私はリュックからピンセットを取りだし、枯れ木の中にいる白蟻を一匹摘まみ上げて観察した。その白蟻の生態は、枯れた木に住みその木を餌として巣を作る、前世でもよく見た一般的な食材性の白蟻と同じように見える。
しかし外見は、私が見慣れたものではなかった。
真っ黒な白蟻は、頭部にはハサミのような顎をもち、背中には翅まで生えている。
「うわっ ! なんだそりゃ。…………蟻? 」
いつの間に私の後ろに来ていた長谷川さんが、私が持つものを見て言う。
「これは白蟻だな」
「…………黒いぞ? 」
「そうだな」
「…………おかしいよな? 」
「おかしいな」
色以前に、白蟻と黒蟻では形態的にも系統的にも大きく異なっているが、名前のせいでそのような認識はしにくいのだろう。黒い状態の白蟻は、むしろゴキブリの仔虫に近い。
私が手に持っていたピンセットを長谷川さんに渡す。それを受け取り、長谷川さんも下から上からと角度を変え、観察する。
「なんか…………拍子抜けだ。もっと無茶苦茶なやつがいると思ったのに、黒くなって翅があるだけかよ」
私にピンセットを返し、がっかりした表情を見せて言う。
長谷川さんがそのように思うのは、ある意味当然だろう。白蟻についてよく知っていないと、この現象の異常さが分からない。
「実はだな、さっきはああ言ったが、白蟻が黒いことは特段不思議なことでもない。実際に多くの白蟻はある条件で体を黒くする」
白蟻も、蟻と同じように働き蟻や兵隊蟻などの役割を分担される。そのなかでも、子孫を残す役割を持つものは黒くなり翅をもつ。
そのことを長谷川さんに説明すると、ますます落ち込んだような表情をみせた。
「じゃあもっと拍子抜けじゃねーか。別に特別でもないってことだろ? 」
「いいや。こいつらは十分特別だ」
「…………」
長谷川さんは、説明しろ、とでも言いたげな表情でこちらをじっと睨みつける。
「…………ふむ。そうだな、少しマニアックな話になるかもしれないがいいか? 」
「ここまで来たら聞くしかないだろ。理解出来るかは分からねーけど」
長谷川さんは、分かりやすく頼むぞ、と続けてこちらを見る。私は一息ついてから、説明を始めた。
「先程言ったように、白蟻には基本的に3つの形態がある。働き蟻と、兵隊蟻と、生殖蟻だ。兵隊蟻は戦うために大きな顎をもち、生殖蟻は交尾相手を見つけるため巣から飛び立つ形態を持つなど、それぞれ異なる姿をしているんだ」
私が話しているのは一般的な白蟻の話で、正確にはそうでないものもいるのだが、今する話ではない。
長谷川さんは、うんうんと頷きながら話を聞いてくれている。
「しかしだな、これらの形態は生まれながら持っているものではないんだ。どの白蟻も皆初めはしばらく同じ姿をしている」
「…………つまり、成長するにつれて別々の姿になっていくってことか? 」
「そうだ。巣内の状況や環境に合わせて、彼らは姿を変えていく。ここで重要なのは、生まれたばかりの白蟻はどれも違いがなく、どの形態になる可能性も持っているということだ」
長谷川さんが、少し考えるように頭に手を添える。
「えーっと、つまり、例えばあるイモムシはどれも同じ蛹になるけど、そっから蝶になったり蛾になったりする可能性がある。みたいなイメージでいいか? 」
「正確には結構違うが…………まぁ、今はそれでもいいか」
とりあえず分かってほしいことは、通常ならば、幼虫の段階ではまだ何にでも成れる可能性を持ち、最終的にどれか一つになるということだ。
「では、世界樹の枝に住んでいた白蟻をもう一度みてくれ。……どんな姿をしている?」
長谷川さんが、屈み込んで崩した木のなかを見つめる。
「全部の白蟻が、強そうな顎と黒い体と翅をもってる。ってことは、こいつらはその、兵隊蟻とか生殖蟻とかの特徴全部持ってるってことか? 」
「その通り」
私は指を立て、続けて結論を述べる。
「つまりだな、白蟻は潜在的に全ての形態になる能力を持っているが、普通はその中からひとつの形態しか発現出来ない。しかし世界樹に住み、食すものは、それらの潜在的能力を全て引き出され、一斉に発現している」
なるべく簡単に説明したかったのだが、長谷川さんの理解力に甘え、結局難しい言葉を使ってしまった。長谷川さんは、それらを理解しようと必死に頭を動かしているようだ。
「…………要するに、世界樹の影響受けたら、潜在的能力をすっげえ引き出されるってことで…………あってるか? 」
ざっくりとまとめられた意見だが、私はゆっくりと頷いて肯定する。しかし、しっかりとしたデータを集めなければまだ仮説止まりだ。
世界樹が潜在的能力を増加させるなどの摩訶不思議な物質を伝承するとしたら、それを持った白蟻もまた他の生態系に影響を与えるのだろうか。白蟻を捕食する生き物は当然のこと、土となった白蟻が雨に流され、その雨水が作物の給水に役立ったら、作物までもが影響を受けるのか。その場合は、それを食す我々も勿論…………
二人でしばらく思考に耽っていると、風が吹き、私たちの髪を揺らした。何気なしに周りをみると、カップルらしい男女が世界樹に近付いてくるのが見える。そこまで自然に入り込んだ場所でないここに、休日の昼過ぎである今、人が来るのは何も不思議なことではない。
だが、ハンマーを持って木を崩し、白蟻を取り出している小学生二人は、周りからみれば不審に思われるだろう。
私はハンマーとピンセットをリュックの中にしまい、長谷川さんに移動しよう、と声をかけた。長谷川さんも人が来たことに気付き、頷くと、私たち二人は来た道を戻るようにして世界樹から離れながら、会話を続けた。
「さて…………今後長谷川さんはどうする? 」
「…………どうする? ってのはどういう意味だ? 」
「私はもうしばらく近隣の森などの様子を探りながら、世界樹について調べようと思う」
と言っても、今は実験をするための道具などを用意することは出来ないため、本腰を入れて研究を始めるのは中学か高校に入ってからだろう。それまでは、事前研究としてもう少し麻帆良全体の生態系でも見てみようと思っている。
「私は…………そうだな。何か分かったら教えてくれれば十分だ」
私はその発言を少し意外に感じた。私は、長谷川さんも私と同じように気になることは最後まで調べるタイプだと、勝手に思っていたのだ。そんな私の想いを察したのか、長谷川さんは少し照れながら続けた。
「正直な。今回で私の欲しい情報はほぼ揃ったんだ。明智のおかげで、私がおかしい訳じゃないっていう証拠が得られたし、その原因の予想もできた。これからは異常を見ても、ああこれも世界樹のせいかもな、って思える」
長谷川さんは、雲を見上げながら、ゆっくりと言う。まばらにある雲の流れは遅く、まるで二人の歩調に合わせているかのようだ。
「それだけでな、私は今よりかなり楽になれると思う。だからもう、十分なんだ」
長谷川さんは、私の方に顔を向けて、にこりと笑った。
異常を見ても見えない振りをし、その原因も何も分からない。誰にも相談することもできず、胸に抱えて生きるのは、息苦しく感じていたのだろう。長谷川さんにとってそれらの細かい機構や仕組みなんかよりも、その要因や自分を肯定してくれる人さえいれば、それだけで今までとは景色が変わる。
初めてみたその笑顔が妙に眩しく感じ、私も微笑みながら言葉を返す。
「……そうか。長谷川さんがそう思えたなら、よかった」
「……ああ。明智」
「ん? 」
「………その…ありがとよ」
長谷川さんが、此方から顔を背けてから言う。顔を見てお礼を言うことが照れ臭いのだろうか。私はもう一度笑いながら、どういたしまして、と言った。
○
「そういえば、異常を異常と思えない現象についてはどうやって調べるんだ?」
世界樹から離れ、二人で少し賑わっている街を歩いていると、長谷川さんは私に尋ねるように聞いた。欲しい情報は十分と言っても、気になることはあるのだろう。特に自身のトラウマたるその内容については。
「それについては、ちょっと分からないな。どのような現象が起こっていてそのようになるのか、想像ができない」
異常を認識出来なくさせる、というのは脳に何らかの障害を起こさせているのだろうか。しかし、麻帆良に住む人全員どころか、外の人にも世界樹を普通と認識させるなど、どうやっているのか検討もつかなかった。
「……ちなみに、人為的か自然的か、明智はどっちだと思っている?」
「……恐らく、前者だろうな」
やっぱりか、と頭をがくっと下げて長谷川さんが嘆く。
自然現象だとしたら、このようにピンポイントに情報を隠そうとしている節が多くならないだろう。
私は、ふと興味本位で思い付いたことを、長谷川さんに聞いてみた。
「……もし人為的だとして、長谷川さんは、その犯人を見つけたらどうする?」
長谷川さんは少し考える素振りをしてから答えた。
「……そいつが何のために皆の認識を変えているかによるけど、一言文句言いたいくらいだな。お前のせいで暗い学生生活を過ごしたぞってな」
自虐を入れながら、冗談混じりに長谷川さんは言った。
やはり、長谷川さんは、強い子だ。
異常の原因が、世界樹という自然現象によるものかもしれないと思うことにより、それを隠そうとする事に対しての嫌悪は薄れたようだ。私は再度長谷川さんの強さに感心していると、彼女は心配するような顔をして私に聞いた。
「……というか、明智は気を付けたほうがいいんじゃないか? 誰かが隠してるってことは、あんまり調べてると、なんか悪の組織的なやつに消されたりとか…………」
久々に見せた子供らしい発想に微笑ましくなったが、笑い事じゃなくなる可能性もあるのは確かだ。人の認識を誤認させる何かを持つ人がいるのだとしたら、何が起こってもおかしくはない。
「そうだな。気をつけながら、ほどほどにするさ」
その後、二人で様々な話をしてから、ちょうど日が暮れ始めるという時間に私たちはそれぞれの家に到着した。
次の日の学校では、廊下ですれ違った私に長谷川さんは、挨拶をしてくれた。
前よりも少し明るくなったような気がするが、別にクラス皆と打ち解けようと思っている訳ではないらしく、クラスメイトへの長谷川さんの態度は今までとあまり変わらなかった。しかし、私が話しかけると顔を上げて堂々と話してくれるので、それだけで私は嬉しかった。
私はというと、あの世界樹探索を終えた後日、世界樹に関する資料や情報を集めようとしたが、まともな情報はほとんど得られなかった。図書館島と呼ばれる大量の本が置いてある場所があるそうだが、何故か罠が仕掛けられているらしく、小学生には勿論大人でも危険であり、奥まで入ることはできなかった。
それらのことを考慮しても、やはり何者かが麻帆良の情報を意図的に隠していることは、確実に思えてきた。確かに、世界樹が私の仮説通りの効力を持つのなら、しっかりと研究してから世に出すべきなのだろう。もしくは、悪用されないために情報を隔離するということにも納得はできる。
そのため、薮蛇をつつこうとする私の行動は間違っているのかもしれない。しかし、前世を研究者として生きた私は、この問題を放置しておくことが出来なかった。別に誰かに公表したいわけでも、世の役に立ちたい訳でもない。ただ、私という存在が、新たな知見を得ることを諦めきれないのだ。
どんな小さな事象でも、それを突き止めて行けば大きな何かに繋がることがある。たったひとつの塩基配列の変化から、重大な何かに気付けることもある。新たな発見とは、それだけであらゆる見方を覆す材料となり得るのだ。
そして私は、それを発見し、自らの世界を広げる愉しさを知ってしまっている。
こんな研究材料を前にして、じっとしていられないのだ。
何年かかる研究になるかは分からないが、私はしばらく世界樹とその影響について調べていくことを、胸の中でひっそりと誓った。
○
それから私は休日には何度も森に昆虫を採集しにいった。
夏休みにはあやかと明日菜と共に、雪広家の別荘に遊びに行ったりもした。秋の運動会では、ういが運動会で他の生徒をごぼう抜きして一位になり、冬には家族でクリスマスパーティーをした。
季節はぐるぐると廻り進み、私の心にすこしずつ思い出が刻まれる。
大人の視点で見る子供の世界はずっと奥深く、成長していく周りの子供たちは、私の気持ちをひっそりと昂らせる。
そうして同じように季節がもう一周し、いつの間にか私たちの体にランドセルが不似合いになったころ、ついに私たちは、中学校に入学する年になった。
少しだけ補足を。
シロアリの生態について
シロアリは作中に書かれている通りいくつかの形態に分かれます。巣作り、給仕などを行う働きアリ(ワーカー)と、敵と闘争するために牙や角を生やした兵隊アリ(ソルジャー)、巣を旅立ち仔を産むため羽根をもつ生殖アリ(ニンフ)がいます。それぞれに分化するのは歩い程度成長した後であり、どれになるかは遺伝要因ではなく様々な環境要因で決まるといわれています。つまり生まれたシロアリはどの系統にもなる可能性があるということです。
そして本作で登場したシロアリは、すべての形態を持ち合わせたものであり、それによって七海は異変に気が付いたということです。
ポケモンで例えると、バルキーは成長の仕方でサワムラ―、カポエラー、エビワラーのいずれかになるはずなのに、全部混合した個体が存在していた、ということです。