夜七時、茅野が指定した椚ヶ丘公園の奥にあるすすき野原には、すでに烏間さんやビッチ先生と他の奴ら、そしてこの場所を指定した茅野自身が揃っていた。
「「「「…………」」」」
誰も言葉を発しない。言い知れぬ緊張感と、十二月の冷たい夜風に揺れる枯れたすすきの音だけがこの空間を支配していた。茅野は俺たちに背を向けてただ星空を眺めていて、俺たちはそんな茅野をただじっと見つめている。
やがて、一際強い風が吹いた。自然の風でないことはこの場の誰もが分かるマッハ飛行の残滓の風。
「……茅野さん」
「来たね。じゃ、終わらそ!」
地上に降り立ったターゲットに、黒い二本の触手を伸ばしたままにこやかに茅野は笑う。黒のノースリーブワンピースにマフラーというちぐはぐな出で立ちはどこか触手を生やしていた頃の堀部に近いように思えた。表情は一切崩さないが、露出した腕や足からは遠目からでも分かるほどの汗が浮き出て流れ落ちていく。
「茅野……」
それでも殺せんせーを殺すことしか見ていない茅野に、渚が一歩前に出る。昼間の間にある程度戻った顔色は、少し険しい。
「全部……演技だったの? 楽しいこと色々したのも、苦しいことを皆で乗り越えたのも……」
渚の近くにいた奥田はしきりに頷いているし、神崎は戸惑うような表情を茅野に向けている。暗殺教室なんていう特異な環境にいたが故に、E組はいろんな体験をしてきた。楽しいことも、辛いことも、皆で歩んできた。
その中には、確かに茅野もいたと思っていたのに――
「うん、演技だよ。私これでも役者だからさ」
それを触手を生やした少女はいつものような満面の笑みでいともたやすく否定する。“皆”の中に自分は入っていなかったと言いたげなその笑みに、渚の目は少し力をなくし、神崎の表情も暗くなる。奥田なんて両の拳を握りしめて、じっと自分の足元に視線を落としてしまった。
「大変だったよ。ひ弱な女の子を演じ続けないといけなかったからね。殺す前にバレたら全部パアだもん」
渚が鷹岡にやられている時もじれったくて参戦したかった。不良に攫われた時や死神に蹴られた時は、ムカついて殺したくなった。その感情も全て丸め込んでひた隠しにして、全てターゲットへの憎悪に変えて身を潜ませて、刃を研いで――
そうしなくては、姉の仇を取れないから。
「…………」
そうペラペラと舌を動かす茅野を、俺は何も言わずにじっと見つめる。俺の視線に気づいたのか、茅野はこちらを見て、にっこりを笑みを浮かべてくる。いっそ見惚れてしまうくらい完璧な笑みだ。
けれど、完璧すぎるからこそ、その笑みは貼り付けられた仮面のようで――やはり俺はなにも言葉を発することはできなかった。
「……カエデちゃんがどれだけ雪村先生のこと好きだったか、なんとなく分かるよ。たった二週間の付き合いだったけど、好きになるには十分すぎるくらいいい先生だったもん」
本校舎の担任たちが見捨てた自分たちになんとか自信を持たせられないかと奮闘していた、この学園では特異な新任教師。そんな先生を殺せんせーが殺すなんて、俺たちには信じられない。一年弱見てきて、そんな酷いことをするそぶりすら一度も見せたことがないのだから。
そして、それは茅野自身だって分かっているはずなことだ。
「俺には、茅野ちゃんの今のやり方が殺し屋としての最適解とは思えない」
本当にそれでいいの? そう聞き返す赤羽が思い浮かべているのは、きっとこの一年で色々してきた経験だろう。感情の乱れは判断力を鈍らせる。本当に大事なものが見えなくなる。離島の時の渚や俺のように、そして理事長のように。殺し屋はなおのこと冷静になることが重要だと教わってきた。
「身体が熱くて首元だけ寒いはずだ。その代謝異常の状態で戦うのはマズい」
堀部自身も経験があり、だからこそ今の茅野の格好は堀部の当時の出で立ちに近いのであろう。玉のようにあふれ出る汗が、いかに今の彼女の体温が異常になっているかを如実に表していた。
メンテナンスをしていない触手を使い続ければどうなるか。演技で表情は隠せても、実際に今も茅野の身体は十二月とは思えない汗を流すほどの熱と、脳をかき回されるような激痛に苛まれているはずだ。
そんな状態で戦えば、膨大なエネルギーを消費する触手に体力を奪われ――死ぬ。
そんな特攻、もはや暗殺じゃない。
「……うるさいよ。部外者は黙ってて」
――ゴウッと。
突然茅野の触手がその先端の五十センチほどを燃え上がらせた。その目にさっきまでの“いつもの表情”ではなく、射貫かんとするような強さを秘めている。交渉の余地を許さないその目に、さっきまで説得していたクラスメイト達はグッと押し黙るしかなかった。
どんな弱点も磨けば武器になりうる。身体が熱くて仕方ないのなら、もっともっと熱くして全部触手に集めればいい。それはきっと、ろうそくの炎を無理やり大きくするようなものだ。火力は確かに強くなる。けれどその分、蝋でできた軸は常の何倍も早く溶けきってしまう。
「やめろ茅野! こんなの違う!」
触手にまとった炎で自身と殺せんせーを囲った茅野に、渚がいつもは出さないような叫び声を上げた。自分の身を犠牲にして殺したところで、後には何も残らないのだと。
渚は俺と同じように無茶をする奴だが、無茶の本質が少し違う。少し前までの潮田渚と言う少年は母親の二周目として自分の命に頓着がなかった。だから暗殺教室が始まった四月の始めに自爆テロなんて起こせたのだろうし、その小さな身体で何人もの相手に立ち向かっていった。目的のためなら、冷静に無謀に自分の命を戦場の最前線に投げ込んできた。
しかし、そんなあいつだってこの一年弱の経験で成長してきた。学習してきた。進路相談の折に母親の二周目という家族の鎖を抜け出し、自分の命についてだってちゃんと考えるようになったのだ。自分の過去を思い返して、自分の死と引き換えに暗殺が成功しても、きっとそこに喜びはない。残るのはどうしようもなくやるせない気持ちだけだと一つの答えを出したのだ。
「自分を犠牲にするつもりなんてないよ、渚。ただこいつを殺すだけ。――そうと決めたら一直線だから!」
嘘だ。俺たちでは想像することもできない苦痛を受けて、自分の身体がどういう状態に陥っているのか分からないわけがない。
しかし今の俺たちには、常人の俺たちにはこの戦いを止める術がない。触手同士の戦いで、茅野は文字通りの全力全開。しかもここは公園の奥地で、近くに触手の弱点である水もない。
触手を何度も叩き込み、ターゲットの体勢が崩れて意識が前に集中したのを逆手に利用して背中に触手を叩き込み、地面に落とし込む。炎で作られたリングによる環境変化で集中力を乱している殺せんせーをさらにテクニカルに追い詰めて、隙あらば急所である体の中央の心臓を狙って炎の触手を突き立てる。茅野を傷つけるつもりのない殺せんせーには防戦しか選択肢がなく、致命傷は免れているものの確実にダメージは蓄積されていっていた。
状況ははっきり言って絶望的だ。
「イトナ。テメーから見てどうなんだ、今の茅野は」
「……俺よりもはるかに強い。今までの誰よりも殺せんせーを殺せる可能性がある」
寺坂の問いかけに堀部は険しい表情で口にする。触手は精神状態に大きく左右されるものだ。今の茅野はその点において、あの頃の特殊な訓練を受けていた堀部の何倍も強い。自分の肉親の仇を相手に一年間熟成させてきた殺意を向けているのだから当然だろう。触手は本当に二本かと疑いたくなるほど早く、ダイラタンシー現象を受けて先端が硬くなった触手は一撃一撃が重い。炎をまとったそれは、さながらメテオのように殺せんせーに襲いかかっていた。
「……けど、あの顔を見ろ」
「キャハ、千切っちゃった。ビチビチ動いてる」
殺せんせーの触手の先端を破壊したらしい茅野の目には恍惚とした色が滲み出していた。炎でその欠片を焼き飛ばして再びターゲットに襲い掛かるその表情は、もはや復讐心ではなく単純な戦闘欲に犯されているように見える。可笑しそうに吊り上がった口からはだらりとよだれが垂れ落ち、うなじに生えているはずの触手はその根を枝分かれさせながらどんどん伸ばし、顔の方まで侵食しようとしていた。ひょっとしたら、内部はもっとひどいことになっているかもしれない。わずか十数秒の戦闘で、触手はその精神を侵食しようとしているのだ。
確かに茅野は肉体強化やメンテナンスなしに触手の負担を耐えてきた強い精神力がある。けれど、それはあくまで触手の力を温存していたからだ。触手の全力使用はあっさりとその精神力の殻を突き破ってしまった。
「あそこまで侵食されたら、はっきり言って手遅れだ。復讐を遂げようが遂げまいが、戦いが終わる数分後には――死ぬと思う」
堀部から発せられた“死ぬ”という単語に、その場の全員が顔を強張らせる。特に渚は目に見えて動揺していた。茅野に待ち受ける結末がどちらも変わらないというのなら、俺たちにとってそれは、どちらも最悪の結末でしかない。
「こんなことが……茅野が本当にやりたかった暗殺なの?」
呆然と茅野を見つめて呟いたのは渚だ。誰にするでもなく漏らされた問いかけ。しかしその答えはすでに渚自身の中にあるように感じた。
そして、俺の中にも。
これが茅野のやりたかった暗殺? 否だ。断じて否だ。もはや痛みも感じないようで、まるで子供が好きなおもちゃで遊ぶように無邪気に、凶悪に笑う茅野は、もはや茅野カエデでも、雪村あかりでもなかった。触手に深く浸食された精神は、本来の目的の上に覆いかぶさって、塗りつぶしてしまっているのだろう。
「ホラ! 死んで、殺せんせー! 死んで! 死んで!」
炎の塊となった触手を何度も殺せんせーに叩きつけながら、茅野はひたすら「死んで」と連呼する。その光景に、俺はいつかの自分を重ね合わせてしまう。堀部も多少の心当たりがあるようで、普段のあまり変えない表情を苦々しげに歪めていた。
「死んで死んで死んで死んで死んで死んで死んでしんでしんでしんでしんでしんでしんでしんでシンデシンデシンデシンデシンデシンデシンデ!!」
人間はどんなに感情を高ぶらせても、その感情を真の意味で維持することが難しく、少しずつ頭と心で感情のズレが生じてくる。負の感情ならなおのこと。そのズレを必死に取り繕おうと、同じ言葉を連呼して無理やり心を奮い立たせようとしているのだ。あの時の俺がそうだったように、堀部がひたすら強さを言葉にしていたように、今の茅野がそうであるように。
「死んで! 死んで! 死んでよ殺せんせー!」
攻撃的な言葉はどこか懇願しているようにも聞こえてくる。さらに聞いていればそれが本心ではないようにも感じてくる。触手に犯された心が必死に出しているSOS信号のようにも思えてくる。
「死んで!」
――ころして、……たすけて。
ゾワリと髪の根元が逆立つような殺気の奥に、今にも泣きそうな少女が……見えた気がした。
茅野回はもうちょっとだけ続くんじゃ(cv.亀仙人)
元々は前回の話と合わせて一話にする予定だったので、今回は少し短めになりました。もうちょっと戦闘シーンに臨場感を出したいなぁと思う今日この頃。あんまり説明臭くならずにアクションの動きが想像できる感じが目標です。このシリーズでは言うほどアクションシーンが多くないので、何かの機会にガチアクション小説とかも挑戦したいなと思っていたり。
そういえばカクヨムさんの方では、漫画原作大賞的なものをするそうですね。漫画映えすると言えばやはりアクションなので、アクション小説多くなるんじゃないかな? たぶん。
そういえば最近、化学探偵Mr.キュリーという喜多喜入先生の小説を買ったので時間を見つけて読んでいます。ガリレオシリーズといい、こういう研究者が謎を解く話は普通の探偵物とまた違うのでワクワクします。文系なので知らない単語が出てきたらしょっちゅうググるんですけどね。
それでは今日はこの辺で。
ではでは。