僕は家を出る前、鏡の前にしばらく立っていた。
普段より少しだけ整えた髪。
シンプルだが、きちんとした服装。
いかにも――
休日の高校生の外出という姿だ。
わざとらしくならない程度の「おしゃれ」。
それが重要だった。
玄関の扉を開け、外へ出る。
春の空気が、ほんの少し湿った匂いを含んで僕の頬を撫でた。
僕は静かに歩き出す。
目的地は、家から数分の場所にあるバス停。
――おそらく今日が最初の土曜日。
もし僕を疑っている人間がいるなら。
もし警察関係者を調べている組織があるなら。
尾行は必ず続いている。
僕はそう考えていた。
平日は学校と塾。
行動パターンは単純だ。
しかし休日は違う。
自由行動。
だからこそ――
監視する側は必ずついてくる。
そして今日は。
バスに乗る。
バスという乗り物は、実に面白い空間だ。
密室に近い。
そして狭い。
尾行者は距離を保てない。
乗るしかない。
つまり。
同じ車内に入る。
僕はそう計算していた。
ただ――
一つだけ問題がある。
ナミコを巻き込むことだ。
危険かもしれない。
それでも僕は彼女に声をかけた。
理由は簡単だ。
自然だからだ。
高校生の休日。
デート。
これほど普通の行動はない。
バス停が見えてきた。
その時だった。
「夜神くーん!」
元気な声。
振り向くと、ナミコが手を振っていた。
僕は一瞬だけ驚いた。
塾で見る姿とは、まるで違う。
ミニスカート。
ロングブーツ。
いつもよりずっと華やかな格好だった。
「ごめん、遅かった?」
僕は自然な笑顔を作って言った。
ナミコは首を振る。
「ううん!まだ5分前だよ!」
「スペースランドなんて中学生以来だから楽しみー」
そして、少し照れたように言った。
「夜神君と……二人きりだし」
僕は軽く笑った。
しかしその裏で、頭は別のことを考えている。
――尾行者はいるか。
その時。
少し離れた場所。
電柱の影から、二人を見ている男がいた。
レイ=ペンバー。
彼は静かに観察していた。
――平日は学校と予備校。
――休日はデート。
普通すぎる。
あまりにも普通だ。
夜神局長の息子。
夜神月。
真面目な受験生。
疑う要素はほとんどない。
レイは小さく息を吐いた。
――この家族の娘まで調べる必要はないな。
――今日一日見れば十分だ。
その時。
バスが到着した。
レイは少し駆け足で乗り込む。
僕とナミコは後ろから二番目の席に座った。
一番後ろは五人席。
空いている。
僕はそこを見た。
――尾行者なら必ず後ろに座る。
そう計算していた。
そして。
予想通り。
レイ=ペンバーは僕たちの後ろに座った。
バスの扉が閉まりかけた、その瞬間。
「待て!」
一人の男が走ってきた。
プシューッ。
扉がもう一度開く。
男が乗り込んできた。
人相の悪い顔。
目の下には濃いクマ。
背はそれほど高くない。
髪は――
妙に丸く膨らんだ、玉ねぎのような形。
男はポケットに手を突っ込んだまま歩いてくる。
僕はその顔を見た瞬間、わずかな違和感を覚えた。
――どこかで見た。
だが。
今はそれよりも――
後ろの男。
尾行者。
そちらに意識を集中しようとした。
その時だった。
男がポケットから何かを取り出す。
黒い塊。
そして。
カチャ。
金属音。
男はその物体を運転手の頭に押し付けた。
運転手が小さく声を漏らす。
「えっ……」
次の瞬間。
男が叫んだ。
「このバスは俺が乗っ取った!!」
車内の空気が凍った。
女性の悲鳴。
ざわめき。
恐怖。
その男の顔を見て、僕は思い出した。
――昨夜のニュース。
銀行強盗。
麻薬常習犯。
逃走中。
なるほど。
都内の事件だったが、この街まで逃げてきたらしい。
だが。
僕の頭は別のことを考えていた。
この事件をどう解決するか。
乗客は怯えている。
ナミコの肩が震えていた。
それは当然だ。
拳銃など普通の人間はテレビの中でしか見ない。
しかも相手は麻薬中毒。
何をするか分からない。
僕はナミコの太ももを軽く叩いた。
トン、トン。
そして紙を渡す。
声を出すのは危険だ。
紙にはこう書いた。
ナミコちゃん大丈夫安心して
犯人の隙をみて僕が
ピストルを持った手を押さえる
こういう時の対処は刑事である
父に教わっている
犯人は小柄で弱弱しい
僕の方が力もある
ナミコの目が潤んだ。
彼女は思った。
――夜神君は本物だ。
頭脳明晰。
運動神経抜群。
容姿端麗。
そして。
こんな状況でも勇敢。
好きで良かった。
その頃。
リュークはバスの中を漂っていた。
逆立ちしてみたり、
くるくる回ったり。
誰も気づかない。
――Lの奴、何がしたいんだ?
リュークは乗客を観察する。
拳銃の男。
夜神月。
その後ろの男。
レイ=ペンバー。
他は――
どうでもいい。
その時だった。
レイが立ち上がる。
「危険だ、やめろ」
低い声。
「その時は私がやる」
僕は一瞬だけ振り返った。
写真で何度も見た顔。
間違いない。
尾行者。
僕を監視している男。
僕は紙に何かを書こうとした。
しかし。
レイが言う。
「大丈夫だ」
「走行音がある。小声なら聞こえない」
僕は聞いた。
「失礼ですが……日本人ではないですよね?」
「ああ。日系アメリカ人だ」
僕は静かに考えた。
――ここが重要。
相手の正体を知る。
最も確実な方法。
身分証。
この状況なら出させられる。
僕はナミコに目配せした。
ナミコが震える声で言う。
「共犯じゃない証拠はありますか?」
レイが一瞬黙った。
僕は続ける。
「よくあるケースですよ」
「犯人は一人と思わせて後方に共犯者を置く」
レイは考え込む。
僕はさらに言った。
「乗客は七人」
「空席が多い」
「なのに僕たちの真後ろに座った」
「普通は座りません」
「つまり――理由がある」
僕は静かに言った。
「共犯だからだ」
レイは沈黙した。
そして。
カードケースを差し出す。
「これが証拠だ」
僕はそれを見た。
FBI。
名前。
レイ=ペンバー。
――なるほど。
LはFBIを使っているのか。
貴重な情報だ。
僕は小さくうなずいた。
「信用します」
「銃は?」
「持っている」
「ではいざという時はお願いします」
レイは曖昧に答えた。
僕は前を向いた。
――レイ=ペンバーは敵ではない。
このバスジャックは失敗する。
この犯人は素人だ。
計画性がない。
単独犯。
長くは持たない。
ならば。
警察が動けば終わる。
僕はナミコに情報を渡すつもりだった。
乗客の位置。
犯人の特徴。
父に届けば。
必ず全員助かる。
その時。
犯人が叫んだ。
「おい運転手!」
銃口を押し付ける。
「今すぐ警察に連絡しろ!」
そして笑った。
「そうだなぁ……」
「現金一億円用意しろって伝えろ!」
バスは、静かに走り続けていた。
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