「……はあ」
健康的な時間に目を覚まして、約二週間ぶりに総武高校の制服に袖を通す。そもそも着ていた期間自体二週間程度だったので、まだ慣れないそれに思わずため息が漏れた。しかし、あくまで学校に行くわけだから制服で赴くのが礼儀というものだろう。
俺の“転校”が確定事項になったことは朝一で来ていた烏間さんからのメールで知った。ただ、総武高校にも進学校としての体裁があるため、定期考査だけは受けるようにという条件付きらしいが。となると独学で範囲の勉強をするべきかな。理数系ができる気しねえなぁ。
「ぁ……おはよ……」
「おう……」
リビングに入ると中学の制服に身を包んで朝食を摂っていた小町と鉢合わせした。同じ家に住んでいるが、最近の俺はほとんど家にいないから実際に会うことは少ない。
「あれ? お兄ちゃんが制服着てる」
俺の服装を見咎めた妹はコテンと首をかしげる。
「まあ、ちょっとな」
「そっか……」
拒絶的に会話を切って買い置きのパンを漁ると、その空気を察してか小さい声を漏らして食事に戻った。相変わらず空気の読める妹だ。
けれど、二人の間に流れるこの空気は吐きそうなほど不快で。
「じゃ、行ってくる」
「いってらっしゃい……」
俺は情けなくも逃げることしかできなかった。
自転車で事足りる距離の総武高校と違い、うちから椚ヶ丘学園までは少々遠く、自然と電車通学を余儀なくされる。通勤通学ラッシュにひしめく電車の中で椚ヶ丘中学校について調べてみた。
偏差値六十六、高等学校に至っては七十にもなる創立十年の新設校。私立としても全国指折りの進学校だ。理事長の浅野学峯はハーバード大学を卒業した教育界の風雲児で、テレビや新聞で俺も目にしたことのある有名人である。
そして三年生にのみ設置されている“特別強化クラス”E組は素行不良生徒、成績不振生徒を集中教育するクラス――ということになっているらしい。一度落ちれば上位五十位以内に入って元担任の復帰許可をもらう必要があり、二学期期末までに復帰できなかった生徒は椚ヶ丘高等学校への進学ができないらしい。私立の中学ならば、こういう一見非情にも見える合理主義も通るものなのかと納得しそうにもなるが、それにしたって本校舎から隔離された山の中のボロ校舎での勉強、という事実を見ると異常性が際立つ。
あれでは村八分、目に見える差別だ。進学校であんな形を取れば、落とされる側には絶望しか生まれない。すでに人生諦めてしまう生徒も出ているのではないかと恐怖するレベル。そんなの、教育機関としてはまた異常だ。
「そもそもあんなのが担任って時点で異常か」
担任を引き受けた生物も異常なら、それを了承した理事長も異常。殺せんせーと名乗るあの超生物に成績落伍者に対して教鞭を振るう能力があるのだろうか。それを考えると、あの教室は一種の見せしめなのでは、そう邪推してしまう。
まあ、俺にとってはそんなことどうでもいい。ただあいつを殺すために行くのだから。
鞄に忍ばせた対先生BB弾の込められたエアガンと、内ポケットに仕舞ったプルプルの対先生ナイフに意識を向ける。あの謎生物を殺処分するだけ。それだけを考えればいいのだ。
***
「今日から転校になった比企谷八幡君だ。高校一年だが、奴自身が彼を生徒として認識している」
「……比企谷です。よろしくお願いします」
朝のホームルームで烏間さんに紹介された俺は……正直戸惑っていた。
「すげー! 高校生だ!」
「あれって総武高の制服じゃない?」
「この時期に転校してきたってことは本職の暗殺者ですか?」
めちゃくちゃキラキラした目で質問してくるですが……。予想していた落伍者クラスの印象とは全然違う、明るい空気。暗殺を強要されている中学生とは思えない生き生きさだ。
「いや、暗殺者じゃない。昨日殺せんせーを見ちまって、今日から暗殺教室に参加するように言われたんだ」
昨日の出来事をかいつまんで説明すると、生徒たちの目が一斉に教室の隅に立っていた殺せんせーの方に向けられる。
「殺せんせーなにやってんの!」
「国家機密が一般人に見られたらだめじゃん!」
「にゅやっ!? ……返す言葉もありません。先生、国家機密失格です」
ハンカチ持って涙拭いてるんだけど、あれって三月に地球破壊するとか言っている生物なんだよね? なんで生徒に怒られているんだろうか……。なんだよ国家機密失格って。
「コホン。比企谷君の席は菅谷君の後ろです。あ、授業の妨げになる暗殺はなしでお願いしますね」
「……わかりました」
菅谷と呼ばれた細身長身の生徒の後ろに座る。こいつでかいな。百八十センチ前後はありそうだ。うわぁ、見た目だけなら向こうの方が年上みたい。
しかもちょっと目つきが鋭い。大丈夫? いきなりカツアゲとかされない?
「よろしくお願いします」
「お、おう。よろしく」
意外に礼儀正しかった。いや、まあそれが普通なんだけど、見た目とのギャップというか、環境とのギャップで風邪を引きそうになる。
まあ、関わるのなんて最初だけだろう。中学校に高校生という異質な状況が皆の興味をそそっているだけで、普通は俺なんかと関わろうなんてしないはずだから。
そのまま一時間目の授業が始まったのだが。
「このままでは方程式が成り立たずにxを割り出すことができません。これは大変だと頭を抱えているそこのあなた! そこで役立つのがこの特殊解です!」
カカカッと滑らかな動きで黒板に特殊解とそれが使える条件を書き記していく。中学の時にかなり苦戦をしたはずの数学問題がすらすらと理解できる。
端的に言って、殺せんせーの授業は今まで受けたどんな授業よりも分かりやすかった。ただひたすら問題を解かせたり、息苦しさすら感じる重苦しい授業ではなく、ユーモアを交えて興味を引き、似たような公式や、はたまた別の科目の雑学を持ってきて芋づる式に知識を吸収させていく。
分かりやすさと面白さを両立した理想的な授業と言えた。
「それでは休憩にしましょう」
E組に本校舎のチャイムの音は聞こえない。時計を確認した殺せんせーが教科書を閉じると、静かだった教室が俄かに騒がしくなる。俺も支給された教科書を閉じて次の授業の準備をしようと引き出しを漁っていると、横から声をかけられた。
「比企谷さん……で、いいのかな?」
顔を上げると髪を短いツインテールに結った生徒が立っていた。その容姿はいかにも人畜無害そうで、暗殺なんていう物騒なことに加担しているとは思えない。いや、それを言うならこのクラス全体的に顔面偏差値高いんですけどね。
「……さん、はやめてくれ。一年しか歳も違わないわけだし」
それに、女子にさん付けされるのはちょっともやもやするしな。
「じゃあ、比企谷君って呼びますね」
太陽みたいな笑みを浮かべられて、一瞬たじろいでしまう。小町以外で久々に破壊力のある笑みを見たな。あ、そもそも最近小町以外の女の子と会ってすらなかったわ。泣きそ。
「お、おう。それで、何か用か? えっと……」
「そういえば、自己紹介がまだでしたね。僕は潮田渚です」
僕っ子……だと!? ハッ、よくよく見たら男子の制服を着ている。僕っ子ツインテール男装女子とか、中学生にして属性詰め込み過ぎではなかろうか。
「突然変な教室に入れられて戸惑ってるんじゃないかなって思って……」
あぁ、なるほど。彼らはこの二ヶ月ほどあの超生物と学校生活を送っているらしいが、最初の頃は突然の未確認生物、突然の暗殺課題に当然戸惑っただろう。暗殺者ではない俺のことが純粋に心配なようだ。なにこの子めちゃくちゃ優しいじゃん。
「そりゃあ戸惑うだろ。ファーストコンタクトがお菓子食べながらグラビア見てるタコ型生物だったのに、普通に先生やってるんだから」
昨日のあの姿から今日のハイレベルな教鞭を取る姿なんて誰が想像できようか。授業中にお菓子食べだしたりしたらどうしてくれようかと思って懐にエアガンを仕込んでいたのが無駄になってしまった。
「また殺せんせー巨乳の本なんて買ってたんだ……。あ、茅野カエデって言います!」
潮田の後ろからひょこっと顔を出したのは彼女と同じように長い髪をツインテールに結った少女。潮田も十分小柄だが、こっちはさらに小さい。というか、前半のセリフ呪詛みたいだったんだけれど……。いや、こういうのは触れない方が吉だ。八幡の少ない対人経験でも分かるぞ!
「そ、そうか。よろしくな茅野」
「けど、高校生には中学校の授業ってつまんないんじゃない? 総武高校って進学校だし、比企谷君はもう勉強したところでしょ?」
茅野の質問ももっともだ。確かにさっきの授業の内容は去年自分の中学校で勉強して、受験の時に死ぬほど復習したところだった。
「けどさ~、比企谷君さっきの授業真剣に受けてたよね~」
「あ、カルマ君」
答えようと口を開いたが、その前にどこか攻撃的な声に阻まれた。カルマと呼ばれた赤髪の少年は一つ飛ばしの隣の席から鋭い視線を向けてくる。ここまで露骨なものは初めてだが、こちらを射抜くようなそれには覚えがある。これは相手を値踏みしている奴の視線だ。そしてそれを隠そうとしないということは、自分の能力の高さを理解しているのだろう。現に先の授業ではどこか脱力していた。さらに奥の席の数人もあまり真剣に取り組んではいなかったが、彼の場合は授業自体には耳を傾けている感じ。このクラスは素行不良の生徒も落とされると書いてあったし、つまりはそういうことなのだろう。
「まあ、授業中に暗殺するなって言うなら勉強ぐらいしかやることないしな。殺せんせーの授業むかつくほど分かりやすいし」
一度仕舞ったノートを取り出してさっきの授業のページを開く。教え方がうまいせいか、去年の同じノートよりも格段に見やすいものになっていた。あの先生にみっちり授業し続けてもらえば、最高の教科書に仕上がるまである。
「わ~! このノートすっごい見やすい!」
「っ!?」
いきなり後ろから声がして、思わずビクッと身体が跳ねてしまった。俺の肩から身を乗り出したゆるふわ茶髪の女子は俺の手元にあるノートを繁々と眺めている。というか近いしいい匂いするんだが。やめて!肩に手を添えないで! 勘違いしちゃうから!
「このノートがあれば点数もっと伸びそう! 私、倉橋陽菜乃! よろしくね!」
「お、おう。よろしく。後、ノートは自分で取ってくれ」
やけにテンションの高い倉橋の声に反応したのか、他の生徒たちもどんどん集まってきて、授業開始まで自己紹介大会になってしまった。やだ、この子たちコミュ力高すぎ!
***
「ここら辺でいいか」
校舎裏の草地に腰を下ろして、朝のうちに買ってきていたパンとマッカンを取り出す。カシュッとプルタブを開けて一口煽ると、暴力的な甘さが喉を潤してくれた。
一陣の風が吹く。総武高校近くの臨海部を流れる潮気を含んだ風も乙なものだが、森林によって温度を下げられたここの風もなかなか悪くは――
「比企谷君は一人で昼食を取るんですねぇ」
「うおっ!? ……なんだ、殺せんせーですか」
いつの間にか木陰に暗殺対象が顔を覗かせていた。ということはさっきの風はこの先生がマッハで来た影響かよ。そう思ったらなんかヌルヌルしてそうでい嫌なんだけれど。
「甘い匂いについ釣られてしまいました。比企谷君は皆とは食べないんですか?」
甘い匂いに釣られたって鼻どこにあるんだよ。見当たらないだけで、実は相当鼻が利くのだろうか。マッカン開けてすぐ飛んで来たっぽいし。
「別に、俺はぼっちなんで、一人の方が落ちつくだけですよ」
パンの封を切って齧りつく。このクラスの人間はそのほとんどがフレンドリーで明るい。寺坂、とかいう生徒を中心としたグループはその限りではないが、全体的に暗殺をする場とは思えないほど和気あいあいとしている。それは、俺には不釣り合いな空気だった。
「落ちこぼれで社会適応能力も低い。相手の行動や言動には常に裏があると思っていて、将来の夢は専業主夫。それが俺ですから」
世界から見れば最底辺の人間だ。今は真新しさに寄ってくるだけで、すぐにはじき出される。こんな面白くも頼りにもならない人間、関わるだけ損なのだから。
「俺の代わりはいくらでもいるんですから、誰にも関わらずにいた方がいいんですよ」
パンの欠片を放り込んで、マッカンで流し込む。自虐と共に溢れそうになる黒歴史もろとも、腹の中に飲み込んだ。
「そんなことは、ないと思いますがねぇ」
殺せんせーのどこか悲しげな声を無視して寝っ転がる。一人はいい。行動の全てが自己責任だ。勘違いすることも、人を気にすることも、勝手に失望することもない。
殺せんせーも話しかけてこないし、このまま昼休みが終わるまでのんびり思索にでも耽って――
「このタコー! こんな写真隠し持ってんじゃないわよ!」
その余裕全くないですね。キンキン響く声に瞼を開くと、金髪女性が肩を怒らせながら全力疾走してきた。あの、なんか明らかにエアガンじゃない銃器持っているんですけど。
「にゅやっ! それは私秘蔵の手入れ後ブルマイリーナ先生!? 大切に保管していたはずなのに!」
「人の恥ずかしい写真勝手に保管してんじゃないわよ!」
なんだよ手入れ後ブルマって。逃げようとする隠し撮り犯に英会話教師でプロの殺し屋らしいイリーナ・イェラビッチ先生が散弾銃を乱射しだした。火薬の焼けるような匂いが鼻をついて、やはりあれが本物だということを認識する。
「あはは、あの二人またやってるよ」
「あれ、止めなくていいのか?」
二人――片方を“人”とするべきなのかは甚だ疑問だが――の過激なスキンシップを眺めていると、乾いた笑いを漏らしながら潮田と茅野が近寄ってきた。君たち大体一緒にいるね。席も隣同士だし、傍から見たら姉妹にしか見えない。
「大丈夫ですよ。殺せんせーには実弾って効かないから」
「そうそう、なんか身体の中でドロドロに溶けちゃうんだって」
いや、鉛玉がドロドロに溶けるってどんな身体構造しているんだ、あのタコ。まあ、対先生物質で作られた武器を支給されているわけだし、既存武器が効かないのは当然か。
「じゃあ、なんであの先生実弾ぶっ放してんだ?」
完全に無駄玉じゃん。国からの支給品だったら血税の無駄遣いですよ! あ、なんかイリーナ先生に混ざって他の生徒も射撃し始めた。
「実弾なら殺せんせー全部受け止めるから、ストレス発散になるんじゃないかな?」
「殺せんせー、校舎に穴とか開けたくないらしいですからね」
「なんで地球破壊する生物が学校の校舎の被害気にしてんだよ……」
まじであの生き物わけわかんねえ。けれど、たしかに実弾は全て受けているのにBB弾は器用によけている。実際に確認したことはないが、あれが殺せんせーに触れると彼の細胞を豆腐のように破壊するらしい。数秒したら回復するみたいだけれど。
「けど、対先生ナイフやBB弾で細胞を破壊できるって言っても、具体的にはどこを破壊すれば殺せるんだ?」
「え?」
ゲームなんかで言うなら殺せんせーはスライムみたいな不定形モンスターだ。ある程度見た目も変えられるようだし、数秒で回復すると言うことは粉々にしても完全復活する可能性すらある。
「頭とか特定部位をふっ飛ばせばいいのか、それとも破壊しまくって再生に使うエネルギーを枯渇させるのか。いや、そもそも再生が無限の可能性もあるな……どうしたんだ、二人とも」
考えを巡らせていると、二人がぼーっとこっちを見てきていた。なんでそんな見つめてくるの? 八幡、穴開いちゃうんだけど。
「……そっか。ただ当てるだけじゃなくて、どこに当てるかとかも考えないといけないんだ」
「殺せんせーの謎がまた深まっちゃったね……」
「あー……なんかすまん」
たぶん、あくまで人の枠であの生物を見ていて、具体的にどうすれば完全に殺せるのかまで考えが思い至らなかったのだろう。
「いや、いいよ! 比企谷君のその考えは今までなかったものだもん!」
「そうですよ。今までそんなこと、全然考えていませんでした」
「そ、そうか……」
うん、わかったからそんなキラキラした目で身を乗り出してこないで。美少女二人に至近距離で見つめられるのは、ぼっちには心臓に悪い。
「新しい視点で考えを出してくれる存在。比企谷君の加入はすごい心強いです!」
「っ……」
直接向けられる好意。けれどそれは、少し彼らとは違ったところがあっただけだ。すぐに俺の無個性な部分が見えてきて、離れていくに決まっている。
そう思ったから、潮田の言葉に俺は何も返せなかった。
というわけで、2話目でした。
八幡を活躍させたいけど、あんまりチート性能にもしたくないので、匙加減が難しいです。
後、E組メンバーを八幡とどう絡ませるかも毎回うんうん唸りながら書いています。
絡ませやすい子はめちゃくちゃ絡ませやすいですけど、難しい子は逆にめちゃくちゃ難しいです。
というわけで、今日はこの辺で、ではでは。