警察庁の一室。
キラ対策本部の部屋は、今日も妙に静かだった。
空気が重い。
まるで誰もが、見えない何かを疑っているような沈黙。
私は椅子の上で、いつものように膝を抱えるような姿勢で座っていた。
背中は丸まり、視線は机の上へ落ちている。
その机の上には――
ゴディバのチョコレート。
私はその箱の中から一粒つまんだ。
黒く光る表面。
指先で転がすと、甘い匂いが微かに漂う。
ゆっくりと口に運ぶ。
甘味が舌の上で溶ける。
脳が働き始める。
そして私は、部屋の中の警察官たちを見渡した。
松田。
相沢。
宇生田。
模木。
そして――
夜神総一郎。
皆、私の言葉を待っている。
しかし私はすぐには話さない。
わざと沈黙を作る。
沈黙は、思考を誘導する。
人は沈黙のあとに出る言葉を、無意識に重く受け取る。
そのとき。
私の頭の奥で、もう一人の声が囁いた。
――どうするんだよ。
低く、嘲るような声。
――結局、夜神月をキラとして仕立て上げることはできなかったじゃないか。
私は表情を変えない。
――これ以上監視カメラや盗聴器を続けても、何も起こらない。
――そうなれば、お前自身が無能ということになるぞ。
私はゆっくりとチョコを噛んだ。
(大丈夫です)
心の中で答える。
(手は打っています)
私は目を細めた。
(そして……)
視線を警察官たちへ向ける。
(この日本の警察の皆さんなら)
(私の誘導に、きれいに流れてくれます)
それから私は、ようやく口を開いた。
「一週間」
部屋の空気が動く。
「監視カメラと盗聴器を仕掛けて観察しましたが」
私は指先でチョコの箱を軽く叩いた。
「北村家、夜神家の中に怪しい人物はいません」
その瞬間。
総一郎の肩が、わずかに落ちた。
私は見逃さない。
彼はヒゲの処理も忘れている。
目の下には薄い影。
疲れている。
そして。
父親だ。
息子がキラでないという言葉を、どれほど待っていたことか。
総一郎は肩の力を抜いた。
まるで背負っていた石が落ちたように。
私は続ける。
「監視カメラと盗聴器は」
少し間を置く。
「撤去します」
その瞬間だった。
松田が勢いよく言った。
「良かったですね!局長!」
総一郎はすぐに言い返す。
「うかれるな松田!」
声は強い。
だが先ほどより柔らかい。
「これからも気を引き締めてやり直していこう」
私はそのやり取りを見ながら、もう一粒チョコを口に入れた。
甘味が、体に染みる。
脳が静かに回転する。
そして私は言った。
「勘違いしないでください」
部屋が再び静まる。
私は指を立てた。
「監視カメラと盗聴器から見る限り」
「怪しい者はいない」
それからゆっくり続ける。
「という意味です」
警察官たちの視線が集中する。
「この中にキラがいたとしても」
私は淡々と言った。
「ボロは出さないでしょう」
空気が凍った。
誰もが息を飲む。
そうだ。
キラは賢い。
あれほど大胆な連続殺人を行いながら、いまだ正体を掴ませない。
そんな人物が。
家庭内の監視で簡単に尻尾を出すだろうか。
誰もが、その答えを理解していた。
私は心の中で呟く。
(これくらいで十分)
警察官たちは、すでに私の結論を受け入れている。
(キラは賢い)
(だからボロを出さない)
この前提を植え付ければ。
監視の結果がゼロでも問題にならない。
(夜神月への疑いは維持)
(監視の失敗も回避)
実に単純だ。
人間の思考は。
少し方向を与えるだけで、簡単に流れる。
(まぁ……)
私はチョコをもう一つ取った。
(時間はいくらでもあります)
(じっくりやりましょう)
そのとき。
松田が恐る恐る言った。
「えっ……じゃあ」
「まだ、あの中にキラがいる可能性があるんですか?」
私は軽く肩をすくめた。
「ですから」
私は言う。
「あの中にキラがいる可能性は」
「5%です」
(これでいい)
私は思った。
(夜神月を疑う材料は、ある程度集まった)
そして私は続ける。
「例えばですが」
私は机の上に肘をついた。
「夜神さんの息子さんが勉強しているとき」
「背中が死角になるんですよね」
相沢が顔を上げる。
私は続けた。
「ウエディの報告では」
「部屋の中に携帯端末やテレビはありません」
「しかし」
私は指を立てた。
「ポテトチップスの中身までは調べていない」
部屋が静まる。
「例えば」
私は淡々と説明する。
「ポテトチップスの袋の中に」
「小型テレビやスマートフォンを仕込む」
「それを机の上に置く」
私は指で空中に図を描く。
「すると」
「一部分だけ死角ができる」
相沢が眉を寄せた。
私は続ける。
「机の上に外部から持ち込まれた物は」
「ポテトチップスだけ」
「その中から情報を得ることも」
「不可能ではありません」
松田が小さく呟く。
「なるほど……」
私はさらに言う。
「盗聴器があります」
「音を出せばバレる」
「そして死角もわずか」
私は指先をほんの少し開いた。
「この程度」
「つまり」
私は結論を言う。
「犯罪の内容までは把握できない」
「名前と顔だけで殺した可能性」
その瞬間。
相沢が言った。
「……軽犯罪者」
私は頷いた。
「そうです」
「その日、軽犯罪者が二人死んだ」
私は静かに言う。
「それなら説明がつく」
部屋の空気が変わった。
疑いの矢印が、ゆっくりと一人に向く。
相沢が言う。
「確かに……」
少し申し訳なさそうに総一郎を見る。
「局長には悪いですが」
「北村家と夜神家の中で」
「賢くキラとして行動できそうなのは」
少し間。
「月君じゃないかと」
松田も続く。
「あ、僕もそう思います」
「全国模試一位なんですよね?」
「Lが捕まえられないなら」
「キラも相当優秀なはずです」
総一郎は黙っていた。
拳を握っている。
しかし反論しない。
いや。
できない。
論理ではなく、感情になるからだ。
私はその様子を見ながら思う。
(ちょろい)
本当に。
人間というものは。
(よし……)
私は体を少し起こした。
(動くか)
「では」
私は言った。
「夜神月君を」
「キラ容疑で任意同行してもらいましょうか」
その瞬間。
総一郎の顔がわずかに強張った。
息子がキラかもしれない。
その疑念が、今まさに芽生えた瞬間。
そのときだった。
コンコン
ノックの音。
いや。
違う。
ドアが開いた。
私は目を細めた。
そこに立っていたのは――
ワタリ。
しかも。
ノックをせずに入ってきた。
(……何かあった)
私は直感した。
ワタリがこの部屋に入るとき、必ずノックをする。
それが彼の習慣だ。
つまり。
緊急事態。
しかし。
私は一瞬考える。
(今、報告すべき事件はあったか?)
思い当たらない。
それでも。
ワタリは静かに言った。
「皆さん」
「取り込み中ですが」
「隣の部屋に集まってください」
私はゆっくり立ち上がった。
胸の奥で、奇妙な感覚が広がる。
まるで。
見えない歯車が、突然動き出したような。
胸騒ぎ。
私は確信していた。
(これは……)
(私の知らない何かが起きている)
次回は「反撃」