☆ ☆ ☆
ふと目が覚めた。温もり不足による肌寂しさからだろうか。
軽く目元をこすってみると、カーテンの向こう側がぼんやりと明るい。真夜中にしては珍しい明るさだった。そしてそこには見慣れた猫背のシルエットが、今日も。
もー……控えるようにするって言ってたのにー……。
煙ったいし鼻につくし身体に悪いしおまけに煙ったいしで、わたしはちっとも好きじゃない。ただ、ソレを吸っている姿だけは、懐かしい白衣姿を思い出すしの重なるしで、そこそこ好きだったりする。つまり結果としてあんまり強く言えてな、あれもしかしなくてもわたしってダメ男製造機の要素あるんじゃ……?
甘やかしてるつもりはないんだけどなぁ、なんて問わず語りをしつつベランダに近づくと、物音と足音に気づいた彼の影が振り向いた。
それを合図にして、わたしは遠慮がちにかららとガラス戸を開く。
「こら。吸いすぎ注意ですよー」
「まだ一本目だ。っつーか、いつもわざわざ付き合ってくれんでも……」
「や、先輩が隣にいないと勝手に目が覚めちゃうだけっていうか」
「なにお前、高性能な人感センサーでもついてんの?」
「みたいですー。先輩にしか反応しない残念な性能っぽいですけど」
わたしは先輩の腕に自身の腕をしゅるりと絡ませ、満足げにむふーと息を吐く。あくまで表面上は、だけど。
最初は、先輩もたまたま目が覚めちゃったのかなって思ってた。でも、こんな感じで外を眺めている日がどんどん増えてった。で、今じゃほとんど毎日。
先輩がなんでこんなことしてるのかは、とっくにわかってる。……むしろわかってなかったら恋人として失格っていうかいろいろ終わってるまである。
だから、わたしも。先輩の真似をするように、わかってないふりをして。
今日も今日とて、こうやって、夜の空を一緒に眺めるのだ。
「それにしても珍しいですよねー、こんなに星が見える日。めっちゃ綺麗です」
「だな」
「いや一言だけとか……もうちょっと気の利いたこと言ってくれてもいいのではー」
「棒読みなんだよなぁ」
「あ、バレました?」
「むしろなぜバレないと思ったのか……」
相変わらずのローテンションな突っ込みにくすくす笑えば、呆れ交じりにふっと口元を緩める先輩。一体何がそんなおかしいのやらとでもいうように。
楽しいですよ、そりゃ。そのいつもどおりがたまらなく楽しくて……何よりも好きで愛おしいんですから、わたしは。
……だからこそ、先輩にも同じことを思っていてほしいなーって。
今は、流れ星なんて落ちてきていないのに。人並みの月並みな願いをそっと三回、笑顔で隠してバレないように。
「そういうところは変わらないな、お前は」
と、願い事を唱え終わったタイミングで、なにやら意味深な呟きが。
「そういうところって?」
「今の無駄にあざとい笑顔とか」
「今のは別に狙ってやったわけじゃないんだよなぁ~」
「なんて嘘くせぇ言い方なんだ……」
鬱陶しげな目でわたしを一瞥した後、先輩は煙草のフィルターを口に含み、遠い彼方へ向かってふっと煙を吐く。
「ほんと、昔から変わらねぇ……」
そして今度は、お互いの腕同士が絡まるあたりをじっと見つめながら、妙に優しい声でぽつり。
「……なんですか胸の話ですか同情してるんですか怒りますよ」
「違うから……なんでそうなる……」
「そんな顔してそんなとこ見てそんなこと言う先輩が悪いんですよーだ」
「ええ……」
わたしは頬を膨らませ唇をとがらせ、つーんとそっぽを向く。
そりゃまぁ先輩的にはわたしのサイズじゃいろいろ物足りないかもだけど、これでも昔よりちょっとはおっきく……と手で確かめかけて、やめた。余計虚しくなる気しかしない。……くっ!
そんなふうに一人で勝手に拗ねたり打ちひしがれたりと暴走していたら、先輩はまだ吸えるはずの煙草を灰皿で揉み消した。
「……なぁ」
次いで届いたのは、焦げくさいにおいと改まったような声音。
「はい、なんでしょ」
「これは俺の知人の話なんだが」
「あ、そういうのいいんで。先輩の話だってわかってますから」
「……これはあくまで俺の知人の話なんだが」
「めげないなぁ」
はーやれやれと困り眉で笑いつつも瞳で先を促すと、先輩はんんんっと大げさな咳払いをして、二本目の煙草に火をつける。
「まぁ聞け。そいつにはその、あれだ、いわゆる内縁の妻的な相手がいてな……」
もうなんか既に展開が読めちゃったけど、いい子のわたしはふむふむ頷いておく。
「そんな関係なもんだから、家族からも周りからもいい加減プロポーズしろと言われてるらしいんだ。でもそいつはいまさら気にしなくていいことごちゃごちゃ考えちまって、結局ずるずると言えないまま毎日悶々としているそうだ」
もうなんかただの自白を聞かされてる気分なんだけど、いい子のわたしは以下略。
「情けねぇよな、そいつ。機会やお膳立てなんていくらでもあっただろうに……」
「まぁ、そうですね。男としても彼氏としてもダメダメのムリムリです」
「……だよなぁ」
自嘲気味に吐き出された煙が、二人の間をたゆたって、景色をさまよって、やがては染み溶けるように消えていく。いくつもの分岐とその最後みたいに。
「でも」
わたしはその一つを追ったまま、小さく息を吐く。
「そんなダメダメのムリムリな人でも……ほんとにほんとに好きになっちゃったら、なんだかんだ待てちゃうんですよね。だって、やっぱり好きだから」
「いろは……」
他の子がどうなのかは知らない。昔のわたしがどうだったかもとっくに忘れた。けど、ほんとの恋を教えてもらって、ほんとの恋をしてからは……ずっとこうだった。
この人じゃなきゃダメ。この人じゃないとムリ。そんなことは決してないのに、この人に言われたいなーと、ほんと律義にバカみたいに。
模範解答なんて求めてない。着飾っただけの口説き文句なんていらない。みっともなくていいから。惨めで泥くさくてもいいから。
――あなたにしか言えない、わたしだけが独り占めしていい言葉を。
ダメダメのムリムリな人の勇気を待てる理由なんて、どこまでいっても、きっとそれだけ。
「………………なーんて」
「……おん?」
「そんなわけないじゃないですか。大抵は相手を待たせすぎて逃げられるか他の男に横から取られるかしておしまいです」
「お、おう……え、なに、もしかしてそういう経験させたことあんの?」
「ナチュラルに失礼なこと言いますね……はー、まったくもー……」
ほんと昔からいつもわたしのことマジでなんだと思ってるんだ……。あのねぇ、そういう経験させてたら今ここにいないでしょーが! ずっと一緒だったでしょーが!
まぁ、不安を煽るようなこと言ったわたしが悪いのはわかってますとも。先輩は昔のろくでもないわたしを知っているわけだし、なおさら。
……ただ、ほら、なんかちょっと、うん、……ね? あんなこと言っちゃうし思っちゃうし、おしまいになんてしないしさせないしで、わたしったら先輩のこと好きすぎでしょーって感じでいまさら恥ずかしく平たく言えばただの照れ隠しですはい。
でも好きなものは好きなんだよなぁと先輩をちらり見たら、なにやら複雑そうにわたしを見つめる視線とぶつかった。目と目が逢う~……あ。
「先輩、たばこたばこ。灰がすごいことになってます」
「……おおっと、って、こりゃもう手遅れだな……」
「どれだけ忘れてたんですか……」
「まぁ、その、なに、ちょっと」
証拠を隠滅するように慌てて吸いがらを放り込んだかと思えば、必要以上に灰皿をにぎにぎし始める先輩。ははーん……これは何か隠してるにおいがしますねー……?
「……で、一体何を考えてたんですかー?」
「あぁ、いや……お前の言ったようになる前にマジで腹くくらねぇとって思ってよ」
「ん~? さっきの話は先輩じゃなくてお知り合いの話ですよね~?」
「お前ほんといい性格してるよな……」
小首を傾げて一発きゃる~んとかましたら、くしゃっと髪を撫でられた。ふふん。
「もっと撫でてくれてもいいんですよ。むしろ推奨しますです」
「最初あんだけ嫌がってたやつとは思えん変わりっぷりだな……」
ちくりと刺さるような言葉の後、二度目のくしゃりとした感触。
その心地よさと嬉しさに閉じた瞼の裏で、付き合いたての頃をふと思い返す。あの頃は妹扱いするなーってふてくされてばっかりだったっけ。小町ちゃんに妬いたりもしてたっけ。
『……はぁ。……だからなんでそうなるんですか』
『んなこと言われてもこれが今の俺にできる精一杯なんだよ……』
『愛情表現なんて他にいくらでもあるでしょ……よりによってなんで……』
『……小町は小町だ。お前とは違う』
『は? どうしてそこで小町ちゃんが出て……』
『違うけど……近いのに違うから余計にわかんねぇんだよ。接し方とか応え方とか』
『……ぁ……』
『それでも……わからないなりに応えてやりたかった。その結果がこれだが……』
『先輩……』
『っつーわけで……悪い。逆に嫌な思いさせちまった』
『……んーん。わたしこそ意地張ってごめんなさい。……あと……』
『ん?』
『……もっかい。頭、撫でて』
『…………嫌だったら言ってくれ』
『ん……』
なんてことない、お互いの経験不足によるすれ違いと解釈違い。同じ扱いなように思えて、実際は、ちゃんと別枠の特別。
それがわかってからだったなぁ……頭撫でられるのが平気になったの。
「――おい、どした」
と、意識の外から先輩の声。
「……ほぁ?」
「なんだよその気の抜けた声……。いや、結構な時間されるがままだったから」
「あー、先輩があんなこと言ったせいですよ。で、懐かしくてついしみじみと……みたいな」
「やめてくれ、恥ずかしいし情けないしで思わず死にたくなる」
「わたしは結構好きですけどね、あの思い出エピソード」
「お前にとってはそうでも、俺にとってはあの話も掘り返されたくない話の一つなんだよ……」
「でしょうねー」
「でしょうねってお前……」
うんざりげんなり青息吐息な先輩に、わたしはぴっと立てた指を唇に当てつつ。
「けど、それってつまり、わたしだけがその価値を知ってるってことです」
「……お前の言う価値って、つまり言質とか人質とかそういうジョーカー的な」
「むっ」
「はいごめんなさいなんでもないですだから腕つねんのやめて?」
あんまりな物言いは本日二回目なので、さすがに指先で抗議した。……まったく、先輩は一体全体ほんとにマジでわたしのことなんだと思ってるんだ。いつか絶対問い詰めてやる。
といった具合にぷんすかぷんすかとしつつも、それとは別に、わたしは。
「……ここはやっぱり楽でいいなぁ……」
昔から、ずっと。いつまで経っても、きっと。
改めて込み上げてくる実感に、思わずたまらずの吐息を漏らした。
「……ああ、そいや昔も似たようなこと言ってたよなお前」
「さー? そうでしたっけ?」
「ねぇちょっとさっきから露骨すぎない?」
や、だって蒸し返されたら恥ずかしいし痛々しいしで思わず死にたくなるし……。なので、忘れたふりをすることにしました。ここまでくると清々しいですね!
きゃるるる~んとわたしが盛大にすっとぼけたことで、不満が行き場をなくしたらしい。先輩が三本目の煙草に手をつける。……そろそろレッドカード出すべきか。
ほんのちょっぴりうーんと悩むも、物憂げに紫煙をくゆらす姿はやっぱり悪くなくて、ふとした瞬間にあの先生の横顔を思い出すしで、結局わたしは言わずじまい。どうもダメ男製造機です。
なんて自虐をしながらも、脳内のスクリーンに思い出を映し出す。冬の母校、その屋上でのワンシーンを。さくらんぼみたいにくっついて並んだ、甘酸っぱいあの時間を。
『たとえば世界中の人にわたしの本性がバレちゃってても』
『きっとわたしは、バレてることに気づいてないふりして本性を隠そうとします』
『でも……先輩は違うんです』
『先輩にだけは、全部見せてもいいかなって。むしろもっと知ってほしいかもって』
『なぜか不思議とそう思えるんです。……ふふっ、なんででしょうね?』
ぽわぽわきゃぴきゃぴとした振る舞いも、わざと甘ったるく間延びさせた声も、あの頃からそう変わっていない。ただ、もう先輩の前でしか見せなくなったってだけ。
だって、普通に考えたら、こんなの。大人になった世界じゃ薄ら寒くて、恥ずかしくて痛々しくて、白い目を向けられて排他されるだけのものでしかないから。
でも……先輩は、あの頃からそうじゃなくて。
薄ら寒くて恥ずかしくて痛々しいわたしも、そうじゃないわたしも、本性まる出しのわたしも、全部まるごとひっくるめて。
認めてくれる。受け止めてくれる。受け入れてくれる。包み込んでくれる。
だから――わたしはわたしのままでいられる。
「ねぇ、先輩」
「なんだ」
「さっきわたしのこと、昔からほんと変わらないって言いましたよね」
「……言ったけど」
そして――そこだけは変わんないでほしいって。変わってなくてよかったって。
これからも、ずっと。いつまで経っても、きっと。そう思えるままがいい。
「先輩も大概ですー。人のこと言えませんー」
そんなめんどくささをたっぷり込めた眼差しに、先輩はがしがし頭を掻きながら。
「……まぁ、そうな。変わってたら今こうなってねぇし」
「ほんとですよー。どれだけ待たせてると思ってるんですかー」
「……すまん」
「謝らなくていいですよ。先輩のそういうとこ、よーく知ってますから」
そう、わたしはもう知ってる。とっくに引き返せないとこまで、引き返したくないとこまで、先輩のことを知っちゃってる。わかっちゃってる。
答えなんて単純明快で一つしかないのに、律義にバカみたいにそれを疑って真剣に悩んで、体面とか責任とか余計なことばっか考えて不安に怯えて、恥ずかしくて情けなくて痛々しいことはなかなか言えないまま……先輩のことだから、たぶん、そんなとこ。
「ほんと……めんどくさくてどうしようもない人だなぁ……」
「めんどくさくてどうしようもなくて悪かったな……」
けど、そんなあなただから。
そんなあなただったから、わたしは――。
「ね」
「ん……?」
「後ろからでいいので、ぎゅーってしてくれませんか?」
「……あいよ」
絡ませていた腕を名残惜しくも一旦ほどいて、半歩、距離を横に詰める。
やや遅れて、優しい温もり。煙ったさと鼻につくにおい。
「……たばこくさい……」
「こ、これからは控える……」
「えぇ~、ほんとにござるかぁ?」
「ほんとだっつーの……」
「まことにほんとにござるかぁ~?」
「あの、俺ってそんなに信用ない……?」
「や、だってそれ、この前もその前も聞きましたもん」
「……本当にすまん」
「そう思うなら……ちゃんと約束、守ってくださいね」
指きりげんまんの代わりに、そっと、先輩の両手を上から包むように抱いた。
わたしの持ってる答えなんて、それだけ。どこまでいっても、いつまで経っても。
「……ああ」
両手の下で、先輩の手が動く。何かをぎゅっと握りしめるような動き。
そしてそれは、やがて――。
「……俺は幸せ者だな」
「お?」
「ただの独り言だよ。……なぁ、いろは」
「はい。……なんでしょ、先輩」
☆ ☆ ☆
わかってた。どうせろくでもないこと言い出すって。
わかってた。こんなろくでもないプロポーズを聞かされることになるって。
なのに。
わかってたのに。
「……っ、ほんと、めんどくさくて、どうしようもない、……人、だなぁ……っ」
小町ちゃんの名前出すし、噛むしとちるし、繋ぎ言葉だらけだし。
ほんとにほんとにプロポーズとして最悪。ていうか論外。
でも。
――それでも。
やっぱり、涙は止まってくれなかった。
恥ずかしくて、情けなくて、痛々しいのに、涙が止まってくれなかった。
いつもみたいに、悪態の一つでもつきたかった。
でも、言葉がまとまってくれなかった。我慢しようとしてもできなかった。
だって、ずっと、呆れるくらい待たされてたから。
だって、ずっと、律義にバカみたいに、呆れるくらい待ってたから。
あなたの、あなたにしか言えない。
わたしが、わたしだけが独り占めできる言葉を。
「まぁ……責任だって、……っ、まだ、取ってもらってない、ことですし……」
わたしは、今日のこの日を絶対に忘れない。忘れられるわけがない。
だから、モノレールのあの時みたいに。今また一歩を踏み出すみたいに。
泣きっぱなしのまま、振り返って。
そのまま、嬉しさでぐちゃぐちゃになった顔を隠すように――唇をくっつけて。
そして、寂しさを引きずりつつ、唇を離していくと。
これ以上ないくらい照れくさそうな顔で、先輩はがしがし頭を掻く。
だから、わたしも。
いつもどおりの感じに頑張って近づけた、ちょっぴり呆れたような顔で。
でも、ただの後輩だったあの頃じゃ絶対できない、幸せ全開の満開笑顔で。
全部まるごとひっくるめるように、先輩をぎゅっと抱きしめながら。
耳元で、優しく甘く、そっと囁く。
――仕方ないので、先輩にもらわれてあげます。
わたしの、わたしにしか言えない。
あなたが、あなただけが独り占めしていい言葉を――。
それでは、ここまでお読みくださりありがとうございました!