鎮守府の床屋   作:おかぴ1129

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登場人物紹介
桜庭智紀(トモノリ)
職業:学生 性格:弱い



番外編 ~喫茶店のマスター~
前編


 季節は冬。いつもとは少しだけ違う緊張感を胸に秘め、僕は今、ある喫茶店の前に立っている。持ち物はいつもと同じだが、今日の僕は、ある決心を胸に秘めて、この場所に来た。

 

 この喫茶店『ミア&リリー』に僕が気付いてから、もう一年ほど経つ。初めて来たのは、当時好きだった女の子にヒドい振られ方をし、家に帰る気にもなれなくて外を彷徨っていた時だった。その日僕は、本当に何も考えず『ちょっと入ろ……』ぐらいの気持ちでそのお店のドアを開いた。

 

 店内はとなり町にあるおじいさんが営んでいる古い喫茶店のようにノスタルジーとアンティーク溢れた内装で、こじんまりとしていてとても落ち着いた感じたった。ドアを開いて店内に入った瞬間……

 

「いらっしゃーい」

 

 マスターと思しき女性の、やる気ない歓迎の挨拶が聞こえた。見ると一人の女性がカウンター席に座っていた。その傍らには山のように積まれたマンガ本。20冊ぐらいはあったかな……

 

 店内の、外からあまり見えない席に座る。なんとなく、戦前の日本のハイカラさのようなものを感じられる内装の雰囲気に心地よさを感じながらメニューを見ていると、さっきの女性がお水を持ってきた。……今となっては慣れたことだけど、その店員さんは営業スマイルなんてどこ吹く風で、ちょっとジト目だった。

 

「注文決まったら呼んでねー」

「あ……注文、いいですか?」

「決まった?」

「はい。えと……コーヒーを」

「りょうかーい」

 

 随分と気の抜けた接客をしてくるおさげの店員さんは、僕の注文を受けて調理場に引っ込んでいった。最近では珍しい、あの接客する気ゼロのやる気ない接客態度に少々の驚きと心地よさを感じたことを、僕は今でもよく覚えている。

 

 席から少し離れた窓から外を見た。冬の為なのか……それとも他に理由があるためか……外の景色はなんだか灰色のように見えた。道行く人々の中には色鮮やかなファッションで身を包んでる人もいるのに、それすらも色あせて見える。その日の僕の世界は、確実に色を失っていた。

 

「ほい。おまたせー」

 店員さんがコーヒーを持ってきてくれた……と思ってカップの中をよく見たら、コーヒーじゃなくてなんだかカフェオレのように見える。あれ?

 

「あのー……」

「んー?」

「すみません……頼んだのコーヒーなんですけど……」

「あー、いいのいいのどうせ暇だし。それとも甘いのって苦手?」

「いえ、好きですけど……でも……」

「だったら飲んじゃって。お姉さんのおごりだから」

「はぁ……」

 

 勝手なことを言うだけ言って、その店員さんはピラピラと手を振りながらカウンターに戻り、またマンガに没頭し始めた。なんだか不思議な人だなぁ……

 

 店員さんが持ってきたカフェオレのカップを、両手で包み込むように大切に持つ。熱さが手に伝わり、さっきまで外の灰色の世界にいて冷えきっていた両手を無理矢理に温めてくれた。

 

 火傷しないように注意しながら、一口だけカフェオレに口をつけた。その途端、コーヒーの香りと優しい甘さが口に広がっていく。口に含んだ温かいカフェオレは、手だけでなく、僕の身体にもとても熱くて、僕の胸を温めてくれる。

 

「ほっ……」

 

 自然と溜息が出た。その時、僕の胸に突き刺さっていた何か気持ちの悪いオリのようなものが取れたかのように胸が軽くなることを感じ、それがカフェオレの心地いい温かさと甘さのおかげだと気付くのに時間はかからなかった。

 

「あ……」

 

 再び外を眺める。外を寒そうに歩く女性の手には、真っ赤な手袋がされていた。僕自身の世界に、ほんの少しだけ色が戻った瞬間だった。

 

 さっきの店員さんを見ると、やっぱりマンガを読みふけっている。最初は僕の妙な雰囲気を感じてコーヒーじゃなくてカフェオレを作ってくれたのかと思ったけれど……別にそんなことはないようで、僕の方に興味があるわけではないようだ。

 

 ……もっとも、今はそれがありがたいけれど。何か優しい言葉をかけられてしまったら、僕は泣いてしまうけれど。

 

 そのまましばらく優しいカフェオレを堪能したあと、店員さんにお会計をお願いした。店員さんは読みかけのマンガを開いたまま、今時珍しい年代物の木製のレジをのんびりと打ってくれた。店内に鳴り響くタイプライターのような打鍵音が、僕には心地よく感じた。

 

「あの……」

「んー?」

「カフェオレ、ごちそうさまでした。でもなんで?」

「んー……よくわかんないけど、なんとなく甘いのが良さそうな顔をしてたから……かな?」

「僕、甘党に見えますかね」

「そういうんじゃなくてねー」

 

 唐突に、店内に黒電話のベルの音が鳴り響いた。これも今時珍しい。でも僕が知っている黒電話の呼び出し音とはだいぶ違って、音が控えめにされている。だからかもしれないが、その音をうるさいとは思わず、懐かしさと変な可笑しさだけが印象に残るような、そんなベル音だった。

 

「あ、ちょっとまってねー」

「はい」

 

 僕に断りを入れた後、店員さんは電話に出た。『ちょっとまってね』と言われたことが、僕には妙に嬉しかった。知り合いではない、まったくの他人と少し話が出来ることが、今の僕にはありがたかった。優しくされたくはなかったけど、なんとなく誰かと話をしたい……そういうめんどくさい状況だった。

 

「はーい。どうしたの? ……えー……自分で取りにきなよー……」

 

 店員さんは本当にめんどくさそうに……僕の方に向けている背中から『うわー……めんどくさい……』というオーラを振りまきながら電話で受け答えをしていた。

 

「んー。分かった。待ってるから」

 

 一通り受け答えをした後、店員さんは受話器を置いてこっちに戻ってきた。……なんというか、とてもめんどくさそうな、どよーんとした顔をしていた。

 

「ごめんごめん。で、なんだっけ?」

「あ、いや……甘党に見えますかーって」

「あーそうだった。んー……なんでだろね。私もよくわかんないな。嫌だった?」

「いや全然イヤじゃないです。むしろうれしかったです」

「ならよかったよ」

 

 これは本当に素直な気持ちだった。店員さんがサービスしてくれたカフェオレのおかげで、僕の見える世界に色が戻った。胸に溜ってた嫌な気持ちが、たった一口の温かいカフェオレのおかげで溜息と一緒に出ていったのは、とてもありがたかった。

 

「よかったらまた来てね。お客さん少ないけど、いつでも開いてるから」

「うん。また来ます。店員さんはいつもいるんですか?」

「そうだよー。ここ、私の店だから」

 

 そっか。この人、やっぱりこのお店のマスターなのか。店員さん……マスターに別れを告げ、コーヒー代だけを払って店を出る。ドアを通る時……

 

「あ……すみません……」

 

 僕よりも背の高い、だいぶ年上の男性がすれ違いで店に入ってきた。その男性は僕に笑顔で軽く会釈すると、そのまま店内の方に入っていき、マスターと二言三言、楽しそうに言葉をかわしていた。

 

「ごめんなー」

「いやー、別に謝らなくていいけどさー……」

 

 とても親しげに話す二人の光景が、自分には手に入れることの出来なかったものだと気付いて、あの時の僕は少し落ち込んだものだった。あの時の二人、お似合いの二人だったなぁ……。

 

 その日を境に、僕はこの不思議な喫茶店『ミア&リリー』に足を運ぶ機会が増えた。何か嬉しいことや悲しいことがあったとき、何かをなしとげた時、何かに失敗した時……

 

「あ、いらっしゃーい。今日も勉強?」

「はい。試験近いんで」

「あそ。がんばってねー」

 

 何かを頑張りたい時や、単純にお昼ご飯が美味しかった時……足繁く、このミア&リリーに通うようになった。

 

 窓から少し離れた指定席に座り、参考書とノートを広げる。試験が近い。自分の家で勉強すれば余計なお金がかからなくてリーズナブルなんだけど……

 

「ほい。ご注文のコーヒー」

「ありがとうございます」

「んじゃーがんばってー」

 

 マスターがそういい、去り際に角砂糖を一つコーヒーに落としていってくれた。このミア&リリーのノスタルジーで落ち着く雰囲気と、マスターのこの決して踏み込んでこない優しさや気遣いというものが、僕にはとても心地よかった。

 

「ほい。じゃあコーヒー一杯で400円だよー」

「じゃあ500円から」

「まいどー。お釣りが……ん?」

 

 いつも通りなら、ここでお釣りを受け取って終わりのはずだったんだけど、その日はちょっと違った。その日、マスターは僕にお釣りを渡しながら、妙に顔を覗き込んできた。いつものジト目で。

 

「んんー?」

「……ど、どうかしたんですか?」

「……」

 

 不意にマスターが、僕の髪に手を伸ばす。突然のことで僕は何も反応出来ず、ただただされるがままに、マスターに髪の毛先を触られることしか出来なかった。

 

 僕の前髪の毛先を少しいじった後、今度は僕の頭のてっぺんに手を当て、髪を乱暴にくしゃくしゃっと乱してきた。マスターのこの行動は失礼極まりないんだけど、不思議とくしゃくしゃされてるのが心地いい。

 

「な、なんなんですかっ」

「髪伸びた?」

「へ?」

「ほら。初めて来た時はもうちょっと短かったような……」

 

 確かに初めてきた時から数ヶ月経つけど、僕はその間まだ一回も髪を切ってなかった。マスターは僕が初めて来た時のこと、覚えててくれたのかな。

 

「あ、は、はい。初めてきたときからまだ一回も髪切ってないです」

「やっぱり。そろそろさっぱりしてもいい頃かもね~」

「そ、そうですか?」

「うん。まぁどっちでもいいけどねー」

「はぁ……」

「ちょうど隣が床屋だし、よかったら切っちゃってもいいんじゃない?」

 

 なんだか珍しくマスターが僕にちょっかいをかけてきているような……いや、別に気にならないから散髪はまだいいかなーなんて思ってるんですけど。

 

「そかなー。私はさっぱりしてる方が好きだけどねー」

 

 そう言われて、不思議と『んじゃ切るか』と決心してしまった当時の僕は単純でしょうか……。

 

 後日、僕はミア&リリーに入る前に、その隣の床屋の入り口の前に立った。『バーバーちょもらんま鎮守府だクマ』てのもなんだか妙な名前だ。考えてみればこの店、数年前からここに店を構えてることを思い出した。妙な名前だったからまったく行く気になれなくて、ずっと気にしてなかったんだけど。

 

 ガラス越しに店内の様子を探る。お店の中には、いつかマスターと楽しそうに話をしていたあの背の高いカッコイイ男性がいて、静かに掃除をしているようだった。そっか。あの人床屋さんだったのか。マスターの恋人とか家族とか、そんな感じの人なのかな?

 

 今なら他にお客さんもいないし、待たされないで散髪出来そう。意を決して入り口を開くと、カランカランという音が店内に響き、床屋さんが静かにこっちを見て微笑んでくれた。

 

「はい、いらっしゃいませ」

「はい、あ、あの、髪を切りに来ましたっ」

「かしこまりました。それじゃこちらへ」

 

 床屋さんは実に柔らかく優しく対応してくれ、僕を散髪代のシートに座らせると、自分はキャスター付きの椅子に座って僕の髪を観察し始めた。

 

「結構伸びてますね。どういう髪型にするか決めました?」

「え、えーと……」

 

 初めて来た美容院とか床屋って緊張する。髪型の指定とか全然やったことないし、よくわかんなくて……。

 

「えーと……」

「?」

「さっぱりさせたいんですけど……お、おまかせって出来ます?」

「かしこまりました。んじゃ適当に短くしちゃいましょっか」

 

 『ちょっと失礼……』と言いながら僕のほっぺたを少しさわり、『今日は髭剃りはいらないですね……また次の時にでも』と床屋さんは言い、僕の散髪が始まった。

 

 散髪中、床屋さんは静かにチョキチョキと僕の髪を切っていた。表情はとても真剣なのに、目の感じはとてもやわらかい、とても優しい感じのする人だ。散髪中特に話しかけてくることもなく、柔らかいけど真剣な表情で終始髪を切り続けていた。おかげで僕の緊張は最初だけで、散髪が始まって数分後にはリラックスしはじめていた。

 

「……髪の長さはこんな感じでいいですか?」

「はい。ありがとうございます」

「んじゃシャンプーしちゃうんで、シャンプー台に移ってください」

 

 言われるままに案内されたシャンプー台に向かい、シートに座る。床屋さんがやってきてシートのリクライニングを倒し、床屋にしては珍しい仰向け式のシャンプー台でシャンプーしてくれた。

 

「お湯の温度は大丈夫ですか?」

「はい」

「かゆいところはないですか? 足の裏以外で」

 

 これは床屋さんなりのジョークなのかな? 乗っといた方がいいのかな?

 

「え、えーと……右の足の裏の……」

「却下ですよ~」

 

 酷い……僕は床屋さんのボケにボケ返しただけなのに……。でもこの床屋さん、優しかったりかっこよかったりするだけじゃなくて、けっこうフランクな人みたいで安心だ。

 

 こうしてシャンプーが終わった後、散髪台に戻って髪を乾かしてくれる。その最中、お店の入り口が開き、白いセーラー服とハーフパンツを履いた3歳ぐらいの男の子がお店に来た。よく見たら、えらくご立派なアホ毛を携えてる子だった。

 

「とうちゃーん。今日も父ちゃんのお仕事見てていいくまー?」

「母ちゃんの口癖を真似るのはよせ。今はお客さんいるからまた後でな」

「その父ちゃんのしごとっぷりが見たいくまー」

「お客さんいるんだから……」

 

 床屋さんの子どもと思しきこの子と床屋さんの会話がおかしい。この子の変な語尾はどうやら母親譲りのようだ。……ひょっとしてマスター? でもマスターそんな口癖言ってるとこ見たこと無いしな……家族の前でだけ言ってるのかも?

 

「僕はいいですよ。あとは髪乾かしてくれるだけだし」

「「いいんですか(くま)?」」

 

 息ぴったりの親子の反応に笑ってしまう。この床屋さんといいミア&リリーのマスターといい、人の緊張をほぐす天才なんじゃないかと思うことが今でもある。

 

「それじゃあがんばってサービスします。髪乾かしますね」

「かわかすくまー」

「お前は黙ってなさい」

「ゴメンナサイダクマ」

「ぷっ……お願いします」

 

 床屋さんは手際よく髪を乾かしてくれ、もののついでにとワックスでスタイリングしてくれ、男の子の方はそんな父親の仕事っぷりを興味津々といった具合で見つめていた。よく見たら、時々アホ毛がぴくんと動いていた。

 

 男の子からの至言『母ちゃん譲りのアホ毛はいいくま?』をさらりと受け流し、床屋さんは僕の髪を整えてくれた後、両肩をぽんと叩いてくれた。

 

「ほい。終了です」

「ほっ!」

 

 心地よいインパクトを受けて、リラックスしていた身体が覚醒した。なんだかずっと髪を切っていてもらいたい。ずっとこの空間にいたいと思わせてくれるような、そんな時間だった。

 

「ありがとうございました。よかったらまた来てください」

「またくるくまー」

 

 とても優しい二人のお礼を受け取ったあと、僕はそのままミア&リリーの方にも足を運ぶ。居心地がよくてとても優しい床屋を教えてくれたお礼をマスターに伝えるためだ。ちょっとだけ残念だけど。あんなに優しくてお似合いな人と結婚してて、あんなに可愛らしい子どもがいたってことが、心の何処かで少しだけ寂しかったけれど。

 

 ミア&リリーのドアを開ける。いつものようにカランカランと音がなり、店の奥からマスターのやる気ない『いらっしゃーい』て声が聞こえてきた。

 

「ぁあ、いらっしゃい。髪切ったの?」

「はい。マスターおすすめのおとなりで切ってきました」

「そっかー。どうだった?」

「よかったです。床屋さんも優しいし」

「だよねー」

 

 いつもに比べてちょっとだけらんらんとした眼差しで僕の髪型を見るマスター。自分の旦那さんの仕事っぷりが気になるのかな?

 

「うん。やっぱり短い方がさっぱりしてていいじゃん」

「そ、そうですか?」

「うん。今の方が私は好きだよ?」

 

 そう言ってマスターは屈託なく笑ってくれる。そんな顔されると、妙にドキドキしてしまう。いつもリラックスさせてくれるこのお店の空間とマスターの態度が、今日は妙に僕を緊張させてくる。いけない。この人は旦那さんもいるし、お子さんもいるのに……。

 

「あ、あの……お子さん、可愛かったです」

「へ?」

「お子さん。おとなりの床屋さん、旦那さんなんですよね。お子さん、旦那さんの仕事っぷりが見たいって言って、ずっと一緒にいました」

 

 緊張して変な話を振ってしまったッ! ヤバいッ!!

 

「ぷっ……」

「ま、マスター?」

「ぶふっ……私とハル兄さんが……夫婦か……」

 

 僕の血迷った発言を聞き、マスターは急に吹き出してケラケラと笑い始めた。

 

「えーと……ぶふっ……隣の床屋さんと私は、別に夫婦じゃないよ?」

「そうなんですか? でも前に仲良さそうに話してたし……」

「ちょ……やめて……腹痛い……ひー……面白い……」

 

 マスターは苦しそうにヒーヒー言いながらそう教えてくれた。おとなりさんとマスターがご夫婦だと言うのは、どうやら僕の早とちりのようだ。

 

 でもだってあのアホ毛の子、なんとなくだけどマイペースなとこがマスターそっくりなんだもん。あんなにそっくりだったらマスターの子だと思っちゃうよ……マスターもそんなに笑わないで下さいよ……。

 

「やめてくるし……ひー……これ以上は……クマ姉に怒られる……」

「? クマ姉?」

「そ。隣の床屋さんの奥さんで、私の姉。だからお隣さんと私は兄妹……ぶふぉっ……ひー……」

「そ、そうなんですか……」

「しかしこれは……あとでハルに報告しとこ……」

 

 この、僕の目の前で今まで見たこと無いほどに楽しそうな顔のマスターを見て、なんだかとても恥ずかしいような……でもお隣さんとはご夫婦じゃなくて兄妹と知って、なんだかちょっとホッとしたような、不思議な感覚を覚えた。

 

 同時に、この人のことをもっと知りたいという気持ちが芽生えた。今までは、このマスターのいるお店の心地よさに惹かれて、僕はお店に顔を出していた。

 

 でも多分……いつの頃からかそれが、この人への興味に変わっていたんだ。僕は、この人のことをもっと知りたい。友達になりたい。この人ともっと仲良くなりたい。

 

「あ、あの……」

「ひー……ひー……ん?」

「ぼ、僕は桜庭智紀(トモノリ)っていいます!」

「おお。トモくんか。常連さんになってくれてけっこう経つけど、初めて名前を教えてくれたね。私もトモくんの名前を知りたかったんだ」

 

 マスターにそんな風に思ってもらえてたなんて、なんだか胸が温かい。店内は全然暑くないのに、なんだか顔がカッカカッカしてくる。

 

「私は北上。トモくんよろしく」

 

 一通り呼吸困難と闘いながら笑い続けたマスターは……北上さんは、その後僕に自分の名字を教えてくれた。その時なぜか少しだけ、店内がグレーに染まった気がした。

 

「……」

「ん? どうかした?」

「あ、いえ。なんでもないです。北上さんよろしく」

「うん。……んで、今日はどうする?」

「えと……んじゃカフェオレお願いします」

「ほーい。んじゃいつものとこで待っててね」

 

 僕はフルネームを教えたのに、北上さんはファーストネームを教えてくれなかったことに、僕はほんの少しだけショックを受けたみたいだった。外の風景よりも店内の方が少しだけグレーに見えたのは、きっとそれが理由だったんだろうと、今では思う。

 

 

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