鎮守府の床屋   作:おかぴ1129

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4.返事をしろ(後)

 大規模合同作戦という事実や、以前の提督さんの怒気のこもった通話が俺の不安をかきたてたのか……いつもの哨戒任務とは異なり、今日の俺は自室に戻ってから大変だった。何をやっても気が散って集中出来ない。

 

―― 気を抜いたら即アウトなのが夜戦だクマ

 

 球磨のこのセリフが頭から離れず、何度も何度も繰り返された。テレビを見ている最中、本を読んでいる最中、道具の手入れをしている最中……何度でも何度でも俺の耳元で聞こえ、やっと作業に集中出来るという頃、おれを現実に引き戻す。

 

 忘れようとしても忘れられない、暁ちゃんが轟沈したあの日の衝撃を思い出し、おれの胸に不快な心拍が一拍だけ襲いかかる。心臓を鷲掴みにされたかのような不安感。もし明日、あいつらの誰かが轟沈したとしたら……

 

――もうヤだクマ……ひぐっ……沈むのはヤだクマ……

 

 あいつは……あの妖怪アホ毛女はこんなことを言いながら泣いていた。あいつはみんなが沈み込んでいた時、自身が傷つくことも恐れずみんなを庇っていた。

 

 ……もしそれが、今回もあったとしたら……仲間の誰かの油断や判断ミスに敵がつけこみ、絶妙のタイミングで攻撃してきたら……もし、それを球磨がかばって被弾したら……そしてもし、当たりどころが悪くてそれが致命傷となったら……ネガティブ妄想の悪循環が止まらない。

 

 不意に、店の入口が開くカランカランという音が鳴り響いた。慌てて店内の方を覗くと、そこにいたのは、一升瓶を抱えた隼鷹だった。

 

「よーハル。あたしゃちょっとヒマなんだ。サシ飲みやろう」

「……作戦中にいいのか? ダンナ抜きで男とサシ飲みってどういうこっちゃ?」

「いいんだよ。提督からも『ハルが不安になってたら、話相手になってやってくれ』って言われたんだから」

 

 そうかい。んじゃたまにはサシ飲みでもやるか。……提督さん、隼鷹、ありがとう。

 

 一升瓶の蓋を開け、日本酒をグラスに注ぎ、二人で乾杯する。つまみは裂きイカだ。

 

「初めて一緒に飲んだ時、たしかお前に裂きイカを鼻に突っ込まれてたな」

「懐かしいね〜……もう何年も前な気がするよ。それだけハルがここに馴染んでくれたってことだね」

 

 二人で裂きイカをつまみながら、静かに酒を飲む。しばらく飲み進めていくと隼鷹のほっぺたに朱が差し、色っぽさに拍車がかかった。色っぽさ……なんか違うな。隼鷹の場合は艶って言えばいいのかな?

 

「……提督ね。喜んでたよ?」

「ん? なんかやったっけ?」

「あの、『却下です』ってやつ。提督、ハルが執務室出て行ったあと『そっかー……残ってくれるか……却下してくれるかー……』って、何度も何度も嬉しそうに呟いてたよ」

 

 意外だ……そんなことでそんなに喜ぶものなのか提督さんは。

 

「ハルは知らないんだよ。この数年、提督がどれだけの相手と戦って、どれだけの仲間を失ってきたか……」

「……隼鷹は、誰か身内は轟沈したのか?」

「姉の飛鷹と、一番しんどい時を一緒にくぐり抜けた空母のみんな……ていえばいいかなぁ」

 

 隼鷹はそういい、幾分艶っぽい眼差しで、手に取ったグラスの中の透明な日本酒を見つめた。その目には懐かしさと、いくばくかの悲しみがこもっていた。

 

「なぁ隼鷹、もう一つ聞きたい」

「なに?」

「加古は連装砲を古鷹から受け継いでた。川内は探照灯、ビス子は暁ちゃんの帽子……」

「だねぇ」

「お前は何か形見を受け継いだのか?」

「持ってるよ。見る?」

「よかったら」

 

 隼鷹はグラスを置き、自身の懐から大きな巻物のようなものを取り出してそれを広げた。開いた巻物には飛行甲板のような絵柄が描かれていて、それが艦娘独特の道具であることが分かった。

 

 隼鷹がぼそぼそと何か呪文のようにも聞こえる言葉を唱えた。その巻物から人の形をした紙切れが4枚ほど浮かび上がり、それらが室内に飛び放たれる。放たれた紙は次第に飛行機へと姿を変え、やがて俺と隼鷹の目の前に着陸した。

 

「巻物は元々飛鷹のものさ。飛鷹はあたしと同じ陰陽術で艦載機を飛ばしてたから、そのままあたしが使わせてもらってる」

 

「こ、これが空母の飛行機ってやつか……びっくりした……」

「艦載機。んでこの艦載機もね。沈んだみんなが愛用してた艦載機なんだ。瑞鳳の天山、千歳と千代田の零式艦戦たち、瑞鶴の彗星……みんなから一機ずつ。空母のみんなは他にもいたけど、艦載機を受け継いだのは、そんなとこかな」

「そっか……」

「別にね。みんなのことを忘れたくないとか、みんなとずっと一緒にいたいとかじゃないんだ」

「……」

「ただ、みんなのことを背負って、みんなと戦いたい……そしてみんなが成し得なかったことを、みんなの艦載機を使って、あたしが代わりに成し遂げたい。他のみんなはどういうつもりなのかは知らないけど、あたしはそう思って、みんなの艦載機を使わせてもらってる」

 

 普段こそ『ヒャッハァァアアア!!!』とにぎやかでうるさい隼鷹だが、こういった側面もあったのかと驚かざるを得ない。でも、隼鷹がみんなと成し遂げたいことってなんだろう……

 

「隼鷹が成し遂げたいことって何だよ?」

「んー……そんな大げさなことじゃないよ。ただ、生き残りたいのさ。生きて平和な世界で人生を楽しんでみたいんだよ」

「……」

「幸いあたしは、惚れた男と結ばれる事が出来た。……なら、戦いのその先の人生を惚れた男と歩きたいじゃん。亡くなったみんなの分まで……戦いだけのまま逝ったみんなの分まで、普通の人生を堪能したいじゃん。だからさ……」

 

 酔いが回って、さっきよりさらに赤くなった顔で隼鷹がそう言った。夢や希望……隼鷹はそういったものを今語っていたはずだが、その表情は、そんなポジティブなことを語っている顔ではなかった。

 

 グラスに入った日本酒に口をつけた隼鷹は、遥か遠くにいる誰かの背中を眺めながら、軽いため息をついた。その仕草は艶っぽく、そして見ているこっちの目に涙が溜まるほど、憂いを帯びていた。

 

「今度はあたしが聞いていい?」

 

 幾分明るくなった声と少しだけ輝きが戻った眼差しで、隼鷹が俺を見つめた。今の彼女の目に宿っているのは好奇心。

 

「なんだよ?」

「球磨とはどうなのさ?」

 

 いつもならここで『うるせえこの妖怪飲兵衛女!!』て言うところだが、さっきの話を聞いてからだと、さすがにそうも言えない。

 

「……どう、とは?」

「あんたたち、仲いいだろ?」

「まぁ……なぁ」

「ハッキリしないねぇ……」

 

 俺のハッキリしない返答にがっかりしたのか何なのか……釈然としてないような表情を隼鷹は見せた。

 

 でもさ。正直よくわかんないんだよ。確かにあいつといると面白いし、退屈しなくて楽しい。あいつとどうでもいいことで言い合いするのも楽しいし、あいつを見てドキッとしたこともある。

 

「でもあいつと俺の関係ってさ。やっぱ仲間なんだろうなーと思うよ」

「あたしらと同じってこと?」

「同じじゃないだろうな……一番仲いいし。でも、多分今はそれが一番しっくりくる」

「かぁ〜……ッ」

 

 さっきまで艶っぽい顔を見せていたとは思えないようなおっさん吐息を吐き出す隼鷹。おいどうした妖怪飲兵衛女。さっきまでの艶っぽい隼鷹はどこ行ったんだよ。

 

「いやぁ、素直じゃないねぇと思ってさ」

「そうかねぇ……?」

「うん。北上の言ってた通りだね」

「あのアホ……なんて言ってたんだよ」

「『早く素直になればいいのに』って。『そしたらくっつくのに』って」

 

 あのバカヤロウ……なんつーことをいちいちみんなに話してるんた……。

 

「北上は北上で心配なんだよ」

「心配?」

「うん」

 

 面白がってるだけだと思ってたら……心配ってどういうことだ? 俺と球磨の関係性が心配?

 

「うん。北上としては早くくっついてほしいんだろうね」

「なんで?」

「んー……まぁ単純に姉に幸せになってほしいっつーのもあるんだろうけど……」

「けど?」

「ハルの周りは女の子がいっぱいってことだよ。これ以上は言わない」

「? ??」

「見てる子は見てるっつーか……ねぇ」

 

 意味がさっぱり分からん……

 

「そういや北上が『球磨姉はおすすめ』って言ってたな」

「だろー? 第一あんたら二人、傍から見たらもう恋人同士みたいなもんでしょ」

 

 ヤバいまったく自覚がない……そんなにいちゃいちゃしてるように見えるのか俺と球磨は……。

 

「ま、マジで……? 俺達そんなに仲良さそうに見える?」

「仲良さそうっつーか、心が繋がってる感じって言えばいいかなぁ……分かり合ってるって言うか……」

「マジかよ……」

 

 空になった俺のグラスに、隼鷹が日本酒を注いでくれた。グラス半分ほどまで注がれたところで、俺は手のひらで隼鷹を静止し、隼鷹もそれで注ぐのをやめる。

 

「だってさ。暁が沈んでしばらくした時のこと、覚えてる?」

「ああ。球磨がココに一晩中いた時のことだろ?」

「球磨はあんたを頼ったし、あんたもそれに応えたんだよねぇ?」

「まぁなぁ……」

 

 隼鷹が注いでくれた日本酒を一気に飲み干したあと、グラス越しに隼鷹を見た。グラスを通してだからなのかは分からないが、隼鷹の頭の上には、落書きのようなもじゃもじゃ線が見える。いまいちハッキリしない俺の態度に釈然としないらしい。

 

「でもさハル。いつかは決断を迫られるかもしれないよ?」

「……」

「素直にならざるを得ない瞬間があるかもしれない」

「……どんな時だよ」

「自分で考えるんだね」

 

 少しイライラしながら、隼鷹は自分の頭をボリボリと掻いたあと、自分のグラスに残った酒を飲み干し、次を注いだ。お前、飲むなぁ……

 

「まぁねー。今日はサシ飲みって言ったじゃん。とことん付き合ってもらうよー」

「決断を迫られる時ってどんな時だよ……」

「さぁねぇ……でも案外、つい素直になっちゃう瞬間が来るのかもね。意識して素直になったり、決断が迫られるんじゃなくてさ」

 

 おかわりを注ぎ終わり、裂きイカを口に咥えて上下にピラピラ動かす隼鷹。ちっくしょう。こいつを艶っぽいとか思ってた数分前の自分を張り倒したい。ただのイヂワル女だこいつは……。

 

「ハルはもういいの? もっと飲もうぜー」

「……酒臭い息でアイツを抱きしめたくないっ」

「言うねぇ」

「うるせー……ちょっと酔ったかな……」

「それぐらい素直になりゃいいのに」

「黙れ妖怪艶女」

 

 ちくしょう……どいつもこいつも俺と球磨をくっつけようとしてやがる……。

 

「ハル。これだけ言っとく」

「んあ?」

「あたしたちみんな、あんたと球磨のこと、応援してるから」

「……」

「あんたと球磨がくっついたら、こんなにうれしいことはないよ。提督も喜ぶ。みんなも祝福してくれるさ」

「そっか……」

 

 その後、隼鷹は色々な話を聞かせてくれた。俺の前にこの鎮守府に来た美容師のアキツグさんと川内の妹、神通との悲恋……かつて北上と無敵のコンビ『ハイパーズ』として活躍していた大井っち……隼鷹の姉、飛鷹の最期……隼鷹と提督さんの馴れ初め……

 

「マジか〜……まさか提督さんからだとは思わなかった」

「ひどっ。でもまぁうれしかったよ。あたしを選んでくれてさ」

「提督さんもうれしかっただろうなー。黙っててもにじみ出てるもんな。隼鷹大好きオーラみたいなの」

「ほんっと勘弁してほしい。恥ずかしい」

「その割には顔にやけてるぜ?」

「ハルこそさっさと球磨とくっつきなよ」

「冗談は裂きイカだけにしとけよ隼鷹」

「ヒャッヒャッヒャッ」

 

 深夜4時を過ぎた頃、隼鷹は眠った。今日は作戦への出撃が控えているみんなの代わりに、一日中索敵に出ていたという話だ。その上こんな時間まで俺に付き合ってくれてたんだ。そら疲れただろう……。眠りこける隼鷹に毛布をかけてやり、書き置きをして店を出る。向かう先は執務室だ。

 

 執務室の前に到着する。室内は静かだが、部屋に明かりが付いているのは外から見て確認済みだ。俺は少しだけ勇気を振り絞り、ドアをノックした。

 

「とんとん。提督さん、ハルです」

『おう。こんな夜中にどうした?』

「酔い覚ましに。隼鷹は疲れて寝ちゃったんで」

『そうか。……ちょうど作戦も終わったし、入るか?』

「いいですか?」

『ああ』

 

 提督さんの許しを得て、執務室のドアを開いて中に入った。中の様子は普段とは少しだけ違い、提督さんの席の前に大きなホワイトボードが立てられ、その前で提督さんはホワイトボードを見つめていた。

 

「提督さん、お疲れさまです」

「ああおつかれ。……気は紛れたか?」

「おかげさまで」

「ならよかった。……隼鷹は?」

「俺の部屋で寝てます。書き置きを置いといたんで、起きたら来ると思います」

「そうか。気を使ってくれてありがとう」

「いえ、提督さんこそ」

 

 俺とこんな会話をした後、再び提督さんの視線はホワイトボードに移った。提督さんのクセの強い文字と、近海の地図のような図が描かれている。何に関する記述なのかはよく読み取れないが、何度も描いては消し描いては消しを繰り返した痕跡が残っていた。

 

「これ、俺が見てもいいんすか?」

「ああ。いいよ」

「作戦、しんどかったですか?」

「……相当にしんどかったな」

「マジですか……」

「とはいえ、なんとか成功はした」

「ならよかったです……」

 

 不意に、提督さんの机の上に置いてある無線機がピーピーと鳴り出した。提督さんはその音を聞くとすみやかに自分の席に戻り、無線機のマイクを取った。

 

 ……気のせいだろうか。提督さんの顔が険しい。

 

『提督……今帰投した……』

「おつかれさん川内」

『うん……』

「そのまま入渠してくれ。みんなにもそう伝えるんだ」

『わかった……』

 

 なんだこの川内の沈んだ空気は……不快な胸騒ぎが止まらない。足が震える。手から力が抜ける。心臓が痛い。鼓動するだけで痛い。

 

「球磨のことは残念だった」

『うん……』

 

 この会話を聞いた直後、俺は震える手で提督さんからマイクを奪い取っていた。

 

「川内ッ!!」

『え……?! ハル?!』

「球磨のことが残念ってどういうことだ川内!!」

『え……ちょっと待って……なんで執務室にハルがいるの?』

「いいから答えろ夜戦女!! 球磨がどうした?! 何があった?!!」

『落ち着いてハル? ね?』

「落ち着けるか!! 今どこにいるんだ!!」

『ドックだけど……』

「ドックだな?!」

 

 マイクを投げ捨てた俺は、そのまま川内からの無線の続きを聞かず、執務室を飛び出した。提督さんが『落ち着けハル!!!』と俺の背後で言っていたが、どう落ち着けというのか。球磨の身に何があった? あの妖怪夜戦女が夜戦から帰ってくるなり元気がなくなるようなことって何だ?

 

―― 気を抜いたら即アウトなのが夜戦だクマ

 

 うるせぇ今はそんなこと思い出させるな。イヤな予感しかしない。ふざけるな妖怪アホ毛女。俺はお前が沈むなんて聞いてないぞ。もし俺の許しなしで沈んだのなら絶対許さん。

 

 俺は全速力でドックまで走った。足に力が入らず、何度も何度も足がもつれてこけそうになった。力が入らない手はバランスが取れず、何度も何度も身体が手の反動でフラフラした。心臓は変わらず痛いほどの鼓動を繰り返していて、胸はおろか全身の血管が鼓動の度に痛い。

 

 それでも俺はドックまで走った。あの妖怪アホ毛女に何があった?! なにがあったんだ?!

 

――もうヤだクマ……ひぐっ……沈むのはヤだクマ……

 

 お前そう言ったよな?! 沈みたくないって言ってたよな?! なら沈んでないだろうな?!!

 

 なんとかドックの前に到着した俺は、意を決してドックに続く扉を勢い良く開いた。初めてドックに入ったが、ドックは意外と広く、老朽化が進んではいるが、設備の整った施設だというのが見て取れた。

 

 そのドックの中央……海へと続く出入口のところに、あいつらがいた。ちょうど傷ついたビス子が先頭にいて、ここからはその背後にいるみんなの姿がよく見えない。

 

「ゼハー……ゼハー……ハー……球磨ぁぁあ! ……くまぁぁああああ!!!」

 

 たまらず、息が乱れたまま球磨の名を叫んだ。返事しろ妖怪アホ毛女!! 出撃したときみたいに、俺の声にちゃんと返事しろ!!

 

「ハル? ドックまで来たの?」

 

 ビス子が俺に気付いた。すまんが俺が聞きたいのはお前の返事じゃない。

 

「ビス子!! 球磨はどうした?!! 無事なんだろうな?!! 答えろ!!!」

「え……あの……」

「まごつくな!! 球磨は無事だと言え!! 生きてると言え!! 返事しろ球磨!!!」

 

 聞かせるな……球磨が沈んだなんて聞きたくない……無事だと答えろビス子……早く返事をしろ!! 球磨!!

 

「……ただいまだクマ〜」

 

 その声は、ビス子の背後から唐突に聞こえた。緊張感のかけらもない、いつものあの、俺を振り回すときの妖怪アホ毛女の声だった。

 

「……球磨か?」

「……思ったより、早く帰ってこれたクマっ」

「無事……か……?」

「無事ではないクマ。怪我してるクマ」

 

 球磨に言われて気付いた。球磨の艤装が煙を噴いていて、服が少し破けていた。顔も少し汚れていて、なるほど言われてみれば怪我といえなくもない。

 

「どういうことだよ……川内言ってたぞ? お前のことが残念だったって……」

「ぁあ、それクマ?」

「ああ……」

「言うのも屈辱だクマ。アホ毛が……」

「アホ毛?」

「クマっ」

 

 球磨が口惜しそうに、自身の頭の上を指さした。球磨の頭を見ると、アホ毛がなくなっていた。

 

「まさかお前……」

「戦闘中にアホ毛が敵の砲弾でふっとんだクマ」

「残念なことって……それか?」

「そうクマ」

「だから落ち着いてって言ったのに」

 

 川内はそういうと、少しバツが悪そうにほっぺたをぽりぽりと掻いた。球磨は球磨で、残念そうにアホ毛の痕を撫でていた。

 

 俺はというと、今までの張り詰めた精神テンションが一気に緩んで全身から力が抜けた。俺は、球磨が轟沈したと早とちりしてここまで走ってきた。不安で不安で仕方なかった。だから縺れそうな足を必死に動かし、痛いほどの鼓動を繰り返す胸の不快感を我慢してここまで走ってきた。

 

 だから球磨が無事だとわかった今、俺の全身から力がすべて抜けた。体中の緊張が一気に緩み、両足に力が入らない。膝から崩れ落ちた俺は、そのままその場にへたりこんだ。

 

「はは……そっか……よかった」

「よくないクマっ。アホ毛が戦闘中に吹っ飛んだのは初めてだクマっ!」

「よかった……よかったよぉ……」

「……?」

 

 ホッとしたら涙すら出てきた。さっきまでとは違う原因で手の震えが止まらない。涙を袖で拭きたいのだが、それがままならないほどに身体に力が入らない。喉が震える。うまく声が出せない。

 

「俺……お前が……沈んだと思って……」

「ハル?」

「よかった……ひぐっ……本当に……」

 

 やっと手が動くようになってきた。袖口で涙を吹く。情けない。こんなとこアホ毛女に見せたらなんて言われるか……

 

 球磨が艤装を外し、主機を脱いで俺のそばまで歩いてきた。そのまましゃがんで俺の両肩を掴み、俺の顔をまっすぐに見据えて、今まで見せたことが無いほどの優しい笑顔になった。右手で俺のほっぺたに優しく触れ、目から流れた涙を親指で拭ってくれた。

 

「……ハル」

「お? ああ……すまん。なんか安心したら涙出てきちゃって……」

 

 そしてそのまま俺の首に手を回し、球磨は俺をしっかりと抱きしめてくれた。一瞬だけ戸惑ったが、球磨の身体のぬくもりと感触は、俺にそれ以上の安心と落ち着きをくれた。

 

「ただいまだクマ」

 

 この数時間の間、一番聞きたかった声で、一番聞きたかったセリフだった。俺は球磨の感触とぬくもりをもっと感じたくて、まだうまく力が入らない両手で、球磨の身体を抱き寄せた。

 

「……おかえり、妖怪アホ毛女」

「うん。ただいまだクマ」

「アホ毛、残念だったな」

「大丈夫クマ。しばらくすればまた元に戻るクマ」

「そっか……ならよかったな」

「うん」

 

 球磨を抱きしめながら球磨に抱きしめられ、俺は隼鷹のセリフを思い出していた。

 

――案外、つい素直になっちゃう瞬間が来るのかもね。

  意識して素直になったり、決断が迫られるんじゃなくてさ。

 

 これか? これが隼鷹が言ってた、『つい素直になっちゃう瞬間』なのか?

 

 そんなことを考えていたら、北上の呆れたようなセリフが耳に入ってきた。

 

「なにこれ? 私たちそっちのけ?」

 

 本当はツッコミを入れたいが……今はいい。この妖怪アホ毛女を抱きしめることのほうが大切だから。

 

 俺達がそうして安心しあっている最中、アホ毛がビヨンと再生していた。

 

 

 


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