幻想郷は秋も深まり、山々は鮮やかな紅葉に包まれていた。秋といえば行楽や食欲、読書などの季節などと世間では言われている。穀物が実り、果物も熟する。紅葉は見るものの気持ちを豊かにし、長くなった静かな夜は物思いや本を読みふけるのに丁度いい。それらの事から人々は秋を穏やかに愛する。
そんな秋の夜長、今日もまた喰いもの屋は営業していた。闇夜に浮かび上がる行灯。どうやら本日はまだ、客もまばらのようだ。いつものように開店から押しかける寺子屋を営む女性とその友人が、一番奥の席に陣取りひそひそと何やら話しこんでいるが、それ以外に客はいなかった。そんな時、暖簾をくぐってきた女性がいる。
「……いらっしゃい。今日はなんにする?」
「そうね、今日は気分がいいから貴方におまかせするわ?」
艶のある翡翠色の短めの髪に大きく目立つ赤い目、そして赤地に格子模様の特徴的な服に身を包んだ女性が次郎に笑いかけた。彼女の名前は風見幽香という。幻想郷の南に位置する太陽の畑と呼ばれる土地の主だ。
その見目麗しい容姿とは裏腹に、彼女もまたアヤカシ者の一人である。しかし彼女は幻想郷の新参者として生活を模索していた次郎に、園芸や畑作の基礎を教えてくれた先生のような立場だ。と言うのも彼女はフラワーマスターの別名で呼ばれる花を愛するアヤカシ者である。
彼女は花を操ることができる能力を持ち、様々な花を求めては日々彷徨っているのだが、その最中に次郎はひょんなことから彼女に出会い、教えを請う幸運に恵まれたのだ。稗田家の当主が代々編纂している書物である『幻想郷縁起』には、風見幽香は人間にとって危険なアヤカシであると記されているのだが、実際は花を害したりしなければ特に人間に興味をしめさない。
そもそも『幻想郷縁起』自体、それほど正確な情報であるとはいい難い。というのもそれを書いている稗田家の当主が憶測で書いている部分があるからだ。天狗の新聞よりは正確であるという程度で考えたほうが良いのかもしれない。しかし人間側にとってアヤカシへの警告や対策として書かれているから、別に実際の情報と差異があったところで人間は困らないだろうが。
そんな訳で屋台での食材のために本来幻想郷では手に入らなかった植物を畑作したかった次郎と、幻想郷の外の植物に興味を持っていた風見幽香の利害は一致し、二人は協力関係に発展したのだ。ちなみに次郎が育てようとしていた植物の苗は、彼のある意味後ろ盾となっている八雲紫によって入手されたもである。
「――チルノ、純米酒の冷を頼む」
「ジロウ、わかった!」
次郎が手を動かしながらそう言うと、カウンターの下からひょっこりと青い髪の少女が顔を出した。先日からこの喰いもの屋の従業員として次郎を手伝っている氷精のチルノだった。彼女は次郎の呼びかけに元気よく頷くと、器用に酒瓶から銚子に酒を注ぐと、その小さな手でそれを包み込み、ひんやりと酒を冷やした。
「はい、幽香。おまたせ!」
「え、ええ……ありがとう」
チルノはふわふわと浮かぶと、風見幽香の前にことりと銚子を置いた。怪訝そうな表情の彼女は視線をチルノと銚子の間でうろうろさせている。そして小刻みに顔を振ると、手酌で酒を飲んだ。
こくりと細い彼女の喉が鳴る。そして彼女は何やら驚いたように目を見開いた。日本酒の冷とは、本来は常温の酒のことを指す。しかしこの酒は喉かきゅんとなるほどに冷たい。それは冷気を操ることができるチルノが、一瞬で銚子の中を冷やしたからだ。
これからいくつかの肴を食す客のために次郎が考えたのだ。常温よりもわずかに冷やすことで、食欲をそそるように。そして一日動いてやってくる疲れた客の胃を活性化させるために。
「……あら、おいしいわ」
「だろう! あたいがひと手間かけてるからね! じゃ幽香、ごゆっくり!」
「ふふっ、ありがとう?」
幽香の反応を見てにっこりとしたチルノは、またカウンターの下へと消えた。もっともそれは小さな彼女が下にある椅子に腰掛けたために、客からは見えなくなっただけであるが。
「どうだ、驚いただろう? 妖精がこんなに働き者だなんて」
企みが成功したかのように得意げな表情の次郎が幽香ににやりと笑って見せる。
「正直驚いたわ。貴方、どうやって妖精を手なづけたの?」
「いやな、とあることからチルノに懐かれたんだが、戯れに包丁を握らせてみたら驚いた。たしかに妖精は注意散漫なところがあるが、チルノは好奇心が旺盛でな。興味をもちさえすれば、単純作業からならしっかりと覚えてくれたんだ。そのうち俺のかわりにここへ立つ日も来るかもしれんぞ?」
「そんなわけ……あるのかしら。しかし驚いたわ」
「お前さんがそんな反応を見せてくれるのだからこの企みは成功だな。じゃ料理を始めよう。まずはこれからだ」
そんなやり取りを経て料理に移った次郎は、彼女の前に皿を置いた。赤黒い何ともいえない色合いの備前焼きの平皿だ。その上には次郎が山でとってきた自生の舞茸を網で焼いたものに、わさび醤油をかけ回したものが載っていた。
「あら、おいしそうね。今日も楽しみだわ」
そんな幽香の言葉に満足そうに頷いた次郎は、次の料理へと取り掛かった。
「もうすぐ冬が来るわ。この時期はどうにも憂鬱になってだめね……」
星空を仰ぎ、幽香はぽつりと呟いた。そんな彼女の言葉に次郎は思わず動きを止める。彼は何を思うか虚空を見つめ、そして一つため息をついた。
次郎は秋が嫌いだ。それはかつてこの季節に味わったとある別れの傷跡に因るものだった。それからはどうにも秋が苦手になってしまったのだ。人肌恋しくなってしまうこの季節が――――
◆◇東方御伽草子◇◆
時は次郎がこの幻想郷にやってくる前までさかのぼる。料理学校を出た次郎は、とあるレストランの下働きとして調理師としての修行を始めた。その店は老舗の洋食店であり、地に根付く地元の人間に愛された店であった。そこは決して煌びやかな場所では無かったが、毎日休まず、昔から今に至るまで変わらない味を提供している暖かな場所だ。
美味いものは高い金を出せばいくらでも食べられる。高級食材をふんだんに使い、贅の限りを尽くせば、よほど料理人の腕が悪くなければ美味いに決まっているのだ。
けれどもそういった食事は、言わば余所行きの料理である。ではそれらを毎日食べられるかと言えばそうではない。舌も胃も疲れてしまうのだ。
しかしその洋食屋が出す料理は、オムライスやスパゲティ、熱々のグラタンやハンバーグ。子供も大人もちょっとだけ美味しいものを食べたいと思ったときに欲しくなる、そんなものばかりだ。週に一度だけでも食べたくなる。またはお母さんを今日は休ませてあげたい、そんなときに気軽に行ける――そんな場所だった。
次郎は高校生の時にこの店に来たことがある。仕事が忙しく疎遠だった父親が、思いついたかのように連れてきてくれたのだ。父親は次郎に言った。
「ここは俺が昔から通っている店なんだ。ほらあそこの太っちょのオヤジさんがいるだろう? 彼の料理は絶品なんだ。どれを喰ってもはずれがない。ここにお前も連れてきたかったのさ」
次郎の父親は少し照れたようにそう言った。なるほど、オープンキッチンになっている厨房を見れば、立派なコック帽をかぶった小太りの男が汗だくでフライパンを振っていた。
滅多にかまえない息子への罪滅ぼしのつもりで連れてきたのだろう。自分のなじみの店に誰かを連れてくることは誰だって嬉しいし、誇らしい気持ちにもなる。食事とはただの栄養摂取ではない。ある種、自分の人生の一部のようなものだ。
おい息子よ、俺の一部を見せてやる――きっと彼はそんな心持ちだったのだろう。次郎は無骨なメニューを眺め、ポークチャップの定食を頼んだ。父親が「ほう、それを頼むなんてなかなかお前も通だな」という言葉がひどく嬉しく思えた。父はそんな息子を目を細めて眺めると、自分はいつものハヤシライスを頼んだ。
次郎は父親の思いつきに感謝をすると共に、家で食卓を囲んでいても会話すらほとんどないのに、ここの料理をつついていると自然に笑顔になり、会話も弾んだことに驚いた。
「どうだ次郎、ここの料理はすごかっただろう?」
帰り道、父親は自慢げに何度も次郎にそう言った。そうだね――折り合いの悪かった父親に自然と返事を返せた。そのことに次郎はひどく感動した。ここの料理はすごい。元々手に職をつけたく料理人を目指していた次郎にとって、それは自分が目指すべき未来に思えた。
――――こんな料理を俺も作りたい。彼は強くそう感じた。
そして時は経ち、あれ以来優しくなった父親も病気で死んだ。そんな折り、次郎はたまたま通りかかったあの店の窓に張り紙を見つける。あれ以来きたことは無かったななんて思いながら見つめた先にそれはあったのだ。従業員募集――そう書いてあったのだ。
無事調理師免許を取得することが出来た次郎だったが、進路に悩んでいた。おぼろげにどんな料理人になりたいかという目標はあった。あの店のように、慎ましくも愛されているような場所で働きたいと。けれども料理学校に来ていた求人に、彼が求めるようなものは無かった。
そんな次郎は妥協して、どこか適当な料理屋にでも行くしかないかと思案していたのだ。そんな時に見かけたこの張り紙は、彼にとって天啓のように感じても不思議は無いだろう。実際に次郎は、矢も盾も無く店へと入り、開店前の仕込みをしていたあの小太りのオヤジさんに、まるで土下座せんばかりに雇ってくれと訴えたのだ。
どんな雑用もやります。給料なんかいくらでもいい。一生懸命やるので使ってください。次郎はそう叫んだ。店にいきなり入ってきた若者の剣幕に店主は呆気にとられたが、次郎はいかにしてここの料理が好きになり、どんな料理人を目指しているかを熱っぽく語った。
父親との触れ合いをもたらしてくれた魔法のようなここの料理。俺はそんな料理を作れるようになりたいのだ――――そんな青臭い若さをちりばめたまっすぐな次郎の言葉に、店主は少しだけ呆然とすると、すぐにそっぽを向いてこう言った。
「気に入ってくれてありがとよ」
ぶっきらぼうな言葉ではあったが、そうして次郎はこの店に入ることを許されたのだった。
早くに母親を病気で亡くし、男手ひとつで自分を育て上げた次郎の父親。幼かった次郎にとっては、ただ自分を孤独にするだけの存在であった。けれどあの時、照れながらも自分の一部を見せてくれた父親に、次郎は不器用な愛情を感じることが出来た。
そのきっかけとなったこの店の料理は、次郎にとっては正しく魔法の料理となったのだ。その父親も亡くなった今、次郎がここで働くことは、父親との絆を紡ぎ続けるような気持ちにさせるのだった。そしてあの時の自分たちのような繋がりを、自分の料理で後押しすることが出来たなら――――こうして次郎の確たる未来像は固まったのだ。
◆◇◇◆
料理屋の下働きとはある意味奴隷のようなものだ。いくら調理師免許を持っていても、それはあくまで基礎を学んできました程度のものでしかない。料理屋の難しいところは、いつ食べても同じ味を出せるという部分にある。
大手の飲食チェーンであれば、調理工程を効率化し、レシピ化されることで同じクオリティを実現する。だが個人の店であれば熟練するしかないのだ。人件費は最低限、食材のコストも上限がある。その限られた条件の中で一定のクオリティを保つには、身体にしみこんだ感覚のみがそれを可能にする。繰り返し繰り返しの反復作業。それのみがそれを実現する。しかしそのためにはやり続けなければならないのだが、店には練習に費やす余裕など無い。
だから新人は追い回しと呼ばれる扱いから始まる。じゃがいもの皮をひたすらむく。グラッセ用のにんじんをひたすらカットする。そういうものから積み重ねていくのだ。極端な話、余所見をしていても無意識に同じ量、同じ形に切り込めるくらいにならなければいけないのだ。そして仕込みを完璧に覚えることをしながら、合間にまかない等で調理を実践させて貰ったりもする。
味付けや作法など手取り足取り誰かが教えてくれたりなんかしない。ただ見て盗むだけだ。足りない技術は時間外に自己鍛錬をどれだけするかで差をつける。フライパンの上で雑巾や砂を振ってみたり、他の料理屋を食べ歩き舌を肥えさせたり。または食材を自分で購入し、自宅の粗末なキッチンで店の味を表現してみたり――――つまりは個人の時間など皆無であるし、少ない給料は自分のためになど使えない。それほどに過酷であり、すぐには報われない職といえよう。
それでも次郎は喰らいついた。いや、むしろ水を得た魚のように嬉々として仕事に取り組んだものだ。この店の魔法の正体を知りたかったのだ。客がみな笑顔になる小さな魔法。かつて自分もかかった素敵な魔法の正体を。
そんな次郎を店主も気に入った。派手さは無いが、実直に取り組む姿勢を口には出さないが内心では褒めたりもする。店主は密かに次郎に店を継がせようと思うくらいに。
店主は妻をはやくに亡くしており、男手ひとつで一粒種の娘を育てながら店を切り盛りしてきたのだ。彼の味の根底にあるのは、亡き妻のレシピである。元手もおぼつかない中、それでも夫を支えてきた妻の決断で独立したのがこの店である。
二人は寝る間を惜しんでメニューを考え、そしてその多くが妻の得意料理だった。それを店主はひたすら大事に守り続けている。次郎が店にきて五年、ホールを担当していた店主の娘の婿にさせ、店を継がせたい――店主はそう決めた。次郎の境遇が、どこか自分たちに似ていたのも助けただろう。
当人同士もどうやら忙しい仕事の合間を縫うように二人でどこかへ出かけているようだ。店主はそれを知りつつも見ない振りをしてきたのだ。純情な二人の恋がまるでかつての自分と妻を思い出すようで、ほほえましく眺めていたかったというのもある。ならば後押ししてやるのが自分の役目だと考えたのだ。元々口下手である店主であったが、自分の店が続いていくだろう未来を夢想し、ひとりほくそ笑む。そんなある日のことだった。
「次郎、ちょっとこい」
仕込みの最中、仕事中は滅多に言葉を発しない店主が次郎を呼びつけた。最近ようやくストーブ前(コンロのこと。つまりは実際に調理をまかされたということ)に立つ事を許された次郎が、グラッセの仕上げをしていたときの事だった。
「あ、はい。なんですかおやっさん」
急に呼ばれたが、それでも油断無くグラッセの火加減を調整しつつ、次郎は店主の下へと歩み寄った。
「お前、娘の侑子とは最近どうなんだ?」
「…………え? あ、その、おやっさん?」
いつもしかめ面をしているような強面の店主が、珍しくにやりと笑ってそう言った。次郎はそんな店主の言葉に慌てた。その表情は青くなったり白くなったりと忙しなく、両の目もまた慌しく動き回っていた。店主は普段から寡黙でくそ真面目な次郎のそんな姿を見て、思わず声を出して笑いたい衝動に駆られたが、なんとかそれを押し込めた。
「お前が侑子とごそごそやってるのはとっくに知ってるよ……そもそもバレてないと思ってるのはお前らだけだ。まあそんなことはどうでもいい。お前が真剣に娘を愛しているのなら、俺に異存はない。せいぜい幸せにしてやってくれ」
「お、おやっさん……あ、ありがとうございます! 俺、あいつを絶対に幸せにしますから! あ、いや、その……仕事もちゃんとします」
「当たり前だばかやろう! まあ、上手くやんな。お前らがしっかりと家庭を作って、この店も守ってくれるなら俺は安心してあの世に行けらぁ」
店主の言葉に感激し、普段あまり表情をみせない次郎が男泣きに泣いた。店の将来、娘である侑子との結婚の許し、そして店主の笑顔。無くなってしまった次郎の家族を自分が作り、父親が教えてくれた魔法の料理を引き継ぐことができると言う栄誉。それは彼の心を震わせるには余りあるものだった。
次郎は厨房から出て行く店主の背中にゆっくりと頭を下げながら、また静かに決意を新たにした。それと共に、店主の料理にかかっている魔法の正体をさらに修行しなければと強く思うのだった。
◆◇◇◆
それからの次郎の生活は慌しく変わった。相変わらず多忙である職場で汗を流しながら、侑子と共に式場を巡ったりドレスを合わせたり。休日の少ない二人にとってそれはひどく疲れるものではあったが、互いに励ましあい、やがて訪れる幸せのときを夢想し、手を取り合った。
そんな二人をかげながら店主は眺め、満足そうに目を細める。次郎たちの姿は良き家庭の訪れを予感させ、天国にいる自分の妻にこっそりと報告するのだった。どうやらあいつらは俺たちよりも幸せな家庭を築いてくれそうだぞ――――そう祈るように心で呟く。そんなある日のことだった。それは突然に訪れたのだ。
「侑子っ!!」
常連の中で一番の人気メニューであるオムライスを仕上げていた次郎の目に、恐ろしい光景が飛び込んできた。それはホールをにこやかに歩く侑子が、突然その場で音も無く倒れる姿であった。
油で汚れた前掛けをしたまま次郎は厨房を飛び出すと侑子に駆け寄る。彼女の顔は蒼白で、額に冷たい汗をかいている。そして意識は無かった。最近疲れた顔をしているなとは思っていた次郎だったが、それを知りながら放置していたからだと次郎は自分を呪った。どこか浮かれていたのかもしれない。そう考えると急に怖くなった。
出来るだけ人件費をかけずに営業をする――それは小さな店ではごく当たり前のことだ。けれども女でしかない侑子には思いのほか負担だったようだ。それを店主も次郎も自分の責任だと自らを責めたが、かといって現状は変わらない。
ランチの部を終わらせた店主と次郎は病院へと走った。互いに交わす言葉はないけれど、とにかく我先にと走ったのだ。そこで待ち受けていたのは二つのことだった。
「ゆ、侑子……」
まっさきに病室に飛び込んだ次郎は、個室に寝かされていた侑子に駆け寄る。
「じろう……店はどうしたの? 常連さんを待たせたら……だめよ?」
「店は大丈夫だ。ランチをきっちり終わらせたからな。そんなことはどうでもいい! お前は大丈夫なのか!?」
弱々しく次郎を見上げる侑子。いつもは活発な美人と彼女を知るものに褒められる顔は蒼白だった。それでも一番に店を心配する様子に次郎は言葉も無く、ただ彼女にすがった。
「ふふっ、じろうは子供みたいね。わたしは大丈夫。貴方をおいてどこかへ行ったりなんかしないわ……だからじろう、こっちを向いて。ね? パパ」
侑子の言葉に次郎は弾かれるように顔を上げた。両の目から涙を流したくしゃくしゃの表情で。二人を気遣い、病室の入り口で言葉もなく立ち尽くしていた店主もまた目を大きくして息を呑んだ。
「パパ? 俺がパパ!? まさか侑子、出来たのか?」
次郎の言葉に侑子はゆっくりと頷き、そして笑った。それと共に店主が勢いよく走り寄り、次郎を跳ね飛ばさんばかりに押しのけると、愛しい我が娘の手をとった。
「ほんとか! ほんとか侑子!! でかしたっ! でかした侑子っっ!」
「あらあら、お父さん、そんなに大声を上げなくても子供は逃げないわ……」
「そ、そうだな……はははっ、おい次郎、お前やらかしてくれたなコノヤロウ! 俺の娘を結婚前に傷物にしやがって! 明日から覚悟しろよ、思いっきりこきつかってやるからな!」
「おやっさん…………はいっ! よろしくお願いします!」
「もう、またわたしだけ置いてけぼりね……」
「いや、そのなんだ……なあ次郎?」
「あ、ああ。侑子、あれだ、嬉しいんだ俺たちは」
娘をそっちのけで歪曲した喜びをかわす不器用な義理の親子に侑子は苦笑した。そして三人で顔を見合わせると、誰とも無く声をだして笑った。ここには小さいながらも確かに幸せのカタチが在った。そして店主は次郎に今日はもう店に出なくてもいいから侑子をせいぜい労われと言い放ち、そして帰っていくのだった。
その頃、ナースステーションで難しそうな表情の男女が顔を見合わせていた。男は侑子を担当した救急救命部のドクターだった。彼はいくつかのカルテをぱらぱらとめくりながら、部下の看護士に一つ、オーダーを出した。
「……この血液サンプルを急いで病理にまわしてくれ」
「はい先生……」
次郎の周りは確かに幸せがあった。それはふわりとした春風にも似た暖かいものだった。けれどそれは決して長続きするような幸せではなかったのだ。それはまるで、満開の桜に降る冷たい雨のように。その雨は、残酷にも花びらをあっという間に散らせてしまうのだ――――
◆◇◇◆
人の命が散るのは意外に呆気ないものだ。ついさっきまで確かに笑っていたはずが、次の瞬間、物言わぬ躯となる。それは残された者にとっては悲しさなど感じることもなく、ただ受け入れがたい現実に身を焦がす。
本当に死んだのか?
いや、そんな筈ないだろう。
しかしそんな自問を繰り返しながら、時間が経てばそれは重い現実感を伴い、やがて酷い喪失感が襲ってくる。見ない振りをしていたやもしれない。けれども嫌が応にも気がつくのだ。その人が埋めていた時間がぽっかりと穴を開けていることに。
つい居なくなったその人の名前を呼ぶ。けれどもそこにあるのは静寂のみ。毎朝の食卓がやたらと広く感じ、故人の郵便物が届く。そういう日常の中で占めていたあの人の割合というものは、存外大きかったと身を持って知ったとき、その事実は怒涛のように感情の奔流となって襲い掛かるのだ。
そして今、次郎は白い布を掛けられた妻だった女性の姿を見下ろしていた。無機質な白い壁、薄いブルーのリノリウムの床。彼女はまるで人形のように美しく――――死んでいた。
次郎はパイプイスに腰掛け、その動かぬ妻だった女性をただ眺めていた。それ以外にすることが思いつかなかったのだ。窓を揺らす風の音だけが静かな病室に響く。
「なあ、何やってるんだよ侑子……」
ぽつりと呟く。その声色はあまりに普段通りだった。
「もうすぐ俺が店を任されるんだ。お前も知っているだろう? なあ、侑子……早く帰ろうぜ。おやっさんが待ってるんだ。新メニューを出すんだって息巻いてるんだぞ。お前がまわしてくれないとホールがてんてこ舞いになっちまう」
その声はやはり静寂に溶けるだけだった。次郎は少し身をよじると、動かぬ侑子に寄り添うようにベッドに腰掛けた。そして彼女の顔に掛けられた布をゆっくりとはずす。
既に看護士によってエンゼルケアを施された侑子の顔は、白すぎる血色以外はまるで眠っているようだ。侑子のしなやかな黒髪をやさしく撫でる。まるで体温を感じられない額の感触に次郎は少しだけ眉をひそめたが、特に何も言わずに繰り返し撫でた。
その時病室の入り口に一人の若い看護士がたった。そろそろ葬儀屋を呼ぶなりを促しに来たのだろう。実際、次郎がここに来てからすでに二時間ほど経過していたのだ。しかし年配の看護士がやってきて彼女の肩を叩いた。好きにさせてやれということだろう。若い看護師は無言で頷くと踵を返した。
彼がここに来たときはまだ明るかったが、今は窓から西日が差している。間もなく日暮れとなるだろう。そんな時であった。
「くっ…… くっくっ……ううっ…………」
搾り出すような嗚咽が彼から漏れた。そのあまりに空虚な彼の声は、この現実を受け入れたくないという単純な思考から生み出された。
細かく痙攣する喉、やたらと響く泣き声。次郎はどこかそれを俯瞰したように感じていた。何故自分は泣いている? 泣けばこの現実を受け入れてしまうことのようで嫌だった。
それでも目の前の妻だった女性はただの躯でしかない。それを次郎は知っている。知っていてなお、彼はその現実を拒否した。
そしてそれから数時間たった後、病院の連絡を聞いて慌てて飛んできた洋食屋の店主は飛び込んだ病室を見て唖然とした。
それは愛しい自分の娘の亡骸の横に、乱雑に書きなぐられた一枚の紙を見たからだ。つかつかと歩み寄る店主がそれを手にし読んだ。そして絶句する。
「なあ侑子、どうして死んじまったんだ。なあおい、別に子供はあきらめたってよかったじゃねえか。あの捨てられた子犬みたいだったお前の亭主は消えちまったよ。なあ侑子よ……死んだら何もかもおしえめえなんじゃねえのかよ……」
油にまみれたコック服のまま、店主は静かに慟哭した。白髪の頭を無意識にかきむしる。それでもひとしきり泣いた店主は落ち着きを取り戻すと、遺体を引き取る手続きをし、家族が二人も消えてしまった我が家へと帰ったのだった。
『おやっさん、申し訳ありません。俺があの場所にいることは耐えられそうにないです。今まで育ててくれてありがとうございました。不義理をお許しください 次郎』
とぼとぼと夜道を歩く店主はにごった星空を見上げて次郎の手紙を思い起こす。天を仰ぐは涙をこぼすのを嫌ったからだろう。
「それでも俺ぁ、お前と店をやりたかったよ……」
店主の皺枯れた声が闇に溶けた。彼の言葉に答えるものはたれもいない。
◆◇◇◆
「……貴方、泣いているの?」
とうに料理は食べ終わった。だのに次郎の手は止まっており、次の料理が出てこない。幽香はそんな彼を不思議そうに眺めていたが、どうも様子がおかしいと声をかけた。
「ん、ああ、別になんでもないさ……」
「そう、なら次の料理を出しなさい」
次郎は己の醜態に気がついたが、慌てて横を向くと”ちん”と手洟を噛んだ。どうみても泣いていた様に見えたが、幽香はそれを見なかったかのように次の料理を促した。そんな彼女の無言のいたわりに感謝し、次郎はとある料理を作り始めた。
かちゃかちゃと卵を溶く音が幽香の耳には心地よかった。やがて何かを炒める音と、香ばしい匂いが漂い始め、幽香の食欲をそそった。そして彼女の前にひとつの皿が置かれた。
「あら、これは何という料理かしら? ずいぶんと優しげなものね。いいにおい」
「それは何の変哲も無いオムライスさ。そろそろ料理もしめだ。それを試してみてくれ」
「ふふっ、それは楽しみね。聞いたことはあったけれど、食べたことは無かったもの。けれどこんな西洋の料理なんて珍しいわね?」
幽香のいう事はもっともだった。たしかに次郎は個人的な好みからパンを焼いたりと洋食を好むところがある。が、喰いもの屋の料理に限っていえば和食が多かったのだ。それは幻想郷で手に入る食材が限られていたからだ。
懇意にしてもらっている妖怪の賢者を頼ればどうにか手に入りそうなものであるが、それは流石に気が引ける。ある種、ズルのようなものだからだ。
そして食材以上に手に入りづらいのが調味料だ。料理とは単純に食材を生かすだけでは足りない。料理を一つの文化と捉えれば、食の文化は調味料の文化ともいえるのだ。
和食においては味噌や醤油が根底にあり、それを長い歴史を重ねて今の完成された姿がある。そういった調味料の進化と共に、料理自体の技法も進化をしていく。
洋食・和食、その他様々な料理文化があるが、それらはそこに育った人種の好みや風土の特徴で進化の過程もみな違う。だからこそ面白くはあるが、それを再現しようとなれば、料理技法よりもむしろ調味料があってこそとなる。
この幻想郷で屋台を営む次郎が悩むのはそこだ。かつて彼は戯れに月の兎にポトフなどを作ってみたが、それはポトフが複雑な調味料を必要としない料理であったからだ。
だからこそ次郎は裏で密かに色々な調味料を試行錯誤しつつ自作しようとしていた。いま幽香に振舞った料理は、トマトケチャップが難点だった。しかしたまたま今日、試作品として作られた物の熟成が終わったところだったのだ。
「じゃ、いただくわね」
そう言うと幽香は湯気が立ち上るオムライスにスプーンを入れようとした、が――――
「少し待ってくれ、これはここをこうして喰うんだ」
寸でで止められた幽香は不満そうな顔をしたが、黄色くぷるんとしなやかに揺れるオムレツを次郎がナイフですぱっと真一文字に裂いた次の瞬間、彼女はまるで花が咲いたかのように笑顔になった。
「まぁ……これは素敵ね……この物悲しい秋に、まるで真夏のひまわりのようにお皿の中に花が咲いたわ!」
次郎に裂かれたオムレツは、その切り目を境に両側へ向かって裏返った。たっぷりと生クリームを含んだ半生のオムレツは、裏返るととろりとひろがり、そして真っ赤なチキンライスを覆い隠したのだ。その様は彼女がいうようにひまわりが咲いたかのようだった。
「……これは俺の一番の得意料理さ。俺の義……いや、師匠から教わった大事なメニューのひとつなんだよ。喜んでくれたなら、嬉しい」
次郎はその瞳にどこか複雑な物を浮かべつつそう言った。幽香はそれに頷くと、食べきるのが勿体無いとでも言うように少しずつ食べた。
花を愛する彼女にとっても歓迎すべき料理だったようだ。
「ふう、美味しかったわ。でも次郎、こんなにも美味しいのなら、この店の定番にすればいいのに」
「定番……か。そうだな、そのうちそうしてみてもいいかもしれない。けれどもう少し、裏メニューのままにさせてくれ」
そっぽを向いたまま次郎は煙管をふかしている。その背中を幽香はひどく寂しそうにと感じた。そして腹がくちくなり満足した彼女は、残りの酒をちびちびと手酌で呑んでいる。もう既に主だった常連たちはとっくに帰っており、屋台の中には彼と彼女の二人だけになっていた。
そろそろ帰ろうかしらと幽香が考え始めたその時、次郎が彼女の赤い瞳を覗き込み、静かに言った。
「……なあ」
「何かしら」
「……お前さんの畑はいつも素晴らしいよな」
「……? そうかしら、ありがとう?」
自分を見ているようで見ていない。そんな空虚な表情の次郎を怪訝そうに見返す幽香。
「そんな綺麗な場所を見渡せる場所に、少しばかり土地を分けてくれないかな?」
「……土地? 何をしたいのかしら。何か新しい作物でも作りたいの?」
次郎の言葉には何の脈絡も無かった。彼女が首をかしげるのも当然の反応だろう。
「……墓、建てたいんだ。あいつは……花が好きでさ。いつもホールにはあいつが買ってきた花で飾られていたんだ。だからせめて、いつも花が見える場所にあいつの墓を建ててやりたい。そう思ったんだ」
「そう、分かったわ。貴方の好きにすればいいわ。場所は私が選んであげる」
「ありがとう幽香」
「別にいいわ。花を好きな人間を無下にするつもりは無いから」
彼女の言葉は決して馴れ合うような口調ではなかったが、それでも次郎の願いを受け入れたようだ。数瞬、沈黙。
「けれど条件があるわ」
「なんだ?」
「私がここへ来るときは、必ず最後にあのオムライスを出しなさい」
「……ああ、わかった」
そして風見幽香はにっこりと笑ったのだった。
幻想郷はすべてを受け入れる。それは世を恨み、世を捨てた取るに足らない男であっても。
そんな男は虚空を見つめ、しみじみと思った。
――――俺はここで生きている、と。
登場人物
フラワーマスター 風見幽香
おてんば店員 チルノ
変わり者の屋台の店主 次郎
洋食屋の寡黙な店主
次郎の妻だった女性 侑子
主人公の背景を小出しにしようとしたら、突然のシリアス話になってしまいました。
とは言え、単純に幻想郷はどんな存在も受け入れるというテーマを書きたかっただけなんですけどね。
主人公の後の伏線になればという思いも無きにしも非ずというとこですが……。
正直今回は東方キャラはほとんど空気でしたが、作者的にメインキャラと設定してある風見幽香の立ち位置を確立させたかったという目論見もありつつ。
オリ主が主人公だと、こういう四方山話が読者をおいてけぼりにするきっかけとなりそうで怖いのですが、過去に連載していた本作品の残り話数が20話ほどあり、しかし読み返すと赤面必至な黒歴史でもあるわけです。
なので登場人物の心の話をメインテーマと据えながら改定作業をしていると、結果、書き下ろしになってしまうという矛盾。
次回からは東方キャラメインのお話となりますので、ご容赦を。