たとえ全てを忘れても 作:五朗
プロローグ 出会い
―――雨が、降っていた。
夕焼け空は、黒くぶ厚い雲に覆われ、周囲は人の住んでいない廃屋ばかりなので、人の気配も、小さな灯火もなく。
そこは、一足早く夜を迎えていた。
そんな中を、一人の少女が走っていた。
背の小さな、美しい少女である。
時と共に強まりだした雨足と夜の闇の中にあっても、その少女の美しさを隠す事は出来なかった。
雨と汗で濡れながらも消えぬ艶を秘めた髪は、満天の星空を思わせる漆黒。ツインテールの髪型にしたそれは、走る少女の動きに応じてゆらゆらと揺れている。闇の中、髪を結わえているリボンに付いた銀色の鐘がキラリと光る。丸い顔と丸い頬。背の低さと幼さを感じさせる顔立ちから、十を幾らか過ぎた子供のようにしか見えない。しかし、服の上からでもハッキリと分かる程の豊かに成熟した胸元と、透き通るような青みがかった円らな瞳に感じる幻想的な雰囲気から、子供と断じる事はできなかった。
そんな子供とも大人とも言えない不思議な少女が、うらぶれた路地裏を駆けていた。
日が沈み始めた頃にポツポツと降り出した雨は次第に強さを増し、今では足元も見えない程激しくなってしまっていた。頭の上で両腕を交差し、少しでも雨から身を守ろうとするが、もはや全く意味をなしていない。息は荒く、少しでも早く教会へと足を必死に動かすが、まだまだ先は長い。既に全身は雨に濡れてしまっている。急ぐ意味はもうないにも関わらず走っているのは、もはや意地だ。
……もしかしたら、今日も勧誘に失敗した事に対する鬱憤も関係しているのかもしれない。
「―――っまったくもうっ! 踏んだり蹴ったりとはこの事だよっ!!」
苛立ちを紛らわすかのように、激しさを増し続ける曇天へと向け吠えるが、逆に開いた口の中に微妙な味の雨粒が大量に入り、軽くえずいてしまう。うえっとえづいた拍子に、足がもつれバランスが崩れる。咄嗟に両手をわたわたと動かし、崩れかけたバランスを整え何とか転げるのを防ぐ。
「っと、と、ととっ―――っあっぶないなぁもうっ! て、……あれ?」
と、その時だった。
倒れる寸前、顔が地面にダイブするぎりぎりの位置で何とか踏みとどまった少女の視界が、白い何かを捕らえる。
訝しげに首を傾げ、目を細めるが、まともな明かりがない中、何かが転がっているのは何とか見えたが、それが何なのかは全く分からない。
雨の降りしきる中、そんな些細な事を気に掛けている場合ではない。
しかし、何故か少女は、不思議と迷うことなく足をその何かが転がる方向へと向けていた。
「―――っ!? わわっ!? だっ、大丈夫かい君っ!?」
手で触れられる距離まで近づいたところで、地面に転がるそれの正体が、倒れた人間の男であると気付いた少女は、慌てた様子で声を掛けるも、男からの返事はなかった。それどころかピクリとも動く気配もない。原型がわからないほどにボロボロになった服を身につけた男の姿は、野盗に襲われた哀れな犠牲者を思わせた。
もしやと思い少女が男の口元に手をやると、微かにだが息をしていた。
安堵の息を吐いた少女だったが、このままではいけないと意識を切り替えるように首を振ると、男の身体を揺さぶり始めた。
「な、なあ君、このままだと風邪をひくだけじゃすまないよ。少しでも雨をしのげる所に行かないと。ほら、起きて、動くんだよっ」
少女は必死に男を起こそうとするが、男の意識が戻る気配は全くなかった。少女は途方に暮れそうになるが、やがて覚悟を決めるかのように一つ力強く頷くと、男の両手を持つとゆっくりと歩き出した。しかし、少女の身長は百四十セルチ程度であり手足は見るからに華奢である。対する男の身体は百七十セルチは超えており、ボロボロの服の隙間から見える体は鍛え抜かれたそれであった。少女の細腕では、一メドルも進むのにも重労働である。
しかし、それでも少女は放り出すことなく、身も知らない男を引きずり続けた。
「っ、はっ、ぅ、くっ、……ほん、とうに、ボクは何をやって、いるんだろうねっ! こんな、ところ、誰かに見られたらっ、いったい、何を、言われるやらっ!」
ぶつぶつと文句を口にしながら男を引きずる少女だが、男の腕を掴む手はしっかりと握り締められていた。
寝床である教会まで先は長い。
一向に捗らないファミリアへの勧誘。
僅かなバイト代が唯一の収入源の質素過ぎる日々の生活。
そして、今日こそはと気合を入れるが散々な結果に終わり、更には大雨に見舞われてしまう中、見知らぬ男を拾い、重いその身体を教会まで引きずっていく現状。
へたり込みそうになる気持ちに喝を入れるため、少女は空を仰ぐと大きな声で吠えた。
「ッ―――負けるもんかぁぁぁあ…………!!」