二度目の中学校は”暗殺教室”   作:暁英琉

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暗殺教室にあいつはいらない

「ただいま」

 

「あ、お兄ちゃんおかえりー。今日は早かったんだね」

 

「まあな」

 

 靴を脱ぐと洗面所に直行して、シャワーを浴びる。いつもはまだ烏間さんの放課後補習を受けている時間だが、今日は防衛省からの報告待ちがあるらしく、一度帰ってからジョギングに駆りだしていた。

 

「十キロを五十分弱か」

 

 まだ暗殺教室に参加して一ヶ月しか経っていないというのに、万年帰宅部の俺も人並みに体力がついているらしい。このまま三月までいたらマッチョになれそう。……それはちょっと嫌かな。

 しかし、殺せんせーの暗殺をするには少しでも身体強化が望まれる。ターゲットが基本逃げないのだから、少しでも長く戦える体力は欲しいところだった。またあの時のように倒れてしまってはどうしようもないからな。

 正直面倒くさいし、自主鍛錬とかいつもの俺なら一日でサボりそうだが、理由が理由だし、俺がサボらないように自主鍛錬中はこちらからモバイル律を呼びだして監督してもらっている。さすがに学校外でナイフ訓練や射撃訓練はできないから、基本的に筋トレと有酸素運動メインなわけだが。

 

「……後九ヶ月、か」

 

 平均寿命七十八十と言われる俺達にとってはあまりにも短いタイムリミット。正直、今の訓練だけで間に合う自信は……ない。地球の危機ということを考えれば、もっと訓練密度を上げるべきだろう。

 けれど、暗殺教室でその方法が取られることはない。殺せんせーだって、イリーナ先生だって、もちろん烏間さんだってそんなカリキュラムを組むことはなく、学校生活と暗殺業を両立できるようにしてくれている。

 

「烏間さんも、案外やさしいよなぁ」

 

 見た目は根っからの堅物だが、冷酷というわけでは決してない。厳しい訓練だって学業に支障をきたさないレベルを見極めてくれるし、暗殺に関係する生徒の要望は多少無理のあるものでも聞いてくれる。意外とあの人は、教師という職業も合っているんじゃなかろうか。

 まあ、遊びには全然付き合ってくれないって倉橋達が嘆いていたが、そもそもあの教室の教師陣二人がフレンドリー過ぎるんだよな。ちょっと強面の先生ってあんなもんだろう。

 

 

 

「お兄ちゃんさ」

 

「ん?」

 

「最近食べる量増えたよね」

 

 夕食中に小町に言われて、ふと自分の食事を見つめてみる。

 確かに増えた、大体五十パーセントくらい増量しているだろうか。この量の上で飯はもう一杯おかわりするからもっとだな。低燃費という俺のアイデンティティが消失してしまっているじゃないか!

 

「最近はよく運動してるからな」

 

 最初の頃はそうでもなかったが、こと最近は腹が減って仕方がない。マッカンでもエネルギーを賄いきるのは厳しいようで、昼食のパンが一つ増えてしまった。誰だよ、運動しても昼食の量が変わらない体質とか言ったの、俺だわ。

 

「あのお兄ちゃんから……運動なんて言葉が出るなんて……」

 

「そんなに? 小町ちゃん、ちょっとひどくない?」

 

 ヨヨヨと大げさに泣き崩れる小町、八幡的にポイント低い。まるで俺が運動って言葉と縁がないような言い方は……確かにないなぁ。

 

「じゃあさ、小町がお昼もお弁当作ってあげるよ! あ、今の小町的にポイント高い!」

 

「最後のがなかったら、確かに高かったんだがな……」

 

 いやしかし、実際妹の申し出はありがたい。パンよりもご飯の方が腹もちはいいと言うし、毎日登校中にコンビニによる必要もなくなるからな。

 

「毎食小町の手料理が食べられるなんて、俺は幸せ者だな、今の八幡的にポイント高い」

 

「いや、たまにはお兄ちゃんもご飯作るの手伝ってほしいんだけど……」

 

 会心の返しだったはずだが、小町の「うへー」なんていう表情を見る限り、失敗だったようだ。うーむ、乙女心はよくわかんねえな。

 

「ま、いいや。今週は生徒会が忙しいから、来週から作ってあげるね」

 

「おう、楽しみにしとく」

 

 残っていた飯をかきこみ、食器を洗面台に置いてリビングを後にする。

 自室に戻ると、机に置きっぱなしだったスマホにLINEの通知が来ていた。クラスで連絡するならこれが一番だからと矢田にインストールさせられたアプリだが、思いの外利用することは多い。まあ、基本的に誰かから通知が来たら反応する程度だが、ほぼ毎日のように誰かしら連絡よこしてくるんだよな。特に倉橋と矢田、後は不破なんかも漫画を勧めてきたり、おすすめのラノベを聞いてきたりすることがよくある。

 

 

茅野カエデ

 (比企谷君っ、ヘルプ! ヘルプ!)

 

 

 どうやら、E組全員のグループで茅野が俺を呼んでいるらしい。俺に救援要請とは何事だろうか。

 

 

 (飯食ってた。どうした?)

 

 

 まあ、おそらく大した用事ではないだろう。クラスのことなら磯貝や片岡に頼るだろうし、茅野なら大抵のことは潮田や杉野あたりを頼るはずだ。なんかものすごい絶望しているようなスタンプが貼られたが、本当に緊急事態ならそんなもの貼る余裕もないだろう。

 

 

茅野カエデ

 (近くのコンビニのマッカンが売り切れてた!! 明日私の分も持ってきて!)

 

 

 ほらな? 全然緊急でもなんでもない。というか、ほんと緊急性の欠片もないな。

 

 

 (知らん。買い置きしていないお前が悪いから、諦めなさい。)

 

茅野カエデ

 (比企谷君イジワルだ!)

 

 

 なんでだよ。どう考えてもストックを常備していない茅野に問題がある。マッカン中毒者は常に家にダース単位でマッカンを常備しておくものなのだ。

 

「楽しそうですね、八幡さん」

 

「ナチュラルにスマホから現れるのはやめなさい」

 

 さすがにほぼ毎日現れるもんだから慣れたものだが。

 それにしても、楽しい……か。間違いなく今の生活は楽しい。“友人”関係でこんなことを思ったのは初めてだろう。それは俺が変わったのか、異様にコミュ力の高いクラスメイトの影響か、それともあの異形の先生のせいか。暗殺が日常の生活が楽しいなんておかしな話だが、事実だから仕方がない。

 

「せっかく見つけた“居場所”なんだ、楽しくないはずないだろ」

 

 いつもの勘違いかもしれない、いつか失望してしまうかも知れないこの感情は、けれど温かくて、心地よくて仕方がなかった。

 

 

 

 ところで、ケチだのなんだの小学生みたいな罵倒を残す茅野を無視していると、だんだん閲覧数が増えてきて、最終的に茅野以外にも数名分のマッカンを持って行くはめになってしまった。

 おのれ茅野、グループで連絡よこした狙いはこれだったのか!

 

 

     ***

 

 

「やっ! 俺の名前は鷹岡明!! 今日から烏間を補佐してここで働く! よろしくな、E組の皆!」

 

 でかい図体の男はやってくると、抱えていた大量の袋や段ボールからお菓子や飲み物を取り出した。ラ・ヘルメスのエクレアやモンチチのロールケーキ、どれも値の張るブランドのスイーツだ。

 

「早く仲良くなるには、皆で囲んでメシ食うのが一番だろ?」

 

 そう言ってエクレアに齧りつく鷹岡。愛嬌のある姿にクラスメイト達は既に警戒を解き始めていた。

 けれど……。

 

「あれ? 比企谷さんは皆さんとお茶なさらないんですか?」

 

 ステルス八幡を発動させて校舎の影に逃げ込むと、バンドで固定していたスマホから律が問いかけてきた。甘党の俺があの品々に食いつかないのが不思議なのだろう。

 確かに俺としても普通ならあのスイパラみたいな空間は垂涎物なのだが。

 

「律、あの鷹岡についてなにか調べられるか? 防衛省に気付かれないように」

 

 俺の声色からなにかを察したのか、律はすぐさま防衛省にある鷹岡のプロフィールを提示してきた。相変わらずあっさり日本のトップシステムに介入するあたり、律が敵じゃなくてよかったと安堵してしまうな。

 鷹岡明。空挺部隊時代は烏間さんの同期で、実技面では特筆すべき点はないが、教官として高い適性を持っている。スマホに送られてきた情報をまとめるとそんなところだ。なるほど、これだけ見るとここの体育教師に適任なのかもしれない。

 

「あいつ……なんかやばい」

 

 しかし、俺の脳は激しい警戒信号を発していた。新しい人間だからじゃない。自衛隊の人間だからじゃない。鷹岡の付けている柔和な“仮面”。その中から滲み出ている毒々しい何かが原因だった。

 そうそう気付かれることがないであろう仮面、常に人を疑う生活をしていた俺だから気付けたそれは、いつでも取り外せる代物だ。

 

「同じ教室にいるからには、俺達家族みたいなもんだろ?」

 

 もしあの仮面がここで剥がされることがあったら――

 

「律、あいつの動向に注意して、できるなら録画しといてくれ」

 

 俺は警戒レベルをさらに引き上げた。

 

 

 

「さて、訓練内容の一新に伴って、E組の時間割も変更になった。これを皆に回してくれ」

 

「うそ……でしょ?」

 

「夜九時まで……訓練……?」

 

 時間割とやらを渡された途端、生徒の表情が絶望に染まる。律が本体でズーム撮影した画像を俺も見て……思わずうめくような声が漏れた。

 午前中の三時間目までが普通の学校の授業、その後の四時間目から十時間目まで、午後九時までの九時間が訓練に当てられていた。

 異常過ぎる時間割に、当然生徒からも抗議の声が上がる。彼らは決して軍人ではなく、本来は普通の中学生なのだ。勉強もしなくてはいけないし、当然遊びたい。前原の言い分は正論だ。

 

「『できない』じゃない。『やる』んだよ」

 

 しかし、奴はそんな前原の腹に膝蹴りを入れた。そして、まるで悪いことなど何もしていないとでも言うかのような表情で、柔和の仮面を外して邪気の笑みを浮かべた顔でいけしゃあしゃあとのたまいだした。

 

「抜けたい奴は抜けてもいいぞ。その時は俺の権限で新しい生徒を補充する」

 

 これは独裁体制による恐怖政治だ。暴力によって恐怖を与え、無理やり従わせる。従わなかった人間はふるい落とす選民思想。

 あいつがやろうとしているのは“教育”でも“訓練”でもなく、“調教”だ。

 

「律、頼みがある」

 

「はい、なんでしょうか?」

 

 うまくいくかは分からないが、その時は別の手段を取るだけだ。まずは彼の常識性にかけるしかない。

 

「な? お前は父ちゃんについてきてくれるよな?」

 

 鷹岡に上から覗きこまれて問われる、否脅される神崎。その膝は完全に恐怖に支配されてガクガクと震えていた。けれど、その目は――

 

「は、はい、あの……私……」

 

 覚悟を決めたようにまっすぐだった。

 

「まずいっ! 律、頼んだぞ!」

 

 返事を待たずに飛び出す。身体を震わせながら、額に汗をにじませながらも、クラスのマドンナであり、根っからのゲーマー少女はにこりと笑みを浮かべた。

 

「私は嫌です。烏間先生の授業を希望します」

 

 それを聞いた鷹岡はニヤリと悪魔的に笑うと、右手を振り上げた。ステルス八幡はうまく作用しているようで、鷹岡は俺に気づいていない。二人の間に身体を滑り込ませ、右腕で顔の側面をガードする。

 ――――ッ!!

 

「つっ……!」

 

 平手とはいえさすが自衛隊、思わず倒れそうになる衝撃になんとか耐えた。

 

「ひ、比企谷君!?」

 

「おう、つつ……大丈夫か?」

 

 暴力野郎と距離を取りつつ神崎を確認するが、ちゃんと盾になったし、俺の身体もぶつかっていないはずだ。大丈夫だろう。前原も未だに腹を抑えているが、大事には至っていないようだ。

 

「なんだ、お前は?」

 

 どうやらこいつ、俺のことは知らないらしい。学校名簿にも載っていないのだから当然かもしれないが、クラス名簿には殺せんせーが載せているし、烏間さんから防衛省に報告も行っているはずなのだが……ひょっとしたらこいつは、このクラスの生徒の名前を一人だって覚えていないのかもしれない。こいつは一度だって、俺達の名前を口にしたことがないんだから。

 

「教師じゃない奴に名乗るつもりなんてねえな」

 

 正直怖い。さっき平手を打たれた腕はまだ痺れているし、相手は俺より二回りくらいでかい生き物だ。怖くないはずがない。

 けれど、ここでそんな恐怖を悟られるわけにはいかない。大仰に、相手の精神を逆撫でするように余裕見せながら睨みつけると、鷹岡の額に青筋が立つ。

 

「父ちゃんに口答えとはいい度胸だな。世の中に……父親の命令を聞かない家族がどこにいる?」

 

「お前の世の中って何十年前の話? ネットやテレビちゃんと見てる? 世の中には父親が家族内カースト最底辺のところもいっぱいあるぞ?」

 

 殊更「父親」「家族」を強調する奴に嘲笑するようにノータイムで返す。従えようと、自分より下だと思っている人間にそんな態度を取られれば誰だってキレるし、こいつみたいなタイプはすぐに手が出る。

 

「こいつ……っ」

 

 予想通り鷹岡は手を出そうとするが、それを見越して距離を取った。当然奴は踏み込まなくてはならず――

 

「ここで殴ったら決定的な証拠になるな」

 

「な……に……?」

 

 その踏み込みも俺の呟きで止まり、それを見て思わず口角が釣り上がってしまう。脳みそまで筋肉でできたような奴は扱いやすい。

 

「今までの一部始終は全て律が録画している。俺が殴られたら速攻で動画サイトにアップロードするように頼んでいるんだ。もちろん、お前以外はモザイク修正してな」

 

 もちろん嘘だ。一応録画は頼んでいるが、律にアップロードまでは頼んでいない。しかし、相手は世界最新技術のAIであり、確認の術がない鷹岡にはそれだけで十分だった。

 

「お前、国家機密の情報をネットに流すっていうのか?」

 

 肉団子のくせになかなか良い返しだ。まあ、予想はしていたけどな。

 

「何言ってんだ、お前? 俺が流そうとしているのは『夜九時まで不当に生徒を拘束し、あまつさえ逆らえば手を出す虐待体育教師』の動画だぞ?」

 

「なっ……!?」

 

 こいつがこの方法を取れるのは俺達に国家機密漏洩を防ぐ義務があるからだ。しかし、今この場に殺せんせーはいない。そうなるとこの光景はただの暴力教師を晒し上げるだけのものになる。

 

「俺を脅しているのか……?」

 

「脅すなんて人聞きが悪い。教師の暴力事件なんて今なら警察沙汰でしょ? まあ、あんたはなんで九時まで生徒を拘束しようとしたのか“本当の理由”は言えないだろうけど」

 

 そう、それこそ国家機密なのだからこいつは本当の事は言えない。防衛省も情報漏洩を防ぐために、こいつを権力で助けることはできないだろう。ネットで拡散した暴力教師が即ニュースなんかに上がらなくなれば憶測は飛び交うし、ここに忍び込んで原因を探ろうとする輩も現れかねない。

 

「大体、この教室が成立しているのは、教師と生徒に信頼関係が成立しているからだ。お前はさっき抜けたいなら抜けていいなんて言っていたが、明日生徒全員が来なかったら、ターゲットはどうするだろうな?」

 

 暗殺教室の大前提として、生徒がいるから殺せんせーは毎日ここにくるのだ。だからこそ多くの暗殺の機会が発生する。それが失われれば、その責任を問われるのは原因となった鷹岡自身に他ならない。

 

「ぐ……ぬ……」

 

「やめろ鷹岡、これ以上はお前の立場を悪くするだけだ」

 

 烏間さんが拳を握って唸る鷹岡を諌める。これで少しは自重してもらえるなら最高なのだが……こいつがそうなるとは思えないな。

 

「フッ……フフフ……ハハハッ、ハッハハー!!」

 

 予想通り、鷹岡から感じる毒々しいオーラは収まるどころか余計に膨れ上がった。瞳孔を極限まで広げ、高笑いをする姿みる限り……もはや理屈でねじ伏せるのは無理そうだ。

 

「確かに俺のやり方は普通の教育現場なら問題になるだろう。しかしな、ここは暗殺教室だ。言うなれば地球防衛の最前線! それをお前たちはどうだ! 今までめぼしい結果も出していない! これは、烏間の育成方針が間違っている証拠じゃないのか?」

 

「…………」

 

 俺達が暗殺において結果を出していないのは事実だ。烏間さんの訓練が甘いのが原因というのも否定しきることはできない。地球防衛という観点で言えば、鷹岡のようなスパルタな訓練も、認めたくはないが理屈は通っているのだ。

 黙っている俺の態度を肯定と受け取った鷹岡は、クククと喉を下品に鳴らし周囲の生徒を一瞥する。

 

「お前らもまだ俺を認めてないだろう。それなら、ここは暗殺教室らしくこいつで今後の訓練方針を決めようじゃないか!」

 

 奴が懐から取り出したのは対先生用ナイフ。どうやら、烏間さんに一人生徒を選ばせて、一度でも鷹岡にナイフを当てられたら、烏間さんの教育が暗殺に手間取っている原因ではないと認めるらしい。

 

「もし俺に当てられた時は、お前に訓練を任せて出て行ってやる! 男に二言はない!」

 

 要は、いつも烏間さんとやっているナイフ訓練だ。近接戦の得意な杉野や敏捷性の高い木村なんかはやる気を出している。

 しかし、あまりにも正攻法すぎる。毒々しいオーラを放つあいつが、そんな生易しいレベルで抑えるはずがない。

 

「ただしもちろん、俺が勝てばその後一切口出しはさせないし……」

 

 裏切られたい俺の予想は裏切られないもので、鷹岡はプルプルのナイフを放り捨て――

 

「使うナイフはこれじゃない」

 

 自分の鞄から鈍い光を反射させる、本物のナイフを取り出した。

 今まで俺達が持って来た特殊素材のナイフとは違う、ずっと重く、当然のように斬れる刃。それを鷹岡に当てるということは“万が一”が起こることを意味する。寸止めでもいいと言うが、戦闘訓練を受けた鷹岡に当てるなら、そんな余裕は存在しない。当然、さっきまでやる気を見せていた奴らも冷汗を浮かべ、顔を青ざめさせていた。

 

「…………」

 

 放られて地面に突き刺さったナイフを抜いた烏間さんは、少しの間じっとそれを見つめ、ゆっくりと、しかし迷わずに歩を進めた。

 

「渚君」

 

 そしてその足は、潮田の前で止まる。

 

「やる気はあるか?」

 

「…………!?」

 

 なぜ潮田を? 恐らくその場の全員がそう思った。俺もそう思い、しかしいやと考え直す。

 

「烏間ァ、お前の眼も曇ったなぁ。よりによってそんなチビを選ぶなんて」

 

 潮田の近接戦闘レベルはこの教室でも低い方だ。杉野や前原、磯貝のようなパワーもなければ、木村ほどの敏捷性もないし、赤羽のような喧嘩慣れもしていない大人しい生徒。一対一の“戦闘”なら、万に一つの勝ち目もない。

 

「けれど……」

 

 思い出すのは鷹岡が来る直前の戦闘訓練。自分の番が終わって木陰で休憩しようとしていた俺は、背後から感じた絡みつくような殺気に思わず振り返った。

 ――――ッ!!

 

「いった……!」

 

 振り返った先ではちょうど潮田が烏間さんに突き飛ばされていた。どうやら烏間さんが加減を間違ってしまったようだ。

 では、さっきのは烏間さんの? いや、烏間さんの殺気はもっとまっすぐ射抜くようなものだ。あんなまるで蛇に巻きつかれるようなものとは毛色が違う。

 普段の温厚なあいつからはそんな気配は微塵も感じない。しかし、もしあれが潮田の発したものだと言うのなら……。

 

「無理にこのナイフを受け取る必要はない。暗殺任務を依頼した側として、俺は君たちとはプロ同士だと思っている。その中で君たちに払うべき最低限の報酬は、当たり前の中学生活を保障することだと思っているんだ。だからこの勝負を引き受けない場合も、俺が鷹岡に頼んで『報酬』の維持をしてもらえるよう努力する」

 

 ……全く、ずるい。あんなまっすぐな目で生徒を見る先生なんてそうそういない。

 

「……わかりました」

 

 そんな人から渡された刃を、信頼されて託された刃を受け取らない生徒なんていない。

 

「やります」

 

 烏間さんからナイフを受け取った潮田は、余裕そうに腕を組んでいるターゲットの前に立った。

 階段部分に腰を下ろす。こうなってしまったら俺にできることは見守って、もしもの時に動くことくらいだろう。

 

「やはり、烏間先生はいい先生ですねぇ」

 

 いつの間にか隣に来ていた殺せんせーはヌルフフフと笑う。余裕のあるその表情を見る限り、潮田を選んだ烏間さんの選択には超生物も同意見なのだろう。

 

「この教室は教師に恵まれすぎですよ」

 

 世界最高クラスの質のほぼマンツーマンレベルの授業をしながら、生徒に近い位置で彼らを導くタコ型生物に、教師として、プロとしてまっすぐに生徒と向き合う厳しくて優しい教官。イリーナ先生は……しょっちゅうディープキスしてくる以外は接しやすくていいと思います、うん。

 

「ヌルフフフ、そう言ってもらえるのは光栄ですねぇ」

 

 まあ、このタコをあんまり調子に乗らせるとウザいんだけどね。

 

「あ、烏間さん」

 

 ヌルヌル笑いながら絡んでくる殺せんせーを払いのけて、潮田に何かを囁いて離れた烏間さんに近づく。

 

「すみませんでした、こんな事態にしてしまって……」

 

「いや、恐らく比企谷君が動かなくても、いつかはこうするつもりだったのだろう。そうでなければ、本物のナイフなんて持ってくる必要はないからな」

 

 やっぱりそうか。たぶん、自衛隊の教官でも使った方法なのだろう。あいつが残るのはやっぱ嫌だなぁ。

 

「潮田、勝ちますよね」

 

「分からない。可能性が一番あるのは恐らく彼だが、この選択が合っているか……」

 

 ああ、この人も悩んでいるんだと、場違いにもそう思った。完璧超人のようなこの人も、俺達と同じように悩む人間なんだなと。ひょっとしたら、殺せんせーだってそうなのかもしれない。

 

「合ってますよ、絶対」

 

 だから、きっと悩んで先生の出した選択を合っていたと思わせるのが、俺達生徒の役目だ。

 

「俺達の先生が選んだ選択なんですから」

 

 

 

「捕まえた」

 

 言葉が出なかった。鷹岡の後ろに回り込んだ潮田のナイフは、見事に奴の首元に当てられていた。

 殺気を隠して自然に近づき、一気に放った殺気で相手を怯ませる。その時感じた蛇のように絡みつく殺気。潮田の見た目に惑わされて油断した鷹岡は、まんまとその刃を突きたてられた。

 それは日常生活では決して発掘されることのない、暗殺の才能だった。

 

「そこまで! 勝負ありですね、烏間先生」

 

 殺せんせーにナイフを取り上げられた潮田に皆が近づいて声をかける。少し照れくさそうにしている彼女を見る限り、誰も強いなんて思わない。一撃必殺の暗殺の場では“弱そうに見える”のも立派な才能なのだろう。

 

「このガキ……父親も同然の俺に刃向って……」

 

 恐怖からようやく解放されたらしい鷹岡は、俺の時以上に青筋を浮き上がらせて再戦を要求する。男に二言はないって堂々と言っていたのに、最早その顔には余裕も何もなかった。「確かに、次やったら絶対に僕が負けます。でもはっきりしたのは、僕らの『担任』は殺せんせーで、僕らの『教官』は烏間先生です。これは絶対に譲れません」

 暗殺教室という異常な教室が成り立っているのは生徒と教師、ターゲットと暗殺者、プロとプロとしての信頼故にだ。勝手な“父親”の押しつけなんかが、それに敵うはずがない。

 やっぱりこの教室は恵まれている。教師も、生徒も。

 

「黙っ……て、聞いてりゃ、ガキの分際で……大人になんて口を……」

 

 だから、この空間にこいつは必要ない。拳を振り上げようとする鷹岡に向かって走り出す。

 

「にゅやっ!?」

 

 途中で殺せんせーの持っていたナイフを奪って鷹岡と潮田の、正確には鷹岡の拳と潮田の軌道上に入り、ナイフの刃の部分を拳の前に突き出した。

 

「…………ッ!?」

 

 相手はプロだ。しかし同時に、頭に血が限界まで上っている。ナイフに反応はできても、そこで軌道を変える余裕はなかったようで、その拳が止まる。

 僅かなスキ、それだけで十分だった。なぜなら――

 ――――ゴッ!!

 うちには規格外の教官がいるのだから。

 

「後のことは心配するな。俺一人で教官を務められるように上と交渉しよう」

 

 鷹岡の顎に肘を入れた烏間さんの言葉に皆の表情が明るくなる。鷹岡が妨害しようとしているが、さっきまでの録画を防衛省に流してやろうか。

 律にその旨を伝えようとして――

 

「交渉の必要はありません」

 

 背筋が……ゾクリと震えた。

 校舎の入り口に立っていたスーツ姿の男性。椚ヶ丘学園理事長、浅野学峯は新任の先生の手腕を見に来たと、にこやかな表情を浮かべて倒れている鷹岡に近づく。

 手は打った。しかし、相手はこのE組を作った張本人だ。聞くところによると、E組は最底辺にいることで本校舎生徒に「E組に落ちたくない」という強迫観念を与えるためのものらしい。前原も、鷹岡の時間割を許可したのはE組の成績を落とすのに役立つからだと言っていた。最悪、理事長の声一つで鷹岡の続投が決まる可能性もある。

 

「でもね、鷹岡先生」

 

 しかし、奴の顎に手を添えた理事長はドロドロとした怒りにも似た感情を――鷹岡に向けた。

 

「確かに一流の教育者は恐怖を巧みに使いこなしますが、あなたのようにそのために暴力を振るうのは、三流以下の教師だ。もしこのことが公になったら、我が校の損失はいくらになると思っているんですか?」

 

 理事長が取り出したタブレットPCには律から撮影されているグラウンドのリアルタイム映像が表示されていた。

 

「うまくやってくれたな、律」

 

「はい!」

 

 さっき律に頼んだのは、本校舎のネットワークに入り込んで、理事長に現在のE組のリアルタイム映像を見せることだった。暴行からの一部始終を見せて、その映像を保有しているという事実を知らせる作戦は、うまく機能したようだ。

 

「しかも、『男に二言はない』なんて豪語したというのに、『もう一回』? 生徒との約束も守れないなど、もやはあなたは教師ではありません。そんな人間は我が校には不要です」

 

 懐から取り出した紙にサラサラとペンを走らせると、それを鷹岡の口の中にねじ込んだ。

 

「それは解雇通知です。ここの教師の任命権は私にあります。以後、あなたがここで教えることは許しません」

 

 まるで路傍の石を眺めるような目を鷹岡に向けた理事長は立ちあがり――俺に向かって歩いてきた。え、なんで?

 

「君だね。私のパソコンに映像を流させたのは。ハッキングは感心しないね」

 

 うわあ、バレテーラ。

 

「いえ、学園としても由々しき問題ですので、いち早く報告した方がいいと思いまして。手段を選んでいる余裕はありませんでした」

 

「いや、他校の学生に迷惑をかけてしまったからね。むしろ感謝しているよ」

 

 にこやかに笑っているが、その実探るように視線を巡らせてくる。なにこの人怖い。早く会話切り上げたい。

 

「なぜ総武高校の生徒がここにいるのかは後で聞かせてもらいましょう。明日の放課後に、本校舎の理事長室に来てください」

 

 あ、体操服から学校特定してきた。なんで把握してんのこの人。これは逃げられませんわ。

 

「はい……」

 

 では、と理事長が立ち去り、鷹岡が逃げだすと、生徒から割れんばかりの歓声が上がった。理事長から正式に鷹岡が解雇されたということは、E組の体育教師、教官は烏間先生が続投ということだ。

 

「まったく……」

 

 なんとか元の鞘に収まったことにほっと胸をなでおろしていると、右手が軽くなる。いつの間にか持っていたナイフを殺せんせーに奪われていた。

 

「勝手に本物のナイフを使うなんて危険なことはしてはだめですよ、比企谷君」

 

「うっす、反省してまーす」

 

「心がこもってない!?」

 

 しょぼーんと肩を落としながらナイフをボリボリと食べる。その食べた金属、どう消化されるんだろうか。そもそも消化器官ってあるの?

 

「あ、比企谷君……」

 

 呼ばれて振り向くと、潮田が申し訳なさそうに俯いていた。え、なに? どうしたのん?

 

「さっきはありがとう。おかげで助かりました」

 

 どうやら、鷹岡が殴りかかってきた時のことを言っているらしい。お礼を言わなくちゃいけないのは俺の方なんだがな。

 

「気にすんなよ。俺の方こそ悪かったな。俺から煽ったのに危ない役目お前に任せちまって」

 

「そんなことないですよ! 比企谷君があそこで言ってくれなかったら、きっともっと皆が怪我してたと思いますから!」

 

 なんかそうまっすぐ言われると……恥ずかしい。捻くれ八幡君はまっすぐな言葉に弱いのだ。

 

「そ、そっか……でも、ありがとな」

 

 だから、照れ隠しに小町にするように頭に手をぽふっと乗せてしまった。

 

「ふぁ……」

 

「あっ、す、すまん!」

 

 慌てて手を離すと、潮田は顔を伏せてしまっていた。これは引かれてしまったパターンではなかろうか。小学校の時に、呼んでも反応しなかった女子生徒の肩に手を置いたらセクハラ谷と呼ばれた黒歴史が想起してしまう。呼んでも反応しなかった伊藤が悪いんじゃねえか!

 

「いや、比企谷君の手大きくて、お兄ちゃんって感じで安心するなぁって。僕ひとりっ子だから」

 

 頬を少し染めてはにかむ姿に、不覚にもドキリとしてしまう。

 

「まあ、潮田たちの一つ下に妹もいるしな。妹分、弟分って考えた方が接しやすいまである」

 

「弟分……なるほど」

 

 あれ? そっちに反応するの? 潮田は妹分でしょ?

 俺の疑問をよそに潮田は「じゃあさじゃあさ!」と手を上げる。これは俺が教師役でもやればいいんでせうか。

 

「なんだい、潮田君」

 

「その、皆僕の事は“渚”って呼ぶから、比企谷君にもそう呼んでほしいな……って」

 

 え、なにそれ恥ずかしい。しかし、つい今しがた妹分と言ってしまった手前、あまりお願いをないがしろにはできない。妹と認識した途端に発動するお兄ちゃんスキルが恨めしい!

 

「そ、それじゃあ……な、渚……?」

 

 なにこれやっぱり恥ずかしいじゃん!

 

「うん、これからはそう呼んでくださいね!」

 

「お、おう……」

 

 名前を呼ばせるなんてしお……渚はひょっとしたらリア充なのかもしれない。そういや、茅野以外とも仲良いよなこいつ。

 

「ひ、比企谷君!」

 

「んあ? ……神崎?」

 

 俺を呼んだ神崎は顔を真っ赤に染めてながら、胸元で絡めた指をもじもじと動かしている。

 

「あの……さっきは助けてもらって……ありがとう、ございます」

 

 唇をもごもごとさせながら、呟くように口にしたお礼の言葉。

 

「お、おう。まあ、女の子の顔に傷なんてついたら大変だからな。無事でよかった……っ!?」

 

 なぜか神崎が俺の手を取って自分の頭に乗せたので、思わず変な声が出そうになった。大丈夫? 「ファッ!?」とか言ってないよね?

 

「か、神崎さん……なにをやっているのでせうか……?」

 

「その……怖かったので……さっき渚君が比企谷君の手が安心できるって言ってたから……」

 

 ああ、なるほど。さっきは気丈に振る舞って鷹岡に意見していたが、当然恐怖はあっただろう。この程度でそれが和らげられるのなら、まあ、お安い御用という奴だ。

 

「……今回だけな」

 

 流れるようなストレートを乱さないようにそっと撫でる。どうして女の子の髪ってこんなに柔らかいんですかね。絹でできてんじゃねえの?

 

「比企谷君! 僕ももう一回!」

 

「……あーもう、しょうがねえなぁ……」

 

 結局、烏間先生の財布でお菓子の食べ歩きに行くことが決まるまで二人を撫で続けることになってしまい、鷹岡と対峙した時以上に体力を使った気分になってしまった。

 ところで、杉野の視線が痛かった気がするのだが、なぜだろうか?




皆Die好き鷹岡回でした。

……いや、あのですね。
ぶっちゃけ八幡の舌戦だけで鷹岡がノックアウトしそうで怖かったです。よくよく考えたらあの映像流されるだけで普通にアウトだよなぁと。なんとか鷹岡先生には頭を捻ってもらいました。

そういえば、感想でヒロインは決めているのかというものがありました。
大まかな流れ自体はヒロイン構想も含めて本シリーズラストまで決まっています。まあ、あまりこの子がヒロインだよ! って言うのは読んでる側からしても興ざめになると思うので名言はしませんが、構想自体はある程度決まっているとだけ言っておきます。

それでは今日はこのへんで。
ではでは。

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