ホテルの部屋には、奇妙な静けさが満ちていた。
都会の夜というものは不思議なものだ。
窓の外には車の音も、人の声もある。だが、密閉された部屋の中では、それらはどこか遠い世界の出来事のように感じられる。
私は椅子に腰掛けて、ただ静かに待っていた。
待つ、という行為は嫌いではない。
捜査官だった頃、待つ時間というのは決して無駄ではなかった。むしろ、その時間にこそ真実が浮かび上がることが多い。
人は、何もしていない時間にこそ本性を見せる。
やがて、廊下の向こうから足音が聞こえた。
――レイ。
私は視線を上げた。
鍵が差し込まれる小さな音。
一瞬の間。
そして、ドアが開いた。
レイが部屋に入ってくる。
その瞬間、私は直感した。
――何かあった。
それは説明できる種類の確信ではない。
ただ、長く人間を観察してきた者だけが持つ、奇妙な感覚だった。
レイは私を見ると、軽く息を吐き、そしてすぐにスーツを脱ぎ始めた。
ネクタイを外す。
上着を脱ぐ。
そのスーツをソファへ放り投げた。
私はその光景を静かに見ていた。
レイは普段、こんなことはしない。
几帳面な男だ。スーツはきちんとハンガーに掛ける。
だが今日は違う。
そして彼は椅子に座り込むと、天井を見上げた。
大きなため息。
その姿を見た瞬間、私は確信した。
――やっぱり。
レイは今、何かを考えている。
話すべきか。
話さないべきか。
その判断を迷っている時、彼は必ず天井を見る。
それを私は知っている。
長い時間を一緒に過ごしてきたからだ。
私は静かに口を開いた。
「何かあったの?」
疑問形ではあるけれど、私の中ではほとんど確信だった。
レイは少しだけ沈黙してから言った。
「偶然、バスジャックに巻き込まれた」
私は一瞬、言葉を失った。
――偶然?
その言葉が、私の頭の中で妙に引っかかった。
けれど、私はすぐには追及しなかった。
私は立ち上がり、キッチンの方へ向かった。
コーヒーを作る。
インスタントコーヒー。
レイはコーヒーにこだわりがない。
お湯を注ぎながら、私は考える。
偶然。
捜査官だった頃、その言葉はあまり信用していなかった。
事件の世界では、偶然というものは驚くほど少ない。
多くの出来事は、必然の形をしている。
私は背を向けたまま聞いた。
「バスジャック?」
レイは答える。
「ああ。二日前に銀行を襲った犯人が、今度はバスジャックさ」
「日本も怖い国になったものだ」
私は小さく息を吐いた。
レイはアメリカで捜査をしていた男だ。
世界の犯罪を知っている。
アメリカでは、四十秒に一人が誘拐される。
それに比べれば、日本は驚くほど平和だ。
だからこそ、彼はこう言うのだろう。
けれど、私の思考は別のところに向かっていた。
――偶然?
もしレイが誰かを調べていたとしたら。
そして、その対象がそのバスに乗っていたとしたら。
そして、その人物が死んだとしたら。
それは偶然ではない。
必然だ。
私はコーヒーを二つ持ってテーブルへ戻った。
「そのバスに、あなたも乗ってたの?」
なるべく自然な声で聞く。
レイは答えた。
「そうさ」
「結局犯人はバスから飛び降りて、車に轢かれたけどね」
私は一瞬、動きを止めた。
犯人は死んだ。
事件は事故で終わった。
あまりにも綺麗な結末。
私はカップをテーブルに置いた。
「その犯人、死んだの?」
レイは肩をすくめた。
「ああ、多分な」
「関わらない方がいいと思って見届けなかった」
その言葉を聞いた瞬間、私の中で何かがはっきりした。
――やっぱり。
私は思わず口に出していた。
「それって、本当に偶然だったのかしら?」
レイの表情が変わった。
驚き。
そして、わずかな警戒。
私は続ける。
「誰かを調べていて、そのバスに乗ったんでしょ?」
「そこで犯罪者が死んだ」
「……そういうことじゃないの?」
レイはうつむいた。
その沈黙が、ほとんど答えだった。
やがて彼は顔を上げた。
「君は確かに優秀なFBI捜査官だった」
その言葉を聞いた瞬間、胸が少し痛んだ。
「でも今は違う」
「君は僕のフィアンセだ」
「もう捜査官じゃない」
――しまった。
踏み込みすぎた。
私はコーヒーを見た。
すっかり冷めている。
気づけば、私は彼に渡すのを忘れていた。
私はそれをテーブルに置いた。
レイは続ける。
「キラ事件には口を出さない」
「危険なことはしない」
「そう約束しただろう」
私は椅子に座った。
「分かったわ」
「つい癖で……ごめんなさい」
レイが私を心配していることは分かっている。
彼は優しい人だ。
本当に優しい。
日本人の男性より、日本人らしいほど真面目な人。
だから私は彼と結婚しようと思った。
だから両親にも紹介できると思った。
レイは少し笑った。
「ああ……ごめん」
「そんなに気にするな」
「家族ができたら忙しくなる」
「捜査官の癖なんて出る暇もなくなるさ」
そして彼は話題を変えた。
「それより」
「君のお父さんに何て挨拶したら好感度が上がるかな」
私は思わず笑った。
「ふふふ」
今日、初めての笑顔だった。
けれど。
私の頭の中では、別の思考が静かに動いていた。
レイは何かを隠している。
それは間違いない。
バスジャック。
偶然。
犯人の死。
そして。
キラ事件。
それらがどこかで繋がっている。
そんな気がしてならない。
私はコーヒーを一口飲んだ。
もう冷めていた。
そして、心の中で静かに思った。
――レイ。
あなたはいま、何を追っているの?
その答えは、まだ見えない。
けれど。
かつて捜査官だった私の直感が、静かに囁いていた。
この出来事は、まだ終わっていない。