売上請求額から雑費と称してそれらの生活費を差し引いた額を請求する形を取らせてもらっている。

 

「ふーっ……」

「おつかれですね提督さん」

「暁が轟沈したからな……事後処理やらなんやらで、ここしばらくは眠れなかったよ」

 

 眠れない理由はそれじゃないだろう。暁ちゃんが轟沈してから今日まで、努めて冷静に振舞っている提督さんだが……俺は知っている。提督さんは、誰も見てないところで一人で声を上げて泣いていたと隼鷹が教えてくれた。最近夜中によくうなされて睡眠が取れてないようだとも教えてくれた。隼鷹は隼鷹なりに、愛する提督さんのことが心配なようだ。

 

「あー……おれの心配してくれるのはいいんだけどなハル。 お前にはもっと心配する相手がいるだろう」

「……ひょっとして、あの妖怪アホ毛女のこと言ってます?」

「ああ」

 

 最初は、自身のメンタルヘルスの不調をはぐらかすためのからかいだと思ったのだが、提督さんはそんな風に話をはぐらかしたり、遠回しに物事を伝えるということが苦手だ。彼の言葉には裏はない。提督さんが『球磨が心配だ』といった時は、彼は本当に球磨を心配している時だ。

 

 そして、実はあの妖怪アホ毛女に関しては、俺も少々気がかりな点がある。

 

「……暁の件の知らせを受けた時の球磨、覚えてるか?」

「はい。妙に達観した感じでしたよね?」

「ああ」

 

 忘れたくとも忘れられない。あの時のことは今でもよく覚えている。ビス子たちからの報告を受けた川内は絶句し、提督さんは努めて冷静に振舞っていた。北上は『そっか〜……暁……』とぽそっと寂しそうに呟いていた。

 

「戦争なんだから仕方ないクマ。轟沈くらい出るクマ」

 

 球磨のその発言を聞いて、俺は自分の耳を疑った。

 

 暁ちゃんはお前の仲間じゃなかったのか? 今まで楽しい日や苦しい日を一緒にくぐり抜けてきた仲間じゃなかったのか? そんな仲間の死をそこまでドライに受け止めることが出来るこの球磨という女に対し、俺は瞬間的に不快な衝動を抱えた。

 

「お前なぁ……!!」

 

 頭に血が上った状態の俺は、この妖怪冷血女の襟を掴み、思い切りねじり上げた。仲間の死にそんな感想しか持てないこの女と、一時でも仲良くなってしまった自分を恥だと思ったし、瞬間、こいつのことを心底軽蔑した。

 

「……なにするクマ?」

 

 球磨は酷く冷静な表情のまま、怒り心頭で襟をねじり上げる俺を見つめ返した。この女……ふざけきってやがる……仲間が死んだっつーのに……!!

 

――すまない でも球磨姉も悲しんでることだけは分かってやってくれ

 

 そんなやけに凛々しい女性の声が、俺の耳元で聞こえた気がした。誰の声かは分からない。でも、その声は、俺の頭から怒気を抜くには充分だった。

 

「……いや」

「……」

「悪かった。すまん」

「……別にいいクマ」

 

 冷静に考えみれば、そらそうだよな。この妖怪アホ毛女は、俺以上に長い時間を、暁ちゃんと一緒に過ごしてきたんだ。たくさんの思い出を共有して、楽しい時だけじゃなくて、悲しい時や辛い時も、ずっと一緒にいた仲間だもんな。そんなお前が悲しくないはずないよな。

 

 北上に目をやる。さっきまでそっけない素振りを見せていた北上は今、わなわなと震え始めた。

 

「……そんなこと言わないでよ……我慢してたのに……仕方ないことだから、我慢しようとしてたのに……」

 

 その様子を見ていた球磨は、すぐに北上のそばに向かい、彼女の肩を後ろから支えてあげていた。

 

「北上。大丈夫クマ?」

「球磨姉……私、もう泣かないって決めてたのに……大井っちが……大井っちが……!!」

「大井が北上を支えてくれたクマ?」

「大井っちが……我慢しなくていいって……泣いていいなんて言うから……!!」

 

 ついに心が決壊したかのようにわんわんと泣きはじめた北上を後ろから抱き支え、球磨が妹を案ずる姉の表情で俺を見た。俺は黙って頷き、球磨が北上のそばについていてやることを肯定した。

 

「姉ちゃんがついていてやるクマ。今日は帰るクマ」

 

 北上は返事をすることなく、球磨に連れられてその場を離れていった。

 

 あの日の球磨を思い出す度に不思議に思う。あの時の球磨は冷静に振舞っていた。仲間を失った悲しみを抱えていただろうとは思うが、暁が轟沈したことを悲しむよりも、生きているみんなのことを心配していた。

 

 あの空間にいたら、誰もが暁の死を悲しむだろう。でも球磨はそうしなかった。もう帰ってこない仲間のことを悼む気持ちよりも、自身の妹をはじめ、残った仲間のことを優先していた。理屈で考えれば非常に理にかなった行動ではあるのだが……

 

 事実、あの日以降哨戒任務が手につかないビス子や川内たちに比べて、球磨は1回たりとも哨戒任務を休むことはなかった。気持ちが沈んで哨戒任務に出られない子がいれば、自らすすんで代わりに哨戒任務に従事した。場合によっては24時間哨戒任務に出ることもあった。遭遇戦で、今一精彩を欠く加古を庇って大怪我をして帰ってきたこともあった。

 

 みんなが暁ちゃんとの別れに打ちひしがれている中、球磨だけはただ一人、気丈に振舞っていた。みんなが苦しんでいる分その穴を埋めるように、球磨はみんなを支えてがんばっていた。

 

 普通出来るだろうか。あの悲しみを味わわされたその直後、生きている仲間のことを優先して動くことが……悲しみに呑まれることなく、その悲しみに押し潰されそうな他の仲間のことを心配し、支えることが……

 

「あいつは今、気が張ってるんだと思う」

「でしょうね。あの時は俺も頭に血が上りましたけど、今なら、あいつが必死に皆の支えになれるよう冷静でいたことが理解出来ます」

「ああ。いつか限界が来て、糸が切れたように悲しみに襲われるかもしれん」

 

 俺もそれを一番心配している。一番悲しい時に無理をしていたんだ。その分、あとで糸が切れた時の反動に襲われた時の悲しみは、それの比ではないだろう。

 

「ハル。もし球磨が折れそうになった時は、支えになってやって欲しい。あいつはきっと、北上には弱い自分を見せられないはずだ。もしあいつが寄り添える相手がいるとすれば、それはきっとハルだ」

「……」

「あいつが助けを求めてきた時は、頼む」

 

 もちろんだ。自惚れるつもりはないし、あいつが妖怪アホ毛女であることに変わりはないが、あいつはおれの大切な仲間だ。もし泣いて助けを求めてくるようなことがあれば、俺は喜んで力を貸す。俺でなければダメだというのなら、俺は球磨を受け止める。

 

 今日はあいつが店に来る。様子を見る意味でも、球磨の予約は外せなかった。

 

 執務室での話も終わり、自分の店に戻る道すがら、加古お気に入りの昼寝ポイントに足を運んでみた。今日は天気も良くて日差しが気持ちいい。こんな日なら、今日は休みの加古がいるかもしれない。球磨の予約まではまだ時間がある。少し足を伸ばしてみることにした。

 

 昼寝ポイントの木の下までたどり着く。加古は……いた。今日も今日とて、温かい日差しに包まれて気持ちよさそうに寝ており、加古の鼻の頭には一匹の黄色いちょうちょがとまっていて、羽を休めていた。加古の傍らには日本酒の一升瓶が置いてあり、それが違和感を放っていた。

 

「加古」

「んぁあ……ぁあ、ハルか。おはよー」

 

 俺の言葉で目を覚ました加古はむくりと立ち上がり、鼻にとまっていたちょうちょがヒラヒラと飛び、加古の頭に移動していた。

 

「今日も昼寝か?」

「うん。寝たら暁にも会えるかな-なんて思って」

「そっか」

「ビス子と違って、私は最期には間に合わなかったからさ……でもまぁそううまくは行かなかったよ」

 

 眠そうに加古はそういい、恥ずかしそうに苦笑いを浮かべていた。そんな加古と話をしつつ、おれは加古の隣りに座る。この場所は今日も風が心地よく、お日様の光が温かい。気を抜くと、俺も寝転んで草の香りに包まれたくなってしまう。

 

 加古はあの日、隼鷹、ビス子と一緒に暁ちゃんの救援に向かったメンバーの一人だった。ビス子と違って暁ちゃんが沈む場には居合わせなかったらしく、そのことをずっと悔やんでいたと聞いている。

 

「その一升瓶は?」

「隼鷹が。私が暁と会うんなら、これ置いてくって。二人で飲めって」

 

 ……暁ちゃんて、子どもだったよな……子どもに酒飲ますってどんな神経しとるんだあいつは……。

 

「知らない。でも隼鷹が言うには、『旨い酒を呑まずに轟沈させるのは忍びない』ってさ」

「なんだその男前なセリフ」

「ハルもそう思う?」

「加古もか?」

「うん」

 

 加古と二人で、隼鷹の差し入れの一升瓶に目をやった。……少し減ってるよなこれ?

 

「『あたしも暁と呑みたかったから』って言って、私にくれる時にその場で開けて、一杯だけ呑んでた」

「妖怪飲兵衛女だなぁ。セリフがいちいち酒臭い」

「そうだね~。でもさ。隼鷹らしいよね」

「だな」

 

 真っ赤な顔をして日本酒をカッパカッパと飲み干していく隼鷹と、その傍らでコップにちょびっとだけ入った日本酒を前に、期待と緊張と恐怖が入り混じった冷や汗混じりの表情を浮かべる暁ちゃんを想像し、俺と加古は互いに目を合わせた。目があった途端にお互いプッと吹き出したあたり、おそらく加古も俺と同じ想像をしたはずだ。

 

「ハルも二人が飲んでるとこ想像したでしょ」

「お前も想像したろ」

「……とりあえず隼鷹には内緒にしとこう」

「そうしよう。バレたら大変そうだ」

 

 その後、『もう一回チャレンジしてみる』と再び寝転んだ加古をその場に残し、俺は昼寝ポイントを後にした。立ち去る時、加古によく似た女の子……古鷹だったかな? その子が俺に向かって、笑顔で頭を下げている姿が見えた気がした。姉ちゃんがついてるなら、加古は大丈夫だろう。今話した限りだと、比較的落ち着いてるみたいだしな。俺は反射的に、その古鷹の幻に右手を揚げて挨拶をしていた。

 

 店に戻って一時間ほど経過した夕方頃……

 

「ハル~。来たクマ~」

 

 予定の時間をだいぶオーバーして球磨が来店した。提督さんからの電話で球磨が無事なのは知っていたが……やはり予定時間を過ぎると少々心配にはなる。まぁ怪我もしてないようで何よりだ。

 

「閉店寸前だぞー」

「仕方ないクマ。哨戒任務がちょっと伸びたんだクマっ」

 

 あら珍し。いつもは哨戒任務は時間きっかりに済ませてるから、今日は余計心配だったのに。そんなことを考えながら、球磨の来店に合わせて表のポールサインを止めた。今日はもう客も来ないだろう。後は妖怪アホ毛女の貸し切りだ。

 

「川内と一緒に暁が轟沈した海域に寄ってたんだクマ」

「あーなるほど。近くを通ったのか」

「クマっ」

 

 哨戒任務の最中に、川内が暁ちゃんの轟沈地点に寄り道することを提案したらしい。川内はポイントに到着した後、自身の太ももに装備してあった探照灯を外し、それを海に沈めたそうだ。

 

『暁も夜戦が得意でしょ? これ持って行って使って』

 

 なんとも夜戦が好きな川内らしい弔い方だと思った。普段は夜になると眠くなってしまう暁ちゃんだが、本来駆逐艦の子たちは夜の戦いが得意なんだそうだ。暁ちゃんも任務で夜戦に出た時などは、川内に負けじと探照灯を照らし、戦場を駆け巡っていたらしい。

 

 暁ちゃんは、探照灯を装備する必要のない昼の戦闘で轟沈した。夜戦が得意なはずの暁ちゃんが探照灯を持たずに轟沈してしまったことが、川内は気がかりたったんだそうだ。

 

「でも自分の探照灯を暁ちゃんに渡しちゃったら、自分の分はどうするんだろうなぁ?」

「神通や那珂ちゃんが残した探照灯があるらしいクマ」

「そっか」

「クマっ」

 

 球磨の頭をシャンプーし、髪を乾かしてやる。ビス子の髪はなんとなく暁ちゃんの髪質に近づいていたが、逆に球磨の髪は、以前に比べて少し痛みが激しくなっていた。といっても毛先だけだし、相変わらずもふもふしているのは変わらないが……。これが本人が無理しているのが原因でなければいいんだけど……。

 

「耳掃除もー」

「……今日も膝枕か?」

「うん」

 

 もう毎度のこととはいえ、日中にビス子にからかわれたせいか、少し意識してしまう自分が少々情けない……。だが、こいつが一度言い出したことを撤回するとも思えないし、何より……

 

「ハル、さっさと準備してこっち来るクマ」

「はいはい」

 

 おれが葛藤を抱えている間にすでにソファに座って膝枕を待ち構えていた。こうなってしまっては球磨を止めることなぞ誰にもできない。少々呆れながらも、耳掃除の道具一式を準備することにした。

 

 久しぶりの球磨の耳は、意外と綺麗なもんだった。ところどころ汚れてはいたが、耳掃除をしなかった期間が長い割には、汚れはそんなにひどくない。

 

「自分で耳掃除したのか?」

「ちょっとやってみたけど、ハルみたいにうまく出来ないクマ」

「そらそうだろう。人にやってもらったほうが汚れも綺麗に取れるしな」

 

 会話もそこそこに、球磨の耳を綺麗にしてやる。綺麗にしたあとは、いつものようにローションを浸した綿棒で綺麗に汚れを拭き取れば終わりだ。

 

「耳かきは終わったぞ。次はローションいくからなー」

「クマっ」

 

 普段ならローションに浸した綿棒を耳に突っ込んだ途端『ひぁあああ』と悲鳴を上げる球磨だが、今日の球磨は無言のままだった。違和感を覚えながらもそのまま耳を綺麗に拭いてやり、久しぶりの耳掃除は無事終了。球磨、お疲れ様でした~。

 

「クマ……」

「おい。終わったぞー」

「うん」

 

 俺の方に後頭部を向けたまま、球磨は動かなかった。

 

「ハル」

「ん?」

「北上は元気になったクマ」

「そっか。よかったな」

「大井が北上を支えてくれたらしいクマ」

 

 あの日泣き崩れていた北上は、意外と立ち直るのも早かった。あの時我慢せず、思いっきり泣いて感情を発散させたのが功を奏したのかもしれない。大井って子に感謝だな。球磨と北上の妹だと聞いた。いい妹だ。

 

「川内ももう元気だクマ」

「だな。暁ちゃんの死を受け止めたからこそ、探照灯を沈めたんだろうな」

「他の子はどうクマ? ビス子は?」

「ビス子は今日店に来たけど、ちゃんと受け止めてたな。加古と隼鷹も多分大丈夫だ」

「よかったクマ」

 

 球磨は変わらず、俺の膝を枕にしたまま、俺からそっぽを向いていた。そのため今、球磨がどんな表情をしているのかは俺には分からない。

 

 でも俺は、今日この時ほど、この妖怪アホ毛女の後ろ姿を小さいと思ったことはない。

 

 球磨は艦娘という名の軍人だ。歴戦の強者だし、いざというときには頼りになる存在だ。そして不自然なアホ毛をなびかせ、俺に暴力を振るっては俺を振り回す、迷惑この上ない存在だ。

 

 でも、球磨はこんなに小さい女の子だ。こんなに小さい女の子が、仲間の死に直面した他の子たちを支えるため、自分は気持ちを押し殺して気丈に振舞っていたんだ。逆に言えば、どれだけ気丈に振舞っていても、球磨はこんなに小さな女の子だ。このアホ毛女が暁ちゃんの死を悼む気持ちは、他の艦娘の子たちとなんら代わりはない。

 

「球磨」

「クマ?」

「みんな立ち直った。元気になった。だからもういいぞ」

「……いいクマ?」

 

 未だにそっぽを向いている球磨の頭をなでてやる。球磨の身体が少し縮こまり、球磨の声が涙目になったのが分かった。俺の太ももに涙がポロポロ落ちたのが、じんわりと伝わってきた。

 

「みんなを支える役目は終わった。だからそろそろ、お前も肩の力抜いていいぞ」

「今……ハル以外は誰もいないクマ?」

「誰もいない。店ももう閉めた。誰も来ないから安心しろ」

「ひぐっ……いいクマ? もう……いいクマ?」

「いいよ。もう泣いていい」

「ひぐっ……」

 

 球磨は俺に顔を見せないように、俺の太ももに自身の顔を押し付けるように一度うつぶせになって、そのままこっちを向いた。その後俺の腰にしがみつくように手を回して、顔を俺の身体に押し付けた。球磨が顔を押し付けた部分の服の生地がじんわりと暖かく濡れ、涙がとどまることなく流れていることを感じた。

 

「暁……いつもみたいに……ひぐっ……帰ってくると思ってたクマ……」

「だな」

「みんなが落ち込んでたから……ここで球磨も落ち込んだらいけないと思って……ひぐっ……ずっと我慢してたクマ」

「分かってたよ。お前が無理してたのは」

「多摩にも言われたクマ……“球磨姉は無理しすぎてて心配”って言われたクマ。ひぐっ……」

 

 多摩って確か、昔に沈んだ球磨の妹だったな。こいつは昔っから、こんなことがある度に妹に心配かけるほどがんばってたのか……それとも古鷹みたいに、球磨のことが心配で姿を見せたのだろうか。どちらにせよ、姉思いの妹であることに変わりはない。

 

「いい妹じゃんか」

「でも沈んだクマ……みんな沈んでいくクマ……ひぐっ……」

「でもお前が守ってくれてたおかげで、ここんとこずっとみんな無事だろ?」

「もうヤだクマ……ひぐっ……沈むのはヤだクマ……」

「だな。ヤだな」

「暁に帰ってきて欲しいクマ……ひぐっ……みんなに帰ってきて欲しい……クマ……ひぐっ」

「そうだな……帰ってきてほしいな」

 

 俺にしがみつく球磨の手に、さらに力がこもった。俺は球磨に抵抗することなく、その頭を少しだけ乱暴に撫でてやった。いつもは天高くそびえるアホ毛も、今日ばかりは俺の手の動きに逆らうことなくなびいていた。

 

「……なでなでするなクマ……ひぐっ」

「こういう時は素直に撫でられとけ妖怪ぬいぐるみ女」

「ひぐっ……球磨はぬいぐるみじゃないクマっ」

 

 球磨はこの日、今まで我慢していた反動もあって一晩中俺にしがみついて泣き続け、俺はそんな球磨の頭を一晩中撫で続けていた。こいつはずっと一人で懸命に強がっていたんだ。みんなが悲しみに打ちひしがれている間、たった一人で自分に鞭打ってがんばっていたんだ。少しぐらいはいいだろう。これぐらいのわがままなら聞いてやる。

 

「ハル……ごめん」

「?」

「迷惑かけてるクマ……」

「お前が俺に迷惑かけない時なんてあったか? 今更だ今更」

「黙れクマぁ……ひぐっ」

「ホント……今更だ」

 

 次の日も、球磨は哨戒任務を休んで一日中うちにいた。俺はバーバーちょもらんまを休みにして球磨についていてやることにし、提督さんもそれを了承した。その日は、ずっと球磨といっしょにいた。

 

「ハル」

「ん?」

「ありがとクマ」

 

 

 


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