夜神家と北村家。
キラ事件において、最も疑わしいと判断された二つの家。
そこに監視カメラと盗聴器を仕掛けてから、すでに数日が経っていた。
捜査本部の一室。
深夜。
モニターの光だけが、静かに部屋を照らしている。
隣では――夜神総一郎が眠っていた。
連日の夜勤。
刑事としての責任感。
それらが、ついに彼の体力を奪ったのだろう。
椅子に座ったまま、静かに寝息を立てている。
その光景を横目に、私は思った。
――日本人というのは、本当に不思議な民族だ。
ワタリは、すでに帰宅していた。
彼は極めて几帳面な男だ。
拘束時間が終われば、きっちり帰る。
一秒の誤差もなく。
文字通り、ぴったりと。
私は以前から噂では聞いていた。
日本人は定時で帰らない、と。
しかし実際に日本に住んでみて、それを目の当たりにした。
この国では――
定時で帰ることが、どこか悪いことのように扱われる。
私はそれを、奇妙な社会的洗脳だと考えている。
日本人は真面目だ。
それは確かだ。
しかしその真面目さが、ある種の習慣を生み出している。
「定時で帰るのは申し訳ない」
「まだ皆働いている」
「自分だけ帰るのは気が引ける」
そのような感覚。
能力や効率の問題もあるだろう。
だがそれ以上に、社会的圧力が存在しているように見える。
私はここ数日、警察本部の人間たちを観察していた。
サービス残業。
誰も命じていないのに働き続ける。
それを当然のこととして受け入れている。
私は静かに考えた。
――日本という国は、効率という意味では他の先進国に劣る。
もちろん、これは民族的な能力の問題ではない。
社会構造の問題だ。
例えば。
池袋。
秋葉原。
東京の特別区にある駅前では、奇妙な光景が広がっている。
大型電気店の前に――
また別の大型電気店。
そしてさらに大型電気店。
供給者ばかりが増えている。
だが需要者の数は変わらない。
子供でも分かる理屈だ。
供給が増えれば――
収益は減る。
本来なら、その局面では別の戦略を取るはずだ。
ニッチ市場を狙う。
差別化を図る。
あるいは仕事量を調整する。
ヨーロッパにはバカンスという制度がある。
一か月。
国によっては三か月。
その期間、店が閉まる。
一見すると消費者に不便だ。
だが実際には、逆の仕組みも生まれる。
バカンス時だけ営業する店。
つまり需要と供給のバランスが、自然に調整されていく。
――神の見えざる手。
アダム・スミスの言葉だ。
市場というものは、意外にも合理的に動く。
しかし日本では違う。
三百六十五日。
ほぼ休みなく営業する店が珍しくない。
大型電気店などは、その典型だ。
商品はメーカーが作る。
つまり商品で差別化はできない。
では何で勝負するのか。
サービス。
「Y電気に負けないために、Yカメラはもっとサービスを」
「サービス残業してでも売上を」
そういう発想なのだろう。
一つの企業がサービスを強化する。
すると競合店もサービスを強化する。
それが競争社会だ。
しかし。
その競争の代償は――
労働者に押し付けられる。
大型電気店。
居酒屋。
介護業界。
サービス業の従業員が自殺する。
それは珍しいことではない。
ニュースにもならない。
静かに。
ひっそりと。
死者だけが増えていく。
だが。
その責任を問われる者はいない。
誰も逮捕されない。
死刑になる者もいない。
私はそれを、こう呼んでいる。
――間接的な殺人。
もちろん。
それを悪だとか正義だとか言うつもりはない。
そのようなレッテルは、人間の自己満足に過ぎないからだ。
私は基本的に思っている。
この世界に、絶対的な悪も正義も存在しない。
未完成の人間が作った社会。
未完成のルール。
その中で人間は生かされている。
人間が人間を殺すことが許されない。
それも人間のエゴだ。
社会を維持するためのルールに過ぎない。
人間は動物を殺す。
それは許されている。
だが動物が人間を殺せば問題になる。
つまり。
生命に優劣をつけている。
生命は平等ではない。
しかし。
絶対的に平等なものが、二つだけある。
時間。
そして。
死。
金持ちも。
貧乏人も。
男も。
女も。
人間も。
動物も。
植物も。
すべてに平等に与えられている。
一日は二十四時間。
そして。
すべての生命は、いつか終わる。
私はその事実を、極めて自然なものだと考えている。
だから。
人間が動物を殺して食べるように。
人間が人間を殺すことも。
自然の中では、特別なことではない。
もし。
デスノートで人間が死ぬとしても。
それは、自然現象の一つに過ぎない。
私は犯罪者を殺したいとは思っていない。
犯罪のない世界を作りたいとも思っていない。
ただ。
興味がある。
キラという存在が現れたとき。
世界はどう動くのか。
犯罪は消えるのか。
それとも変わらないのか。
人々の意識は変わるのか。
もし変わるのなら。
デスノートという力で。
世界そのものを変えられるのではないか。
未完成な人間が作った。
未完成な社会。
未完成なルール。
それを脱却する方法。
一つだけある。
完成された人間が、完成された社会を作る。
哲人王。
プラトンの思想。
私はそれに近い考えを持っている。
もちろん。
それは不可能だと思っていた。
だが。
デスノートという魔法のような道具が現れた。
ならば。
試してみたい。
世界を。
ワタリは定時に帰った。
その背中を見送りながら、私は思った。
日本では。
定時に帰る人間に対して、悪口を言う者がいる。
だがワタリは違う。
彼は任された仕事を、必ず定時までに終わらせる。
しかも完璧に。
それは。
きちんと考えて仕事をしている証拠だ。
ワタリは多くを語らない。
仕事のコツも。
信念も。
だが。
行動を見れば分かる。
だから私は彼を信頼している。
ワタリが帰った後。
私は自分でコーヒーを淹れる。
同じ豆。
同じ道具。
それなのに。
ワタリが淹れるコーヒーの方が、明らかに美味しい。
温度か。
角度か。
あるいは時間か。
理由があるのだろう。
私はコーヒーを飲みながら、思考を整理していた。
これまでの行動。
そして。
これからの行動。
監視カメラの映像が流れている。
夜神家。
北村家。
どちらも平穏だ。
キラによる殺人は、この期間にも起きている。
だが。
この家の人間は。
誰も。
何も。
変わらない。
普通の表情。
普通の生活。
もし。
普通の人間が殺人を行うなら。
必ず何かが変わる。
挙動。
表情。
呼吸。
だが。
何もない。
日本警察なら、ここで結論を出すだろう。
この中にキラはいない。
私はカップを持ち上げた。
しかし口には運ばない。
コーヒーの表面が、わずかに揺れている。
私は静かに思った。
――しかし。
私が作り上げたキラ像は違う。
キラは。
すでに精神が神の領域に達している。
監視カメラ程度でボロを出す人間ではない。
むしろ。
ボロを出す方が不自然だ。
だとすれば。
それができる人間は――
夜神月。
私が今まで見た中で。
最もキラになりうる素質を持っている男。
私はゆっくりコーヒーを飲んだ。
黒い液体が喉を通る。
そして次の思考へ進む。
キラという大量殺人犯が存在する以上。
いずれ。
誰かが。
「キラ」として捕まる。
レイ・ペンバーが調べていた人物。
十二月十九日まで。
その範囲を考えると。
やはり。
夜神家か北村家の誰かになる。
しかし。
問題はそこではない。
どうやって。
「キラだ」と証明するか。
一番簡単なのは。
本人に言わせることだ。
「自分がキラです」と。
そして実際に殺しをしてもらう。
だが。
私はそこで思考を止めた。
カップの中のコーヒーが、静かに揺れている。
――いや。
その方法は。