警視庁の一室は、昼だというのにどこか薄暗かった。
窓から差し込む光は鈍く、机の上に積み重なった書類の山に影を落としている。
その影はまるで、無数の思案が形を得て積み上がったようにも見えた。
私は椅子に深く腰掛けていた。
警察という職業は、奇妙なものだ。
日常は静かに流れる。だが、ある瞬間、突然それが破れる。
その破れ目から――
人の悪意が顔を出す。
その時だった。
「局長、大変です!」
慌ただしい足音と共に、松田が部屋へ飛び込んできた。
私は顔を上げた。
「なんだ、松田」
松田は少し息を切らしていた。
「何者かがバスジャックをし、1億円の要求をしてきています!」
その言葉を聞いた瞬間、胸の奥が僅かに硬くなる。
しかし顔には出さない。
警察官というものは、まず冷静でなければならない。
「なんだと……」
私は静かに立ち上がった。
「松田、私に代われ」
受話器を取る。
「はい。はい……スペースランド行きのバス……」
その言葉を聞いた時だった。
胸の奥に、微かな違和感が走った。
――スペースランド。
確か。
今日。
月もそこへ行くと言っていた。
私は無意識に机の端へ手を置いた。
月にはいつも言ってある。
外出時は携帯電話の電源を切るな。
それは父としての忠告であり、警察官としての習慣でもあった。
もし。
もし電話が繋がらないなら。
私はすぐに携帯を取り出し、月へ電話をかけた。
呼び出し音。
そして。
無機質な機械の声。
「おかけになった番号は現在、電波の届かないところにいるか電源を切っているため――」
そこで私は通話を切った。
ゆっくり息を吐く。
――スペースランドで電波の届かない場所はない。
そこへ行く途中にもない。
つまり。
電源を切っている。
あるいは――
切らされている。
私は一瞬だけ目を閉じた。
胸の奥で、父としての感情が波のように立ち上がる。
しかしその波を、私は押し殺した。
今ここで動揺してはならない。
私は父である前に、警察官だ。
その時だった。
携帯が震える。
メール受信。
送り主を見た瞬間、私は画面に視線を落とした。
――月。
件名:犯恐 乗7
本文はない。
たった四文字。
だが。
私は思わず息を呑んだ。
――時間が無かったのだろう。
犯人に携帯を切れと言われた。
その、ほんの数秒。
不自然にならない僅かな時間で。
私にメッセージを送った。
そして。
四文字。
その四文字を、月は選んだ。
私は机に手をつき、考える。
犯――犯人。
恐――恐田?
名前か。
ニュースで見た銀行強盗の犯人。
乗――乗り物。
月が乗る可能性のある乗り物。
電車。
バス。
タクシー。
そして。
7。
日にちではない。
時間でもない。
考えろ。
月はスペースランドへ行くと言っていた。
人数か?
タクシーに七人は多い。
電車では少ない。
ならば――
バス。
乗客七人。
運転手を入れて八人。
そこに犯人。
私は小さく呟いた。
「そうか……」
月。
お前はそこまで読んでいるのか。
父として誇らしくもあり。
同時に。
胸が締め付けられる。
自分の息子が――
人質の中にいる。
それでも。
私の役目は一つだ。
全員を救う。
月も。
他の市民も。
数分後。
私は電話を取った。
「警視庁捜査一課の夜神だ」
電話の向こうで男が笑った。
「ああ、夜神か。どうだ1億円は用意できたか?」
私は静かに答える。
「今、用意している」
「だが警察といえど、すぐには難しい」
「一千万円ならもうすぐ集められる」
その時だった。
電話の向こうで叫び声が響いた。
「うあああああああああ!」
私は一瞬、目を見開いた。
聞き慣れた声。
月だ。
胸が激しく打つ。
しかし。
私は表情を変えない。
「なんだ!叫ぶのをやめろ!」
犯人が怒鳴る。
そして別の声。
落ち着いた声。
「彼はパニックを起こしているようだ。私が面倒を見る」
私は理解した。
――演技だ。
月は私が電話に出ていることを知らせた。
さすがだ。
私は静かに言った。
「今、男性の叫び声が聞こえた」
「人質は無事なのか?」
「ああ。ただのパニックだ」
「まだ誰も殺してねぇ」
「今はな」
私は続ける。
「人質を三人解放してくれ」
「そうすれば一千万円を渡す」
これは交渉の常套手段。
一人ではない。
多めに言う。
犯人は怒鳴った。
「駄目だ!1億円と交換だ!」
私は少し間を置いて言った。
「では逆に聞こう」
「1億円で全員解放する保証はあるのか?」
沈黙。
私はさらに言葉を重ねる。
「それに、そろそろ空腹ではないか」
「バスを走らせ続けるのか?」
「なら弁当も用意しよう」
「1000万円と弁当」
「その代わり――」
私はわざと自然な口調で言った。
「人質四人を解放してくれ」
そして。
さりげなく。
「犯人一人で七人を管理するのは大変だろう」
電話の向こうで息を呑む音。
――効いた。
私は心の中で確信した。
単独犯。
人質七人。
間違いない。
犯人が怒鳴る。
「くそぉ!」
そして遠くで叫んだ。
「一番後ろの二人!カーテンを閉めろ!」
私は静かに息を吐いた。
やはり。
単独犯。
私は言った。
「どうする?交換は?」
犯人は唸った。
「人質四人は多すぎる!」
「一人だ!」
「弁当に睡眠薬とか入れるな!」
私は答える。
「分かった」
「新人の婦警に行かせる」
だが犯人は叫んだ。
「駄目だ!一般人にしろ!」
私はゆっくり首を振った。
「それはできない」
「警察にもできることとできないことがある」
私は静かに言う。
「我々は人質を救いたい」
「だが一般人は巻き込めない」
これは警察の誇りだ。
市民を守るために警察がある。
市民を危険に晒すためではない。
沈黙。
やがて犯人が言った。
「……分かった」
「人質一人」
「1000万円と弁当」
「新人婦警に持ってこさせろ」
私は頷いた。
「分かった」
そして言う。
「子供や女性がいるなら優先して解放してほしい」
犯人が舌打ちする。
「子供はいねぇ」
「女を一人返す」
私は電話を置いた。
その後。
廃工場。
人質交換。
解放された少女が、震える手でメモを差し出した。
「これ……月君からです」
私は紙を受け取る。
そこには。
座席配置。
乗客の位置。
共犯者の可能性。
そして。
最後の一文。
ガソリン残量 10ℓ
私はその文字を見て、静かに目を閉じた。
月。
お前は。
父である私を信じているのだな。
私はゆっくり顔を上げた。
「そうか……」
逃げ続けても。
ガソリンは尽きる。
その瞬間。
この事件は終わる。
私は部下たちを見回した。
「準備しろ」
声は静かだった。
だが。
その中には警察官としての決意と。
父としての祈りが。
深く。
重く。
込められていた。
オリジナル。交渉編を長く書きたかったけど、サブストーリーなので1話完結です。