たとえ全てを忘れても 作:五朗
『知っているぞ、淫蕩のバビロン! 貴様が犯した悪行の数々を! 一体何人の男を誘惑し、陥れ、悲惨な末路へと導いた!? 恥を知るがいい、妖婦め!』
それは、とある物語の一節。
娼婦が愛を唄い、懇願するも、それを主人公である英雄が断罪の言葉と共に切り捨てる場面。
男を誘惑する淫らな姿を
幼いまでも、惹かれる娼婦の艶姿に見惚れていたのか。
それとも、その娼婦の誘惑に微塵も惑わされることのない
いていたのか。
―――もう、覚えていない。
たくさん読んだ色々な英雄譚の一
それを思い出すことなんか、少しでも覚えていたことを思い出すことなんか、きっとあんな事がなければ思わなかった。
神様に罰として命じられた奉仕活動の最後で、神様以外のみんなで集まってやった書店の手伝い。
そこで見つけた懐かしい本の数々の中で、それを手に取ってしまったのは、きっと命さんの話を聞いてしまったからだと思う。
故郷での大切な友人。
短い時ではあったけれど、確かに互いに大事に思いあった友人だったと、命さんはそう言っていた。
孤児と高貴な身分の子供。
立場に大きな違いはあったけれど、共に遊んで、笑いあって―――そして、理由もわからず会えなくなってしまった。
ただ、勘当されて屋敷から追い出されたということしか分からず。
そうしてそのまま、何もわからないまま故郷を離れ、それでも世界の中心とも言われる
そして、シロさんの話を聞いて、命さんのそれは確信に至った。
命さんがずっと探していた友人の―――春姫さんが、
でも、わかったとしても、どうしたら良いのか。
どうしたら、そこから春姫さんを助け出せるのかが分からない。
命さんは、直ぐに助けに行こうと飛び出しそうな様子を見せていたけれど、リリから『絶対にその
僕たちは、あの【
それに何より相手は【イシュタル・ファミリア】。
騙し討ち同然な手を使っても、ぎりぎり戦えたあの【アポロン・ファミリア】よりも数段格上の相手であり。
奉仕活動の途中で会ったエイナさんからの話でも、レベル5を含む一級冒険者がそろった一戦級の【ファミリア】で、過去もこれまでも色々と後ろ暗い噂が有りながら、今も隆盛を誇る有力な【ファミリア】だと言っていた。
つまり、どうあっても正面から挑むわけにはいかないと言うことだ。
例え―――そう、シロさんがいたとしても。
もしかしたら、シロさんがいればどうにか出来るかも、と思ったのは僕だけじゃなくて、命さんも一瞬すがるような視線を向けていたけれど……ベッドで死んだように眠りに落ちたシロさんの姿が思い浮かんで、馬鹿な考えを直ぐに振り払った。
例えシロさんが規格外の力を持っていたとしても、どんな相手と戦っても勝てるとは―――無事とは限らない。
あのシロさんと戦った男の人のように、相手がどんな切り札を持っているのか分からないのだ。
シロさんに頼りきって身勝手に頼み込むのは絶対に間違っている。
命さんも同じ思いだったのか、あの時も直ぐに恥じるように顔をしかめて直ぐに視線を逸らしていた。
だけど、そうは言っても。
リリの言う通り、【イシュタル・ファミリア】と争うのは問題外だと言うのはわかるけれど。
それでも、焦燥感を感じているのは、自分の不甲斐なさを感じるのは、
話を聞いただけの僕でもそうなんだ。
友達でずっとその消息を心配していた命さんのことを思えば、唇を噛みきりそうなほどに、耐えるその姿を見れば見るほど、僕も何か出来ないかと、何かしなければという思いに囚われてしまう。
そして……そんな時に見かけたのが、あの
春姫さんは、僕たちが行ったあの歓楽街の中で娼婦として働いているそうだ。
シロさんが話してくれた。
僕を逃がしてくれた後で、シロさんが逃げ込んだそこで、娼婦として働く彼女と会ったと言う。
娼婦―――それはこれまで読んできたたくさんの物語の中で、『破滅』の象徴として描かれている存在で……だから、僕の中にあって何となく『娼婦』とは『悪』、『危険』、『破滅』というモノと近く感じていて。
昨日初めて
それこそ『物語』の登場人物のようにも感じるほど……僕には縁遠い存在だった筈なのに。
実際に
今、そんな
ただ、何か出来ないかという焦りだけがつのっていき。
そして、思わず心と体が動き出そうとする度に、頭を過るのは、ベッドで死んだように眠り込んだシロさんの姿と、『物語』に刻まれた『娼婦』の『破滅』としての『
その度に、走り出そうとする心と体が躊躇する。
僕は―――どうしたら良いのだろう。
少しは……強くなったつもりだった。
シロさんがいなくなった後も、あの『
それが、こんな
結局、シロさんは
春姫さんを助けるとも助けないとも何も言わないまま、僕たちは
日が落ちた後に帰ってきた神様と食事をして、あとはみんなそれぞれバラバラに各自の部屋に帰って―――そうして今、僕はベッドの上で何も出来ずにただ天井を見上げているだけ。
―――僕は……どうしたら、良いのかな……
助けたい。
春姫さんとは、一度でも会ってはいない。
ただ、命さんから簡単に話を聞いただけの人だ。
だけど、ただそれだけでも、『助けたい』と思っているのは間違いない。
それだけは、偽りなく断言できる―――けど。
動き出せないのは、どうしてだろうか。
目を瞑る。
視界が黒で覆われる中、浮かぶ人影が。
神様―――シロさん―――ヴェルフ―――リリ―――命さん―――
【ファミリア】の皆の姿。
エイナさん―――リューさん―――シルさん―――
『オラリオ』で出会った皆の姿。
故郷を出る時には想像もしていなかった皆の姿が次々に浮かんできて。
そして―――
―――アイズ、さん……
鼓動が速く刻まれる。
憧憬の向こうにいる姿が浮かび―――ゆっくりと目を開ける。
大事なものが。
大切なものが増えた。
それは、とても嬉しいことで、喜ばしいことで。
でも、それは同時に
大切なものがたくさんあればあるほど、それを失うかもしれないと思えば、足が重くなっていき―――動き出せなくなってしまう。
おじいちゃんがいなくなって感じた家の広さを―――ベッドで眠りに落ちたまま起きてこないシロさんの姿が思い浮かんで……。
『物語』の『娼婦』と
そんな自分が、情けなくて、無様で……酷く、汚く見えて……。
「僕は―――どう、したら良いのか、な……」
ぐるぐると形にならない思考が渦を巻き、それに落ちていくように瞼が閉じきる間際―――外から誰かが走る音が、聞こえた気がした。
『―――他人の、空似でしょう。私は、貴方のような方を存じません……』
拒絶、されてしまった。
まるで空気が重りになったかのように、足を一つ前に出すだけでも多大な気力が必要になるほどに重く、苦しく。
吸い込む息さえも鉛のように苦く重く、吐き出した吐息は渦を巻き地に落ちていくようで。
ぐらぐらと揺れる視界は、体が揺れているからか、それとも意識が揺れているからか、自分でも分からない。
いなくなった後ろ姿に向かって手を伸ばしても、春姫殿は振り返る様子も見せず。
一人取り残されたあの場所で、ただ、奇妙な、迷惑な奴だという視線に晒されて。
それが無償に悔しくて、苛立って。
だけど、どうしようもなくて。
結局、逃げ出すように、あそこから離れていってしまった。
そして今は、ただ足が進むに任せて歩いている。
頭の中では、春姫殿の逃げるように去っていく背中と金色の髪の向こうから聞こえた言葉がぐるぐると何時までも回っていて。
そんな時、ふと、誰も彼も欲望に満ちた嬌声を上げる周囲の中、肩を落とし、俯いて歩く自分の姿は、まるで捨てられた男のようだなと思い。
探し続けていた人に、ようやく会えたかと思えば拒絶され、逃げるようにふらふらと歩いている自分は、一体何をしているのかと自虐的な思いに囚われそうになった時―――
「―――っ?!」
ごつんと額に衝撃が走った。
その意識外からの衝撃と痛みは、ふらふらとその足取りと同じような思考を一気に正気に戻した。
何処かの建物か柱にぶつかったと反射的に思ったが、即座にそれを自分で否定する。
建物や柱にしては、一瞬触れた感触は熱かった。
それはつまり、ぶつかったのは何処かの無機物ではなく―――
「すみま―――」
「そんな様子では、何処かへ連れ込まれても仕方がないぞ」
咄嗟に口にしようとした謝罪の言葉は、予想外に聞こえた聞き覚えのある声により遮られた。
少し熱がこもった額に手を当てながら、仰ぎ見るようにして上げた視線の先には、最近ようやく見慣れてきた人の顔がそこにはあった。
「し―――ろ殿」
言葉なく、項垂れたまま手を引かれるように歓楽街を後にすると、前をいくシロ殿はホームとは違う方向へ足を向けた。
逆らうつもりも気力もなく、そのまま黙ってついていくと、少し開けた空き地にたどり着いた。
周囲にあるのは小さな民家のようではあったが、明かりも人の気配もなく。放置されて随分と経っているのか、あちこち崩れている所も見てとれた。
足首程にのびた草が所々生えたその場所に、崩れた家の瓦礫と思われる腰かけるにはちょうど良い高さのものの近くに誘導され、そこに座るよう促さる。
そのまま腰かけた自分の横で、同じように瓦礫に腰かけたシロ殿が小さな瓦礫を集めて何やらごそごそとやり始めた。
その物音を耳にしながら、何とはなしに周囲を見回す。
周りに明かりはないが、歓楽街の明かりが微かに届いていることと、何よりもうすぐ満月になるだろう少し欠けた月からの優しい光が、問題ないくらいには周囲を照らし出している。
そのままどのくらい時間が経ったのか、沈黙が満ちる中、ただぼ~と、夜空を見上げていた自分の眼前へ、湯気が立つコップが突き出された。
「飲め」
「あ―――いえ、そんな……」
「飲むんだ」
「は、はい」
押し付けるように渡されたコップからは、人肌に感じる暖かさの湯気が立ち上ぼり。そこから微かな柑橘系の甘味が感じられた。
「ぁ―――美味しい」
反射的に口から出た言葉が、湯気と共に小さく口元から立ち上っていくのを目で追う。
「―――彼女の所へ行ったか」
「ッ」
硬質的なその刃のような声は、囁くような声量でありながら深く胸に突き刺さるような気がした。
コップから立ち上る微かに甘い芳香と共に吸った息が、傷ついた胸の内を優しく撫でた気がして、次に息を吐き出した時には少し落ち着いていた。
「……はい」
「そうか」
短い言葉のやり取りの後、暫くの間沈黙が続いた。
両手で握るように掴んだコップから感じる暖かさと、鼻に届く香りが自分を優しく包んでいるような気がして、少しだけ沈んでいた気分が浮上した気がした。
だから、次の言葉は自分からだった。
「―――知らないと、言われました」
「…………」
「他人の―――空似だと。自分のような者は知らないと言われました」
隠すように俯いた顔を、甘い香りが撫でる。
「……逃げるように、去っていかれて……自分は、何かしてしまったのでしょうか」
ぽつりぽつりと、心の中で渦巻いていたものを溢していく。
何か、自分はしてしまったのだろうか。
ずっと探していた春姫殿が見つかったと知って、ただ衝動のままそこへ向かって行って。
だから、何かを見落としてしまったのか。
だから、ああも拒絶されてしまったのか。
『知らない』と言われた。
『他人の空似』だと言われた。
そんな筈がない。
間違いなかった。
見間違えるわけがない。
変わってなかった。
驚くほど綺麗になっていたが、だけど間違いなく春姫殿だった。
始めてみた時に見惚れたあの翡翠のような美しい瞳。
塀にしがみつきながら見たあの頃と同じ―――いや、それ以上に寂しさと悲しさに沈んだあの瞳を―――また、見てしまうとは。
だから、確かめるだけだという思いを振りきってしまった。
あの時と同じだ。
初めて春姫殿を見た時、自分達を助けてくれたあの方から、寂しさを取り払わなければという思いにかられて。
気付けば、声を上げてしまっていた。
その結果が、これだ。
自分はいったい―――
「わからないか?」
「え?」
声をかけられ、顔を向けたそこには、目を細めて咎めるように自分を見つめるシロ殿の顔があった。
月の光を湛えた眼光は、ぐるぐると思考と思いが渦巻いていた胸の内を一刀で切り裂いた。
「本当に、わからないか?」
「それは、どういう意味でしょうか?」
「何故、『知らない』と言ったのか、何故逃げるように去っていったのか」
「それは」
そんなこと、わかるわけが―――。
「わかる筈だ」
「どうしてシロ殿にそんな事が言えるのですかっ!」
呆れたような、咎めるようなそんな声と言葉に、反射的に噛みつくように言い返してしまう。
子供の頃、共に遊んであれだけ仲良くなった自分を差し置いて、先日一度だけほんの僅かな時間過ごしただけのあなたに、何故そんな事が言えるのかと。
そんな自分の苛立ち混じりの声と視線を受けながら、何の痛痒も感じない顔でシロ殿は逆に咎めるような目を向けてきた。
「お前ならどうだ」
「え?」
「
「ぁ―――ああ……」
言葉がなかった。
己の馬鹿さ加減に呆れるあまり、泣きたくなった。
「少なくとも、彼女は娼婦になった姿を友人に見られて平気な者ではないとは思うがな」
平らな声音で言われたその言葉は、しかし酷く自分の胸の内を叩きのめした。
その潰れた胸の内と同じような、低く濁った声で、絞り出すように言葉を作る。
「その―――通りです」
少しでも相手の事を思えば、直ぐにでも思い付くようなことだ。
娼婦に堕ちた姿を見られて、平然と出来るような相手であったであろうか。
そんな筈はない。
そんなこと、考えるまでもないことなのに……。
自分の事ばかり考えて行動した結果が―――これなのだ……。
「……せめて、遠くから見るだけで済ませておくべきでした」
「そうだな」
「っ」
何が助けたいだっ!
何が救いたいだっ!
傷付けただけではないかっ!
自分の馬鹿さ加減に反吐が出る……。
自分はただ……。
ただ―――……。
「―――あの方の……笑顔を……ただ、もう一度だけでも見たかっただけなのに……」
「…………」
「傷付けて……しまっただけで……」
シロ殿は、何も言わず黙ったまま自分の話を聞いてくれている中、湯を沸かすために着けた火が枯れ木を燃やす音が微かに響いている。
視界の端で揺れる炎の揺らめきと、枯れ木が燃える音が激しく揺れていた胸中を少しずつ宥めていくのを感じる中、ぽつりぽつりと漏れ出すように過去が出ていく。
「春姫殿と出会ったのは、自分達がまだ極東にいた頃……ずっと小さな子供の時分でした」
隣のシロ殿に顔を向けず、星と月が輝く夜空を見上げる。
あの時も、こんな夜だった。
極東から遥か遠くの
今も、目を閉じれば昨日の事のように思い出せる。
瞼に過る過去を、独り言のように語っていく。
とりとめのない。
まとまりのないその言葉の羅列は、ただ、過っていく過去をそのまま口にしているだけ。
空腹に痛むお腹を押さえながら、山奥で山草を探す毎日。
ぼろぼろの服を着た姿で、今にも倒壊しそうな社で皆でまるまって眠る日々。
それを見るタケミカヅチ様の、悲しげな辛そうな目。
そんな日々が続く中、突然運び込まれた食べ物の数々。
歓喜の声を上げる自分達を前に、満面の笑みを浮かべるタケミカヅチ様。
それを送ったのが―――
「―――春姫殿でした」
優しい方だった。
なに不自由のない生活の中、自分達のような者がいることを知った子供が、可哀想だと思うだけならまだしも、直ぐに助けてやれないかと動く事が出来る者が、どれだけいるだろうか。
それも、気の強いわけでもない。
それどころか気の弱いあのようなお方が……。
「自分達を援助してくれた―――食料を送ってくれるよう頼んだのが、自分達と変わらない小さな子供だと知って、それがどのような方なのかと思った自分達は、話し合った結果、その方が住むという屋敷へ向かいました。そして何度も塀によじ登っては、自分達と同じ年頃の者を探して―――そして見つけました」
ああ、今でも鮮明に思い出せる。
豪邸の中、縁側に一人巻物広げ。
しかしそれを見ることなく、空を見上げる翠の瞳。
その深く透き通った翠の中に見えた―――寂しさ。
「幼いながらも義憤に駆られました。自分達を助けてくれたあの方を寂しがらせる者達へ怒り、その寂しさから救わなければ、と」
それからは、怒濤の日々であった。
騒がしく、大変で、しかし、それ以上に楽しい日々だった。
戸惑う春姫殿の手を引いて。
屋敷から抜け出しては山へ川へ、泥だらけになるまで遊んだ日々。
連れ出す度に、自分はこんなところにいていいのかと周囲を伺い不安な様子を見せていたけれど、徐々に楽しげに、連れ出してくれることを楽しみにしてくれて。
そして、時おり笑顔を見せてくれるまでになって。
「本当に―――嬉しかったのです。自分達を救ってくれた春姫殿を、少しでも寂しさから助けられたのではと思えて……」
だけど―――そんな夢のような
徐々に、しかし確実に苦しくなる生活。
少しでも足しになればと日銭を稼ぐために働きに出るようになり、春姫殿と会えない日々が続いた。
皆その事を気にしていたけれど、皆の休みが重なる日にでもまた会いに行こうとして……ようやく都合がついて久方ぶりに屋敷を窺って―――
「―――そこで初めて、自分達は春姫殿が勘当されたことを知りました」
桜花殿達との付き合いと比べるようなものではないが、春姫殿と過ごした日々は短く。
会うには春姫殿を屋敷から連れ出す必要がある事もあり、共に過ごした日々はそれこそ数える程でしかなかったが、それでも自分達は友であった。
それは―――絶対に間違いはない。
だからこそ―――。
「助けたいのです……」
噛み締めた口から苦しみに濁った声が漏れる。
それは自分ではなく、今苦しんでいるだろう春姫殿を思えばこそ漏れ出るもので。
そしてまた、それを知りながらどうすれば良いのかわからない自分の不甲斐なさによるものであった。
「―――わかっているだろうが、勝手に助け出そうとはするな」
「っ、それは―――……」
続けて口にしようとした言葉を、無理矢理噛み締めることで押さえ込む。
そんな事はわかっている。
少しでも考える頭があれば、【
まず成功するとは思えず、何よりも【ファミリア】にどれだけの迷惑をかけるのか……。
それこそ何のために移籍をしたのかわからなくなる。
「そんな事は……わかっています」
「そうか……」
また、焼き増しのように沈黙が満ちる。
違うのは、自分の中の心境を示すように、星が輝く夜空を見上げるのではなく、底へ落ち込む意識のように闇に沈む地面を見下ろしている姿だけ。
両手で持っていたコップの暖かさは既に遠く。
逆に、コップの金属の冷たさが掌の熱を奪っていた。
落ち込む意識に同調するように、視線を何も見えない暗闇の中の地面に落とす。
沈黙の中、意識が地面に満ちる底無しの穴のような闇の中に落ちていくような気がしていた時―――ばちりと枯れ枝が燃え折れる音が響いて。
反射的に、それに引き起こされるように視線がそちらへ向いた。
視線の先には、小さな焚き火の前で、自分と同じように瓦礫の上に腰を下ろしたシロ殿の姿が。
―――噂では、良く耳にしていた。
最強のレベル0。
格上殺し。
レベルという絶対の差を覆すイレギュラーの噂を耳にする度、一体どんな怪物なのだろうと皆で口にしていた。
だから、あの時―――自分達がモンスターを擦り付けた【ファミリア】が、その怪物が所属する【ヘスティア・ファミリア】だと知った時は、どんな報復をされるのかと怯えた程だった。
行方不明だと知った後も、【ヘスティア・ファミリア】と和解した後も、その恐怖は皆の中にあった。
ヘスティア様から『大丈夫』と何度も言われたが、噂でしか知らず、その人となりを知らない自分達にとってそれは、あまり慰めにはならなかった。
それほどまでに、彼の―――シロ殿の噂や、その実力を知るものから聞く強さは尋常ではなく。
『噂は噂だ』と気にするなと言う桜花殿の言葉は、しかし初めて目にしたシロ殿の力は―――ある意味で真実であった。
噂以上―――否、文字通り桁が―――次元が違った。
その強さは『冒険者』というよりも寧ろ、『神』のそれに近いようにも感じた程だった。
そのあまりにも異常に過ぎる力に、ヘスティア様は【
しかし、自分もあの強さの理由を知りたく、それを横で聞いていたが、ヘスティア様は終始『ボクにも分かるわけないだろ』と言い続け、結局何もわからないままであった。
そう、結局今の今まで自分は彼の―――シロ殿の事を何も知らないままであった。
シロ殿が目を覚ました後、話をしたこともあれば、稽古してくれたりもした。
共に食事を取り、日々を過ごした。
しかし、それだけである。
シロ殿が何を思い、何を考えているのか。
その実力、出身、経歴も何もかも。
何もかもがわからない―――知らないのだ。
そもそもどうしてこんな所にいるのか。
状況からして自分を探しに来たようではあるが、それは何故だ?
暴走して春姫殿を勝手に連れ出そうとするのを止めるためか?
ならなぜ【歓楽街】に来たところで止めなかった?
ホームに連れ帰らずこんな所へ連れてきた?
どうして焚き火を、このコップはどこから取り出した?
一つ疑問が浮かぶと、先程までの落ち込みはどうしたのか、次から次へと疑問が沸いてきた。
それは一種の逃避であると。
先程の落ち込みから目を逸らす、逃げるためのものであると漠然と理解しながらも、疑問は止めようとしなかった。
だから、溢れ出す疑問の一つが、思考から漏れて口から出てしまっていた。
「―――シロ殿なら、春姫殿を助ける事は出来ますか?」
答えを期待したものではなかった。
ただ、思考の中の疑問の一つが、不意に漏れてしまっただけだった。
だから。
「春姫がただの娼婦であるならば、方法はある」
「―――……え?」
一瞬何を言われたかわからず、応えるまでに随分と時間が出たが、聞き間違いではない。
今、シロ殿は間違いなく『方法はある』と口にした。
「しっ―――シシ、シロ殿っ!? 今っ、方法があるとっ!!?」
「落ち着け、『歓楽街』から『娼婦』を出す方法は確かにある。そしてそれは少し事情を知る者なら誰でも知っている方法だ」
「そんなモノがあるのですかっ!?」
「ある、だが必要なモノが、な」
「必要なモノ? それは一体?」
心臓が激しく脈打つ。
春姫殿を救う手段があると知り、思考が沸騰するかのように感じる中、急かすようにシロ殿に詰め寄る。
ぐっと顔を近付ける先で俯いた姿のシロ殿は、焚き火の揺らめく明かりに照らされた顔を難し気に歪めていた。
「金だ―――それも大金が必要になる」
「大金、ですか?」
「少なくとも『歓楽街』からは出せる」
シロ殿はそこで一旦言葉を切ると、空を見上げた。
自分も釣られるように顔を上げると、視線の先では少しだけ欠けた月が遠くで輝いている。
遠く、遠くで夜を照らす月はしかし、雲も掛かっていない筈なのに、自分の目には何処か朧に見えて。
その為なのか……。
「―――金を払って春姫を『身請け』すればいい」
希望とも言えるその『答え』を耳にしながらも、何故か自分の胸中では希望が浮かぶ前に、一瞬だけだが不吉な、不安な思いが過ってしまっていた。
そこは、大きな広間であった。
部屋の四つの隅に設置された魔石灯の明かりで、薄く照らされたその広間には、中央に設置された大きな机を囲むように長いソファーが置かれており。
その上を寝そべったり座ったりしてくつろぐ数人の女の姿があった。
その全員が肌を多く見せる扇情的な姿であり、女性的な魅力に溢れた者達であったが、同時に『力』を感じさせてもいた。
「―――で、イシュタル様から頼まれた件は、何時やる予定なの?」
ある女は酒を飲みながら。
ある女はキセルを燻らせながら。
またある女は机の置かれた料理に手を伸ばしながら何かについて話し合っていた。
「どっかの商会を使うんでしょ? 直ぐに動くみたいだし、3、4日以内にはやるんじゃないの?」
「え~でも、『殺生石』の件もあるし、そんな悠長にしてられるかな?」
「そうね。準備もあるから明日は無理でも、2日後ならありうるかも」
端から見れば、緊張感のない様子で何ら気負った姿ではないことから、大した話ではないかのように見えるが、その目に宿る光には緩んだ様子は欠片も見えないことから、彼女達が歴戦の強者であることを窺わせると同時に、話している内容が平静とは真逆であることを示していた。
「あ~でも、問題はあそこには
一人の女がとある男について言及した瞬間、広間の空気が一瞬固くなる。
「……大丈夫だ」
「何だアイシャ。何か考えがあるのか?」
「あの男は
固まった空気が、アイシャと呼ばれた女が『あいつ』と口にした瞬間緩んだ。
「「「あ~……」」」
納得と安心の声が漏れると、目に見えて女達から緊張感が薄れていく。
「それは何とも、是非とも見てみたいね」
「馬鹿が、巻き込まれたらこっちの身が危ないだろ」
「なら、特に心配はないか」
弛緩していく雰囲気に、気を引き締めるように厳しい口調で注意が出る。
「馬鹿、兎の敏捷はレベル3になったばかりのモノじゃないことはわかっているだろ。逃がしたら事だ、油断するんじゃないよ」
「二回目の兎狩りか」
「今度は余計なオマケもあるけどね」
集まった女達の脳裏に、つい先日起きた兎との追いかけっこが過ぎる。
油断をするには危険であった。
「次の兎狩りに失敗は許されないよ。イシュタル様の命令だ―――【ヘスティア・ファミリア】のベル・クラネルと命の二人を確実に捕らえる」
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