宵の口、人里の東門を出た先ある屋台では、無愛想な店主が黙々と仕込みをしていた。この屋台の名は「喰いもの屋」と言う。人里の人間には忌み嫌われる風変わりな店である。ここには様々なアヤカシ者と普通ではない人間が夜毎集うという不思議な場所であった。
この屋台を営む店主である次郎という男は、屋台で扱う食材は基本、自給自足で賄っている。彼は人里の外れにある庭の広い家を、顔の利く稗田家から借りている。そこを自宅としつつ、庭に当たる部分を全て畑にし、季節の野菜を育てている。そのほかには各種ハーブや鳥を飼うなどと、その範囲は多岐に渡っている。
けれども調味料や乾物などは自作することは難しい。その為、彼はその不足部分を人里にて飼っている。アヤカシ者を相手にした商売を営んでいる彼の評判はすこぶる悪い。それはこの幻想郷の人間側の常識である”アヤカシは恐怖し排斥すべき存在である”という理念に反しているからだ。
いくら結界に覆われた人里であっても、年に何度かはアヤカシに喰われ亡くなる。それは化石燃料に頼れない幻想郷であるから、どうしても木を切りに結界の外へ出なければならないからだ。それ故アヤカシへの恐怖感と言うものは常に彼らの身近にある問題であるのだ。
しかし人を襲うアヤカシの多くは知性も理性もない低級のアヤカシである。そもそも力のあるアヤカシは、滅多に人里の人間を襲わない。それは襲えば少ない人間などあっという間に滅んでしまう事を知っているからだ。人の恐怖が存在理由であるのに、その人を駆逐するなんて本末転倒という所であろう。
そんなアヤカシたちの思惑など人は知らないし、知るべきではない。だからこそ人から外れた存在は、すべてひっくるめて忌み嫌うという訳だ。
次郎は次郎の意思のもとに商売をしている。それは他人にどういわれようと関係の無いことだと彼は思っている。その飄々としたところがまた、人里の人間を刺激するのだろう。
かつて彼が商売を始めた頃の事だ。人里の顔役でもあり、守護者でもある寺子屋の主人――上白沢慧音は次郎を何度も説得を試みた。やれ人々を刺激するなだの、危険なのを分かっているのに止めないのは愚者のすることだだのと捲くし立てたものだ。
けれども次郎はそれを煩そうに聞き流すと、慧音を睨んでキッパリとこういった。
「ならアンタは人を襲うのかね。半分だけとは言え、アンタもアヤカシだろうが。それでも話が通じるんだからこうして分かり合えるんだろうさ。俺の客に道理の通じないやつぁいねえよ」
そして彼は今日も淡々と店を開く。少ないながらも自分のつくる料理を楽しみにしてくれている客のために。
◇◆東方御伽草子◆◇
次郎は自宅からその日に使う食材を手に、夕方になる前には店へとやってくる。「喰いもの屋」には従業員などいないため、下拵えなどもすべて次郎がやらねばならない。この店が開店するのは、夕暮れから夜に切り替わる頃である。そのため、この時間にやってくれば、のんびりと準備することができた。
厨房に入った次郎は野菜や肉を切り分けると、作り置きが可能な煮物などを鍋に仕込んでいく。そして鳥をぶつ切りにしては串へと差した。ちなみに串焼きはこの屋台一番の人気の献立である。
こうして次郎は黙々と下拵えを続けていく。相変わらず人通りの無いこの場所は、せいぜいひぐらしの鳴く声ぐらしか音は無かった。そんな静けさも次郎は気に入っているのだった。
やがてすっかり日も落ち、人里の人々が家路につく頃には、次郎の仕込みも佳境に辿り着いていた。その日使う肉の下拵え、作りおきの煮込み等はある程度終えられ、あとはお通しの小鉢に入れる枝豆を茹でているところだ。この枝豆も次郎の畑で取れたものである。この幻想郷にビールは無いが、それでも酒の肴としては人気なのである。
「……ふう。こんなものかな」
そして全ての仕込みが終わったのか、次郎は満足気な溜息をつくと、カウンターの席に座り煙管に葉を詰める。あたりはもう既に暗くなっており、次郎は火を灯した行燈の向こうの暗闇をじっと眺める。そこには何も無いが、彼には何かを感じたようだった。
「ああ、今日の客は一人だけかよ。ったく難儀な客だぜまったく……」
そして一人ごちた。
「いるんだろう? 八雲の」
次郎の呼びかけに答えるかのように、目の前の暗闇に次々とぎょろりとした目が浮かんでいく。その血走った目はそれぞれ明後日のほうを睨んでおり、見ていて決して気味のいいものではなかった。けれども次郎は慣れたもので、先ほどとは違う面倒臭さをいっぱいに込めたため息をつくのだった。
「次郎様、もう開店してるのかしら?」
「ま、一応ね。ただ最上の客と最悪の客が同時に来たからどうしたものかと考えていたところさ」
すると無数の目のその真ん中から、一人の少女が現れた。闇の中でも艶を感じられる絹のような金色の長い髪。紫色のドレスに白いくしゅりとした帽子を被った少女が、口元を扇子で隠したままくすくすと笑っている。
「今日最初のお客に対して失礼ね?」
「……阿呆が。最初じゃなく唯一だろうさ。お前さんが来ると他に誰も来ないんだよ。そもそもお前さんが人払いしてるんだろうが。だがまともに金を置いていく客はお前さんくらいなもんだ。まったく忌々しい事だが最上の客であることは確かだな」
次郎の悪態をするりと受け流すかのように少女は笑う。それを不機嫌そうに見ている次郎であるが、それでも自分の横の椅子を引いていやリ、自分はといえばそそくさと厨房に立った。
彼女の名前は八雲紫。妖怪の賢者とも呼ばれる実力者である。実際にこの幻想郷を被う結界のひとつを維持している。けれども彼女は人前に姿を現す事を極力避けており、こうして次郎の店の常連ではあるが、彼女が来店するときは必ず一人きりである。
それは彼女の能力である「境界を操る程度の能力」を用いて、次郎の店を周りの空間から切り離してしまうのである。それでも彼女は自分が飲み食いした以上の過分な代金を置いていく。それ故に次郎は悪態を付きながらも受け入れているのだ。もっとも、それ以外の理由もあるのであるが。
「ま、今日はいい素材が入っている。運が良かったな、八雲の」
キセルをかんと叩きつけ、ぷっと火種を飛ばすと、次郎は料理へと取り掛かった。
「ふふっ、それは楽しみね、次郎様。ではいつも通りお任せでお願いするわ」
「ああ」
八雲紫の言葉に次郎は頷くと、茹でた枝豆の小鉢ともう一つ小皿を置く。そしてガラスの徳利に白く濁った酒を注ぎ、彼女の前に並べた。次郎は一杯目を彼女の猪口に注いでやると、また調理へと戻った。
八雲紫は嬉しそうに微笑むと、シルクの手袋をしたたま猪口を口に運び、白く細い喉をこく、こく、と鳴らして冷えた濁り酒を一気に飲み干した。
「はぁ……おいし。ねぇ、枝豆は分かるけれど、こっちの皿は肴はなあに?」
「ああ、それはもやしを炒めて卵を絡めただけだ。お前さん、いつも疲れた顔をしてるからな。女が必要な栄養はもやしに沢山入ってるんだとよ。黙って食え」
目だけで微かに笑いながら、次郎は八雲に講釈を垂れた。
「あは、この幻想郷で私を女扱いするのは次郎様だけよ? だって、歳だけは誰より上だもの。口の悪い吸血鬼に言わせるとばばあですってよ?」
芝居掛かった口調で八雲はおどけると、少し"しな"を作って次郎を見た。
「女に年の話は昔から御法度って相場の決まった話さ。それにあんたは充分に女だよ。下らねぇこと言ってないで呑みな」
次郎はぶっきらぼうにそう言うと、ことことと湯気を上げる鍋をじっとみた。その表情は自分は何を言ってるんだと少し照れたものであった。
「あら、うれし。口説いてくださるのかしら?」
「……阿呆が」
鼻で笑った次郎が八雲の前に料理を置く。今度は大葉をからりと天麩羅にしたもの、それとセロリと胡瓜をピクルスにしたものだ。
ぱあっと表情を明るくした八雲紫は、それぞれを美味そうに箸をつけた。大葉を噛めばさくりとした歯ごたえと共にふわりと爽やかな香りが口いっぱいに充満し、それが鼻に抜けていくのが酷く心地のいいものだ。そしてその油っぽさをかき消す様にピクルスが口の中を洗ってくれる。
酒を呑み、無心で料理を食す八雲紫を満足気に眺めながら、次郎も手酌で酒を呑む。そしてぷっとキセルを吹き、新しく葉を詰める次郎だったが、僅かに笑っている。彼もこのやり取りが万更でも無いようだ。
ふと見れば、夜露が暖簾を濡らしている。時刻はすっかり深夜となり、やはり「喰いもの屋」には客が一人しか来なかった。次郎は一人、酒を呑みながら空を見上げた。そこには雲間から顔を出した十六夜の月が浮いている。
「……って結局寝るのかお前さんも。ここは寝床じゃあないんだぜ、八雲の」
ふと見れば、カウンターに突っ伏して八雲紫が眠っていた。なんだかこの前も似たような事があったなと頭を掻きながら、次郎は薄手のドレス一枚で眠りこける彼女に自分の着物をかけてやった。
(こうして眠っている顔を見る限り、こいつが恐ろしいアヤカシだなんて誰も思わないだろうな)
眠ることで無防備になり、見た目相応のあどけない表情の八雲紫を眺め、次郎はそう思った。
「……次郎、…………次郎」
「ん? なんだい八雲の」
「……次郎、むにゃ……」
「寝言かよ……」
どうせ今夜はもう客など来ないと半ば開き直っている次郎は、八雲紫の寝顔を肴に飲むことを決め込んだ。
◇◆◆◇
しっとりとした深夜となり、次郎の屋台だけがその中にぼんやりと浮かんでいる。次郎は眠りこける八雲紫を眺めながら、一体どんな夢を見ているのだろうか? と思案する。
(そもそもアヤカシは夢を見るのだろうか?)
彼女は自分の腕を枕にすやすやと眠っており、半開きになった唇が時折何かを咀嚼するように蠢いていた。普通に見れば十代は半ばの外国人の少女にしか見えない。それでも彼女は人が恐れるべきアヤカシ者なのだ。
それでもそんなアヤカシ相手に商売を続ける次郎という男は異質であった。その立ち位置は人のそれとはずれている。しかし彼の価値観はある意味で平等なのだ。人だろうがアヤカシだろうが、そこに何一つ拘りは無い。人間いつか死ぬときは死ぬ。だからこそ交通事故だろうがアヤカシに喰われようが死ぬことには変わりは無い。次郎はそう断じている。
彼のどこか破滅的とも言える価値観は、彼が生まれ付いての素養もあるだろうが、ここまで確りとした思想にまで発展したのは幻想郷に来てからだ。そう、彼は外の人間である。ここらで言うところの外来人と呼ばれる人間だ。
次郎は何を思うかぼんやりと虚空を見上げている。八雲紫が店に来るのは月に一度か二度だ。その度に彼女はこうして酔いつぶれて眠る。随分と疲れた様子すら見て取れる。その理由について彼女は黙して語らないが、薄々その理由に気が付いている次郎は、こうして気が済むまで放っておくことにしていた。起きるまでの数刻、次郎は黙って呑んでいる。そんな時間もまた、乙かもな等と考えながら。
「……んっ、…………あら、眠ってしまったようね」
「そうだな」
むくりと目を覚ました八雲紫がおしぼりで口元を拭う。どうやら涎を気にしたようだ。そんな彼女に次郎は黙って水を差し出すと、彼女はそれを美味そうに飲み干した。
「これは次郎様の着流しかしら? ふふっ、いい匂い」
そしてそれを誤魔化すかのように彼女は次郎の着物を抱きしめると匂いをかいでおどけた。そんな彼女を次郎はじっと見詰める。その瞳は酷く真剣なもので、彼女は思わずいつも無意識に作っている表情を被ることを忘れた。
「なあ八雲の。お前さん、いつも何かを言おうとして引っ込めてないか? まあ薄々気が付いちゃあいるが、やはりお前さんの口で言ってもらわねえとどうにも具合が悪い。どうせ誰も来やしないんだ。ここは思い切って洗い浚い喋ってみてはどうか?」
「次郎様……」
真っ直ぐに、睨むように彼女を視線で射抜く次郎に、彼女は思わずたじろぐ。目が泳ぐ。それは妖怪の賢者と名高い彼女にしては随分と無防備なものである。
「そういうのもいらないさ。普段通りのお前さんでいいんだよ。こっちはしがない屋台のオヤジ。客の愚痴ひとつでも聞いて気持ちよく帰ってもらうのも仕事なのさ」
「……そうね。確かに私は貴方に言いたいことがある」
八雲紫の口調が変わる。次郎は黙って彼女を見つめるのみだ。
「けれどもそれを口にすることを私はどこかで拒んでいる。なぜならそれは、私という唯一無二の悪党を自認する自分を否定する事にもなるだろうから。私は人ではない。けれども感情もあるのよ。私という個人はそれを吐き出したい。けれど……悪党である……悪党でいなければならない私が……くっ……言うなと言ってるのよ……」
そして彼女はあろうことか泣き崩れた。終始人を喰ったような態度でいることが多い彼女が、相手が一人しかいないとは言え、外聞も無く泣いた。次郎はそんな彼女の言葉に何も答えず、黙って後ろを向いた。そして静かに片づけを始めるのだった。
かなかなとひぐらしの鳴き声があたりに響く。夕刻に鳴く事が多いひぐらしが、この重苦しい空気を嫌うかのように鳴いたのだ。
「俺はもう片づけをはじめる。少し五月蝿くなるし、仕事は手を抜くのも嫌いだ。だから誰かが独り言を喋ったところで俺には聞こえない。聞こえないんだ」
その言葉通り、次郎はせせこましく洗い物を始めた。八雲紫はひとしきり泣くと顔をあげ、そんな彼の背中をじっと見詰めた。
「……どうして次郎は何も言わないの?」
「………………」
「恨み言ひとつ言わない貴方はおかしいわ」
「………………」
「人攫いって罵ればいいじゃない!」
「………………」
「この人でなしって、このバケモノって言えばいいじゃない」
「………………」
黙して語らぬ次郎の背中に呟く八雲紫。いつしかそれは罵倒のようになり、その激情に堪えきれず両の目から涙が零れる。それでも次郎は振り向かない。それは彼女の泣き顔を見るべきではない、そう考えているからだ。八雲紫は誇り高い。それを知っている彼だからこその事である。
「……俺が」
「え……?」
「俺がお前さんを責めたところで何か変わるのか?」
そこで初めて次郎は振り返る。自分で涙を流している事さえ気が付いていない彼女の顔に、まっさらな手ぬぐいを押し付けながら彼は囁くように言った。そこには何の感情も篭ってもいないような静けさがある。
「どうして? どうして貴方はそんなに優しいの? 馬鹿よ。次郎の馬鹿!」
ぐしぐしと乱暴に自分の顔を撫で付けると、手ぬぐいを次郎に投げつける。
「気持ちよく寝たと思えば、今度は泣き上戸。そして仕舞いは絡み酒と来たもんだ。なるほどお前さんは多彩だねえ」
おどけたように言う次郎に彼女の顔が真っ赤に染まる。
「ふざけないでっ! 私は真面目な話をしているのよ。誰にも弱みを見せない悪党であるこの私がっ!」
「責めてほしくて言ってるのも分かる。それでお前さんが救われるならいくらでも責めてやるさ。けどな、だからと言って現状は何も変わらない。あの日、あの時に起った事は確かに俺にとっちゃ不幸な事なのかもしれない」
そう言い掛けた次郎だったが、荒げた声を落ち着けるかのように銚子の酒をぐびりと呑んだ。
「だからな、八雲の。ありゃあ事故だよ。事故は不幸だけど、誰が悪い訳でもないんだ」
「で、でもっ!」
次郎の言葉を遮ろうとする八雲紫。次郎はそんな彼女の唇を指で押さえて黙らせる。
「それに、だ。俺はお前さんを何も恨んじゃいないよ。だいたい俺はここに来るまでの人生は投げやりだった。中身のつまってないすかすかの張りぼてだったんだよ。いつ死んでも構わない、そう思っていたんだ。だがどうだ。この幻想郷は退屈する暇はねえ。気を抜きゃいつパックリいかれるか分からねえ場所さ。だからさ、俺はお前さんに感謝してるんだぜ?」
「……次郎」
いつになく饒舌な次郎の言葉をじっと聞いていた八雲紫。その瞳は次郎の言葉の裏を探そうとしている。しかし彼の目はいつもと変わらずに真っ直ぐで、彼女には何も見つけることは出来なかった。
この幻想郷という土地は閉じられた箱庭のようなものだ。それは元々外の世界とは地続きであったのだが、妖怪の賢者たる八雲紫は、このままではアヤカシ者は消えていくのみだと危惧した。その為に彼女は外界から隔絶するための境界を引き、博麗神社の巫女の力を加えて結界を強いものとした。
長い時を生き抜いてきた力あるアヤカシである彼女は、人から比べれば悠久とも言えるその生涯で、様々な人間を見てきた。彼女は思う、昔は良かったと。人々は土地に心から根付き、未知なる物を畏怖し崇めた。それは信仰であったり、恐怖であったり。
それはある種の健全なサイクルを形作る。神は人々に光を与え、アヤアシは恐怖で闇をもたらし、その光をより明るく輝かせた。これは陰陽の思想と同様に、森羅万象の中でごく健全な流れとも言えた。けれども人間は欲深い。幸福はさらなる幸福を。不幸はその原因が根絶やしになるまで殲滅を。何事も極限まで己の欲望を突き詰めるのが人間なのだ。
それは翼の無い人間が空を制し、果ては宇宙へと手を伸ばすことを可能にした。闇は電気という擬似的な光で夜をまるで昼間のように照らした。転んで出来た怪我は致命傷となることもなく癒され、老いは可能な限り先へと延ばされた。
そこに神も仏もアヤカシも、一部の隙間もなく入り込む余地を消してしまった。それにいち早く気が付いた八雲紫は、決して混ざりあう事を良しとしないアヤカシ達をまとめ、幾許かの人間もろとも囲いの中に閉じ込めたのだ。
そこに生まれたのは小さな世界と同様だった。人里の人間はアヤカシを恐怖し、神に縋った。本来は自然であるこのサイクルをいつまでもいつまでも回す事ができるのだ。
けれども人を喰らうことが存在意義のアヤカシだっている。しかし人里の人間を不必要に喰らえばやがて歯止めが利かなくなるだろう。それは幻想郷の崩壊を意味する。だからこそ八雲紫は暗黙の了解を作った。それは何よりも幻想郷の存続を優先させるという事柄だ。それを乱すものがいれば、彼女は容赦なくそれを断罪する。
だが不満はしこりとなって残るだろう。喰いたいものを喰えないというストレスは、なぜこの中に居なければいけないのかという疑念へと繋がるのだから。だからこそ八雲紫は人を攫う。彼女にとって大事なのは幻想郷であり、外の世界などどうでもいいのだから。
それでも不自然な神隠しはもしかするとこの世界の存在を露見することにもなりかねない。そこで彼女は餌として攫う対象を、忘れ去られたか存在価値を見出せない者に限定した。そしてまだ外に残されたアヤカシの同胞もまた、こちらに引き入れるために攫う。
それが彼女の主な仕事であり、幻想郷を作り出した責任のようなものだろう。
そんな彼女はある日、外の世界にいた。そして定期的に攫っている人間の選別をしていた。彼女の能力で作り出される隙間と呼ばれる異空間に身を潜め、居なくなっても困らない人間を探しているのだ。そして漸くそれらしい人間を見つけた。
その人間は何人もの女を襲い、欲望のままに乱暴を繰り返す外道であった。そして彼はいつしか自暴自棄となり、捕まるくらいなら死んでしまおうと山へと入った所だった。
八雲紫にとって攫う人間の人間性などどうでもいい。なぜならその人間は間もなく餌となって消えるのだから。どこか作業的になっていた彼女の人攫いは、もはや無意識のルーティンワークのような手軽さで、彼の足元に隙間を開いた。
男の悲鳴が響き渡る。あとは落ちて行くのみだ。その後のことは知らない。幻想郷の空中から急に落とされた男はきっとひどい怪我を負うだろう。その血の匂いに誘われて、幸運なアヤカシがそれを喰らう。ただそれだけだ。だから彼女は隙間を開いたとき、すでに次はどこから攫おうかなどと別な事を考えていたのだ。
そして八雲紫は見た。その取るに足らない男が落ちたとき、何故かもう一人、別な男が驚愕の表情で落ちていく姿を。
しまったと呟いた彼女は、慌ててその男を追いかけた。何故ならその男は何やら山菜でも採りにきたのか大きな篭を背負っていたからだ。そして身なりもきちんとしていた。ならば彼には家族がいる可能性もある。そしてその家族にどこどこへ行くと言伝てここへ来ているかもしれない。
普通であればただ行方不明になっただけと処理されるだろう。彼女の隙間に痕跡は残らないのだから。けれど彼女は慎重であった。どんな染み一つでも懸念が残ることを嫌う。そんな小さなほころびで、幻想郷が壊れるのはたまったものじゃないからだ。
そんな想いはあくまで八雲紫の独りよがりの想いでしか無いだろう。それに共感するアヤカシ者は多くはないし、彼女もまたそれを望んでる訳でもない。ただ彼女は幻想郷を愛しているだけだ。まるで自分が腹を痛めて産んだ子供のように。
だからこそ彼女はその男を追いかけた。いくつもの隙間をつなぎ、その男の先回りをしようと急ぐ。しかしその先で見たものは、常に冷静である彼女を酷く狼狽させるものであった。
(……う、浮いてる)
八雲紫はその様を馬鹿みたいに口にした。それほどに呆気にとられていたのだ。なるほど見れば彼は浮いていた。空から落下すれば命はあったにしても五体満足ではいられないだろう。しかしかれは地上一メートル程の空中に浮いていたのだ。気絶したままで。
それが次郎である。もし彼がただの人間であったならば、気絶している彼をそのまま外へと送り返せば済む話である。しかし彼は”浮いている”のだ。それは普通の人間であるならば、絶対にありえないことなのだ。
そしてこの状況が意味することはただ一つであった。それは彼はもう外へは返せないという事実である。彼が元々そうだったのか。或いはこの事がきっかけでそうなったのか。それは長い間生きている役も紫にだって分からない。ただ現実的にそうであるというだけでしかない。
彼を外に帰せば、やはりここの存在が露見する可能性がある。それが帰す事が出来ない理由であった。いっそ殺してしまおうか。彼女は一寸だけそう考えた。それは純粋な悪意だった。独りよがりな自分だけの正義。相手にとっては悪でしかない。
躊躇をしたが、彼女は結局殺す事に決めた。考えるのがひどく面倒だったからだ。いっそ喰ってやろうか。気絶する男に彼女はそっと近づいた。まるで白魚のような細く美しい彼女の指。けれども恐ろしい力を内包するアヤカシの指。それを男の首に伸ばそうとした。掴めば一瞬でへし折れるだろう光景を思い浮かべながら。
だが折れなかった。あまつさえ触れることすら叶わなかった。これはおかしいと彼女は首を傾げる。その見た目そうおうのあどけない少女のしぐさが、彼女の残虐性を余計にむき出しにしている。そして元々紫色である彼女の瞳が赤味がさしている。彼女はそう、混乱していた。
彼女はアヤカシ者としての優位性を、単純な力量ではなく、その知性であると自負している。理性を保ち続ける事が出来るからこその冷徹さ。それがいくつかある彼女の弱点を見えなくしている。そんな自分が取り乱している。その事実に気づき、彼女はさらに混乱した。或いは恐慌とも言えるだろう。
彼女の能力はある意味神のような奇跡を体現する。なぜなら境界の無い生物などいないのだから。そこに存在している事実があるならば、必ず境界はある。それを操れば壊すことなど容易い。なのに彼にはそれが通じないのだ。そこに居るのに近寄れない。境界を操れるはずなのに、境界の向こうに行けない。彼女にとっては初めての経験であった。
それで彼女は諦めた。そして彼を殺すことが叶わないのなら、自分側へと引き込むしかない。制御の利かないものならば、目の届くところに置く方が安全だ。高い知性を誇る彼女ならではの考えだ。それを瞬時に判断をすると、彼女は目の前の男を起こした。
不思議なのは、殺すつもりであった先ほどは近寄れもしなかったのに、いまは普通に触れることが出来た。そんな気持ち悪さを押し込めて、彼女は彼を揺するのだった。
起きた男に彼女は全てを包み隠さずに話した。幻想郷のこと。自分の立場のこと。それ故、元の場所へは戻せないこと。
淡々と話す彼女の言葉にとくに相槌を打つことも無くひとしきり聞いたあと、彼はひとことこういったのだ。
「よろしく頼む」と。
アヤカシ、幻想、彼女が話す、外では非常識な事柄に何一つ動じずに、彼はきっぱりとそう言ったのだ。それから幾年か過ぎ、いくつかの事柄を経て、次郎はこうして屋台を営む事となった。そんな彼は今まで唯一つの不満すら言わない。それが八雲紫には解せなかったのだ。
つかず離れず、不平不満もなく。ただ彼は毎日ここにいて酒を振舞う。大きく声を荒げるでもなく、人里の誰かと軋轢を起こすわけでもなく。まるで同じ事を繰り返すロボットのように彼は生きる。その姿はまるで無言での責苦のように彼女は感じていた。いっそ罵られたほうが清々する。そんな心持だった。
彼の姿はまるで、真綿で首を絞められているような気がするのだ。自分の行いをひどく卑下してしまう、そんな気持ちにさせられるのだ。自分に負い目は無かったはずなのに、だ。
「ま、あれだ」
「へっ?」
次郎の手がくしゃりと彼女の頭を撫でた。まるで幼子にするように、優しく、穏やかに。
「あー……、うん。じゃこうしよう。俺は八雲を許すよ。怖い怖いアヤカシである、八雲紫を俺は許す。ろくでもない人攫いだけれど、俺はそんなお前を許すと言ってるんだ」
「あ、はぁ……、そう。……ありがとう?」
ぽかんとする八雲紫。
「はい、おしまい。これであれだ、遺恨は消えたってことさ。だいたい俺は何も思っちゃいねえんだ。何言ってんだお前。阿呆だろ阿呆」
そして自分の行動の間抜けさに気が付いたのか、次郎は慌てて手を離し、彼女に背を向けると煙管を咥えた。どうやら急に照れくさくなったらしい。
「とにかく、もう終わりだ。それに今日はもう看板だ。帰れ帰れ」
そして次郎は鬱陶しそうに手を振った。八雲紫はくすりと笑うと口元を扇子で隠す。
(ありがとう、次郎……)
それは言葉にできない本当の気持ち。けれど八雲紫は弱みを見せない。
ややもして、静かになった「喰いもの屋」。厨房の中はすっかりと綺麗になった。まるで物音がしない。さて八雲はやっと帰ったかと、次郎は彼女のいたカウンターに目を向ける。
(いた。いやがった)
そこにはにんまりと胡散臭い笑みを浮かべた八雲紫が次郎を見ていた。
「帰ったんじゃないのか? 驚かすなよ」
「せっかく次郎様が働いている背中を見れるのですもの、帰ったら勿体無いわ?」
「ああ、もう、五月蝿い。とっとと帰れよ阿呆」
彼女は喚く次郎を楽しそうに眺め、そして三日月のように笑みを浮かべた口元を静かに隠す。けれど次郎は思う。思いっきり目が笑っているじゃないかと。そしてこの笑みの正体を次郎は知っていた。この胡散臭い笑みを。
「次郎様、片付けはもう、終わりまして?」
「あ、ああ……。まあ終わった、かな……?」
「そう、なら安心ね」
「な、なにがだ」
冷や汗を垂らして後ずさる次郎。とは言え囲まれた厨房の中だ。すぐに背中が当たってそれ以上は下がれなかった。
「ふふ、ふふふ……」
「な、なんだよ。とっとと帰れよ。あ、そうだ、今夜は俺の奢りだ! ははは……」
さらに笑みを深める八雲紫。そして次郎は気が付く。ああこいつ、口調が戻ってやがる、と。何を企んでやがると彼が叫ぼうとした瞬間、それは起った。
「う、うわあああああああ……ちっくしょおおぉぉ…………」
そう、開いたのだ。彼の足元にぽっかりと。八雲紫の隙間が。
「ふふっ、まだ呑み足りなくてよ? 次郎」
静寂
登場人物
次郎と言う名の店主
八雲紫と言う名のアヤカシ、或いは悪党
つづく
色々捏造設定ですが、こんな感じで。
八雲紫、好きなんです。