「東西の別働隊との無線はまだ繋がらないのかしら?」
「は、はい。あらゆる周波数を試していますけど、返ってくるのは雑音ばかりですわ。ほんの15分前までは西側の部隊とギリギリ繋がっていたんですけど……」
ダージリンが話題にあげた別働隊。この西側の小隊は、この時点ですでにもう
悪夢のような闇の中に、一対の赤眼が不気味に浮かんでいる。
恐るべき狂犬が背後から迫っていることに、彼女たちは気づかない。
+ + + + + + + + + + + + + +
“カーン”
闇夜が立ち籠める深森に、聞き慣れない者からすれば間の抜けたようにも聞こえる金属音が響き渡った。正午を知らせる長閑な大鐘のような音は、しかし、崩壊しつつあるグロリアーナ東別働隊を率いるルクリリにとっては絶望を確信させるものだった。
「……ッ!全速後退!各車に連絡、今すぐ前照灯を消して!急いで!!」
「は、はいッ!」
操縦手が汗ばんだ手でギアをバックに叩き込み、マチルダⅡの巨躯が停止・後退を開始する。設計段階からリバースギアが1段しか設定されていないマチルダⅡが緩慢な速度で後ずさりをしていく様子がありありと目に浮かび、その内部にいるルクリリは沸き立つ焦燥に歯噛みする。彼女が顔を押し付ける
(
この数分間のあいだに彼女は恐慌状態に向かって強烈に背を押され、片足を突っ込みかけていた。彼女が指揮する6輌編成の小隊はすでに半数以下に減らされていた。もちろん、その程度の損害でルクリリは混乱したりなどしない。曲がりなりにもあの傑物ダージリンから別働隊を一任されているのだ。かつてエキシビジョンマッチで黒森峰に敗北を喫した屈辱をダージリンと共に味わったルクリリは、スキルと経験をミルフィーユのように心身に積んできた。その高飛車で血気盛んな言動で軽んじられがちだが、彼女の指揮統制能力は折り紙付きだ。突発的な奇襲を受けたとしてもすぐに立て直すくらいの芸当は朝飯前だった。問題は、その損害が
(こんなに一方的に……!相手はいったい何輌いるのよ!)
歯噛みして激昂する。戦況をまったく把握できていない自分への不甲斐なさが血管を溶けた鉛となって重く流れていた。このままでは埒が明かない。
「
「ルクリリ様、危険ですわ!」
「いいのよ、このままじゃジリ貧だもの!」
ハッチから豪雨降りしきる車外に身を乗り出す。激しい雨が車内に乱入して、「きゃっ」と少女たちの可憐な悲鳴が咲く。
次の瞬間、眼前の闇夜の奥が一瞬だけパッと赤く光った。ギクリと反射的に身を竦めた刹那、自車のすぐ隣を並んで後進していたチャーチル歩兵戦車が巨大なハンマーで殴りつけられたかの如く鋼鉄の身を震わせて後方に吹き飛んだ。一拍遅れて発砲音と衝撃音が雨粒を散らしながらルクリリの総身に襲いかかる。灯火は消していた。星明かりもないのに、相手はどうやって狙いをつけたのか。まさか、野生動物のように夜目が利くとでもいうのか。否、それよりも重要なのは、
「1輌しかいない……!?」
生まれて消えるまでわずか一秒以下の儚い発砲炎は、しかし激烈な光を放つ。それによって垣間見えた相手のシルエットは、たったの1輌だった。けれど、その1輌だって、ここにいてはおかしいのだ。いるはずがないのだ。いていいはずがないのだ。
「ル、ルクリリ様!こんなのおかしいですわ!だって、黒森峰の戦車は川に落ちたのを除いたら、ダージリン様がぜんぶ一箇所に追い詰めたはずですもの!」
「そ、そうですわ!それに、黒森峰の主力であるパンターやⅢ号戦車であればマチルダの砲でも通用するはずです!跳ね返されるはずがありませんわ!」
「言われなくてもわかっているわよ」というキツい台詞を寸前で呑み込み、ルクリリは強張った背中で無言を返す。黒森峰の残存戦力18輌は先ほどまで目指していたクレーターに追い詰めていたはずだった。自分たちは三方から獲物を追い込んでいる立場であり、奇襲を受けるような状況にはない。だからこそ、夜戦なら普段は絶対につけないはずの前照灯を煌々と照らして前進していたのだ。それが悪魔を引き寄せてしまうだなんて、誰も予想していなかった。
しかも、自分たちが駆るマチルダⅡ歩兵戦車の主砲はオードナンスQF6ポンド砲だ。旧式の2ポンド砲は同クラスのパンター戦車の装甲にもまったく歯が立たないものだったが、更新されたことで威力は格段に上昇した。黒森峰の主力戦車であるパンターやⅢ号戦車程度の装甲なら簡単に撃ち抜けるはずだ。だが、必殺となるべき一撃は至近距離で命中したにも関わらず、無情にも軽くあしらわれた。
『ルクリリ様、ルクリリ様ァ!コイツはいったい何なんですの!?た、助け───』
ブツッという無線の断絶。同時に轟音、続いて足元を伝わる地響き。周囲の闇のどこかで、側面を砲撃された最後の味方のチャーチル歩兵戦車が被弾の勢いそのままに横転したのだと、鍛えられたルクリリの耳には容易に想像できた。と同時に、謎の相手戦車の主砲が40トンもの防御力偏重戦車を派手に傾覆させるほどの威力を持つことも理解した。そして、そんな大威力の火砲を装備する戦車は、黒森峰で
───グルルルルル……
「嘘でしょ、なんで
暗闇に蠢く敵の姿を───戦いに飢えて好戦的にギラつく一対の赤い眼をそこにはっきりと幻視して、我知らず呆然と呟く。信じられないことだが───信じたくないことだが───自分たちの目の前に立ちはだかる戦車の正体は───。
川に転落してしまった不幸な黒森峰の戦車。
それを助ける振りもしなかった非情な黒森峰。
“見たこともないゴテゴテした戦車が”と報告した矢先に撃破された
(……いいえ、違う!川に転落したように
ルクリリは頭の中の引き出しから相手戦車のカタログデータを引っ張り出す。どうして忘れていたのだろう。
(待って、アイツがここにいるということは───)
「……まずいわ、これは罠よ!ダージリンが危ない!!」
ルクリリの頭の中でそれぞれ断絶されていた事実が結びつき、額の裏の発光とともに一つの真実を見出した。全ては欺瞞だったのだ。追い詰めたと思い込んでいた。思い込まされていた。西住まほの妹。西住流という虎の威を借る狐。名も知れぬ気弱な隊長。それすらも欺瞞だった。なんて奴だ。こんな大それた、恐ろしい作戦を立てるなんて。自分たちの目の前に掘られた落とし穴を看破するだけの力量を備えてしまった自分を、ルクリリは死ぬほど恨んだ。恨んで、しかし最善を尽くすことを諦めなかった。
赤く光る眼が闇夜に隠れて消える。さすがの自慢の大砲でもマチルダⅡの正面装甲は撃ち抜けないと見て諦めたのか。いいや、アイツがそんな打算を働かせられるはずがない。狙った獲物を諦めるはずがない。絶対にない。特徴的なエンジン音を頼りに位置を探ろうと耳を澄ませるも、バケツを引っくり返したような雷雨のせいでちっとも意味をなさない。頼れるのは肉眼しかない。皿のように開いた目で周囲を威嚇するが如く見回しながら、すっかり中身のひっくり返った空の紅茶のカップを行儀悪く放り投げ、彼女はハッチの下の装填手兼通信手に命令を叩きつける。
「隊長車に通信を繋いで!!」
「で、でも、さっき遠距離無線を試したときは雷のせいで繋がらなくて、」
「車内灯も、暖房も、砲塔の電源も、役に立たない
自分たちの破滅を決定事項として口にし、攻撃手段となる主砲を自ら捨てるのみならず、伝統的に紅茶を嗜む聖グロリアーナ女学院生徒には絶対不可欠な給湯装置すら手放すことに、通信手の少女は思わず愕然としてルクリリを見返した。常に淑女らしく優雅であることを推奨する校風にそぐわない指示にギョッと動転したのだ。
後にも先にも明らかにならないことだが、もしもこの時、通信手の少女が動揺せずに即座に指示通りに行動していれば。また、帯電する大気の間隙を貫いて運良くダージリンに無線が繋がっていれば。そうすれば、結末は違ったものになっていたのかもしれない。だが、勝利の女神は
「なにしてるの、急いで!」
「あっ、は、はい、すみません!」
「び、BV電源及び砲塔用電源、その他全てシャットしました!」
「ルクリリ様、繋がるかどうかわかりませんが、どうぞ!」
手渡されたスピーカーマイクを乱暴な動作で口元まで引っ張り上げて警告を叫ぶ。
「ダージリン!応答して、ダージリン!
結果として、ルクリリの捨て身の
「アンタたち、なにを……!?」
スローモーションとなった世界で、手から滑り落ちていくマイクを片方の目で見て、もう片方の目で自分を掴む眼下の少女たちを視認する。何分の一秒かも定かではないゆっくりとした時間で、彼女たちのあまりに切羽詰まった形相に疑問が浮かんだのも束の間、ルクリリはその理由を全身で受け止めることとなった。
まるで、獲物の喉に食らいつく肉食獣のような強烈な
シュポッ。
幼児向けの空気銃のような音とともに、マチルダⅡの上部から白旗が突き出る。撃破判定を喰らったのだ、とルクリリは遅まきながら理解した。気づけば、あれほど鼓膜をつんざいた相手戦車のエンジン音はどこかへ消えてしまっていた。喰らった獲物に用はないということだろう。
(そういえば、ティラノサウルスって獲物の首の肉しか食べないんだったっけ)
脈絡のない知識が過ぎるほど心拍数を平常に戻すと、彼女を無理やり引き摺り下ろした際の格好のままギュッと抱きついている少女たちの顔を優しげに見回す。
「……ありがとう、みんな」
彼女たちは、すんでのところでルクリリを護ってくれたのだった。恐怖で引き攣っていた表情から徐々に緊張が抜けていく部下たちを見ながら、ルクリリもまた、「は~っ」と気の抜けた大きなため息を落とした。最年長の先輩として、前途多難な後輩たちの将来を哀れんだからである。
「ねえ、ダージリン、オレンジペコ……アンタたちのライバル、ヤバイやつばっかりじゃないの」
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アッサムの放った一撃がティーガーⅡのシルエットに吸い込まれるように命中した。派手すぎるほどに破片が飛び散って、その様子を見たグロリアーナ戦車のなかで次々と歓声が上がる。アッサムの経験が「脆すぎる」という疑念を訴えたものの、憎き宿敵を屠ったことには変わりがないと流れた。これでバスカヴィルは討伐した。あとは蹂躙するのみ。そのはずだった。
『な、なんだかおっきなドミノみたいですわねっ!? 指先でちょんと押したら今にも倒れそう───』
だが、ローズヒップの一言が彼女たちの表情を曇らせた。それまで順調に奏でられていた演奏が不意に途切れたような、その沈黙が1秒経っても2秒経っても終わらないような、漠然とした不安感が少女たちの心をじわじわと侵食していく。わからないからこそ不気味な
悪夢のような闇の中に、一対の赤眼が不気味に浮かんでいる。
恐るべき狂犬が
あれ、エリカさん、いたんだ。パソコンするなら電気つけないと、目が悪くなっちゃうよ?ん、どうしたの、そんなに慌てて。あれ、ねえ、なんで隠すの?「レビューを書いてただけ」?それならなんでそんなに必死になって画面を隠すの?ねえねえ、なんの商品をレビューしてたの?そのくらい教えてくれたって……あ、もしかしてボコグッズ?ボコグッズなの!?いいなあ、見せて見せて………『催眠音声・催眠戦車の館へようこそ』……?