夏至を過ぎて長いようで短かった夏休みも終わり、今日から九月、二学期の始まりだ。最後の数日でなんとか生活リズムを戻した俺は、あくびを噛みしめながら山の上、E組校舎に来ていた。……あくびが出るってことはまだ生活リズム戻ってないんじゃないのん?
もはやこの程度では息切れもしない坂をのんびり登り切り、今日も草の根一本ない校庭を抜けて校舎へ入る。靴を下駄箱にしまって上履きに履き替えると、弁当用の保冷バッグに入れていたマッカンを一本取りだしてプルタブを引き上げながら教室に向かった。まだじんわりと暑い中、カシュッという涼しい音がかすかに響く。
「あ、おはよーはっちゃん!」
教室の引き戸を開けると、すでに何人か来ていたようだ。お前らみんな早いな。二学期楽しみにしすぎじゃね?
今日も元気いっぱいな倉橋に短く返すと、前後の席で会話を弾ませていたらしい矢田が俺の手元に視線を向けて――眉をひそめる。
「比企谷君、またそれ飲んでる……」
「別にいいだろ。マッカンは千葉の水だ」
コクコクと傾けながら屹然とした態度で返すと、盛大にため息をつかれた。いいじゃん、去年に比べると動く機会が増えたから消費カロリーも上がってるし、そもそもマッカンがないと俺は動くことができなくなるのだ。俺にとってマッカンが重要すぎる件について。
健康がーとか腹回りがーとか言ってくる矢田と倉橋を適当にあしらい、途中で同じく先に来ていた磯貝と片岡にもあいさつを交わして自分の席に向かった。岡野あたりは今頃烏間さんたちが作ったアスレチックで自主鍛錬をしているのだろう。あいつしょっちゅう身体動かしてるからな足にナイフを取り付けての戦闘はこの教室じゃあいつにしかできないトリッキーな技だ。
「おはようございます、八幡さん」
「……お前とはもう挨拶は済ませたはずなんだが」
というか、朝一番にこの声聞いたぞ。最近なぜか律が俺の目覚まし代わりになってるんだよな。あのセルフバイノーラルとかいう謎技術はあんまり使わんで欲しい。ほんと耳がゾワゾワするから。一発で目は覚めるけどな。
「家と学校ではまた別なんですよ! それにほら、本体としては今日初めてお会いしたわけですし!」
「……さいですか」
電脳娘のよくわからん持論に首をひねりながら席に着いて、読みかけの本を取り出した。開けられた窓から入ってくるかすかに涼しい風を感じながらペラ、ペラ、とページをめくる。そうして時間を潰していると段々教室が騒がしくなってくる。それぞれからくる挨拶を返して、教室の人口が七割を超えるころにはさすがに読書をするにはざわつきが大きすぎたので、本を閉じて周りの会話に耳を傾けた。ちょっと前は人間観察が趣味なんてのたまっていたせいか、こういう雑然とした会話の流れも聞いていてなかなか楽しいものだ。
最後だったらしい寺坂が入ってくる頃には黒板の上にかけられた時計もいい時間を示していた。喧噪の中かすかに山の下の本校舎の方からチャイムが聞こえてくると、ガラリと入口が開いた。入ってくるのはずんぐりむっくりなうちの担任教師。
「はい皆さん、おはようございます。今日から二学期、よく考え、よく学び、よく動き、楽しく暗殺をしていきましょう」
教卓についた殺せんせーがヌルヌルと笑うと、皆苦笑しながら返事をする。しかし、つぎつぎとため息が漏れだした。
「けど、この後始業式のために本校舎に行かなきゃいけないんだよな」
「始業式の後にこっちに来れればまだ楽なのにね」
なるほど。そういえばE組は全校集会なんかの時にはわざわざ本校舎まで行かなくてはいけないんだったな。しかも他クラスよりも先に並ばなければいけないとかなんとか。
「比企谷さんいいっすよね、全校集会行かなくてもペナルティないんすから」
「まあな。……その間殺せんせーの個人授業受けてるけどな」
肩を落として遠い目をする俺に、菅谷があっと声を上げて同情の目を向けてくる。単純に一時間近く勉強時間が増えるからな。夏休み前あたりは「そろそろ高一後半の内容を勉強しておきましょうか」とか言ってどんどん詰め込んできやがった。おかげで高校一年の内容はほぼ網羅することができたから、別に悪いことではないんだが。
「じゃ、俺ら行ってくるから。比企谷は勉強頑張ってなー」
だるいだのなんだのと文句を漏らしながら教室を出ていく。残ったのは俺と殺せんせーとイリーナ先生、後は律だけだ。律はどうせ誰かのスマホで参加するだろうから残ったと表現するのは微妙なところだが。
「それでは比企谷君、今日も個別授業を始めましょうか」
「……うっす」
そういえば、今朝は竹林の姿が見えなかったが、新学期そうそう風邪でも引いたのだろうか。
「さすがですねぇ。文系の飲み込みは早い」
書き込み終えた小テストをその場で採点しながら呟いた殺せんせーに、「どうも」とだけ返す。元々文系の成績はそこまで悪くなかったし、そこにこの担任の技量が合わされば、難しいと感じる場所のほうが少なかった。普通の授業ならば二、三時間は掛けるだろうところを要点を絞ってサクッと終わらせるもんだから、教科書の半分くらいは紙の無駄なのではないかと錯覚してしまうほどだ。国語の教科書とか普通に読むだけでも十分面白いけどね。
「逆に、だいぶ解けるようになってきたとは言っても、まだ数学は苦手なようです」
ペラリと採点を終えた用紙を見せてきたので確認してみると、確かに現国あたりに比べると正答率が芳しくない。苦手意識があるのももちろんだが、公式なんかを覚えてもじゃあそれはどういう場面で使うのか、で詰まってしまっているのが問題なのだろう。最後の問題なんて使う公式間違えてるし。
「理系分野に関しては、普通に覚えるだけなのは比企谷君向きではないのかもしれませんねぇ。公式と利用法を同時に覚えるべきなのでしょう。……そうです! 前に竹林君のために作った公式の替え歌が……」
「あんたそんなもんまで作ってたのか……」
本当にこの教室の授業は異常だ。俺も含めた三十人弱の生徒のために、この担任教師は手を変え品を変え、色々な教育方法を試みてくる。教室なのにまるで家庭教師のような空間だった。
「竹林君はアニメと関連付けると、先生も驚くほどの理解力を見せましたからねぇ。ああ、ありましたありました」
合計四本の指で器用にスマホを操作していた殺せんせーは、音楽アプリを起動すると実際に歌うのか濁音混じりに喉を鳴らした。
しかし、その口から音が溢れ出すことはなく――
「八幡さん、殺せんせー! 大変です!」
すぐ隣の黒い直方体から発せられた、焦ったような声に二人して振り返った。律は自身のハードを斜めにずらして俺たちの方に向かせると、普段なら顔を映している液晶に映像を表示させた。
きれいに並んでいる何人もの生徒たち。そしてその奥にある壇上が、そこが今始業式の行われている本校舎の体育館であることを知らせていた。すぐ近くに映っているのは千葉か。おそらく寺坂のスマホカメラを使用しているらしい。
そして壇上にいるのは……竹林?
「竹林さんが、A組に編入すると言っているんです!」
「は……?」
「にゅっ!?」
律の言葉の意味が最初は理解できず、そしてその意味を理解してからは驚きで動きが止まってしまう。隣の暗殺対象も同様に固まっているが、ここで暗殺をしようという考えすら思いつかなかった。
完全に停止した頭にスマホ越しで劣化した竹林の声が入り込んでくる。
『僕は、四ヶ月余りをE組で過ごしました。その環境を一言で表すなら――地獄でした』
淡々と、いっそ感情をすべて廃しているかのようにただただ事務的に竹林は語る。
『クラスメイトは皆やる気がなく、先生方にも匙を投げられ、怠けた代償を思い知りました』
一定のリズムで紡がれる言葉が、逆にそれが現実であることを俺たちに教えていた。
『もう一度本校舎に戻りたい。その一心で必死に勉強をして、生活態度も改めました。
こうして戻ってこられたことを心底嬉しく思うとともに、二度とE組に落ちることのないように頑張ります』
以上です、と礼をした竹林に、シンと館内が静かになる。E組生徒だけでなく、他のクラスの生徒たちも状況を理解できていないようだった。
その静寂を破ったのは一つの拍手。舞台袖に少しだけ見えるのは……浅野か。
その拍手の波紋は少しずつ広がっていく。一人、また一人と手を鳴らす生徒が増えていき、ついには爆発的な拍手の風に変わった。
呆然と見つめる画面の向こう。歓声と拍手に包まれて、竹林は舞台袖へと消えていった。
***
「いつもやっていることですよ」
理事長室を窓から訪れた殺せんせーに理事長は椅子に深く腰を下ろしたまま答える。この時期に頑張った生徒に接触して、E組脱出を打診する。頑張った分だけ報われる。弱者から強者になれる。
「殺せんせー、私は何か間違ったことを教えていますか?」
なるほど、確かに合理的だ。そこだけを見て、おかしなところは見受けられない。
ただまあ――
「……いえ、間違っていませ……」
「まあ、ちょっと疑問はあるんですが」
多少異議を唱えてみることにする。
殺せんせーの大きな服から顔を出して小さく手を挙げた俺に理事長はわずかに驚くが、すぐに居住まいを正してにこりと微笑んだ。
「比企谷君、隠れて理事長室に侵入するのは感心しないね」
あ、ちょっと怒ってる。まあそうだよね。人の服の中に隠れて勝手に入られたら、そりゃあ怒るよね。
「あれですよ、俺もあんまりここの生徒に見られたらまずいかなという配慮みたいな……」
実際は一人で坂降りるの面倒だし、視線集めるのも面倒だし、超生物が行くのについていった方が断然楽、という理由なのだが、それは伏せておこう。今言ったことも間違ってないからな!
俺の言い分に理事長は一つため息をつくと、「まあいい」と普通の笑みを表した。どうやら許されたっぽい。
「それで、疑問とはなんだい?」
「まあ、竹林に関しては自分の意志で本校舎に戻ったみたいなんで別にいいです。実際、一学期の期末は一桁順位にまで上がったわけですし」
A組と賭け勝負をしたあの期末試験。竹林は総合順位を大きく上げて七位だった。これは前回怠けて順位を落とした赤羽を退けてE組トップのもの。本校舎帰還という報酬は妥当なものだろう。
「ただ、俺は“どうしてそれが竹林だけ”なのかが不思議なんですよ」
「…………」
E組の本校舎復帰条件は定期試験で学年順位五十位以内に入ること。その上で元のクラス担任から復帰の許可をもらうことだ。
期末テストで少なくとも第一条件をクリアしたのは十八人。竹林と同じ順位に片岡もいる。赤羽のような素行不良でE組に落とされた生徒は仕方ないにしても、竹林に声をかけるならば他の奴らにも声をかけていないとおかしいのだ。
しかし、始業式から戻ってきたあいつらの態度を見る限り、他の奴らにそういう声かけがあったとは思えない。
「そのやり方は、『弱者が強者になれる』という教育から外れているんじゃないですか?」
俺の疑問に理事長は静かに瞼を閉じる。そのまま机に置いてあった一枚の用紙を手に取り、もう一度瞼を上げる。
その瞳のぎらつきに、思わず身構えてしまうほどだった。
「殺せんせーを教師に据えて、あの教室を暗殺教室にしたことでE組生徒の考えが変わった。E組から抜け出せば百億を手にするチャンスを棒に振ることになる。そもそも今のE組に、本校舎に戻ろうと勉強している生徒はいないでしょう」
確かに、従来のE組と違い、今のE組には多額の報酬を手にする可能性が存在している。離島での暗殺結果によって、集団暗殺ならば三百億まで引き上げることのできる報酬は、普通のサラリーマンの生涯年収を大きく上回る。
「E組の生徒三十人弱が協力して暗殺に成功した場合の一人頭の手取りは単純計算で十億。まあ、普通の日本人にとっては十分すぎる金額だね。この学園の強者になることを捨てて、この報酬を目指すことも間違っていない選択肢だ」
そう言いながら、さっき手に取った用紙を俺に見せてくる。それはとある病院の広告だった。俺もよく知っている千葉では名の通った私立病院。
「竹林総合病院って……まさか」
「そう。彼の家は代々病院の経営をしているんだ。二人いる兄は揃って東大医学部。彼の家にとって、十億という金額ははした金とは言わないまでも、働いて稼げる金額なのさ。
それに、彼の身体能力ではその十億を受け取ることができるかも怪しい」
「っ……」
その言葉に、閉口せざるを得なかった。
理事長の言う通り、竹林の運動スペックはからっきしだった。単純な身体能力もだが訓練成績も最下位。真面目に参加していても、今一つぱっとしないという印象は拭えない。
「彼の判断が、別に間違っていないことは、わかるね?」
「……そう、ですね。確かに理屈は通っています」
わかればよろしい、と理事長は退室を促してくる。殺せんせーはいつの間にかいなくなっていたので、帰りは歩いて帰ることになりそうだ。
「それにしても、私に意見だなんて君も思い切ったことをするね。君のE組在学を取り消していたかもしれないよ?」
そんなこと考えてたの? 独裁国家か何かかな? さすがこの学校の法、マジ怖い。あと怖い。まあ冗談だろうけど。
「あいつらのためなら、命以外全て賭ける覚悟はできてるんで」
首をすくめてそう言うと、理事長は少し間をあけてクツクツと喉を鳴らした。
「君は面白いことを言うね」
「……さすがに冗談ですよ」
本当は命も含めた全てを賭ける覚悟ができている。あいつらの前では絶対に言わないけど。
理事長室を退室して、E組校舎に戻るために出口を目指す。というか、上履きの状態で来たんだけど、これ帰る頃には靴の溝に土がびっしり詰まってしまいそうだな。
竹林がそうしたい、そうありたいと願ったのなら、俺にそれを否定する権利はない。
しかし、クラスメイトとして、仲間として、そして兄貴分として、理由くらいは知りたいと思ってしまうのは、仕方がないことだった。
竹林回です。といっても今回は触りだけですが。
最初書き始めた当初は、モバイル律とかいうチート経由で竹林ともよく絡むかもなぁと思っていたんですが、単純に席が正反対なのと、竹林の性格的に結構難しいところがありました。
あと、律がどこででも現れるから自宅とかのE組外で割とおなか一杯になるという不具合。かわいいけどね? あんまりやりすぎると、もう律と八幡だけでよくね? ってなるんですね。それはちょっと書こうとしてんのと違うなーって。
それでは今日はこの辺で。
ではでは。