新宿駅の地下へ降りる階段を踏みしめた瞬間、僕は一瞬だけ立ち止まった。
地下という場所は奇妙だ。
太陽の光が届かないのに、人の熱気だけは濃く沈殿している。
見渡せば、果てしない人の流れ。
東京都の人口は約一三〇〇万人。
日本人のおよそ十分の一が、この巨大な都市に押し込められている計算になる。
そして――
その中心にあるのが、この新宿駅だ。
人、人、人。
数えきれない人間たちが、まるで巨大な生物の血流のように、地下通路を流れていく。
僕はその中に紛れ込んでいた。
ニット帽を深く被り、顔の影を濃くする。
自分でも驚くほど、自然に人混みに溶け込めていた。
――これから僕がやろうとしていることは。
普通の高校生がやることではない。
いや。
普通の人間がやることではない。
だが。
僕は自分に言い聞かせる。
――これは正義のためだ。
正義というものは、時に醜い顔をしなければならない。
その醜さを引き受ける者がいなければ、
世界は綺麗な言葉だけで腐っていく。
だから。
僕がやる。
僕が――悪を演じる。
ポケットのスマートフォンから、微かな声が聞こえる。
LINE通話はまだ繋がっていた。
「来ました」
ナミコの声。
僕は視線だけを動かした。
人混みの中に、一人の男。
スーツ姿。
左手に鞄。
歩き方にわずかな警戒がある。
――レイ=ペンバー。
FBI捜査官。
僕はゆっくり、その背後についた。
足音を合わせる。
距離は三歩。
これ以上近づく必要はない。
僕は声を低くした。
「レイ=ペンバーさん」
ほんの少し間を置く。
「振り向いたら殺します」
その言葉は、自分でも驚くほど冷たかった。
「キラです」
「振り向いたり、ポケットに手を入れた瞬間に殺します」
レイの背中がわずかに固まる。
――まさか……
その動揺が背中越しでも伝わってくる。
僕は続けた。
「まず、キラだという証拠を見せます」
心の奥で、僕は静かに呟く。
――本題はここからだ。
僕はキラではない。
だが。
キラであると信じさせることはできる。
それだけで十分だ。
「今、あなたから見える喫茶店」
「そこで働いているメガネの男を」
「二分後に殺します」
レイは前方の店を見た。
ガラス越しに見える店員。
金髪。
体格のいい男。
イヤホンをつけ、ポケットに手を突っ込み、だらしなくブラシを動かしている。
とても真面目な人間には見えない。
僕は小さく息を吐いた。
――大丈夫。
その男の素性はすでに調べてある。
婦女暴行を繰り返しながら、証拠不十分で起訴されなかった男。
社会の隙間に逃げ込んだ獣だ。
ナミコが別の通話を始めた。
「一分後に倒れて下さい」
「自然にお願いしますよ、あくまで自然に……」
数十秒後。
店員は突然よろめき。
ドサリと床に倒れた。
店内がざわめく。
人々の視線が一斉にそこへ向く。
僕は静かに言った。
「最低一人は殺してみせないと信じてもらえない」
「仕方ありません」
そして続ける。
「その男は婦女暴行を繰り返していた社会悪です」
「裁きを受けて当然でしょう」
言葉を吐きながら、僕の胸の奥で別の声が囁く。
――本当にそうか?
――僕は裁く資格があるのか?
だが。
僕はその声を押し潰す。
これは正義のためだ。
悪を捕えるための演技だ。
「私は顔が分からなければ殺せない」
「逆に言えば」
「ここから見える人間は全員殺せるということです」
「リクエストがあればどうぞ」
レイの声が震えた。
「や……やめろ……」
「信じる……キラだということは信じる……」
僕はわざと、さらに残酷な言葉を重ねた。
自分でも嫌になる役回りだ。
「あなたにとって」
「ここにいる人間より大事なのは」
「自分の大切な人でしょう」
「今、人質にされているのはそちらだと思ってください」
レイの肩が跳ねた。
――彼女。
その言葉が彼の脳裏に浮かんだのだろう。
「まさか……彼女を」
「そうです」
僕は冷静に言う。
「あなたのことは調べました」
「私の指示に従わなければどうなるか分かりますね?」
僕の胸の奥で、わずかな痛みが走る。
人の弱みを利用する。
それは卑怯なやり方だ。
だが。FBIは重要な情報を持っている……
「パソコンは持っていますね」
「捜査官のファイルは?」
レイは答えた。
「そんなファイルは持っていない」
僕は封筒を差し出した。
「では、この封筒を」
「中のトランシーバーを出してイヤホンをつけてください」
レイはそれを見つめた。
――トランシーバー……
彼の思考が伝わってくる気がした。
通信記録は残らない。
地下でも使える。
簡単だが、確実な方法。
僕は静かに言った。
『山手線に乗ってください』
『内回りでも外回りでも構いません』
『ドアの角の席に座ってください』
レイは電車に乗り、席に座った。
僕の胸は静かに鼓動していた。
これは。
ただの演技だ。
だが。
一歩間違えれば。
僕は――
本当に悪になってしまう。
『質問します』
『私の見解と違う答えなら、あなたの彼女を殺します』
レイは小さく答えた。
「日本に入ったFBIは……」
「四チーム」
「合計十二人……」
僕は思った。
――十二人。
案外少ない。
ならば。
この計画は成立する。
『その中で立場の弱い者に電話してください』
『全員の個人情報ファイルを送らせてください』
レイは電話をかけた。
やがて。
ファイルが送られてくる。
僕は指示した。
『封筒の紙に書き写してください』
『終わるまで電車を降りてはいけません』
レイは黙々と書き始めた。
一枚。
また一枚。
その姿を想像しながら、僕は目を閉じた。
――これは正しいのか。
僕は今。
一人の人間を脅している。
家族を人質にしている。
卑劣な犯罪者と同じ手口だ。
だが。
これをしなければ。
FBIは父さんを追い詰める。
キラ事件はもっと混乱する。
世界はもっと狂う。
だから。
僕はこの役を演じる。
正義のために。
悪を。
最後に僕は言った。
『作業が終わりましたね』
『封筒を網棚に置いてください』
『三十分そのまま座っていてください』
レイは従った。
三十分。
彼は膝に手を置き、動かなかった。
その間。
彼の頭の中では、ずっと同じ疑問が渦巻いていた。
――なぜだ。
――なぜこの声を思い出せない。
――どこかで聞いたはずなのに。
電車は走り続ける。
地下を抜け。
都市を巡る。
その中で。
レイ=ペンバーは歯を食いしばっていた。
――キラめ。
――お前は一体、誰なんだ。
Lがペンバーの後ろにくっついていく必要ないんですよね。
LはFBI12名の事知っていますし。