川内と神通が夜戦をします。
こんな夜戦もあるんじゃないか、そう思います。
Idiotは名詞だそうです。形容詞じゃない。

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Idiotは名詞です。
双方の視点から話が進みます。混乱しないでください。


Idiot Empress

 あの人は本気なのか?

 夜戦バカはバカだ。妹の私が見てもバカだ。

 並んで夜戦をしたこともある。軽巡だから当たり前だ、敵が戦艦だろうが空母だろうが、簡単に沈める。

 夜のバカほど楽しそうな川内は見たことがない。

 本気なのか?

 姉さんと夜戦がしたい。月の無い夜の静かな海に抱かれて姉さんと殺し合いをする、したい。

 その姉さんは今私の目の前にいる。

「姉さん」

「ん、神通どしたのー?」

「夜戦したいんだけど」

「夜戦!? 夜戦するの!?」

「姉さん」

 そう、その顔が見たかった。爛々と光る目が実に嬉しそうに私を見ている。

「姉さん」

「分かってるよ。分かってる。夜戦でしょ夜戦」

「真面目な話なんだけど」

「分かってるよ」

 姉さんはいつまでも嬉しそうに、浮かれている。

「分かってるの?」

「神通こそ分かってないんじゃないかな?」

「え?」

 姉さんは私の目を見ている。浮かれているなんて、嘘だ。

 姉さんは明らかに戦場での顔をしている。姉さんは戦場でもずっと笑っている。

「今日の2300、突堤でね」

 声色を変えずに滑り出てきた言葉が右から左に抜けそうになった。

 姉さんは私の横をすり抜けて歩いて行ってしまった。

 鼻歌交じりに、驚くほどの早足で。

「23時なんて、姉さん好きそうな時間」

 あっちは姉さんの部屋とは逆だと思ったけど。

 私も姉さんと逆向きに歩き出した。気合いを入れないと。

 

 

 

 神通は本気だった。

 本気で私に挑戦状を叩きつけてきた。

 鬼に目をつけられた。

 私の気持ちは伝わったのかな?

 妹の殺気はあからさまに伝わってきた。私も神通もバカじゃない。私達は姉妹なんだ。以心伝心だろう。

 神通は殺し合いをしたがっている。

「慣らしとかなきゃ」

 縦波は私の耳以外どこにも届かず消える。海に向かう。

 太陽は南西の空高くに輝いている。

 靴を履き替える。何種類もの青の海が夜にはたった一色、真っ黒に染まる。想像するだけで胸が踊る。

「気合いを入れないとね」

 

 

 

 突堤の一番先、あと15センチで海に落ちる。漆黒の海を背に、川内を待つ。細い月が西の空に低く浮かんでいる。月明かりには期待できない。鎮守府の弱々しい灯を後ろから受けて川内が歩いてくる。

「意外と寒いね」

「ええ」

 どうして。

 私は殺し合いをするつもりなのに、どうして姉さんはそんなに屈託もなく振る舞えるの?

「怖いねえ」

 私は怖い顔をしているのだろう。

「せっかくいい夜なんだから、楽しまないと」

 姉さんはもう楽しそうだ。

「ま、鬼教官にご指導ご鞭撻を、ってね」

 気勢をそがれた。思わず笑ってしまう。

「かわいい妹なんだから、そう言う顔してほしいんだよ」

 姉さんが一足先に海に飛び降りる。むしろリラックスできてよかったかもしれない。

 私の深呼吸の音は夜の風にかき消された。北西から緩やかに吹いてくる涼しい風だ。

 姉さんは私のことなんて見ていなかった。追いかけないと。

 

 

 

 いい夜だ。

 月は水平線ギリギリだ。雲はほとんどかかっていない。北極星を正面に海面を滑る。

 神通は私の後ろ10メートルにピッタリついてくる。

 止まってみた。神通は1秒遅れて止まる。探照灯をつける。

「そんなことしたらマトになるって分からないの?」

 トゲのある口調で私に言う。

「あの時そうだったから?」

「やめてよ」

「先に言ったのは神通でしょ。ルール説明しなきゃじゃん」

 神通は私の目を睨みつけてくる。強烈な殺気を隠そうともしない。神通は何も言わなかった。

「ルールなんて全く考えてないんだけどね。んー。降参したら負け、戦えなくなったら負け、死んでも負け。文句ないね?」

 神通が口を開きかけた。

 

 

 

「もちろん。私は本気だから」

「私が本気じゃないみたいな言い方だね」

「姉さんが本気には思えない」

 姉さんはまだ笑みを浮かべている。

「本気だよ」

 どうして?

 どうして姉さんは私のことが分かってない?

「私が本気じゃないって言ってるんだから姉さんは本気じゃない」

「面白いこと言うね」

「何が面白いっていうの?」

 私も姉さんもバカだ。夜戦バカとただのバカ。バカ同士同じ次元で戦えるのに、姉さんは合わせてくれない。

 まるで自分が上みたいな言い分じゃないか。

「姉さんはバカだ」

「好きなだけ言ってよ。時計持ってる?」

「は?」

「2315にライトを消して戦闘始め。あと2分と……45秒」

 銀色に光る懐中時計を姉さんは弄ぶ。時計なんて持ってない。

 聞こえるのは静かな風の音と足に当たる波の水音だけだ。

「あと10秒、ちゃんとライト消してよ」

「ええ」

「……3、2、1、始めっ」

 姉さんが後ろに緩やかに流れているのにその時気がついた。

 川内がライトを消す。私も2秒遅れてライトを消す。

 私から動く気はない。薄く川内が見える。

 真っ暗の世界が一瞬だけ白の世界になって、次の瞬間、私の目の前には静謐さに包まれた水平線が横たわっていた。

 夜戦バカはバカじゃないな。

「姉さん! いつもの威勢はどうしたの!」

 叫んだ。

 

 

 

 2人のライトが消えて3秒、仰角45度、神通の真上に2発砲弾を。

 ただの目くらまし、虚仮威しだ。マズルフラッシュを盾にして姿を消す。

 私の視界から神通が消えることはないし神通の視界に私が入ることもない。

 神通の息遣いはいつまでも聞こえるし私の出す音は絶対に神通に届かない。

 神通は自分から動く気はないだろう。

 夜の海は私の世界だ。自分自身も、神通も、風も波も月も、私の意志に従う。

「さあ、どうしようかな」

 神通に私の声は聞こえない。

 私はこの世界の女王だ。

 

 

 

 あまりにも静かすぎる。

 おかしい。川内がどこにもいない。視界に入らない。息遣いも衣摺れも水音も聞こえない。

 どういうことだ?

 こんなことじゃもう負けも同然じゃないか。私がバカで川内がバカじゃなかっただけ? 同じ次元なんかじゃなかった?

 音を殺さないといけない。もう手遅れかもしれないけれど。

 唾を吐き捨てる。水面に忽然と現れた白い泡はすぐに拡散して見えなくなった。

「バカだ、ただのバカだ」

 川内には聞こえているのかもしれない。

 夜の海は恨めしいほどに静かだ。

 視覚は頼りにならない。邪魔なだけだ。目を閉じても景色は変わらない。

 月が半分沈みかけているのに気がついた。

 黒から黒に景色がうつる。

 聴覚が研ぎ澄まされる。気がする。自分の心臓の音が邪魔に思えたのはこれが2回目だ。

 見えるのは完全な黒。聞こえるのは自分の音と風の音。呼吸も拍動も止まってしまえ。そうすれば川内の居場所が分かる気がした。

 いい夜だ。川内さえ私の前に現れてくれれば。

 

 

 

「楽しいねえ」

 神通は全く楽しくないだろう。

 こんなに胸のすく夜戦はいつ以来だろう。夜を支配する。私の理想の姿だ。

 神通はライトを消した瞬間から身じろぎひとつしない。心臓も止まってるんじゃないか?

 私は誰にも気付かれない。

 静かすぎることが私の取り柄だ。視覚を遮断した神通は私がどこにいるか知る術はない。

 たとえ10センチまで近づいてもだ。あとは頸動脈を掻っ捌けば終わり。もちろん、そんな簡単にこの夜を終わらせるわけがないけど。

 あと1時間くらいこのまま待ってようかな。神通が動くのを待っていればいい。

 夜の海をすべる。冷えた手を温める。

 根比べだよ、神通。

 

 

 

 緊張が途切れることがない。

 私が緊張している? 川内の圧力に気圧されてる?

 月は完全に沈みきった。見なくてもわかる。

 訓練の甲斐はあった。並の奴じゃとっくに降参だ。私は一歩も動いていない。

 今の私はまな板の上の魚だ。包丁を入れられるのを待つだけ。川内は魚をまな板の上に放置してどう料理するか悩んでいる。

 煮るなり焼くなり好きにしてくれ? いや、おかしい。

 魚じゃ抵抗できないじゃないか!

 うっちゃりの可能性を残せ。まな板の上の魚でも蛇に睨まれた蛙でもない。窮鼠猫を噛むだ。ネズミに成り下がっても、喰われる運命でも傷痕くらいは残してやれ!

 小さく息をつく。根負けは気に食わないが一縷の望みに縋らないと。

 あの時だってそうだったじゃないか。絶対に見つけてやる。砲弾の1発でも撃てないんじゃあ、私も終わりだ。

 指先が冷えきっている。何もしないで突っ立っているなんてやっぱり私はバカだ。

 川内はどこにいるんだろう?

 大きくため息。川内に笑われるだろうな。

 目を開ける。

 目の前50センチ、川内が笑っていた。戦場とは思えない底抜けの笑顔。妹よりアイドルみたいだ。

 川内の手が伸びてくる。

 私は何もできない。

 姉さんは殺し合いだなんて思ってなかったんだ。負けるなんて思ってなかったんだ。

 目の前の右手に焦点が合わない。吸い込まれそうな眼球に恐怖を覚えていた。

 何秒経ったのかな。

 デコピンされた。

 

 

 

 神通が額を押さえてうずくまる。肩を震わせている。

「降参でしょ?」

「ええ、参りました」

 泣き笑いって言うのかな。

 神通は笑っていた。目に涙を浮かべて。

「神通、かわいいね」

「妹口説いてどうするの」

「ちょっとあれじゃダメだよね。あんなんじゃ私は見つけられないよ」

 神通は何も言わない。

 言えないのかな。

 ちょっと、納得いかないな。

「本気だったの?」

 

 

 

 川内は笑っている。

「えっ」

 凄んでるわけでもない。声が低くなったわけでもない。なのに何だこの恐怖は。

 私を蔑むセリフだから? そんな薄っぺらくない。

 殺気? 違う。殺意? 違う気がする。

 支配されている?

「まあいいや。もう終わってるから。でもね、神通」

 言葉を切る。思わず唾を飲み込む。

「実戦じゃ死んでたよ」

 背筋が凍るっていうのはこういうことなんだ。全身の筋肉が硬直する。身体が凍ったみたいに動かない。

 支配されている!

 冷たい笑み。嘲るような? でも私を下に見てるんじゃない、自分の方が上だと思っている。夜戦で勝ったからだとか、姉だからだとか、そんな次元じゃない。

 私はバカだ。川内はバカじゃない。夜戦バカでも夜戦忍者でも夜戦狂者でもない。

 権力者。

 川内は夜の、この世界の女王だ。

 私も、風も波も月も、川内自身も、この海の上のすべての物体は川内の意志に従う。

 歯の根が合わない。呼吸が浅くなる。涙が溢れてくる。膝が笑う。ダメだ、立ってられない。

 笑みを湛える川内の前に、私は跪いた。

「いいねえ、こういうの」

 川内の声に嘲りの色は消えている。

 私を見下してるんじゃない。自分が支配者だという事実に優越感を得ているんだ。艤装をいいものに変えた時と同じ声。自分が強いという実感。

「どうして、こんな……」

「神通は私のことを知らないんだ」

「そうかもしれない」

「どうする? まだまだ夜は長いけど」

「え?」

 姉さんは時計を私に見せる。まだ日付が変わる前だった。

「嘘でしょ! まだ35分しか経ってないの!」

「そう。いくらなんでも根性がないよ。窮鼠猫を噛むとでも思ったんだろうけどね。これで駆逐艦に根性叩き込んでるならみんな育たないだろうね」

 悪態を突かれる。跪いたまま。

「楽しかった?」

「全く」

「だろうね。じゃ、帰るよ」

「帰れるの?」

「もちろん。私は」

「女王だからね。そう言うんでしょ?」

 私は立ち上がる。女王とバカが同じ目線に並ぶ。

「……訂正。神通はちょっとだけ私のこと分かってるみたい」

「女王の妹だから。多少バカでもこのくらいは分かる」

「帰ろう。私の王国だからね。道は勝手に出てきてくれる」

 姉さんが空を見上げる。視線が空中を1回転して、ゆっくりと歩き出す。

 道は出てくるなんて、嘘だ。姉さんは北極星を見てた。北極星を背にゆっくり進む。何も無い夜の海を姉さんは満喫している。さながら女王の巡幸だ。

 

 

 

 神通は私の後ろ1メートルをついてくる。たまに振り返って神通の顔を見る。神通は私を一瞥して、少しだけ視線をずらす。探照灯の煌々とした光は優しく私たちを照らす。

「姉さん」

「どしたの?」

「勉強になりました」

「改まって言うことじゃないよー」

「どうやって消えたの?」

「さあね。視界から消えるのは簡単だけど、聴覚から逃れるのは今の神通には理解できないと思うな」

「空気の流れも感じなかった」

「そんなの風で消えちゃうから」

「あんなに静かな風で?」

「そう」

 理解できないだろう。

「いつから私の前に?」

「10分くらいかな」

「そんなに! どうして音が聞こえなかったの?」

「心臓も呼吸も止めてたからね」

「嘘つき」

 そう言って神通は笑う。

「あーもうかわいい。こいつめ」

 神通の髪を掻き乱す。かわいい妹だ。

 今の神通は私のかわいい妹。今の私は?

 夜戦バカとその妹のバカが夜の海をゆっくり歩く。

 鎮守府まであと15分。

 無断外出、バレてないかな?

 始末書を覚悟しないとね。

 


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