俺が黄色いタコに出会った日
青春とは悪である。
世界は小説のように都合よくできてはおらず、純不純を問わず悪意に満ちている。個人の悪意、集団の悪意、直接の悪意、間接の悪意。そのどれもを彼らは青春の名の元に正当化する。
学校社会が集団交流を促す教育機関であることを考えると、無視という行為も悪である。そういう意味では誰とも交流をしない俺、比企谷八幡も純然たる悪と言えるのかもしれない。
黒歴史を作りまくった中学校生活を終えて、関係をリセットするためにうちの生徒がほとんど進学しない、千葉有数の進学校である総武高校に入学した。まあ、リセットした関係なんて全部が全部マイナスなものだったわけだが。
そして、今後三年間に多少なりとも希望を抱きながら早めに登校していた入学式の朝――俺は交通事故にあった。飼い主の手から離れた散歩中のワンコが轢かれそうになるのを、つい助けてしまったのだ。
右足を骨折して全治一ヶ月。あんな立派な高級車に轢かれた割に、この程度で済んだのはむしろラッキーと言えるだろう。その結果、俺の高校デビューは開幕ぼっちスタートが決定してしまったわけだが。
今にして思えば、あれがなくても人に早々話しかけない俺は、どの道開幕ぼっちスタートだっただろうなとは思う。そこに関しては入院中に折り合いもつけたし、どうということはなかったのだが、学校に復帰してから進学校で一ヶ月休むことの意味を実感した。
端的に言えば、授業についていけなかった。得意科目の国語や英語や暗記科目の社会はともかく、元からそこまで得意ではなかった理数系が壊滅的に理解できなかったのだ。理解しようと自学しても、その分授業は先へ進む。一週間も経つ頃には勉強すること自体を諦めてしまった。
そして考える。集団になじむこともなく、本分である勉強にもついていけない俺がここにいる意味はあるのだろうか。
きっと、恐らく、意味などないのだろう。
その結論に至ると、急に心は冷めてしまった。二週間も経つ頃には学校に行くこともなく、昼間から夜まで外をふらつく生活をするようになった。俺一人程度が不登校になった程度で学校もクラスも何も変わらず、今まで通りの空気が流れているだろう。
うちの親も何も言わない。唯一妹の小町が時々心配そうに話しかけてくるが、直接的なことは何も言ってこなかった。
そんな家にいるのもどこか息苦しくて、今日も俺は夜道を当てもなく歩く。
***
「……ん?」
夜中の人っ子一人いない住宅街。深夜を回った細い道を照らすのはポツンポツンと設置された街灯くらいのもので、視界は非常に悪いし、灯りが発するジジジという不快にすら感じる小さな音以外何も聞こえない。
「ヌルフフフフ」
だからその声はいやにはっきり聞こえてきたし、その黄色い姿は目に痛いほど目立った。
黒い服に身を包んだその身体は……でかい。二メートルは余裕であるだろう。それに、どこかフォルムが人間離れしている気がする。人の腕ってあんな風に曲がるもんだっけ?
「いやあ、給料があるっていいですねぇ。甘いお菓子が食べられるって……幸せ」
手に持っていた恐らくコンビニの袋を大事そうに胸に抱いたかと思うと、その黄色い人物は――飛んだ。
「……は?」
一瞬何が起こったのか分からなかった。突然のことに、消えたのかとすら思ったが、ふと上を見上げると黒と黄色のフォルムが目に入った。
なんだあれ、UMA? どっかの国の戦闘スーツとか? 一直線に飛んでいくから、かろうじて目で追うことができているけれど、ものすごいスピードで巨体は豆粒になっていく。
あの方向は覚えがある。中学の時の学校見学で行った私立の学園があったはずだ。
脳がガンガン警鐘を鳴らしている。あんな得体の知れないものは無視した方がいいと警告をあげ続けている。
でも、それでも。
「……行ってみるか」
何よりも好奇心の方が何倍も勝ってしまった。
地図アプリで現在地点と謎の人間(?)が飛んでいった方向を入力すると、俺はその方向に向かって駆け出した。
「はっ、はっ、はっ……」
つらっ。
さすがに中学からこっち、ずっと帰宅部だった身にとって、この運動はなかなかきつい。最低限の舗装がなされた山道を登るだけで息が乱れに乱れてしまった。だけれど、あいつの正体を確認するならおそらくここだ。私立椚ヶ丘学園近くの小高い山。あんなでかくて目立つ図体の飛行物体が目立たないように降り立つならここだろう。登るペースを緩めながら息を整える。
やがて道の先に何かが見えてきた。はやる気持ちを抑えてゆっくりと近づく。石造りの二本の小さな柱、そこをくぐった先には綺麗に舗装されたグラウンドに木造の――
「学校……か?」
木造平屋のそれは一昔前の校舎だった。廃校になったものだろうか? しかし、それにしてはやけにグラウンドなんかも手入れが行き届いている気がする。
校舎の方に目を向けると、窓の一つから光が漏れていた。やはりまだ機能している施設のようだ。ひょっとしたらあのデカブツがいるかもしれないと、息を殺して抜き足差し足で明かりのついている窓に近づいた。
窓の脇に身体を寄せて、そっと中を覗いてみる。
「……ビンゴ」
黒い服に黄色いフォルム。間違いなくさっきの奴だ。しかし、こうしてみると明らかに人間ではない。さっきまでは手袋をつけて変装していたようだが、その手の先には指と思われるものが二本しかついておらず、そもそも腕と思われるそれには関節らしきものも見当たらず、ぐにゃりと曲がっている。というか、骨自体がないのではないだろうか。顔もスライムみたいにぶよぶよしているし。
そしてなにより服の下から伸びた無数の脚。こんな生き物を俺は知らない。あえて何かに例えるとしたらタコだろうか。黄色くてこんなでかいタコ、俺は知らないけれど。
その異常な生命体は行儀よく椅子に座って――
「ヌルフフフ、この新作スイーツおいしいですねぇ。コンビニデザートもなかなか馬鹿に出来ないです。ヌっひょー! この曲線は芸術品ですよ!」
……コンビニデザートを食べながらグラビア雑誌を見ていた。
なんだこいつ。いやほんとなんだよこいつ。
普通こんな異質な生き物がいたら恐怖するものだが、そのあまりにも間抜けな様子に、完全に緊張が切れてしまった。
そしてそのせいで――
「そこで何をやっている」
「っ!!」
俺は後ろから近づいてきていた気配に気がつかなかった。
***
「暗殺教室?」
“3-E”のプレートが付いた夜中の教室で、防衛省の烏間と名乗った人が説明してくれた。
新学期の初めに起こった月が七割消滅するという世界的事件。その犯人が黄色に無数の触手を持つこの生物であり、さらにこいつは来年三月に地球も爆破すると言っているらしい。
そして、このタコ型生物が逃げ回らない代わりに出した条件が「椚ヶ丘中学校3-E担任をする」というものだった。最高時速がマッハ二十にもなる生き物を一ヶ所に定住させることができるという理由で、政府もその条件を飲んだらしい。
そして、このE組のクラス全員がこの生物を外部には秘密裏に殺そうとしている。つまりは中学生が暗殺を行っているのだ。生徒が暗殺者、ターゲットは暗殺報酬百億円の先生。あまりにも現実離れした関係だが、直にその地球破壊(予定)生物を目にすると、事実として飲み下すしかなかった。
「まったく、あれほど一般人には見つからないようにしろと言っていただろうが」
「ヌぅ、面目ありません」
まあ、その凶悪生物はなぜかE組の体育教師も兼ねているらしい烏間さんに説教されているんだけれど。こいつ本当に暗殺対象なのん?
「しかし、確かにこいつが油断していたとは言っても、比企谷君はなぜこんな時間に出歩いているんだ? 見た感じはまだ学生のようだが」
痛いところを突かれた。ついでに補導もされてしまうだろうか。まあただ、今さら嘘をついても仕方があるまい。
「一応総武高校の生徒ですが、今は学校をサボってるんですよ」
「にゅ、言い訳をしないのですね」
「誤魔化したところで防衛省の人が相手ですよ? ちょっと調べれば嘘ついたって分かるじゃないですか」
権力とは単純な力であり、その点では俺はこの場で圧倒的弱者だ。ここでむやみに国家権力を敵に回すのは愚策以外の何物でもない。
俺は最底辺。負けることに関しては最強。そして、余計な勝負を回避することに関しても最強なのだ。
触手生物はふむふむと考え込んでいるが、正直こいつのことなんてもうどうでもいい。
「それで、俺はどうなるんです?」
目下の問題は俺の処遇だ。
この生物は国家機密レベルの極秘生物だと烏間さんは言っていた。ということはそれを聞いてしまった俺を日本政府が放っておくわけがない。運命の日まで厳重に見張りがつくか、軟禁か、はたまた記憶消去か。いずれにしても、このままやすやすと帰してはくれないだろう。
「あぁ、こちらの不手際故に非常に申し訳ないのだが君には……」
「比企谷君にはこの暗殺教室に“転校”してもらいましょう」
「「は?」」
烏間さんの声を遮るように触手生物が声を上げた。
「待て! むやみに一般人を暗殺に参加させるわけには……」
「けれど、そうしない場合は比企谷君の記憶操作処理をしなくてはいけませんねぇ」
諭すような声に烏間さんはグッと喉を詰まらせる。というか、本当に記憶操作処理とかできるんですね。八幡冗談で候補に挙げただけだったのに。
「それに、彼はなかなか才能があるようですよ。殺気は感じられませんでしたが、私は暗殺者だと思ってしまいましたから。まあ、そのせいで姿を見られてしまったわけですがね」
え、暗殺者とか酷くないですかね。確かに小町に目つきが酷いとは言われるけれど、そんなに人を殺しているように見えるのかな。ちょっとショック。
「っ……! なるほど……」
凶悪生物の言に烏間さんは何か納得したようだ。しかし、俺の言い分も聞いていただきたい。
「ちょっと待ってください。そもそもここ、中学三年生の教室ですよね。俺、高一なんですけど。まず転校が無理じゃないですか」
高校から中学校への転校なんて聞いたことがない。そもそも暗殺をする教室なんて、ちょっと怖いなんてレベルではないんだけれど。どんな化け物たちが潜んでいるのか分かったものではない。
しかし、目の前の黄色い顔は楽しそうに「ヌルフフフ」と笑いかけてくる。
「転校というのはあくまで方便です。比企谷君は毎日学校に来るようにここに来て勉強をすればいいだけです。国がかけ合えば、今通っている高校での留年の心配もないでしょう。ね、烏間先生?」
「……はあ、本人が了承するのならこちらで手配しよう」
いやあの、俺了承なんてしていないんですけれど……。いや、学校に行かなくてもいいとかマジ天国だけれど、その代わりに普通に学校にきて暗殺っていうのも、むしろ大変になってない? という話なんだよなぁ。
「まあ、俺としてもあまり記憶操作処理はしたくないんでな。できるのなら、比企谷君にもこの条件を飲んでもらいたい」
「最新技術とはいえ、記憶操作も完璧ではないですからねぇ。私もあまりそっちの処置は取ってもらいたくないんですよ」
「……暗殺者が増える状況を、なんで暗殺対象が推奨してるんですかね」
なんで常に殺される危険に晒されている存在が人の心配をしているんだか。こいつの前では、つい気が抜けてしまう。ため息をついた俺に、奴は黄色い触手をくねくねとくねらせながら、余裕たっぷりに笑った。
「ヌルフフフ。大丈夫ですよ、殺されるつもりは微塵もないですから」
ゴムボールみたいな顔が黄色と緑の縞模様に変色する。烏間さん曰く、相手をナメ切っている時の顔色らしい。つまりこいつ、感情を隠すことができないんじゃ……。
なんかどこか抜けている暗殺対象者だなと思うと、全力で拒否する気も失せてしまった。
「わかりました。その提案、受けさせてもらいます」
「ヌルフフフ、よろしくお願いします。私のことは、“殺せんせー”と呼んでください」
殺せんせー、か。どうやら生徒の一人が決めた名前らしい。殺せない先生だから殺せんせーだとか。
「よろしくお願いします、殺せんせー」
こうして、俺の暗殺教室は始まった。
読んでいただきありがとうございます!
本当は完結してからこっちに転載しようかなと思っていましたが、端的に言ってまだ当分終わりそうにないので、もうこっちでの投稿もやっていこうと思います。
八幡の葛藤や成長、E組生徒や殺せんせーも含めた先生達との交流を楽しんでもらえたらなと思っています。
ちなみに、暗殺教室単行本18巻が出ていますが、一応ラストまでの大まかなストーリーはでき上がっているので――完結するまで読めません!
早く読みたいですのん……。