セカンド スタート   作:ぽぽぽ

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第1話

 

 木漏れ日が病室内の窓に射し込み部屋を明るくする。

 私の気分を考えると天気は大雨でも足りないくらいなのだが、どうすることもできないほど晴れ渡る空であった。

 

「あなた……。もしかして泣きそうになってる?」

 

 ベッドで横たわる私の妻がクスクスと笑いながら言う。何年も前から変わらない笑顔だった。

 

 ……泣きそうになど、なっていない。

 私が首を振ってそう答えれば、妻はまた笑った。

 

「あら残念。久しぶりにあなたの泣き顔が見れると思ったのに」

 

 見透かした様な目をしながら彼女は言う。窓から射し込む光が角度を変え、彼女の顔を照らした。白く、綺麗な顔であった。その笑顔は、まるで庭先にある花を見て微笑む少女のようで、優しく、暖かさがあり、儚さなどとは無縁に思えた。そんな彼女を見て私は思う。病院のベッドにさえ寝ていなければ、彼女が病気だと気付く人は果たしているのだろうか。

 それも、命に関わる病だと。

 

 ○ 

 

 私と彼女が出会ったのは、海外で開催されたシンポジウムの時だ。 私は昆虫学を専門にしている教授である。最近発表した論文が比較的有名な科学雑誌に紹介され、シンポジウムの主催者の目に留まり招待された。それは比較的アットホームな場であった。様々な分野に精通する主催者が持ち前のコミュニケーション力と人懐っこさを活かし、ひたすら自分の好みの論文を発表した人に声をかけた。そのため統一性が薄くごちゃ混ぜに人を集めただけという印象があったが、陽気な彼がいつも楽しそうに話し豪快に笑う姿のお陰で、笑い包まれたシンポジウムであった。 

 

 シンポジウムが終わった後の飲み会の場で、主催者であるジェームズが私の肩に手をかけ意気揚々と声をかける。

 

『ヘイ、リュウタ!君の発表は相変わらずおもしろいぜ。実験内容もだがやっぱりディスカッションが最高だ!面白い性格してるぜあんた! 』

 

『ありがとうジェームズ。でも君の方がよっぽど面白くて最高だよ』

 

『お!流石は日本人!持ち上げるのが上手じゃねーか! 』

 

 彼は大きく身ぶり手振りし、映画で見るようなオーバーリアクションをする。常に見せる白い歯に料理のカスがついていることさえ愛嬌に思えてくる。

 

『日本人と言えばもう一人いるじゃねーか! いやー美しい女性だな彼女は!まさに和を表しているぜ。呼んで正解だったな』

 

 彼はテーブル奥にいる長い黒髪の女性を指差した。すらりとしたスタイルに柔らかい表情をしている彼女。その姿は確かに大和撫子と呼ぶのに相応しいと感じた。

 

『リュウタ!あんた結婚してないんだろ?折角の機会だぜ!声かけてこいや! 』

 

『……君を見ていると学生時代だったころを思い出すよジェームズ。この場は婚活会場か何かだったのかい? 』

 

『学生時代だったらリュウタに声なんかかけずに真っ先にあっちに向かってるさ! 所帯をもった今じゃ人に薦めるのが楽しみなんだ! 』 

 

 私の返事を聞く前にジェームズは彼女を呼んでくると言いながら向かっていく。少し呆れつつも私は彼女と話をすることを楽しみに思った。

 彼女は魚類の生態学を研究している教授であった。私と同じ分子的手法を使うため彼女の話には多少なり興味があったのだ。 ……いや、それだけが理由ではない。彼女の発表する姿は実に堂々としてて、何人もの目を奪ったのは事実だ。もちろん、私も含めて。

 難しい質問にも物怖じせず、淡々と説明していきながらも暖かな雰囲気をだす彼女に、確かに私は惹かれていたのだ。

 

 だから、あの場で私と彼女を出会わせてくれたジェームズには感謝すべきなのであろう。

 

 ○

 

「どうしたの?ぼーっとしちゃって」 

 

 考え込むように椅子に座っていた私に彼女は問いかける。

 

 ……いや、少し昔を思い出しただけだ。

 

「ふふ。あなたももうすぐ40だもの。思い出は沢山あるでしょう」

 

 ……40歳と聞くと、昔はおじさんと言われる世代だと思い込んでいた。学生気分等を思い返すこともなく、大人と言うものになり、社会人として責任を持つ人物となっていると思っていた。

 だがいざ自分がなってみると、学生時代と何が変わったのか分からない部分が多かった。しがらみは増えたが、果たして自分はあの時より成長しているのかが、疑問であった。

 だが、内面はともかく、外見は間違いなく年期を感じさせるようで、髪には白髪が見え始め、疲れが感じやすくなった。 

 対して、彼女はまったくと言っていいほど年を感じさせなかった。いくつになっても出会ったままの様な姿で、20代に見られても可笑しくはなかった。

 

 熱心に自分で選んだ美容用具を使う彼女に、いつか言ったことがある。着飾らなくてもいい。別にありのままの君でもいいんだよ、と。その時確か彼女はこう答えた筈だ。

 

「年をとることに逆らおうとするのって、人間だけなのよ。どう頑張っても覆せないことと戦うって、いかにも人間っぽくて素敵じゃない? 折角人に生まれたんだらそういうことと私も戦っていこうかなって」

 

 化粧品を顔の前に揺らしながら彼女はいつものように笑っている。

 

「……それと」 

 

 一息ついて彼女は私を見た。

 

「あなたの横にいる私は、可愛い私がいいの」

 

 

 ○

 

  ……気分はどうだい。

 

「そうね。あとちょっとってとこかしら」

 

 何があとちょっとかは聞けなかった。聞きたくなかった。

 前よりも腕につける点滴の数が増えても、彼女の態度はずっと変わらない。余命が残り少ないと知っても彼女は彼女のままであって、私だけがあたふたと気を弱らせていた。医学的な数字を見るかぎり、彼女は何よりも痛く辛いはずなのに、私の前では決してその姿を見せない。強がりをしているのだろうが、そんな様子すら見えなくて、そのことが余計私の胸をつついた。

 

「…………もしかして、泣きそう?」

 

 ……泣きそうになんか、なっていない。

 

「…………ねぇ」

 

 彼女は変わらず柔らかい表情のままこちらを見る。

 私と目があったその時にまた笑って、私ね、と呟くように言った。室内に響くその声に、白色のカーテンが答えるように静かに揺れている。

 

「私ね。幸せよ。父がいて、母がいて友がいて。好きなことをして、好きな研究をして、好きな人と一緒になれて。きっと世界で一番幸せよ。だからね、死ぬって言われてもそんなにショックじゃなかったわ。私こんなに幸せなまま死ねるんだなって」

 

 彼女の目は私の目から決して離れない。

 

「ねぇ。聞いて。私の最後の我が儘。私が死ぬまであなたは笑っていて。自分の妻が笑顔で死んでいくことにあなたは誇りに思って。あなただから私は笑顔で死ねる。あなただから私は最後にこんな我が儘をいえる。あなたを1人にすることだけが心残りだけど」

 

 彼女の手が私の頬をすっとなでる。その上に私の手を添えると、信じられないほど軽い手であった。

 

 

「死んでもあなたを愛しているわ」

 

 

 

 三日後彼女は静かに息を引き取った。

 彼女のベッドの横で医者が彼女の死を告げた時、私は涙を止めることが出来なかった。

 

 

 ○ 

 

 妻が亡くなってから三年後。

 私は今大学の研究室の生徒たちと他県の山に昆虫採集に来ていた。学生の実習に使う昆虫を集めるために私たちはそれぞれ網をもち昆虫を探す。学生たちと別れ、林をかき分けながら私は山の奥に進む。

 妻が亡くなる前までは学生と一緒に辺りを回っていたのだが、今では学生たちを放って1人で山を歩くようになった。もちろん学生たちには私の研究室の研究者が付いている。信頼できる者ばかりで何も心配はしていない。

 

 風が吹き山が唸るように草の擦り合う音が聞こえる。木の影により太陽の光が遮られ辺りは薄暗い。足を踏み出すとくしゃりと小枝が折れる音がする。

 妻が亡くなってから私は1人で過ごすことが好きになった。3年前から周りの人たちは私を気遣い当たり障りのない距離をとり続けている。そのうち元のような距離に戻れるだろうとも思ったが、戻ったところで何が変わるわけでもないことに気付き、戻る機会を失ってしまった。

 1人の機会が増えた私は、ひたすらに研究を続けた。何かに没頭していないと、余計なことを考えてしまうからだ。そんなふうにがむしゃらにしていると、いつの間にか周りからは「現代のファーブル」  だと言われてしまった。過大評価な名前であることは、私が一番よく知っている。ただ、一番最近出した論文が世間でも多少騒ぎになったのも事実だ。

 長年暖めてきた研究が身を結びそれなりの成果を出してしまった。周りの祝福とは裏腹に、私の気分は下がっていた。

 これで、一番没頭していたものを失ってしまったのだ、と。次の研究を見つければいいのだが、どうしてか、そんなやる気はなくなってしまっていた。新しいことを始めるという思考が、出来なくなっていた。

 

 私は意味もなくため息をついた。そして、何か考える訳でもなくなんとなく前方の木を払おうとしたと時に自分の右手に異様な腫れがあることに気付いた。

 

 ………蜂に、刺されていたのか。

 

 いつの間に刺されていたのかなど考える暇もなく急激に気分が悪くなる。そう言えば昔一度ススメバチに刺されているなぁなどとのんびり思う。

 世間では蜂は危険視されているが、こちらが何もしていないのに蜂が人を刺すことは珍しい。巣の近辺を荒らしたり、蜂を挑発しない限りは、基本的に無害だ。しかし、例外と言うものは存在する。特に、気性の荒いスズメバチは縄張り範囲が広く、こちらが意図せずとも怒らしてしまうことがあるのだ。

 自分が刺されたという時でさえ、考察を初めてしまうのは性なのだろう。思考しながらも膝が私を支えていられず地面につき、そのまま私は前のめりに倒れる。 

 頬と地面をつけながら、目の前の景色に目をやると、散らばる落ち葉は大層大きく見え、歩き出す蟻達は無関心に行進している。

 

 散々、虫を研究してきた。大量の虫を薬品漬けにし、殺してきた。冗談や比喩ではなく、研究のために命を奪った虫の数は万を越えているだろう。その虫に私の命を断たれても文句を言える道理などなかった。 

 妻が死んでからも、自ら死のうと思った事はない。私が死んだら天国の妻が悲しむ、などの創作の物語にありがちな思いがあった訳でもなく、妻が死んだからといって悲劇の主人公のように思い悩む訳でもなく、深く考えずに漠然と生きていた。

 死にたいと思った事はないが、こんなふうに虫に殺されるなら、私らしい最後だと思った。

 

 ただ…………。

 

 

 

 …………………………もう一度、妻に会いたかったな。 

 

 

 

 

 静かに目を閉じながら落ち葉の絨毯に身を委ねると、私の意識は溶けていくように消えた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ○ 

 

 

 真っ暗な空間であった。自分の体は思うように動くことが出来ず、水の中で揺らされている感覚がする。

 

 ここが、死の世界か。

 

 学者として、最も遠い見解を思い浮かべる。死後の世界など信じたことは一度もないが、いざ自分が死んだとなるとあらゆる事が信じられる。

 ただ、死後の世界にしては穏やか過ぎる気がした。私の体は動かないが、頻繁に周りを揺らすような振動を感じ、その音が私を大層安心させた。

 閻魔や天使など出てくるのだろうか。子供のような空想を頭に浮かべるが、馬鹿らしくなって空想を掻き消す。

 自分の状況について考えようとしたが、真っ暗な空間にもかかわらず計り知れない安心感を感じて、私は再び瞼を閉じこの空間に身を委ねた。

 

 そんな日々がどれほど続いたのだろうか。

 心地よさに目を覚まし、快適さにまた目を閉じる。幾度となくそれを繰り返し、空間で私は揺れる。閻魔や天使など現れる気配はまったくなく、段々と妙に現実的な世界に思えてきた。この状況について、目を覚ましている時に様々な予想を立てるが、どれも非現実的であり、科学者である自分を笑ってしまいそうになった。そして、また数日たったある日。いつもより空間は激しく揺れ、普段聞こえていたドクンドクンという音以外にも様々な音が耳に入る。

 

 ガヤガヤとしながらも空間を激しく揺らされ、同様に私も踊らされながら、ある仮説が確信に変わった。

 唐突に視界に光が現れ、世界は急激に明るくなる。

 あまりの眩しさに私は目を開ける事など出来ず、体を包むように優しく私に触れる手にまったく抵抗できない。

 

 

 

「おめでとうございます。立派な赤ちゃんですよ」 

 

 見に覚えのない声が私の耳に届き、私の仮説に丸をつけてくれた。

 

 

 

 

 

 どうやら私は生まれ変わったらしい。

 

 

 

 

 

 


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