静かな場所だった。
どこからかほんのりと黄色の光が射し込んでいて、朝日のように周りを照らしている。
少し足を動かすと、かさりと音がなる。下を見ると、背の低い草達が私の靴に踏みつけられていた。
風が吹く。
私の髪は揺れなかった。
不思議に思い頭を手にやると、髪が短くなっていることに気付く。
周りを見渡す。
大きな木の横に一人の女性がいるのを見付けた。懐かしくて、胸の中の何かが込み上げる。
風が吹く。
木の葉が擦り合う音が聞こえ、彼女の髪が大きく舞う。
私は、彼女の元に向かって足を踏み出す。
風が私の背中に吹きつける。草が繁る地面は下から私を押し出す。早く、早くと急かすようだ。
彼女の顔がうっすらと見える。
多分、笑顔だと思う。
彼女に向かって、私は手を伸ばした。
すると、急に世界はスローモーションになり私の手は中々届かない。私の体が段々と朽ちていき、手が空にから回っていると、彼女がゆっくりと口を開いて言った言葉が、私の耳に届いた。
…………もしかして、泣きそうになってる?
泣きそうになど……………………
○
目を覚ますと、見慣れた部屋の壁が私の瞳に映る。私はゆっくりと体を起こし、壁に掛けられた時計を見る。時計の針は2本ともちょうど真上を指していて、午前中まるまる寝ていたことを思い知った。今日が日曜日であったことに感謝しながら、体を伸ばす。最近、疲れが取れていないのかこんな風に寝過ぎてしまうことが何度かある。
私はベッドから降りて、洗面所に向かう。随分見慣れてしまった私の顔を鏡で見ると、目の端に水滴が流れていることに気が付いた。何か悲しい夢でもみたのかもしれないが、よく覚えていない。
蛇口を捻り、水を出す。両手を皿のようにしてその水を受け止め、指の隙間からこぼれ落ちる前に顔に浴びさせる。
何度か同じことをした後、髪を整え、歯を磨く。歯ブラシを左右に動かし、シャコシャコと軽快に音を立てながら洗面所から移動した。テレビの前にある机の上にあるリモコンを手にとって、電源ボタンを押す。グルメ番組が流れ、レポーターが大袈裟に噂の焼き鳥店を紹介していた。昼から焼き鳥はどうなんだ、と思いながら窓に近寄ってカーテンを開けた。
部屋に一気に光が流れ込み、途端に明るくなる。燦々と照り付ける太陽からの光を浴びて、私は目を細める。
セミの鳴く声の聞こえるこの季節は、夏であった。
○
私が魔法を知ってから、数ヶ月経った。気付けば中学一年生から二年生になっており、クラスの生徒が大人っぽくなった。……なんてことはなく、いつも通りのA組であった。と言っても、私も特に変わった様子はない。必死に杖を降って魔法を覚えたり、何かに巻き込まれて急に襲われたり、それから魔法使いに助けられたり、などというイベントが起こることもなかった。
魔法を知ろうが、結局は今までと変わらず、私は世界樹と昆虫の研究をしていた。冬の間はほとんどの昆虫が活動出来ないため、教授の手伝いやデータ整理などをしていたが、春先になって再び自分の知りたいことを調べることに躍起になっていた。
初めは不思議パワーによる昆虫の身体強化について調べるため、魔法に同じような効果をもたらすものがあるかと、学園長に聞いた。
学園長曰く、身体能力を強化する魔法は確かにあるらしい。魔法使いはその魔法を使って、魔力と呼ばれるものを自分もしくは他人に流し入れ、体を強化しているのだとか。……どのタイミングで何のために人を強化する必要があるかは、聞かなかった。
とりあえず、世界樹の影響を受けた昆虫がそれと同様に、世界樹から魔力をもらい、自分を強化しているのだろうと推測した。
しかし、ここで気になるのは、白蟻の形態変化やカブトムシの角のサイズの増大についてだ。
呪文などにより魔法を使うわけではなく、ただ世界樹を食すことだけにより彼らは姿を変える。世界樹の魔力と、自らを強化する際に与える魔力とがまったくの同性質の物であるならば、魔法使いが自身を強化する魔法を使った時に魔力を流してしまったら、姿も変わってしまうのではないか。
学園長にそれを尋ねると、魔法には自分の姿を変えつつ強化するものもあるが、純粋に魔力を送り込むだけでは、大きく姿を変えるような効果はないと言った。
つまりだ。
昆虫達が世界樹の力を受けると、少し特別な影響を受けていることがわかる。
それが、世界樹の内包する魔力が通常の魔力と異なるからか、昆虫がもつ魔力を取り込む受容体が人とは異なるからか、もしくは昆虫が魔力というものに対しての反応が激しいだけなのかは未だに分からない。
どちらにせよ、私の予想では世界樹を食すということがキーであるのではと考えている。世界樹を近くに置いただけの場合は、形態変化するまでの影響はなかったことからも、そう言えるだろう。
ともかく、そこまで考えた私は今どうにかして他の昆虫にもどうにか世界樹を食すことが出来ないかと色々試してみたり、世界樹を食すことによる行動の変化や他の個体への相互作用なんかも調べてみたりしている。
調べても調べても新たな疑問が浮かび、私の知りたいことが尽きることがない。そんな今を、私はとても愉しく感じているようだ。
○
身なりを整え、私は自分の部屋の玄関を開けた。ジーパンに半袖のTシャツと単純な格好であったが、特に気はしない。しっかりと鍵を掛けたのを確認してから、寮の出口に向かっていると、途中すれ違ったクラスメイト達にカラオケを誘われたのだが、やんわりと断った。大袈裟に残念そうな顔をする彼女達を見て、次の機会があったら必ず行くと約束した。すると、たちまち笑顔になった彼女達を見て、単純すぎると思いながらも私も笑みを浮かべていた。
寮から外へ出て、麻帆良大学へ歩いて向かう。太陽が遠慮なく私に日を浴びさせ続け、じんわりと汗が肌に染みるのが分かった。これだけ気温が高いのにも関わらず、外には多くの生徒達が走り回っていて、元気だなと感心していた。
二列の木が挟むようにしている道をゆっくりと抜け、少し市街の方へと入る。学生だけでなく老若男女様々な人が見られ、それぞれが休日を楽しそうに謳歌していてるため 騒がしい通りになっていた。
そのまま歩を進めると、前方に見慣れた制服を来た人が目には入る。休日なのに制服なんだな、となんとなしにその子の後ろ姿を見ると、珍しい緑の髪にアンテナまで生えている後頭部のおかげで、すぐに誰か分かった。
付けようと思ったわけではなく、行く先が同じようで必然的に私が彼女の後ろを歩く形になる。彼女は手にはスーパーの袋を持ち、歩くのと同時に規則正しくそれを揺らしている。前から走ってきた幼い子供たちは彼女に元気に挨拶をしていて、私は彼女に声を掛けるタイミングを見失っていた。
もう少し歩くと、彼女は少し人気の離れたところに向かおうと方向を変える。そっちにはちょっとした空き地があるだけで、めぼしいものは何もない筈だと思いながら、気付けば好奇心に釣られ私は彼女についていっていた。
…………結局、あとをつけるような形になっていたことは、後で謝ろうと思う。
空き地の真ん中で彼女が座り込むと、脇から何匹か猫が寄ってきた。どうやら彼女は、猫達に餌をあげるためにここに来たらしい。
ビニール袋から猫用の餌を取り出す彼女に近寄って、私は静かに声を掛けた。
「茶々丸は、猫が好きなんだな」
茶々丸は私の声が聞こえると、座ったままゆっくりと振り替えった。
「ついてきていたのは、明智さんでしたか」
「……それについてはすまない。どこに行こうとしてるか気になってな」
構いませんよ、と彼女はロボットとは思えないほど流暢に答えた。
茶々丸は買ってきた猫缶を開けて、わざわざ持ち歩いている容器に中身を入れる。猫達はゆっくりとその餌を口にしながら、にゃあと可愛く鳴いていた。
茶々丸はそんな猫達の姿を、じっくりと見つめていた。なんとなく、私も彼女の横に座ってその様子を見る。彼女は急に横に来た私をちらりと見たが、何も言わずにすぐに視線を猫達に戻した。
猫の鳴き声と容器をカタカタと鳴らす音だけが私達の耳に入る。しばらく私達は何も会話をしなかったが、居心地が悪いとは感じなかった。
頭のアンテナ、体の節々に見える機械的な関節から、彼女がロボットであることは間違いないように見える。しかし、人間と同じように言葉を理解して話をし、動物を慈しんでいる彼女を見ていると、人間との区別がはっきり出来ない。現実的に考えてこんなロボットを作れるとは思えないが、魔法のことを知ってしまったのでその類いの物ではないかと勝手に納得していた。
彼女がエヴァンジェリンとよく一緒にいることからも、そう思ったのかも知れない。
エヴァンジェリンの存在については未だに触れていないが、私は彼女も魔法使いなのではと推測していた。というより、歳をとらない魔法があると考えないと、彼女の不思議が解決出来ないためそう思うしかないのだ。そんな風に考えると、昔ほどエヴァンジェリンを恐れることがなくなった。何より、この一年半、彼女が私に接触してこなかったことから安心しているというのもある。
だからこそ、茶々丸に話しかけようと思ったのだが。
何匹かの猫はお腹がいっぱいになったのか、餌から離れていく。また一匹と数は減っていき、今や餌を口にしているのは一匹の子猫だけになった。茶々丸は体勢をずっと変えず、最後の一匹になるまで猫を見つめていた。
魔法のことはまだよく分からない。しかし、魔法により本来意思を持たない筈のものに意思を持たせ、そして、それが今いる生物の命を大切にしている。
そのことが、私にはなんだか素晴らしいことのように感じた。
「……素敵だな」
最後の猫を見送って、餌を入れた容器を片付けている茶々丸に思わずそう言ってしまった。
「……何がですか? 」
すくっと立ち上がりながら茶々丸は私に聞き返す。
君がだ、なんてキザっぽい台詞を言える訳もなく、私は何でもない、と言葉を濁した。
彼女は私の言葉を若干気にかけた様子を見せたが、それ以上聞いてこなかった。
日の光が薄い雲に遮られ、少し辺りが暗くなった時、私達は空き地を抜けるように二人で並んで歩きながら、会話をする。
「明智さんは、これからどちらに? 」
「麻帆良大学にちょっと用事があってな」
「大学ですか。そういえば、時折大学で明智さんを見かけたことがあります」
そう言われ少し驚く。私から彼女は見たことがなかった。
「茶々丸も大学に来ることがあるのか? 」
「はい。メンテナンスをそこで受ける時があります」
淡々と言われたその言葉の意味を考えてしまう。こうして話しているとまったく分からないが、彼女は確かにロボットであるらしい。そして自分がロボットである、ということを隠そうとはしていないようだ。
「茶々丸はこれからどこへいくんだ? 」
「私はマスターの元へ向かいます」
「マスター? 」
「エヴァンジェリン・A・K・マクダウェルを指しています」
「ああ……」
同級生に「マスター」などと呼ばせていることに少し身構えてしまったが、彼女がメイド的な役割のロボットと考えれば納得出来ないこともなかった。
「エヴァンジェリンは今どこにいるんだ? 」
「和菓子が切れたので、学園長の所へ催促しに行くとおっしゃっていました」
「催促」
「私の内部にある言語辞書から考えれば、あの行動は催促というよりも強盗、もしくは脅迫というものに近いかもしれません」
「…………だめじゃないか」
「マスター曰く、あのじじいには何してもいいんだ、だそうです」
「そ、そうか」
学園長の所に気軽に向かっていることから、エヴァンジェリンが魔法使いである可能性を強めた。しかし、和菓子を催促(?)出来るほどの仲だとすると実は彼女は結構歳とっているのかもしれない。魔法で成長を止められると考えたらあり得ない話ではない。
「ちょうど今、じじぃから大量に菓子を強奪してきた所だ」
その時。
突然、後ろから声を掛けられ、私はびくりと胸を衝かれたような想いになる。
振り向くと、そこには黒いワンピースを来たエヴァンジェリンが、お菓子の入った紙袋を両手で抱えて、ニヤリと笑っていた。