たとえ全てを忘れても 作:五朗
プロローグ この世全ての―――
「―――なあ、そろそろ話してくれてもいいんやないか?」
「…………」
薄暗い一室。
そこに、二つの人影があった。
小さなテーブルを挟んで座る二人の人影。
「あんたがあのちびすけんとこで何やこそこそしとったのは知ってるんやで」
「…………」
「だんまりか……」
人影の一つが、コツコツと指先でテーブルを叩く音が響く。人影の心境を表しているかのように、その音は急かすように早かった。
「…………“シロ”」
「―――っ」
コンッ、と一際高くテーブルを叩く音が高くなり、人影の一つが何かを呟くと、向かいに座るもう一つの人影の身体がビクリと揺れた。
「あん男のこと……知ってるんやろ」
「…………」
「だんまりって事は、知ってるんやと判断するけど、良いんか?」
「…………」
ハァ……、と溜め息を吐いた人影が、何かを耐えるように俯くもう一つの人影へと、テーブルの上に置かれたコップを押しやった。コップの半分程を満たす琥珀色の液体からは、芳しい香気が揺らめいている。滑るようなその液体の輝きが、それが高いアルコール度数の酒であると示していた。
「…………───ッッ!!」
「―――は」
俯いていた人影は、目の前に差し出されたその酒が入ったコップを暫くの間逡巡するかのように見つめていたが、歯を噛み締めて一瞬強く拳を握るとコップを掴みそれを一気に仰いだ。普段の彼らしくない様子に、目を見開いて驚きを示した女だったが、直ぐに何時ものようににやにやとした笑みを口元に浮かべると、男が勢い良くテーブルに置いた空になったコップに新たな酒を注いだ。
「ソーマんとこの酒とは流石に比べ物にもならんけど、中々良いもんやろこれも。ちとキツいけどな……ま、
「…………」
それから、どれほどの時間が経ったのか。女が用意した酒が底を尽き始める頃、男はポツリと言葉を落とした。
「―――私は……医者だ」
「………」
「今まで、数多く見てきた」
「何を」とは女は言わなかった。ただ、無言で男に続きを促すだけ。
「我ながら……腕は悪くはないと思っていた……」
「あんたが言うんかそれを」
女は思わず口にしていた。女の知る限り、男の腕は何者よりも優れていた。何しろ随一と呼ばれた実の父すら超える腕をこの男は持っているからだ。謙遜も過ぎれば嫌味だと、女が微妙な顔を浮かべるが、男は気づかず独り言のように話を続けていた。
「―――だが、やはりそうではなかったようだ」
「……ほう」
「間違った」
男は空になったコップを握る手に力を込めた。男の込めた力を示すかのように、コップから軋む音が響き始めた。
「私は、勘違いしていたのだ」
「勘違い?」
「そうだ。私は、最初呪われていると思ったのだ」
「呪われてるやと?」
スウッ、と女の目が細まる。元々閉じているかのように細い目が更に細まり、糸よりも細くなった。その線のように細まった瞳に映るのは、何時か見たひと振りの剣。禍々しいという言葉さえ陳腐に感じる程のナニカが詰まった剣。
「【ステイタス】によらない力や、記憶の侵食も……呪いのせいだと思っていた。彼の身体からにじみ出る黒い汚泥のような何かが、彼を呪う何かだと思っていたのだ」
「一体何の───?」
女が怪訝な声で呟く、と。
「―――だが違ったッ!!!」
ドンッ! とテーブルが軋む音が響いた。
考えに耽っていた女がはっと顔を上げると、そこには今まで見たこともない感情を浮かべる男がいた。
「違ったのだッ!! アレは呪われているのではないッ!!
男の感情の強さを表すかのように、何時の間にか握り締められたコップはとうとう耐え切れず砕けてしまっていた。男は割れたコップの破片が手の平に食い込み血を流しているにも関わらず、女に向かって、いや、虚空に浮かぶ誰かに向かって叫んでいた。
「いや違うッ!! そんな生易しいものではないッ!! 神すら犯しかねない呪いなどッ! そんなものは―――ッッ」
「―――っ……あんた、大丈夫か?」
ギリッ、と手にコップの破片を握り締めながら、男は女を見つめた。その目は先程本人が口にした事が真実であると語るかのように、明らかに常軌を逸した目をしていた。明らかにアルコールから生じたわけではない赤みを帯びた瞳からは、理性的な輝きが一切見えない。その目を直視した女は、思わず喉を鳴らした。認めたくはなかったが、女は一瞬悲鳴を上げかけた。
「正気か、とは聞かないのだな……」
「…………」
女は男から視線を逸す。
「…………私は、子供たちが好きだ」
男はそんな女に一瞬苦笑を浮かべると、握りしめていた拳を開きそこへ視線を落とした。
砂利のような硝子が、掌に食い込んで血が滲んでいる。
「誤った道を進んでいるのならば、手を引いて正しい道へと導こう……」
男は掌に食い込んだ硝子の粒を一つ一つ摘みながら言葉を口にする。
「苦しんでいるのならば、共にその苦しみを分かち合おう……悲しんでいるのならば、抱きしめ癒そう……寂しいのなら、その隣に立ち共に歩んでゆこう……」
口元に柔らかな笑みを浮かべながら男は、視線を掌に落としながら慈愛に満ちた言葉を口にする。
「私は、子供たちが好きなのだ。だから、私は決して子供たちを見捨てはしない」
「……そやろな、あんたなら身も知らない子供たち相手でも全財産投げ出してもおかしないわな……そんなあんたが、何でや」
「………………」
「何であん男にだけ―――」
「―――アレは断じてッ、
女の言葉に被せるように、男は苛立たしげ―――いや、怯えた声で叫んだ。
「……“呪い”でも足りない……あらゆる全ての負を合わせ煮詰め押し固めたかのようなアレが……人であるはずがない」
「……そないにか」
思わず引きつった声で訪ねてしまった女へ、顔を上げた男は死者のように蒼褪めた顔を向けると、弱々しげに笑い。
薄暗い部屋の中―――
「言うなれば…………アレは―――」
―――闇よりも黒い言葉が、落ちた。
―――この世全ての悪―――……………………
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