あなたは最近、疲れていませんか?
『今日もお仕事お疲れさま。夕ご飯を作っておきましたので、温めてから食べてくださいね』
男がその手紙に始めて出会ったのは、約一年ほど前のことだった。
寒風が薙ぐ冬の真夜中、残業を終えたスーツ姿の男が力ない足取りで賃貸のマンションへと帰宅すると、リビングのテーブルには紙切れ一枚に透明のラップで覆われた色彩豊かな手料理を見つけた。
「自分は一人暮らしのはずだ、間違いない。どうして、いったい誰がこんなことを……」
紙切れ一枚の手紙は去年のクリスマスから今日、十二月の上旬まで一日と欠かすことなくテーブルに置かれていた。
レンジで温めるだけの冷凍食品とは一目で異なると分かるぐらいに、工夫と栄養バランスが凝られた、誰かの手料理と共に。
男が夜遅く、会社から帰ってくると。
数少ない休日に昼寝をしていると。
気づけば、手紙と料理はリビングのテーブルにあった。
玄関も窓も施錠をしてあるはずのワンルームに、まるで無の空間から存在が魔法のようにパッと顕現しているように。
「そんなこと、ありえない。誰かがやっているんだ、誰かが……」
人為的な行為だと推測するに、どうも名も顔も不明な手紙の差出人は玄関、もしくは窓の施錠を何かしらの手段で開けているのに違いない。
男は恋人こそいないが、それでも親しい友人に自分の部屋の合い鍵なんか渡した覚えもまるでない。
また不可解だが、手紙の差出人は勝手に他人の部屋に上がり込んでいながらも、泥棒という訳ではなさそうだ。
部屋も荒らされた様子はなく、金品や預金通帳を奪われた痕跡もない。
その人物はただ、毎日似たような内容の手紙と、連日して同種類のメニューはない夕飯を作り置きしているだけだ。
その人物の動機が分からない。
しかし男は警察にも通報しようとはせず、また誰に相談しようとも考えなかった。
『今日も残業、よく頑張りましたね。今日の夕ご飯はあなたの好物の肉じゃがです。多めに作っておきましたので、たくさん食べてくださいね』
やはり翌日も、ラップのかけられた料理にそのような内容の手紙が添えられていた。
慣れというものは怖いもので、人間の思考判断をどうも鈍らせ、最初にあったはずの恐怖心さえすっかりと忘れさせてしまう。
「この人はいつも、仕事で疲れた自分のことを労ってくれる。職場でこき使われて残業が当たり前になってしまった可愛そうな自分を暖かく慰めてくれて、親切に癒してくれる」
男はありがとうと口にしていた。。
名も顔も分からない手紙の差出人に向けられた想いは、一年前にあった不明瞭の恐怖心を凌駕し、いつからか感謝に移り変わっていた。
『企画書の原稿案、無事に終えることはできましたか? 今日の夕ご飯は餃子ですよ。温めて食べてくださいね』
今日もまた、手紙が置いてある。
レンジで温めなおし、手を合わせてから料理を口に運ぶとやはり、今日のご飯も美味い。
「きっと、手紙の差出人は女だろう」
男はそんな確信を秘かに抱いていた。
達筆だが、はらいや点の打ち方に癖のある丸みを帯びた字体の手紙。
文章の口調から読み取れるその人の性格。
文字での印象しか受け取っていないものの、一年も経過すれば男はそれを理解してきていた。
きっと手紙の差出人は、普段は物静かで、上品な雰囲気を纏ったおしとやかな淑女だが、特別な人には見惚れてしまう程の柔らかい微笑みと暖かい心で接してくれる、まるで天使のような女性なんだ、と。
「会ってみたいな。会って、顔を見てみたい。白く細い指の小さな手をギュッと握って、ありがとうと言いたいなぁ」
深夜、就寝時間は四時間ともないが、ベッドに潜った男は口元がどうしても緩むのを意識してしまう。
あぁ、会いたい。
顔を見たい。
『毎日夜遅くまで仕事をしているようですが、少しはご自身の体調も気遣ってあげてくださいね』
自分を癒してくれる女性に。
美味しい料理を毎日作ってくれる彼女に。
『今日は柔らかいお肉をたっぷり入れたカレーです。あなた好みの甘口ですので、安心してくださいね』
お礼を言いたいな。
初めましてと握手をしたいな。
ありがとうと、細い腰に腕を回して思いきり抱き締めたいな。
『お仕事お疲れさまでした。明日は待ちに待った休日ですね。いつも頑張って働いてくれる自分の身体も、頭も、じゅうぶんに休ませてあげてくださいね』
ふと、男は毛布にくるまりながらもぞもぞと動き、腕を伸ばしてベッドの脇にある棚に手をかけた。
小さく簡素な額縁に飾られた、一枚の写真を手に取る。
「涼子……俺、恋に落ちたのかもしれないよ」
緑の自然を背景に、笑顔でポーズを取る自分の隣で薄く微笑む女性の顔に、男は指を添えた。
彼女は、男の高校時代からの同級生であり、また、男にとって世界で一番大事だった、元恋人だった。
二年前の交通事故。
あれさえなければ、男はどれだけ苛烈を極められる難題多き環境に放り出されようと、決してめげずに立ち上がる事ができただろう。
涼子……お前が隣にいてくれるだけで。
俺はどんなことにも立ち向かっていける。
職場での使いっ走り扱いや深夜までの残業なんて痛くもかゆくもなかっただろう。
男は強くそう思っていた。
どれだけ疲労してどれだけ痛みを与えられたって、満身創痍の自分の身体を彼女が優し抱擁してくれるだけで、また明日からも頑張ろうと、挫けず、精一杯頑張れたはずだと。
ようやく、男は決心した。
「涼子だって、俺がこのまま一人でくたばる結末なんて望んでいない。人生を始めよう、もう一度、ここから。新しい幸せを掴んで、涼子の分まで精一杯生きるんだ、この世の中を」
数日後、男は行動に出た。
街で購入した部品を組み立て、取り付け型のカメラを作り、リビングの天井に目立たぬよう仕掛けたのだ。
「すまない。どうしても俺は君の顔を見たいんだ。君の、きっと鼓膜を優しく撫でてくれるような甘い声を聞きたいんだ。すまない、こんな手段しか思いつかない馬鹿な俺を許してくれ」
深夜遅くに職場から帰宅すれば、きっとこのカメラに名も顔も分からない手紙の差出人が映り込んでいる。
どれほど美人なんだろう。
髪は長いのかな、短いのかな。
背は高いのかな、きっと脚がスラッと長く伸びているぞ。
どんな服装をしているんだろう、あまり派手派手しい格好ではないはずだ。
期待が大きく膨らみ、胸が踊り出す。
カメラの設置を終えると、出勤のために男はスーツに着替えた。
「今日は、こいつをしていくかな」
男が首元に真っ赤な薔薇模様が装飾されたネクタイを締めたのは、ただの気分だ。
恋人だった今は亡き涼子からプレゼントされた、真紅のネクタイ。
「俺はあのクリスマスに、涼子に何をあげたんだっけなぁ」
そして、男は家を出ると自転車に乗って職場へとペダルを漕いだ。
やはり相変わらず、オフィスは今日も忙しく人が往来し、企画書を片手に上司が部下に小言を付け、キーボードを叩く音が無数に聞こえてくる。
男は今日の仕事がどうも楽しくてしょうがなかった。
何せ今日は、待ちに待った名も顔も分からない手紙の差出人のお顔を拝見できる訳なのだから。
「お前、今日は随分とご機嫌だな」
「恋人でも見つけたか?」
お昼休み、男が休憩室でコンビニ弁当を食べていると、同僚達にそうからかわれた。
男は食べ終わった弁当をゴミ箱に捨てて、笑顔で答える。
「まだ恋人ではないが、幸せを掴めそうなんだ」
そう言い、怪訝顔を浮かべる同僚達を放って、ベンチに寝転がっては日課でもある昼寝へと、幸せを夢見るように目を閉じた。
作業も捗り、職場で目立つほどの熱心さを見せていた男に上司が早く切り上げて良いと言うので、男は喜んで帰路に付いた。
早く帰って、カメラの映像を見よう……きっと、自分の天使がいつものように手紙と料理を準備してくれているはずだぞ。
自分の部屋に辿り着くと、玄関を開ければ乱暴に靴を脱ぎ捨て、すかさず設置したカメラを取り外した。
ケーブルをテレビに繋ぎ、電源を点けるとカメラ映像をテレビ画面に映し出す。
早送り再生で、まだかまだかと男は待ち侘び、テレビ画面に釘付けとなった。
「あっ!!」
ようやく、その姿が現れる。
早送りを停止させ、通常再生で映し出される画面には一人の人物がリビングに入り込んでいた。
そういえば、どうやって玄関の施錠を開けたのだろう。
玄関にもカメラを取り付けておくんだったと男は後悔するも、やはり今はそれどころではないという興奮が鼻息を荒くさせた。
髪は短い、随分とショートで男みたいだ。
服装はスーツ姿……しかしなぜだか、女性は男物のズボンスーツを履いていた。
「っ……!!」
すると急に、女性が身体を向けるように背後へと振り返った。
男は驚愕する……まるで最初から気づいていたかのように、その視線は真っ直ぐカメラを睨むように見据えられていた。
いや、しかしそれどころではない。
男はすでにパニック状態だった。
女性ではない。
男だ。
スーツもしっかりと男物で、手紙も料理もいっさい持たない状態でカメラを見つめながら佇んでいる。
予想だにしなかった衝撃の事実。
男は金魚が呼吸するように口をパクパクとし、冷たい息を吐いていた。
『いつまで現実逃避しているつもりだ?』
低い声。
映像の男はそう言った。
嫌な脂汗が額に滲む。
『お前は絶望に囚われすぎた。始めて得られた幸福を失ったショックを、あまりにも長く引き摺りすぎた』
怨嗟に軋ませるような責める声。
冷酷な眼差しを向けていた。
背筋に不気味な程の悪寒が走る。
『俺が直接「そちら側」に出向けないのを良いことに、お前は長く俺を利用しすぎていた。慰めの手紙と優しい料理に依存しすぎていた。いい加減、目を覚ませ。これが、涼子の望んだ結末だったとでも思っているのか』
カメラ映像は、そこで途切れていた。
漆黒に覆われた画面から逃げるように、男は尻餅をつきながら後ずさりする。
「あ、あれ、……あれ、は…………」
頭の中が混乱している。
自分が抱いていた幻想や希望が全否定される。
払拭できない恐怖と荒れ狂う様々な感情の波に支配される中、男は絶叫した。
「あ、れは……あの、顔は、俺じゃないかあっっ!!」
薔薇模様の装飾が施された胸元のネクタイだって、確かに一致していた。
あなたは『それ』を、しっかりと見れていますか?