僕はモニターの前で、ほとんど身動きもせずに座っていた。
机の上には冷えたコーヒー。
飲みかけのまま、もう二時間ほど放置されている。
視線はずっと同じ映像に固定されていた。
――バスジャック事件の映像。
もちろん、父のパソコンから手に入れたものだ。
警察庁の内部資料。
普通の人間なら決して見ることのできないデータ。
だが、僕にとってハッキングなど特別な行為ではない。
ただの手段にすぎない。
僕は再生バーを少し戻した。
同じ場面を、何度も、何度も、何度も見ている。
研究者というものは、往々にして異常な執着を持つ。
普通の人間が見逃す些細な違和感を、徹底的に掘り下げる。
そして今、僕の頭の中にはひとつの疑問が渦巻いていた。
――気になる場所がある。
映像の中で、犯人が舌打ちをする。
「けっ……」
男は苛立ったように紙を睨む。
「買い物メモかよ」
紙をぐしゃりと握り潰す。
「くだらねぇ」
その目が、乗客を一人一人舐め回すように見ていく。
「いいか……」
「今度妙な動きをしたら――」
そして。
その瞬間だった。
男の目が止まる。
視線が後方へ固定される。
瞳孔が開く。
僕はそこで一時停止を押した。
画面を拡大する。
フレーム単位で確認する。
――明らかに。
――僕たちには見えない何かを見ている。
最初は、単純な推測だった。
あのバスはパニック状態だった。
犯人は麻薬中毒者。
だから。
幻覚。
それが一番合理的な説明に思えた。
だが。
僕はもう一度映像を再生する。
犯人の目。
その瞳孔の開き方。
僕は机に肘をついた。
――違う。
これは麻薬中毒者特有の反応ではない。
むしろ。
もっと動物的な反応だ。
例えば――
カラスの目。
鳥類は危険を察知すると、瞳孔が瞬間的に大きく開く。
捕食者を見つけたときの反応。
つまり。
犯人は何かを視認している。
「な……」
男の声が震える。
「なんだてめぇは!!」
突然叫ぶ。
「そこの一番後ろの奴!!」
画面の中でレイ=ペンバーが肩を震わせる。
――見られた?
彼はコートの内側に拳銃を隠している。
撃つべきか。
撃たないべきか。
その判断をする一瞬。
しかし。
犯人の指は。
レイとは別の方向を指している。
「ふざけやがって……!」
男は後ずさる。
「い……いつからそこにいたァァ!!」
僕は映像を止めた。
そして後部座席の画面を拡大する。
犯人から見て。
後頭部の右側にはレイ=ペンバー。
左側には。
――顔が映っていない人物。
座り方は。
体育座り。
髪はぼさぼさ。
それだけ。
それ以上の情報は何もない。
カメラの角度。
乗客の影。
座席の死角。
すべてが絶妙に重なり。
顔だけが映っていない。
僕は小さく息を吐いた。
――これは偶然か?
僕自身も、その人物を一瞬しか見ていない。
しかも。
バスのカメラには一度も顔が映っていない。
それは確率的にどれほどのものだろう。
僕はさらに映像を確認する。
犯人の視線。
それは後部座席の中央に向いている。
だが。
そこには誰もいない。
僕は別の作業に移った。
映像の明度を変える。
ノイズを除去する。
音声を分解する。
周波数分析。
不可解な音がないか。
だが。
結果はすべて同じだった。
何もない。
僕は椅子にもたれた。
そして思った。
人間は、視覚についてほとんど理解していない。
例えば。
利き目。
片目を隠して文字を見るだけで分かる簡単なものだ。
だが。
それすら知らない人間が大半だ。
僕はさらに思考を進める。
色。
この世界の色とは何だろう。
人間は世界をカラフルだと思っている。
しかし。
本質的には違う。
世界はただ光を反射しているだけだ。
犬や猫は白黒の世界を見ていると言われる。
それはある意味で正しい。
色とは。
脳が作る錯覚だ。
人間は三種類の錐体細胞。
赤、緑、青。
その組み合わせで色を認識する。
だが。
それは決して優れた能力ではない。
例えば。
トナカイ。
カラス。
亀。
これらの生物は。
紫外線を見ることができる。
紫外線。
人間には透明に見える光。
だが実際には。
紫色だ。
ただ。
人間の目がそれを認識できないだけだ。
つまり。
世界には。
人間には見えない色が存在する。
動物が突然何かに反応する。
人間には何も見えない。
だが彼らには見えている。
それは珍しいことではない。
僕は机の横のケージを見た。
中で。
数匹のカラスが鳴いている。
そう。
僕はカラスを捕まえてきた。
トナカイはさすがに無理だった。
亀は反応するか分からない。
だから。
カラス。
実験は簡単だった。
問題の映像を再生する。
その瞬間。
カラスたちは一斉に騒ぎ始めた。
カアカアと。
まるで。
何かを恐れるように。
僕は静かに呟いた。
つまり。
そこには。
人間の見えない何かがいた。
この現象をキラと結びつけるのは。
確かに強引かもしれない。
だが。
キラの殺しは。
すでに合理性の外にある。
常識を越えている。
だから。
もう一つ。
思い当たるものがある。
囚人が残したメモ。
僕はその言葉を思い出す。
「えるしっているか」
「死神は」
「りんごしかたべない」
僕はゆっくり呟いた。
――死神。
もし。
あのバスに。
死神が乗っていたとしたら。
そして。
何らかの理由で。
犯人を死に導いたとしたら。
それは。
荒唐無稽な空想だろうか。
僕は首を横に振る。
いいや。
少なくとも。
カラスの実験によって。
人間に見えない何かが存在する可能性は示された。
それが何なのか。
まだ分からない。
だが。
僕の直感が告げている。
この不可解な現象。
キラ。
死神。
それらは。
どこかで繋がっている。
別のベクトルからの死神の見つけ方