セカンド スタート   作:ぽぽぽ

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第58話

 ……これは、まずいです。

 

 ついさっきまでは、特に何のイベントもなく、いつも通りの平穏な休日でした。春の陽気がまだ続き、窓からは暖かい日が射していて、そんな中で私とのどかは二人で静かに読書をするのを楽しんでいました。

 それが今では、揃ってベッドの上に登って、カタカタと震えています。見慣れた薄茶色のフローリングの床は、まるでワニの住む池のように見えて、私はごくりと喉を鳴らしました。

 

「……ゆ、ゆえ~」

 

 横に立っているのどかが、指を小刻みに揺らしながらも私にしがみついてきます。涙目ののどかはとても可愛らしいのですが、そうも言ってられないのです。大丈夫ですのどか、と声をかけますが、その声も震えているのが自分でもよく分かりました。

 

 ……どうしてこんなことになってしまったのでしょうか。

 洗い物は頻繁にしていたし、生ゴミなども貯めないようにしていた筈です。「奴」が出現する条件は満たしていなかったと自信はあるのです。苦し紛れに周りを見渡してみますが、役に立ちそうなものはありません。唯一「奴」をどうにか出来そうなのはハルナなのですが、今はサークルに顔を出しているのでいないのです。

 

 のどかは、未だに私の手を強く握っています。細かい震えはわたしにも伝わってきて、自然と、彼女を守らなければという想いに駆られます。のどかには、そう思わせる力があるのです。

 

「……のどか。助けを呼びましょう」

 

「でも、どうやって……」

 

「ケータイで誰か呼びたい所ですが、ここからケータイの置いてある机までの距離は遠すぎます。まだ玄関の方が近いので、外に……」

 

「む、無理だよぉ。もし、移動中に「あれ」がまたでて、ま、万が一、ふ、踏んじゃったりしたら……」

 

 のどかは、ぶるる、と大きく身震いしました。恐ろしいネガティブ思考に釣られて、私もその最悪の場面を想像してしまい、顔を歪めてしまいます。しかし、このままではいけないのです。ここだって安全な保証はないのですから。

 

 奴を見つけたのは、二人で読書をしている時でした。カサカサ、といかにも嫌な音がして、後ろに霊がいると思い込んでいるときのような、不穏で恐ろしい感覚を抱えつつ、ゆっくりとそこを見ると、やはり、奴が床の上に堂々といました。

 真っ黒な筈なのに、日の光に反射して光沢のある翅の一部が白く見え、刺々しい六本の脚はしっかりと体を支えていました。私達は、一瞬時間が止まったかと思いました。顔は真っ青となり、咄嗟には動けなかったのです。なんとか意識を戻してから、遅れて声にならない悲鳴を上げて少しでも高い所へとベッドに上がりました。

 そこまではいいのですが、今や、さっきまで奴がいたという事実がある床に降りられなくなっています。現在奴は姿を消しましたが、あの恐ろしい脚なら壁も登れそうです。一つだけ良かったことと言えば、いえ、何も良くはないのですが、奴の翅の先が欠けているように無くなっていて、空は飛べなそうなことです。怪我でもしたのかもしれません。その怪我でどうにかお陀仏してくれないかと願いますが、奴の生命力は半端ではないと言います。恐らく願っても無駄でしょう。

 

 今はとりあえず避難していますが、もし、奴が壁を登ってベッドまで来るようなことがあれば、その時は本当に終わりなのです。

 

「……のどかはここにいてください。私が人を呼んできます」

 

「ゆ、ゆえ」

 

「大丈夫ですよのどか。玄関までなら足を床につけるのは精々5歩。その間に奴が出てくる可能性は極めて低いです」

 

 当然、私も怖いです。タイミングよく奴が私の足元に現れる確率は限りなく微小であることは分かっていますが、それでも怖いものは怖いのです。しかし、だからと言って逃げていても事態は進行しないのは分かっています。

 

 なんとかして恐怖を捨てて、外へ。

 そして、助けを呼ばないと。

 

 私は、のどかの手を握り返して、すぐにここに助けを連れてくることを誓いました。のどかはギリギリまで私の心配をしましたが、最後には本当に涙を流しながら、私の健闘を祈りました。

 彼女は、やはり強い子です。一人で奴と同じ部屋にいるのもかなりの恐怖の筈なのに、私を信じてそれに打ち克とうとしています。

 

 のどか、待ってて下さい……っ!

 

 私は震える脚を鼓舞して部屋を飛び出し、頼りになる仲間を探すためにと、必死に廊下を駆け出しました。

 

 

 

 ○

 

 

 

「……どうしたんだ綾瀬」

 

 部屋を飛び出して、最初にあったのは千雨さんでした。自販機に買い物でも言ったのか、手には缶コーラを持っています。

 はぁはぁと激しく吐息を漏らす私を見て、不審がりながらも心配するような顔付きで彼女は私を見ていました。

 

「実は……」

 

「……っ! 奴が出たのか……っ」

 

 私が簡単に説明すると、千雨さんはすぐにその事態の深刻さを察してくれて、苦い表情をしました。

 

「そうか……奴が……」

 

 どこか演技かかった様子で、彼女は天井を見ながら呟いていました。

 もしかしたら、これは心強い味方を得たかもしれないと、私は心の中でガッツをします。千雨さんはクラスでは大人しい方で、どこか達観した姿をたまに見せます。

 

 彼女ならば、そのクールさでなんなく奴を退治出来るのではないか、いや出来る筈です!

 

 そう勝手に決め付けて、どうにか退治のお手伝いをしてくれないですか、と尋ねようとしたその時。

 

 

 

 なんということでしょう。彼女は自分の部屋に戻ろうとしていました。

 

 

「ちょっと! 千雨さん! 薄情ですよ! 」

 

「知るか! 私だって奴は無理だ! 頼むからお前らの部屋でどうにかしてくれ! 絶対外へ逃がすんじゃねーぞ!」

 

「逃がしたくないなら協力を! このままだと、のどかが……っ! 」

 

「あいつのことはもう諦めろ! 」

 

「ひどすぎるです!? 」

 

 自分の部屋に閉じ籠ろうとする千雨さんと、それをさせまいとする私。私達はドアの両側にあるドアノブを互いに引っ張り合います。非力な二人でぐぬぬと踏ん張りあっていると、その騒ぎに便乗したのか、ざわざわと人が集まって来ました。

 

「なになにー。二人して大声あげてどしたの」

 

「おお、謎のバトルが勃発している……。どうしたら勝ちなわけ? 」

 

「千雨ちゃんが大声出しとるのは珍しいなぁ。困り事? 」

 

 まき絵さん、裕奈さん、和泉さんが順番に此方に向かっています。私もこうなったら、なりふり構っていられません。千雨さんの部屋のドアノブに力を入れたまま叫びます。

 

「私の部屋に! 奴が出ました! 黒光りする奴です! 誰か、力を貸してください! 」

 

「……」

 

 三人は、静かに目を揃えます。

 それから、うん、と一斉に頷き。

 

 ばたんばたんと、ドアが閉まる音が廊下に響きました。

 

「み、皆さん!? 」

 

 続いてガチャリと鍵を締める音までもが響きました。

 

「ゆえちゃんご免なさい。ほんとに力にはなれない。ほんとに無理。絶対部屋から逃がしちゃ駄目だよ? 」

 

「ゆえ吉すまぬ。それの討伐は部屋に出た人の責任。決して逃してはならないよ? 」

 

「夕映ちゃんごめん。うちほんまにあかん。もう絶対あかんねんあんなん。なんであんなんが世の中に存在しとんるん。おかしすぎるやろ。絶対繁殖とか防いでな夕映ちゃん」

 

 な、なんて身勝手な人達でしょう。力は貸してくれないけれど、逃がすことだけは許してくれないのです。友情とはなんと脆い。そして彼女達は何しに出てきたのですか。

 

 しかしこうなったら、余計千雨さんを逃がす訳にはいかないのです。私はよりドアノブに入れる力を強めます。千雨さんもまた、負けずに引っ張ります。

 ふぬぬと、二人で戦いを更にヒートアップさせていると……。

 

 

 

「……どうしたんだ二人とも」

 

 

 

 後ろから、救世主の声が聞こえたのです。

 

 

 ○

 

 

 大学から寮にと戻ると、妙な姿の人を見つけた。長谷川さんの部屋のドアノブを力一杯引っ張っているのだ。どこの不審者だろうかと恐る恐る警戒しながら近付いて見ると、目に涙を貯めながら引っ張っているその人は、まさかの夕映だった。

 どうしてその様な状況になったのかと、とりあえず夕映を一度落ち着かせて、話を聞いてみたら。

 

「ああ、ゴキブリが出たのか」

 

「うっ! 駄目です、奴の名を呼んでは……っ! 名を呼ぶと現れるという逸話があるのです」

 

「逸話だろう」

 

「ですが……っ」

 

 ゴキブリという音だけで、彼女の恐怖心を煽っているのだろう。確かに濁点の多いその名前は、響きからしてあまり良いものには聞こえないかもしれない。

 

 あまりに必死で退治してくれと頼まれたので、私は台所にある洗剤を取りに戻ってから夕映についていく。殺虫スプレーがあれば良かったのだが、手元にはなかったため仕方がない。洗剤をかけてしまえば呼吸が出来なくなって死ぬというのは有名な話だろう。

 

「長谷川さんもついてきてくれるんだな」

 

「……あれだけ頼まれて放っておくのも、目覚めが悪いしな。それに明智がいるなら大丈夫だろ」

 

 私が来たと聞いてから、長谷川さんも部屋から出てきた。かなりしぶしぶという感じではあったが、無下にも出来ずに少しでも力に成ろうとしてくれたようだ。やはり何かと放っては置けない性格らしい。

 

「さっきまでは物凄い嫌がっていましたが……」

 

「レベル1のスライムしかいないパーティーとレベル99の勇者がいるパーティーじゃ安心度がまるで違うからな」

 

「私はスライムですか……」

 

 どうやらゴキブリ退治に関しては私はレベル99らしい。

 

「正直もしかしたら明智がそのゴキブリを捕まえようとか言い出すんじゃないかと、少しひやひやはした」

 

「な、七海さん。それだけは……! 」

 

「まさか」

 

 長谷川さんの疑いの目と、それを信じかけた夕映の潤んだ目を見て私は息をつく。

 

「虫は好きだが、害虫の不潔さも分かっている」

 

 世界に最も多く存在するのは生物は昆虫で、とても興味深い存在だとは思うが、それでも私が人に生まれた以上、人の世である。ゴキブリは体に不衛生な菌をつけ、それを家に持ち込む。蚊のように彼ら自体が媒体となることはないが、彼らが触れた食器などから病気をもたらすことがある。夕映とのどかのためにも放って置くわけにはいかない。

 まぁ、研究対象として研究室でゴキブリを見るときはまた別の視点だが。

 

「よかったです」

 

 夕映は心底安心した様子を見せた。

 

「あれだけおぞましいものは多くはいないです。黒くて、刺々した脚で……。翅は千切れていましたが……」

 

「……うん? 翅、千切れてたのか? 」

 

「え、はい。先端の方だけですが……。何故? 」

 

「……いや、これはもしかしたら……」

 

 まだ、確定ではないが、もしかすると……。

 

 

 ○

 

 

「で、なんで網と虫籠を持ってきちゃうかな明智は」

 

「気になることがあってな」

 

「……嫌な予感しかしないぞ」

 

「ゆえ~。怖かったよ~」

 

「大丈夫ですよのどか、明智さんが何とかしてくれます。……網をわざわざ持ってきたのはかなり不安ですが」

 

 夕映達の部屋に入ると、ベッドの上にカタカタと震えているのどかがいた。私が、心配ない、と言いながら手を差し伸べると、彼女は恐る恐るベッドから降りて、私の後ろにいた夕映に抱きついた。かなり心細かったようだ。

 

「それで、どこで現れたんだ? 」

 

「そ、そこです」

 

「……ふむ」

 

 狭く暗い所を好むゴキブリだ。一度見失ったら見つけ出すのは中々困難である。本当はホウ酸団子なんかを仕掛けて置くのがかなり効果があるのだが、それだと食べたゴキブリが暗闇でひっそりと死ぬことになる。目の前でどうにかしないと彼女達の不安感は拭えないだろう。

 ……それに、もしそのゴキブリが「あれ」だとしたら、ホウ酸団子は意味を為さない。

 

「……お、おい! そこ!」

 

「キャアア!」

 

 突然、長谷川さんが床を指差しながら大声を出した。どうやらタイミングよく出てきたらしい。のどかは反射的に夕映に抱きつきながら叫び声を上げる。

 私はすぐさま体を翻し、持っている網を地面スレスレに素早く滑らせて掬い上げるかのように網を捻らせた。

 

「……おお、早業……。って! やっぱり捕まえやがった! なんでだよ! 」

 

「なななな七海さん!? は、早くそいつをやっつけるのです! 百害あって一利なしですよ! 」

 

「あう~。も、もうだめ」

 

 網の中でジタバタするゴキブリを見て、長谷川さんと夕映は騒ぎ、のどかは倒れかけている。私は皆を一度無視して、網に入ったゴキブリをさっと虫籠に入れ換えてから、じっと観察した。

 

「……やはり、オオゴキブリだ」

 

 頭部、サイズ、色、そして千切れた翅から分かるように、オオゴキブリに間違いはなかった。

 

「お、オオゴキブリ? それだとなんかあんのかよ」

 

 恐る恐ると、長谷川さんが私に聞き返した。

 

「安心していい。このゴキブリは害虫ではない。むしろ、自然界的に見て益虫だな」

 

 家に出現するゴキブリ達と違い、オオゴキブリは森林などを生息地とする。ここに来てしまったのはたまたまだろう。オオゴキブリは木の中で何匹かで住む集団性を持ち、お互いに翅を噛じり合う習性があるため、このように翅が欠けていることが多い。飛行能力もなく歩行速度も通常のゴキブリより断然遅く、どこか愛嬌もある。そして、朽ち木を食すため分解者として重宝されているのだ。

 

 このゴキブリは、日本の幾つかの地域で絶滅危惧種とされている。それだけ、森林の数が減ってきているということだ。

 家内にでる害虫のゴキブリはともかく、私は一生物学者として、絶滅の危険がある種をただ退治することは出来ない。種の絶滅もまた、自然の定めなのかもしれない。だが、人の手によって進行されていく生息地の破壊は、生態系を乱していることが多々ある。少なくとも、その生態系を研究対象としてる私こそが、それを大切にしなければならない。

 だから、これは私が森に還しておこう。

 

 

 私はそう皆に説明して、虫籠を大事に持って部屋を出た。

 そんな私の後ろ姿を、彼女達はじっと見つめていた。

 

(いい話ぽかったですが……)

(……ああ、だが)

(……うう)

 

(言っちゃ悪いが、ゴキブリ持って語る明智の姿、かなりきつかったな……)

(……はい)

(……うう)

 

 彼女達にとってはゴキブリはゴキブリ。

 そう皆が思っているのを、私は知るよしもなかった。

 

 

 

 

 ○

 

 

 

「なんだか寮が騒がしいわねぇ」

 

 ドタドタと振動する音と、誰かの声が部屋まで聴こえてくる。まぁこのA組に関しては日常茶飯事で、大して気にかけることでもないんだけど。

 

「そうですねぇ~」

 

 ネギは、やけに嬉しそうにしながら書類の整理をしていた。学校の書類だろうか。先生らしくしちゃって。

 

「あんたなんか良いことでもあったの? 」

 

「え、明日菜さん、分かります? 」

 

「分かりやすすぎ」

 

 私も表情が出やすいから人のことを言えないけれど、今のネギはかなり分かりやすくウキウキとしている。おもちゃを買ってもらう前の子供みたいね、と私は少し笑ってしまった。

 

「実はですね、来るんですよ!」

 

「……誰が? 」

 

 ネギは、私に満面の笑みを浮かべて、それは、本当に嬉しそうな顔で。

 子供らしく、歯を見せながらしっかりと答えた。

 

 

 

「お姉ちゃんです! 学園祭の時、麻帆良に来るって! 」

 

 

 





少し補足を。
ゴキブリは最も忌み嫌われる昆虫ですが、その多くの種は森林に生息しています。家に出現するゴキブリは、クロゴキブリ、ヤマトゴキブリ、チャバネゴキブリ、ワモンゴキブリと数種しかいなく、実際は森林に住む種がほとんどです。家に出るゴキブリは確かに不潔ですが、森林性のゴキブリはカブトムシなどと大差ありません。
ゴキブリは繁殖性が高く(種によりますが)、短いサイクルでどんどん増えます。卵鞘とよばれるものから何匹もの子供が産まれるのです。一匹みたら百匹いると思えという話は比喩でもなんでもないので、家で見付けたらなんとか退治しましょう。ホウ酸団子など隠れてる奴等まで一気に退治できるものがオススメです。

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