長期休暇というのはなかなか侮れない。一週間弱のゴールデンウィークでもだらけてしまうというのに、一ヶ月もある夏休みなんて生活リズムが崩れないわけがないのだ。
それは俺とて例外ではなく、一学期の平日は規則正しく生活をしていた模範生たる比企谷八幡も惰眠を貪ってしまうのである。夏休みめっちゃホリデイ。
瞼の裏はうっすらと明るくなっていて、たぶんもういい時間なんだろうなということは理解しているが、それはそうとてフカフカベッドでゴロゴロしていたい。冬ほどではないが、やはりオフトゥンは俺の恋人だ。全人類の恋人まである。
「おーい……起きてくださいよ~」
なにやら少し遠いところからあざといボイスが聞こえてくる気がするが、きっと気のせいだろう。やはり眠くて幻聴が聞こえているみたいだから、瞼を閉じるだけではなく意識をしっかりとシャットダウンしたほうがいいかもしれない。
「八幡さ~ん、もうすぐお昼ですよ~?」
いや、幻聴にしては嫌にはっきり聞こえてくる。というか、間違いようもなく律の声だった。お前はいつの間に俺の目覚ましになったのん?
律が言うにはもうお昼時のようだが、ほとんど外出しない俺にとっては休日に朝も昼もさして関係ないのである。だから寝る。今日のトレーニングは夕方くらいにすればいいや。
腹にかけていたタオルケットを被りなおして寝なおそうと声の方向に背を向けると、「う~」となんともあざとい声が聞こえてくる。ほんとお前のそのあざとい言動はどこから“学習”してくるのか。やはり竹林なのか?
まあ、そんなこと気にしていては安眠はできまい。布団に頭を沈み込ませて多少ぼやけてきた意識を手放す――
「せんぱ~い、早く起きてくださいよ~。一緒に遊びましょうよ~」
「っ!?」
ことはできなかった。突然右耳に飛び込んできた囁き声に全身の毛がゾワリと逆立ち、思わずベッドから跳ね起きた。声のした方向に首を動かすと部屋の反対側、机の上に置いていたスマホが淡い光を発している。のそりとベッドを降りて画面を確認すると、当然というべきか隣の席のAI娘がにぱーっと笑いかけてきた。
「あ、やっと起きましたね。おはようございます、八幡さん」
「……おう」
未だにゾワゾワの名残がある右耳をさすりながら短く返す。こうして聞いている分には普通の声なのだが、さっきの声はまるで本当に耳元にいるかのような聞こえ方だった。それは決して俺の錯覚や偶然ではないようで、当の本人はいたずらが成功した時のようにクスクスと笑いを漏らしている。
「どうでしたか八幡さん! バイノーラル技術の応用で、この距離からまるで囁いているような音声をお届けしてみました!」
「……それ、俺はどういう反応をすればいいの?」
そもそもそれはスマホがすごいのか、それとも律がすごいのか。いやまあ、この技術を応用すればひょっとしたら色々暗殺に使えなくもなさそうなのだが……。
まあ、それは置いておいて、とりあえず言いたいことが一つある。
「お前に“せんぱい”なんて言われると違和感しかないな」
というか、たぶんE組の奴ら全員、先輩なんて呼ばれたら違和感バリバリだろうな。俺の反応がお気に召さなかったのか、律はプクーと頬を膨らませて、人差し指を頬に当てて何か考え事を始めた。
「…………」
「…………」
「じゃあ……お兄ちゃん……とかですかね?」
「電源切るぞー」
スマホの側面についている電源ボタンを長押ししようとすると、慌てたように謝ってきた。まったく、俺のことを「お兄ちゃん」と呼んでいいのは小町だけなんだぞ?
「むぅ……私たちのことは妹や弟って思ってるんじゃなかったんですか……?」
「妹分と妹は全然違うだろうが」
その言い分は否定しない。多少あざとくてうざいと思うこともあるが、律だってかわいい妹分だ。
ま、妹分はあくまで“分”なわけだが。
それにしても、律のせいで完全に目が覚めてしまった。もう二度寝をする気分でもないので、食事を取るために一階に降りると人の気配はなく、リビングのテーブルに丸文字の書き置きがされていた。
『お兄ちゃんへ! 小町は陽菜乃と桃花さんと一緒に遊びに行きます! 未来のお姉ちゃん候補との交流を欠かさないなんてお兄ちゃん的にもポイント高いね!
P.S 冷蔵庫に食べるものがないから、どこかで食べてきてね。ついでに買い物もしてきてください!』
…………。
……なんだろう。実の妹が楽しそうにクラスメイトと交流をしているようで微笑ましい反面、よくわからん候補が小町の中で選定されているようでちょっと怖い。実の妹が何考えているのか分からないのは割と怖い。あいつちょっとおバカなところあるからなぁ。おバカの思考のトレースはなかなか難しいところがあるのん。
「つうか、飯ないのか」
試しに冷蔵庫を開いてみたら、キャベツしか入っていなかった。塩でも振りかけてポリポリしようかとも考えたが、さすがにそれは侘しすぎる。幸いマッカンはあったので、プルタブをカシュッと開けて茶色い液体を流し込んだ。暴力的な甘さが喉を濡らして、糖分が急速に脳細胞に行き渡る錯覚に陥った。うん、錯覚。糖分は脳みそちゃんのベストフレンズではあるが、そんなにすぐにお届けできたりはしない。バナナの糖分だって五分くらいかかるらしいからな。
まあしかし、白米一杯分のカロリーを有する千葉の水、マックスコーヒーを飲んだことでとりあえずの栄養は確保できた。
ジョギングがてら適当に飯でも食いに行くかとスポーツウェアに着替えて、スマホと財布だけを持って玄関を出た。適当に足先にひっかけていたシューズを履きなおして地面につま先を打ち付け、履き心地を確かめる。ほぼ毎日走ったり訓練で使っているせいもあってだいぶクタクタになってきているようだ。買い替えを検討したほうがいいのかもしれない。
「ちゃんとストレッチしなきゃだめですよ~?」
「わかってるよ。お前は俺のかーちゃんかよ」
スマホに取り付けたイヤホンを耳にはめると、居座ったままだった律の声が響いてきて、それに従ったわけではないが入念にストレッチをする。
ある程度体をほぐしたら、まずは歩くぐらいの速さで地を蹴る。徐々にスピードを上げていくと、身体が慣れたスピードのところで自然と加速が止まり、一定のリズムで靴底が地面を踏みしめるタッタッタッという音と風が耳介を撫ぜる音だけが鼓膜をくすぐるようになった。
「今日はどれくらい走りますか?」
「帰りに買い物するから片道で十キロってとこか。走り終わったあたりでラーメン屋があるとベスト」
イヤホンから聞こえてきた声に要望を伝えると、「それではナビゲートしますね」という返事の数舜後にポケットに入れていたスマホが一回ブルッと震えた。取り出して画面を見てみると、いつのまにか地図アプリが起動していて、正確に家から十キロ程度の地点までのルートが設定されているのが見える。
「……そんなところにラーメン屋なんてあったか?」
はて、近くの美味いラーメン屋は大体回ったと思っていたが、到着地点に設定されている場所は記憶にない。しかし、律が言うには確かにここにラーメン屋を検出したらしい。世界最高峰のAIがそういうのなら間違いないだろう。スピードを緩めることなく、律の案内でその場所を目指すことにした。
「八幡さん、ここが十キロ地点です」
「……ふう」
律のアナウンスでスピードを緩め、すぐには止まらずにゆっくりと歩き続ける。少しずつ体力もついてきて、今だと十キロ四十分前半くらいだ。首にかけていたタオルで汗を拭うと、周囲を見渡してみる。
住宅街のど真ん中、夏休みだがあまり人の気配を感じないそこは俺もあまり来たことのないところだった。しかし、こんなところに本当にラーメン屋なんてあっただろうか――
「あっ」
あった。二階建てになっている立方体状の建物。住居と一体になっているらしいその一階の大きな引き戸には赤いのれんが掲げられていて、窓ガラスには渦巻き模様に装飾された紛れもないラーメンの文字。
『松来亭』まごうことなきラーメン屋だった。ラーメン好きを自負する俺が知らないということは、チェーン店ではなく個人経営の店舗なのだろう。くすんだ壁や店名がわずかにかすれたひさしはよく言えば趣があって、悪く言えばぼろっちぃ。
「ゲッ」
そして見つけた。ちょうどその店内から出てきた長身の少年。黒いTシャツにグレーの前掛けを腰につけて、髪を覆うように頭にタオルを巻いた姿は、それが客ではなく従業員であることを明確に証明していた。
「村松か。バイトでもしてんのか?」
その少年、村松拓哉は一度バンダナ代わりのタオルを外すと、再び結び直して首を横に振った。
「いや、ここ俺んちなんだよ。うち、ラーメン屋」
「……マジか」
まさか俺の大好物を供給している人間が、こんな近くにいようとは。そういえば、この間の誕生日のときにこいつも台所使ってたな。
何を隠そうこの比企谷八幡、マックスコーヒーとラーメンがあれば他の食料は何もいらないまである無類のラーメン好きである。三食ラーメンでもいいくらいにはラーメンが好きである。いや、小町の食事はもちろん食べたいです。あとミラノ風ドリア。
「じゃあ、せっかくだし食べてみようかな」
そもそもここをゴール地点に設定したのはラーメンを食べるためである。マッカンでエネルギーチャージをしたとはいえ、さすがのマッカンも腹持ちはよくない。身体を動かしたこともあって既に胃袋は空腹を訴えていた。
「え、マジで?」
しかし、なぜか店員少年は暖簾をくぐろうとする俺に渋い顔をする。え、食べちゃダメなの? 俺はお客として来ちゃいけないの? なにそれ、八幡泣きそう。空きっ腹に蜂である。八は俺のほうだけどな。
ネガティブな思考に少し目を腐らせていると、村松がため息をついて中に促してきた。店内は厨房を囲うようにカウンター席があるだけのシンプルなもので、鶏ガラの匂いがかすかに鼻をつく。ん? ラーメン屋にしちゃあスープの匂いが薄い気が……。
近くの席に座った俺を見て、村松は麺を一玉掴みながらぼやいた。
「別にいいけどよ、うちのラーメン……マズいぞ?」
「???」
ラーメンのマズいラーメン屋って……なんだ?
***
器から立ち上る湯気。鶏ガラに醤油の匂いをまとわせた真っ白なそれの先にはうっすら金色のスープに浸された麺。その上には白ネギと海苔、チャーシューそしてナルトが乗っていた。
麺を持ち上げてみると細いストレート麺で、わずかにスープを表面に抱えて輝いている。
箸とレンゲで麺を掬い、入念に呼気で熱を冷まして――ズゾゾ、とすすり上げた。
…………。
………………。
…………?
「…………」
なんと言えばいいんだろうか。いや、今の感想を表す的確な言葉を俺は知っているのだが、さすがに店でこれを口にするのは……。
「正直に言っていいぜ、マズいってさ」
無言の俺に村松が苦笑する。どうやらこの松来亭、店主である彼の父親がいくら指摘しても全くレシピを改良しようとしないらしい。
確かに鶏ガラベースのダシは明らかに鶏ガラだけでは足りない部分を化学調味料で補おうとしているのがもろ分かりだし、チャーシューはカップ麺かというくらい薄い。お世辞にも美味い、とは言えない代物だ。
「というか、これって昭和のラーメンだろ」
いや、もはやラーメンというか中華そば。元々ラーメンという食べ物は中華麺をそばのつゆにつけたのが始まりだという。その証拠が元々そばの具に使われていたという、このラーメンの中央に堂々と置かれたナルトだ。昭和も昭和、四世代は前のラーメンだろう。
当時は高栄養価でもてはやされていた中華そばだが、今と比べるとその味は「マズい」の一言に尽きるらしい。そもそも、全国何十件何百件のラーメン屋が日々味や食材を研究している中で、戦後間際の味が戦うのは厳しいだろう。
「むしろよく今まで生き残ってたな」
「ま、そこは別の方向でなんとかな」
サービスだと出された餃子を一瞬躊躇して一つ摘まむ、軽く酢醤油につけて口に運ぶ。皮の中に隠れていた餡が口の中でホロリとほぐれて、ジューシーな肉汁とニラの風味が口の中から嗅覚を刺激してきた。
「うめえ……」
いやマジでめちゃくちゃうまい。他のラーメン屋と比べても遜色ない、むしろ一歩抜きんでているのではないかと思うほどの味だ。なるほど、確かにこの味ならラーメン抜きでも来たくなるかもしれない。
「ラーメンの改良だけはなかなかやってくれねえけど、サイドメニューは色々手を加えさせてもらってんだわ。俺が継ぐまで潰れてもらっちゃ困るからな」
どうやら触手担任から将来的に経営の勉強をしないかと勧められているらしい。跡を継いだ時に新しい味を活かせる経営手腕を持てるように。本格的に暗殺に関わるのは俺よりも遅かったこいつだが、なんだかんだ超生物にしっかり手入れをされているらしい。
「じゃあ、新生松来亭を楽しみに待っておかないとな。千葉に美味いラーメン屋が増えるのは大歓迎だ」
「ちぇっ、ラーメン好きの兄貴に言われたら益々潰せられねえなぁ」
カウンターを挟んで二人してククッと喉を鳴らす。残っていた麺を啜ってやっぱりマズいと思いつつも、今じゃ逆になかなか食べられないものを食べられたという意味では、店主である村松の親父さんには感謝するべきかもしれない。そう思って、今一つ味気ないスープを飲み干した。
「ごちそうさん」
「おう、お粗末さん」
***
それから数日後。俺はまた松来亭に来ていた。
この間は村松一人だけだったが、今日は大柄な店員がもう一人、おそらくこの人がこいつの親父さんで、この店の現店主なのだろう。
「よっ、村松。ラーメン一杯」
「え、またラーメン食うのか? マズいだろ?」
思わず口をついて出たらしい村松の頭に垂直に拳が落とされた。中指の第二関節が突き出されていて、鈍い音が店内に響く。痛そう。
「なーんか、無性に食いたくなったんだよ」
確かにマズいし古いラーメンなのだが、ふと思い出したら食べたくて仕方なくなってしまい。気が付いたらジョギングがてら足を延ばしていた。あれかな、身体に悪そうなジャンクフードでもどうしても食べたくなることがある的な奴。ひょっとしたら、この店が生き残っている理由はサイドメニューの改良だけが理由ではないのかもしれない。
「ほれ見ろ拓哉! こうしてまた来てくれる客がいるんだから、味は変える必要なんてねえんだよ!」
未だに痛むらしい頭を抑えている村松の背中をバシバシ叩きながら親父さんは豪快に笑う。多分うちの親父と同い年くらいだと思うが、めちゃくちゃ元気そうだな。
「あー、分かったから叩くのやめろよ! ラーメンの用意できねえだろ!」
ぶーたれる村松は手を払いのけて湯で湯の前に立つと麺を二玉掴んだ。
なぜ二玉なのかと疑問に思っている間にサッと湯切りを行い、用意していた二つの器にそれぞれ流し込んだ。お待ちどう! とその器が二つとも俺の前に差し出される。一つは松来亭のオーソドックスなラーメン。そしてもう一つは具の乗っけられていない麺とスープだけのものだが、スープの色が明らかに違う。匂いからして醤油ダレを使っているようだが、鼻をつくのは豚の風味だ。
「試作で作ってみたスープなんだけど、比企谷ってラーメンについては細かそうだから感想聞かせてくれよ」
なるほど、これは村松が作ったスープなのか。割り箸を取り出して二つに割り、麺持ち上げてみる。火傷しないように麺を冷まして、一気に啜り込む。ゆっくりと咀嚼して飲み込むと、今度はレンゲを使ってスープを飲んでみる。豚骨……とは少し違う豚のダシが舌の上で転がされて、後からネギの風味が追いついてきた。
「豚足をベースにダシを取ったんだけど、いまいち納得できなくてな。どうだ?」
なるほど、少し豚骨と違うと思ったのは部位が違ったからか。なかなか美味いが、確かに今一つ「美味い!」と言い切れない。
「もう一歩味に深みが欲しい……かな? シイタケとか昆布、煮干しあたりで旨味に多重感を持たせるとか、豚の別部位も入れてベースを深くするとか、単純にニンニクとかを入れるのもありかもしれない。今はベースのメインが豚足だけで突出してる感じがするから、もっといろいろ野菜を入れるのも――」
呟きながら思考をまとめている途中で両肩をいきなり掴まれた。顔を上げると腕を振るわせた村松がいて――
「比企谷!」
「おう」
「いや、兄貴!」
「……おう?」
「いえ、師匠と呼ばせてください!」
「……は?」
突然訳の分からない呼称で呼ばれて固まってしまった俺をよそに、村松は食材を買ってくる、と店の奥に消えた。残ったのは豪快に笑う親父さんと首をひねるしかない俺と、目の前のラーメンで。
仕方がないのでラーメンを啜ってお茶を濁すことにした。
うん、やっぱり美味くはない。
だけど、少し懐かしい気がする味だ。
「八幡さん! 見ているだけなのは嫌なので、私も味覚エンジンが欲しいです!」
「…………ノルウェーの開発者に聞いてみたら?」
当然暗殺には全くの不要ということで却下されたらしく、いじける律をなだめることになったのはまた別の話だ。
八幡はラーメンに関しては天性の舌を持っているとかそういう才能(願望
というか、村松に師匠って呼ばせたかったという理由で書いたまであるお話でした。
ラーメンは好きなのですが、さすがに調理に関してはからっきしなので、いろいろサイトとか調べてました。TOKIOのラーメンとか。
いっそのこと八幡と村松が最高のラーメンを作る話とかいいのではないだろうか(暴論
松来亭のラーメンは4世代前ということで、だいたい戦後直後の中華そば的なラーメンじゃないのかなと思っています。当時の中華そばを懐かしんで今食べると吐きそうなほどまずいってどっかの漫画で呼んだ記憶がありますし。
そういえば、4/1はエイプリルフールでしたね。昨日投稿が終わってから思い出しました。なんかエイプリルフールネタを仕込んでおけばよかったなぁと思わなくもないですが後の祭り。
それでは今日はこの辺で。
ではでは。