次郎が八意永琳と初めて出会ったのは、春と夏の変わり目の頃であった。
その日次郎はいつもの様に屋台に出て、常連客の相手をし、そして従業員であるチルノを早めに帰したあと一人で片付けをしていた。
チルノは妖精ながら熱心に働くが、どうにも夜更かしに向いていないらしく、いい時間になると仕事をしながら舟を漕ぐ。そのため次郎は彼女を早めに帰らせるのだ。
この日は天気も良く、空には満月の月が黄色く輝き浮いていた。
幻想郷の気候は割と北国に近い物があるので、この季節の変わり目は夜になると肌寒い。
しかし次郎は吹き付ける風の中に初夏の香りを感じ、思わずうきうきと鼻歌が混じっている。
作業も一通り終わった頃か、次郎は後回しにしていた自分の夕食を摂ろうと思った。
彼は基本的に夕食は店が終わってから食べる。それは営業中だと客相手に酒を付き合う事もあるが、しかし調理のほとんどは彼がするためにゆっくりと休憩する暇がないのだ。
だったらと元々自分に無頓着な次郎は夕食を後回しにすることをえらんだという訳である。
そんな時の事だった。
「ん? 誰かいるのかい?」
静かな屋台の周囲に人の気配を感じ、揚げ物の余りで作った天茶をすすっていた次郎は顔を上げた。
気配に危険な物は感じないが、無言で近寄られるのも気味が悪い。
「ええ、夜分遅くにすみませんが、次郎様でお間違えありませんか?」
「あ、ああ……俺が次郎だが、そちらは?」
「ふふっ、良かったわ。屋台の場所は優曇華に聞いていたけど、暖簾が無かったから間違えたかと思ってしまったのよ。私は八意永琳。竹林でさる方の従者をしています。いつも優曇華がお世話になっているので、ご挨拶に参りましたのよ」
暗がりから現れたのは、よく月の光を反射し輝く銀色の髪の持ち主であった。
しかしその服装はその美しい顔に反してかなり前衛的な物である。
それは一見すると看護師の制服の様な姿であるが、青と紅が左右対称になるような不思議な色合いだ。
それが上下でもまた反転しており、それを見た次郎は何とも言えない感想を持った。
それでもその人間離れした美しさに、思わず彼は息を飲んだ。
朗らかな笑みで淀みなく口上を述べる八意永琳。
「はあ、これはご丁寧にどうも。暖簾は営業が終わったんで仕舞ってるんだ。しかしうどんげねぇ……うちの常連にうどんげなんてのいたかなぁ……」
呆けた間抜け面を晒してた自分に気が付き、次郎は慌てて立ち上がると、八意永琳に席を勧めた。
彼女の言う”うどんげ”が誰なのかと考えながら。それを見て八意永琳はくすくすと笑った。
いぶかしげな表情の次郎。
「いえね、この店に通っている私の弟子の名前なのよ。優曇華は私がつけてあげた名前だから、あの娘ったらそれを他人に呼ばせるのは好きじゃないなんて言うのよ。でも次郎様、鈴仙・優曇華院・イナバだったら分かるかしら?」
勧められるまま屋台のカウンター席に腰かけた八意永琳はそう言った。
せっかくだからと酒の用意をしていた次郎は、ぽんと手を叩くと合点が行ったと瞳を大きくした。
「あ、あー……なるほど、あの兎か。なるほどなるほど。そう言えば最初に名乗られた時、やたらと長い名前だなぁなんて思ったんだ。そうかそうか、優曇華院でうどんげか。ふむ、それなら贔屓にしてもらっているよ。じゃほら、師匠の来店だ。お近づきの印にまずは一献」
次郎はそう言うと彼女の前に素焼きのぐい呑みを置くと、仕舞ってあった上等な酒を注いだ。
もちろん自分の湯呑みにもだ。これは八雲紫に融通してもらった外の酒である。
北陸の銘酒で、天狗が舞うとも言われる素晴らしい作品である。
山廃という特殊で手のかかる製法で作られているため、熟成の浅い日本酒ながら、まるで長い間樽で熟成を行ったウイスキーの様に味に深い奥行きが生まれるのだ。
これはそれほど簡単に手に入るほど大量生産されていないため、ここぞという席で振舞うために、次郎はこういった銘酒をいくらか仕入れてある。その対価は中々厄介なものではあるのだが、それはまた別の話。
「あら、いい香りね。私は酒に一家言(イッカ―ゲン)あるのだけれど、これは試したことが無い酒ね。遠慮なく頂くわ」
涼やか微笑をひとつ次郎に投げかけると、八意永琳は口元を器用に隠し杯を呷った。
白く細い喉がこくりと脈動する。何となく眺めていた次郎は、それが酷く妖艶に感じた。
美しいが少女と言えるあどけなさも併せ持つ八意永琳に。
「……ふぅ。これはおいしいわ」
「そいつは良かった。まあ今夜はもう竈の火は落としてしまったからそれで勘弁してくれ」
「ええ、これで充分よ次郎様」
自分も遅れて杯を呷った次郎が申し訳なさそうにそう言うと、とんでもないと彼女は笑った。
「ところで……様はやめてくれないか? どうもこの辺がくすぐったくて敵わない」
彼女が人心地ついたのを見て次郎は当初から疑問に思っていたことを尋ねた。
なぜなら彼を様付けで呼ぶのはあの胡散臭いパトロンくらいだ。
それは本性を見せるのをひどく嫌うあのアヤカシ者の元締めである八雲紫である。
「これはもうある種クセの様な物なのでごめんなさい。では次郎さん?」
「さんって柄でも無いわな。次郎って呼び捨ててくれて構わんよ八意さん。まあ俺も幻想郷に来てそれなりだ。見た目と年齢が……」
「年齢が?」
場を和ませる意味もあってそう言った次郎であったが、微笑を浮かべていた八意永琳の笑みの質が急激に変化をしたのに気が付いた。
(……どうやら俺は地雷を踏んだらしい)
確かにこの頃の夜は寒い。だが次郎には今の周囲は冬かと思えるほどに凍えてしまう錯覚がする。
「なんでもない……ま、まあ好きに呼んでくれってことさ」
「ふふふっ、では次郎さんと呼ばせて貰うわね。あと口は禍の元と言うわ? 気を付けるがよいでしょうね。ふふふ……」
そんなやり取りを交わす二人であったが、ふと次郎は首をかしげた。
思えば彼女の住まう永遠亭。竹林の奥にある隠れた庵だ。それは薄らと客である鈴仙から聞いている。もっともその鈴仙は今日はとっくに帰っている。
ならば彼女は何をしにここへ来たのだろう? と。
次郎の見立て通り、八意永琳とはその物腰と受け応えの柔軟さから考えれば、どう考えても常識人のそれである。
本質は違うにしても、八雲紫の様な余裕が彼女にはあるのだ。
「で、八意さんはどういう用件で? こんな時間にやってきたんだ。何かあるのだろう?」
次郎がそう言うと、彼女は我が意を得たりという満足気な表情でひとつふたつ頷き、そして言った。
「いえ、貴方にはうちの家人であるうどんげを良くして頂いているのでその礼と、いつぞやのお土産の礼を併せてと思いまして。ただ私もおいそれと外を出歩くには少しばかり事情がありましてね。次郎さんには失礼かとは思いましたが人目を憚ったのよ」
次郎はなるほどなるほどと納得したように頷く。
長年客商売をしている彼である。客の中には人目を憚るような艶めかしいのもいたし、それなりに事情のある客など珍しくも無い。
そして何より、どこかの胡散臭い女性に比べたら、数段も八意永琳の方が印象が良かったと次郎は思う。
「まあ礼と言ったって、こっちも客を相手しているだけだからなぁ。改められてもくすぐったい物がある。そりゃ最初の経緯はアレかもしれないが、鈴仙は今やしっかりと酒代を持ってきてくれる上客ってもんだ。こちらこそ感謝してるんだよ実際」
そう言って次郎は苦笑いを洩らす。今の彼の脳裏には、毎日ここへやってくるとある巫女の良い笑顔が浮かんでいた。
だが、と次郎はさらに言葉を続ける。
「……にしたって、なんか他にもあるんだろう? ここへ来たって理由は。お前さんほどの人間だ。いや人間じゃあないかもしれんが、たかだか礼をする程度なら、ここまで気を使う事もないんじゃあないか?」
どこか確信めいていう次郎の言葉に、八意永琳はくすりと笑った。
と言うよりも、どこか慇懃さを含む視線にも見える。
「ふふふっ……客商売をなさっていると言うのも伊達じゃないわね。ごめんなさい、試したみたいで。実はね、次郎さんに一度、永遠亭に来てほしいのよ。そのご招待に今日は来たのだけれど、警戒させたようならごめんなさい」
「なるほどな。それなら合点がいったよ」
次郎はやれやれと首を振った。
それは本当に幻想郷の女性は一筋縄ではいかないな、と改めて思い知ったからだ。
この八意永琳、その麗しすぎる容姿は、ある種現実感の無いまでの美しさだ。
それは普通の男性相手であると畏怖しか与えず、気軽に近寄れないだろう。
まして滲み出る雰囲気は相当の知恵者のそれだ。なまなかの男性ならば、無意識に自分を卑下してしまい卑屈にさせられる……そんな類いの物腰である。
次郎は”喰いものや”の客で揉まれているからこその対応なのだろう。
そして彼女が次郎に語った今日の用向きであるが、永遠亭に招待と言うのは間違いないが、詳しくは彼女の主人の退屈しのぎの様であった。
詳しい事情については本人から語るとの事だが、彼が思っている類の退屈とは少し趣きが違う様で、次郎宇は是非にと念を押された。
次郎としては言葉上の意味であれば、金持ちの見世物になりに行くようで初めは抵抗を持ったが、どうも八意永琳の語り口調は、従者のそれと言うよりは、どこか母性の混じった様な響きに感じられた。
しかしこれからは幻想郷は暑くなる。最近生まれたメニューであり、今後の”喰いものや”では、むしろこれを求めて客が殺到するであろうチルノの冷酒。
これでは中々店を空けて彼が出向く事も難しい。そこで次郎は彼女に言った。暑さが一段落したなら、その招待を受けてもいいと。
すると八意永琳はそれでも構わないとにこやかな笑顔を残して帰っていった。
次郎には彼女の去り際に残した「時間なら、それこそいくらでも私たちにはあるのだから」と言う言葉が酷く頭に残った。
これが次郎の春の終わり、いや初夏の邂逅であった。
◇◆東方御伽草子◆◇
「もし、次郎さん。もう店仕舞いしてしまったのね」
次郎が屋台の掃除をしていると、そんな声が彼にかかった。
屋台の天板を拭いていた手を止め、彼は顔を上げる。
そこにはいつぞやの女性――八意永琳の姿があった。
「やあ、一瞥以来だな。っと、そうか夏が終わったから来たって寸法かい?」
「ええ、まさに。催促しなければ貴方はいつまでたっても来ないでしょう?」
「違いない」
そう言って二人は笑った。
とは言え次郎は一瞥だろうが彼女の事は覚えていた。
そもそも一目見たら忘れぬほどの容姿しているのだから当然でもあろう。
「それで、都合は付きそうかしら? 姫様も首を長くしてお待ちになっているのよ」
八意永琳はそう言いながらばつの悪い表情を見せる。
もう深夜であるが、月明かりのせいで余計に表情が際立っていた。
「姫様ねぇ。ああ、そう言えば藤原がなにかそんな事を言ってたな。何やら憎たらしいのがいるんだってボヤいてた気がする」
「まあ、妹紅からも話が伝わっていたのね。なら話が早いわ。その姫様なのだけれど、理由があって外には出歩けないのよ。実際は出て歩いても”今は”何も問題は無いのだけれど、長い間の習慣みたいなものね。すっかり出不精になっているわ。そのくせ退屈だわと言うのが口癖で……。良かったら何か変わった物でも作ってあげて欲しいのよ」
「お、おう……」
次郎が藤原妹紅から聞き及んでいる姫様とやらの印象を思い出しながらそう言うと、八意永琳は何か心に積もった物でもあるのか、堰を切ったように話し始めた。
言葉は姫と主人を立ててるが、どうにも遣る瀬無い何かがあるのか綺麗な眉を八の字にしている。
次郎はこのままだと止めどなく続きそうな予感がし、手を振って彼女の言葉を遮った。
「あー分かった分かった。何やら色々ありそうだが、俺としては行くことに問題は無いよ。ただ店の都合をつけねばならないから、二、三日時間が欲しい。……後はそうだな、準備が出来たら鈴仙に言うよ。それで構わないか?」
「ええ、それでお願いします。ほんと姫様ったら――――
「分かった分かった! ちゃんと行くからその時を楽しみにしていると姫様に伝えてくれ!」
「……ええ。それでお願いするわ」
何やら話したりないのか、どこか不満気な表情の八意永琳だったが、嫌な気配を察知したのか次郎は早々に了承した旨を告げ、これで終わりだと言外に表した。
そして彼女は帰っていったのだが、帰り際に何度も振り返るその表情は、何とも言えない物があり、先が思いやられる次郎であった。
「姫様ねぇ……そんな大層な物は出来ないが――――
次郎はそう呟きながら腕組みをして黙る。
出張料理と思えば気も楽であるし、何よりあの八意永琳と鈴仙の主人であり、藤原妹紅が嫌な顔をする姫様に興味が沸いた。
彼の中では既に、どんな献立をするかと頭の中にあるレシピを思い起こす作業に没頭し始めたようだ。
それに彼がいない間の店の営業の事もある。
とは言え、既に次郎の中にはふさふさの尻尾が自慢の狐の姿が浮かんでいた。
八雲藍、彼女に頼もうと半ば決定している。その間の客は、献立のほとんどが油揚げを使ったのもになるだろうから辟易するだろうが。しかし背に腹は変えられない。次郎はそう考える。
そう言えば彼女もまた主人で苦労をしていたな――――次郎はそう思うと先ほどの八意永琳の変わりようも合点が行った様だ。そしてそれはほとんど正解だったと言える。
どこか誰かが「くしゅん」とくしゃみをした様だ。
◇◆◆◇
「いやよ」
「……何故だ。理由くらい聞かせてくれてもいいだろう?」
「い・や・よ」
次郎は溜息をついた。
それはとあるお願いをした相手がそれを拒否し、されど引けぬと再度頼むも相手は取り付く島もない程に断固拒否の姿勢を見せたからだ。
相手は八雲紫。この幻想郷での裏の顔役とも言える存在だが、基本的に表に出る事を嫌う胡散臭いアヤカシ者である。
とは言っても次郎とは浅からぬ関係であり、表面上はどうであれ、何かを言う時に遠慮をするような間柄では無い。
だからこそ彼女も素を曝け出したまま次郎に対して普段は見せない様な感情を見せている。
今日も”喰いものや”は通常通り営業を始めた。そしていつもの様に開店と同時に上白沢慧音と藤原妹紅がやってきた。遅れて従者に付き添われながら、次郎の家の大家でもある稗田阿求も暖簾を潜った。
その後巫女や魔法使いなどもやってきたが、完全に陽が落ちた頃だろうか。急に客の面々が帰りだした。
上白沢慧音など、普段は正体不明寸前まで飲んでいくと言うのに。彼女の仕事柄、酒に逃げたくなるストレスもあるのかもしれない。しかし今日は何となくきな臭い表情をしながらも、どこか虚ろな表情で帰ると言うのだ。
それは何も彼女だけに限った訳では無い。巫女ですら深酒などしていないというのに、やはり虚ろな表情で今日は帰ると言うと、そそくさと帰ってしまった。因みにお代は払っていない。
妙な話ではあるが、次郎は特に慌てたりなどはしない。何故ならこれは月に一度か二度ある恒例行事の様な物だからだ。
非常にややこしい客が来る前触れとでも言えばいいだろうか。簡単な話、八雲紫が来店するという合図の様な物なのである。
彼女はアヤカシ者としての能力で、境界を操るという何とも曖昧な力を持つ。
それが他に共通するもののいない存在そのものが種族であるという、強力なアヤカシ者の証でもあるのであるが。その為彼女は「隙間の妖怪」と呼ばれている。
この能力は言うなれば、使い方一つで神にも等しい馬鹿げた規模の能力だ。境界とは言うなればそこに存在していれば必ず在る物だ。
もしそれが実体を持って居なかったとしても、存在する限り境界は必ずある。つまり境界を持つ者はなんであれ、彼女の支配下に入ってしまうとも言えるのだ。
誰もが皆、虚ろな表情で帰っていったのも、八雲紫が意識の境界を操り、帰宅したくなるようにしただけの話しであった。
彼女がこの店にやってくるときは、例外なくこの方法を用いる。それは彼女と言う存在が、弱い人間と懇意にしているという姿を誰にも見られる訳に行かないという理由と、単純に肩の力を抜いて世間話に興じながら、普段の息抜きをしたいという理由がある。
そして今日も彼女は強制的なお忍びでやってきたわけだが、せっかく気分よく飲み食いしていたにもかかわらず、次郎が思い出したように話し始めた途端、急に機嫌が悪くなったのだった。
次郎としては例の八意永琳の招待に応じるべく、店を任せるために八雲藍の手を借りたいと言う話をしたのみだ。
最初は八雲紫も、なるほど自分を頼ってくれることは嬉しいと八雲藍を貸すつもりでいた。
しかし次郎の話しが半ばに差し掛かると、どんどん雲行きが怪しくなってくる。
次郎は特に意識はしていなかったが、言葉じりで八意永琳をほめたのだ。
と言っても、男女の艶やかなそれではなく、あくまでも一般論としてである。
やれ彼女は聡明である。やれ彼女は常識があり話していて面白いなどその程度の話だ。
だが八雲紫の眉はどんどん角度が変化し、次郎が我に返った時にはもう遅かった。
つーん、と子供の様にそっぽを向きながら、冒頭の様にいやよを繰り替えすのみだ。
それに対し、次郎も苦笑いをしつつ「困ったなぁ」などと返す物だから、余計に気分も悪くなっていったようだ。
「な、なあ八雲の」
とは言え、このままでは埒が明かぬと次郎は自分が折れてみる事にした。
ちらりと次郎を見る八雲紫。目を細めて疑わしそうな視線を次郎に飛ばす。
「なによ」
「お、俺が悪かったよ」
「……何が?」
「その、なんだ、藍さんの手を煩わせる事になるからな。その、お前さんの従者なのに、な?」
次郎はぽつりぽつりと彼女の表情を確認しつつそう言った。
要はなんで彼女の機嫌が悪いのかよく分かってないのだ。
そしてそれは、へそを曲げた女性に対して一番やってはいけない方法であるのだが、彼にそれは分かっていない。
「ふん。次郎なんか知らない」
「あー……これじゃないか……あ! もしかしてアレか。永遠亭で……」
案の定、彼女の機嫌はさらに悪化した。冷や汗を流す次郎。
何とか八雲藍を借りなければ永遠亭に行くという約束を反故にしてしまう。
いっそ店を休むかとも考えたが、基本的に正月以外は営業していたので、ここで休むのはなんだか嫌だと思う次郎である。
これはもう土下座をしてでも彼女の機嫌を直す必要があると気を引き締め長考に入る次郎。
そして閃いた。そしてそれを余り深く考えずに言ってしまう。
すると永遠亭というくだりで八雲紫の目が一瞬輝く。
これか! と次郎は内心で叫んだ。そして……
「新作料理を振舞おうとしてるから機嫌悪いんだろう? なら最初にお前さんに試食してもらおうじゃないか。ほら、これなら満足だろう?」
言い放ち八雲紫の目を正面から覗き込む次郎。
それはもう真剣な物だ。いやむしろ、どうだこれであってるだろう? と若干得意気な表情も混じっているやもしれない。
しかし天は彼に味方をしなかった。
「もう帰る。次郎なんか知らない」
そう言って彼女は次郎が何かを言う前に隙間を開いてどこかへ消えた。
何とも言えない静寂が辺りを包む。
「あ、あの、その、次郎さん? お店、やってますか?」
「今日はもう看板だ。帰ってくれ……」
八雲紫が結界を解いたことで、たまたま側を通った鈴仙が恐る恐るそう言った。
声が若干震えているのは次郎が何とも言えない空気を出しているからだろう。
そんな鈴仙にも気づかず、次郎ががっくりと項垂れたまま帰れと言う。
気持ちは分からないでもないが、鈴仙はいわばとばっちりを受けたのだ。
はぁと深い溜息をつき、次郎は顔を上げる。そこで漸く彼は鈴仙の存在に気が付いた。
「なあ、鈴仙よ」
「は、はい……?」
まるで墓の下から聞こえた様な次郎の声に怖々とする鈴仙。
うつろな次郎の表情に、彼女は思わずごくりと唾を飲んだ。
「女心ってなんだろうな。良かった俺に教えてくれないか?」
「へっ? 女心ですかぁ?!」
「ま、いいや。へへっ、悪いな。今日は帰ってくれや」
「え? いやあの、次郎さん?」
頭の上に盛大に疑問符を並べた鈴仙であるが、次郎は何とも言えない乾いた笑みを浮かべると、数秒おきにそれはそれは深い溜息を繰り返し、目を白黒させる鈴仙を他所にさっさと帰り支度をすると、そのまま無言で帰っていった。
「え? ええええええ?!」
そして事情を知らない鈴仙は、取り残されて誰も居なくなった屋台の前で盛大に叫ぶのだった。
いたたまれない様な理不尽さに涙しつつ。
因みに後日、屋台の準備をしていた次郎を八雲藍が訪ねてきた。
久しぶりだなとにこやかに声を掛けた次郎であったが、八雲藍に首根っこを掴まれると、ぽかんとするチルノを余所に隙間に押し込まれた。
そしてどこにあるかも分からぬ八雲家に連れてこられ、いまだに不貞腐れている八雲紫を前に、女の前で別の女の事を褒める馬鹿が何処にいるかと散々に説教を貰った。
そこでようやく「ああ! そう言うことだったのか!」と、難解ななぞかけを解いた時の様に盛大に拳を打つと、余計に八雲藍を怒らせた。どこまで行っても次郎は次郎でしかなった。
その後四半刻にも渡る説教の後、どうにか二人は和解をしたようだ。
そして次郎の当初のお願いである、八雲藍が店番をする事の了解を何とか貰ったのであった。
登場人物
病的に朴念仁 次郎
胡散臭い乙女 八雲紫
苦労人の式 八雲藍
姫の従者 或いは苦労人 八意永琳
長らく放置して申し訳ありません。
書いていない訳では無かったのですが、仕事の忙しさで全く進んでいませんでした。
前回の話の最後の引きで、本エピソードである永夜組との話しになっていくわけですが、今回が導入であり、本編は3話ほど使って続きます。
なのですぐに更新とはなりませんが、気長にお待ちいただけたなら幸いです。