たとえ全てを忘れても   作:五朗

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第五話 ダンジョンへ向かう者たち 後

 都市をぐるりと囲む巨大な市壁の上。

 遥かな東から上る光に照らされ市壁の影が街へと伸びるなか、小さな影が二つ重なっては離れるを繰り返していた。

 石畳を削る音と剣撃が響き、激しい呼吸の音と共に苦しげな声が混じる中、白い髪を持つ少年は朝日に顔を照らされながらもその目を逸らすことなく自身へと襲いかかる無数の斬撃を手に持つ短剣で反らし受け避わし続けていた。

 必死に防御に徹する少年に向け容赦のない攻撃を続けるのは、昇る朝日よりも輝かしい金の髪を持つ少女。細剣を振るう度に髪を煌めかせる少女は、その美貌を更に輝かせながらも、その身に纏う静謐雰囲気とは真逆な激しい剣を眼前の少年に向けて振るっていた。

 どれだけの時間続いていたのかわからないその剣の嵐は、しかし未だ少年の―――ベルの身体にまともに当たったものは一つたりともなかった。

 つい数日前まではたった一振りでさえ受けられなかったのが信じられないほど。

 その成長速度は驚愕どころか鍛えている自身ですら信じられないほどの早さだった。

 

「―――っ!」

 

 そして今もまだ、その成長は続いている。

 あからさまではない。

 昨日までの少年では察せられなかっただろう一瞬の隙を突き、ベルが防御から攻撃に転じた。

 声なき列迫の声と共に短剣が振るわれる。

 瞠目に値する反応と動き。

 しかし、その少年の会心の一撃は少女の―――アイズの身体に触れることはなかった。

 微かに、僅か数Cほど傾けた身体の横を短剣の切っ先が舐めるように通りすぎていく。

 

「っく!?」

「残念……でも」

 

 悔しげに声を漏らしながらも、直ぐに体勢を整え来るだろう剣に備える少年だが、それを見るアイズは動かない。

 来るだろう剣に対し短剣を構えていたベルが戸惑った顔を向けると、アイズは口元に小さな笑みを浮かべ少年を称えた。

 

「初めて反撃が出来たね」

「あっ―――はいっ!!」

 

 剣を腰に納めながらそう言ったアイズの言葉に、ベルは鍛練の終わりを知ると同時に褒められたことに対する歓喜の声を上げた。

 頬を疲労だけでない色に赤く染めながら、その汗で濡れた顔を無邪気なまでな笑顔を浮かべる少年を前に、アイズの口元に浮かんだ笑みが更に深くなる。

 アイズの剣が鞘に収まった。

 それは二人の鍛練の終了を意味し、そしてそれは二人の秘密の訓練の終わりを告げるものであった。

 一週間。

 それが事前に決めていた訓練の期間。

 今日、この時をもって訓練は終わった。

 

「強く、なったね」

「っ、ありがとうございます!」

 

 短いながらも濃密な時間を過ごしたことで、アイズの胸に少しばかりの未練が生まれていたが、それを少年への称賛の声と共に振り払う。 

 その白い髪が石畳につくのではないかというぐらいに深々と頭を下げるベルを見下ろしながら、アイズは短くも濃い一週間の訓練に思いを馳せていた。

 あの『彼』への借りとも感謝とも言える気持ちや少年の急激な『成長』に対する興味から受けたこの訓練だが、途中からはそんな思いとは別に、いつしかこの秘密の訓練は密かなアイズの楽しみとなっていた。

 まだ、もう少し―――そんな思いが浮かび上がるが、それをこれまでの思いでと共に胸に納めながらアイズは顔を上げたベルと視線を交わす。

 目と目が合い、更に顔を赤くする少年に、アイズの目尻が自然と柔らかくなる。

 告げる言葉にも、更に暖かさが増していた。

 

「……楽しかった」

「は、はいっ! 僕もその―――楽しかったですっ!!」

 

 鯱張る少年の姿を改めて見直す。

 訓練を始める前に比べたら、見間違える程に強くなった。

 それこそ訓練前と比べたら、今の彼は別人に感じるほどに。

 それでも、彼が纏う雰囲気は変わらず。その白い髪も相まって白兎のように柔らかく優しい。

 思わず手が延びかけるが、ぐっと堪える。

 

「それじゃあ、これからも頑張って」

「はい……もっと、強くなって見せます」

 

 そう告げた少年の目は強く、先程まで見せていた羞恥の色は何処かへ。前へと進むことを決意した者の目をしていた。

 そこに嬉しさと誇らしさ、そして若干の寂しさを感じながら、アイズはベルに背を向けた。

 背後で少年がもう一度頭を下げる気配を感じながら、アイズはゆっくりと市壁を進んでいく。

 背中に感じていた少年の気配が遠ざかり、市壁の上から消える頃、アイズはゆっくりと振り返った。

 もう、そこには少年の姿はない。

 すっかり上った太陽に照らされる壁下の街へと目を向けたアイズは、このオラリオの何処かにいるだろう彼へと向けて小さく呟く。

 

「あの子は、強くなったよ……」

 

 その小さな独白は、朝の光に溶ける程に小さく。

 風に飲まれ街へと落ちていった。

 

「―――きっと、これからもどんどん強くなっていくと思う」

 

 告げる言葉に宿るのは、非難か悲しみか、それとも不満か怒りか。

 言葉を吐き出す自身ですらもわからないまま、自然と溢れる声を抑えずにそのままに。

 

「あなたは―――それで、いいの?」

 

 都市最強派閥の一角に喧嘩を売るような行為を行うほどに心を傾けていながら、自分の【ファミリア】から逃げ続ける彼に思いを馳せる。

 

 ―――返事は、なかった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「はぁ……なんで最後の最後に来るのがベートなんか……」

「ああっ、張っ倒すぞ」

 

 夜―――深夜といってもいい時間帯。

 明日へ迫った深層へ向けての『遠征』を前にして、最近突然始まった鍛練ブームとも言うべき流行も相まって途切れることなく続いていた【経験値】の更新がやっと終わったと思った瞬間、それを見計らったかのように現れたベート(むくつけき筋肉)を前にしたロキの血を吐くような呟きに、それを向けられた当の本人が牙を剥き出しにする。

 【ロキ・ファミリア】の主神たるロキは、思わず突っ伏したベッドからナメクジのようにのっそりと顔を起こすと、近くにあった椅子を引き寄せながらそれに座ると、服を脱ぎながらその背中を向けた。

 

「ああ、ほんとこれがアイズたんやったら良かったのに……」

 

 ぐちぐちと未練がましく文句を口にしながらも、ロキは半分機械的にその指を動かしロックを解除すると、ベートの背中に刻まれた【神聖文字(ヒエログリフ)】の更新を行う。

 

「こんなん隠れるように来んでもいいのに、そんな一人で訓練してたの知られとうないんか~?」

「っ、なんで知ってんだよ」

「んん~ひ・み・つ」

 

 別に見られていた気配は感じてはいなかったのに知られていた事に、苛立ちを盛大な舌打ちで示したベートに、それを更に煽るかのような口調でぐふふとロキは笑う。

 苛つきながらも口では勝てないと知るベートは、喉まで出かかった文句を飲み込むと、前を向いて黙り込んだ。

 その様子にますます笑みを深めたロキは、からかうように【神聖文字】が浮かび上がった背中にその体を近づけるとベートの耳元に囁いた。

 

「ベートにビビっとう他の子に教えたら、もしかしたらギャップ萌え~って、人気者になるかもなぁ?」

「はんっ、雑魚どもと仲良くなって何がある」

 

 うざい絡みから逃れたいが、更新が終わるまでは離れることができないでいるベートは、耳に顔を寄せるロキを手で払い除ける。

 さっと振るわれた手を避けたロキは、その間も淀みなく更新を続けていた。

 

「何があるって、楽しいやないか?」

「馬鹿が、楽しいわけねぇだろうが。雑魚の群れに混ざって何がいい」

 

 ベートは何かを睨み付けるかのように、部屋の壁へと視線を向けたまま口を動かす。

 

「同じとこで何もしねぇで、仲良し小良しで集まって何になる。強え奴の役割ってのは上で見下ろしてやることだ。それが高ければ高いほどいい。雑魚どもも首が折れる程仰ぐ事になりゃ少しは黙るだろうが」

「ほんっ、と―――あんたは……」

 

 吐き捨てるようにそう口にした言葉は、どれもこれも刺々しく。聞いている者の気分を不快にさせるようなものばかり。

 しかし、それを間近に聞くロキの顔に浮かぶのは、困ったような笑い顔。

 何処か素直じゃない子を見る母のようにも見えたそれは、瞬きよりも短い時間で何時ものにやにやとした笑いに変わってしまう。

 

「ほれ、これで終いや」

 

 ぽんっ、と押し出すように更新を終えたベートの背中を押すロキ。

 そのまま椅子から立ち上がったベートが、さっさと脱いだ服を着始めるのを、ロキはベッドの上で寝転がりながら見ていた。

 あっと言う間に服を着終えたベートがそのまま部屋を出ようと向けた背中に、ベッドの上で転がるロキが声を掛けた。

 

「な、ベート」

「あん?」

 

 ドアノブに手を伸ばそうとした瞬間に声を掛けられ、思わず返事をしてしまったベートが不快げに眉間に皺を寄せるとかったるそうに顔だけを振り向かせる。

 そこには、行儀悪く寝台の上で胡座をかきながら自分を見つめるロキの姿があった。

 その顔には何時ものニヤけた顔はなく、ただ、少しだけ口許を持ち上げた笑みが浮かんでいた。

 

「あんたは『強い奴の役割は上から見下ろす』ことやって言っとたけど、別にそれ以外にもあるんやないか?」

「ああ?」

 

 あまり見かけないロキの様子に、小さなさざ波のような動揺が胸に広がるが、それを表に出すことはなく。何時もの不機嫌そうな顔をベートはロキに向ける。

 

「ほれ、別に走らせんのに上に引っ張るだけやないやろ、馬に人参やないけど―――」

「けっ」

 

 指をぐるぐると回しながら遠回しに何かを伝えようとするのを見て、ベートは思わず浮かびそうになった表情を吐き捨てるかのように嘲笑を浮かべると、後ろに向けていた顔を前へと戻した。

 言外に拒絶を示したベートに、ぐるぐると回していた指先を力なくベッドへと落としたロキは、首をこてんと横へと傾けた。

 

「ありゃ、ダメか?」

「……はん、寒気がはしらぁ」

 

 罵倒や嘲笑により生まれる『こいつだけには負けたくない』等の反発心や反骨心からの成長以外にも、憧れや理想により生まれる『この人みたいになりたい』といった成長もある。

 上から見下ろすのではなく、前に立ち、その背中(生き様)を見せることで引っ張る方法もある。

 そう伝えたかったロキの意図を理解しながら、ベートはそれを嘲笑をもって振り払った。

 

「ふ~ん……結構良いと思うんやけどなぁ」

「なに言ってやがる。そんなのはやりたい奴にやらせときゃいいんだよ」

 

 名残惜しげに背中を見つめてくるロキの視線を感じながら、ベートは胸中にどろりと渦を巻いた感情に触れていた。

 

 ―――ああ、そうだ。

  

 ―――そんなのはやりたい奴にやらせときゃいいんだよ。

 

 弱者の前に立ち、外敵難敵脅威を阻み、守って庇護して―――最後は見えないところで殺してしまえばいい。

 そんな悠長な生き方で生き残れる場所(ダンジョン)じゃない。

 なら死に物狂いで強くなるか、さっさと何処かへ行ってしまうしかない。

 守ってもらって憧れて、『いつかあの人みたいに』―――なんてあまっちょろい考えじゃトロくて遅くてあっと言う間に死んでしまう。

 その憧憬は、結局最後は誰かを殺してしまうのだ。

 才なき者に無理をさせ、勇気なき者に無謀を行わせ―――無駄に先伸ばしにされた終わり(冒険の引退)を本当の終わり()に変えてしまう。

 そして結局―――()()()()後悔してしまうのだ。

 それを()()()()()

 それを()()()()()()()()

 だからこそ、あいつが―――あの男が心底気に食わない。

 救うだけで罵る(上に立つ)ことも導く(前に立つ)こともしない。

 ただ救うだけ救い、憧れるだけ憧れさせ。

 結局は最後に誰も彼も殺すだろうあの男が―――気に食わない。

 フィン(団長)やアイズも前に立つ者ではあるが、似てるようではあるがあの男とは全く違う。

 例外はあるが、基本は同じ『ファミリア』の者しか助けず、助けた後は二度と同じことにならないよう厳しく訓練や教育を行って(導いて)いる。 

 似ているようで、全く違うのだ。

 それを俺は知っている。

 だから、前に立つのではなく、上に立つことを選んだのだ。

 だからこそ奴が気に食わない。

 そう、その筈なのだ。

 なのに、ここ最近、不意に思い出すのはあの光景。

 モンスターの群れに呑み込まれる弱者。

 俺の手は届かない。

 見ているしか出来なかった。

 そのモンスター(絶望)の前に立つ男。

 そして男が振るった剣の一振で全てが覆った。

 どうしようもない筈の終わり(運命)が変わった瞬間を、俺は目にした。

 目に、してしまった。

 

 俺は―――あの時―――ナニを――――――

 

 渦を巻く憎悪に似たしかし違う感情のうねりを噛み砕くように歯を噛み締めたベートは、ロキの視線を背中に受けながらそれを振りきるようにドアを勢いよく開くとそのまま扉の向こうへと消えていった。

 部屋が震える勢いで閉められたドアは、明らかに異常と異音を見せている。特別頑丈な筈のドアの成れの果てを見ていたロキは、そのままポスンとベッドに後ろへ倒れ込むと、ゆっくりと目を閉じた。

 暗くなる視界の向こうに浮かぶのは、無数の傷と【神聖文字(ヒエログリフ)】が刻まれた男の背中。

 その傷跡を知るからこそ、ロキは胸の奥から自然と涌き出た思いと共に言葉を漏らしてしまった。

 

 

 

「うちには上より前の方が似合うように思えるんやけどなぁ……」

 

 

 

 その神の独白は、夜の闇に静かに溶け込むように消えていった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「―――総員! これより『遠征』を開始する!!」

 

 晴れ渡る青空の下、フィンの声が響き渡る。

 眼前には【ロキ・ファミリア】の団員達以外にも、この未踏達領域への『遠征』を一目見ようと集まった多くの(オラリオ)の住民の姿が広がっていた。

 見覚えのある顔や見たこともない顔が集う中、自然と視線は誰かを探すかのように動いてしまう。

 しかし、直ぐに思い直すように改めて集まった【ファミリア】の者達に視線を戻す。

 緊張で顔を強張らせている者、何時もと変わらない様子の者、興奮に顔を真っ赤にさせている者……皆これから挑む未知に対して様々な感情を抱えているのが伺える。

 ふと、自分はどうなのかと自身の胸中へと意識を向ける。

 期待、不安、興奮、喜び―――一言では言い表せない程に様々な感情が渦を巻いている、が不快ではない。 

 未知へと足を向ける時は、何時もこのようなものだった。

 

(――――――シロ)

 

 不意に小さく、それとも心の中でか、あの男の名を呟いた。

 何を思って名を口にしたのかは、自分の事でありながらわからないまま……。

 

「―――犠牲の上に成り立つ偽りの栄誉は要らない!! 全員、この地上の――――――……」

 

 フィンの演説も終わりが間近に迫っているのか、その声音は更に高らかに、力強く響いていく。

 もう間もなく『遠征』が始まる。

 向かう先は『未踏達領域』。

 ヘラとゼウスすら至れずにいた領域に、本当の『未知』へとこれから足を踏み入れる。

 何が待ち受けているか想像もできないが、間違いなくこれまで以上の困難が立ち塞がるだろう。

 しかし、それでも乗り越えて見せるだろう。

 最初は三人。

 それが何時しか都市(オラリオ)最大派閥の一角と言われるまでになった。

 だが、まだだ。

 まだ、終わりじゃない。

 道半ば―――未だ見ぬ場所(未知)がここにはある。

 なら、私はそこへ足を踏み入れよう。

 一人ではきっと辿り着けなかった場所()へ―――この仲間達(ファミリア)と一緒なら……。

 

「―――遠征隊、出発だ!!」

 

 フィンの最後の宣言と共に、ロキ・ファミリアを中心とした『遠征隊』が一斉に動き始める。

 その流れに逆らわず、いや、自らが作り出すように強く一歩を踏みしめ私も歩き始める。

 段々と近付く巨大な白亜の塔。

 その真下にある未知を秘めるダンジョンへと歩みを進める。

 暗い地中の奥深く―――モンスター蠢くそこを幻視した心の中に、一瞬男の背中が見えた気がした。

 そしてリヴェリアの目には何故か、モンスターの中一人立つその男の姿が迷子の幼子のように感じて……。

 

 それは―――

 

 あの時―――

 

 あの酒場で―――男の瞳の奥に……一人立ち尽くす小さな子供の姿を見てしまったからかも、知れない。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「―――いくのね」

 

 この世界で最も天に近い場所で、地上を見下ろしていた女神が小さくその唇を動かした。

 そこから地上を見下ろせば、人など虫よりも小さな黒い点にしか見えないだろうに、彼女の目にはダンジョンへと歩みを続ける一団の一人一人の顔すら映っていた。

 彼らはこれからダンジョンの『未踏達領域』へと挑むもの達であった。

 その内に輝くものは、その難題に挑むに足りうる者達ばかり。

 思わず手が伸びてしまいそうな者もいるが、それを小さく鼻で笑うことで振り払う。

 あの神と遊ぶのは別に構わないが、今は他に目を移しているような時ではなかった。

 『あの子の試練』についてもそうだが―――。

 

「不満かしら?」

「―――っ……いえ、貴女の御望みのままに」

 

 ダンジョンに呑み込まれているかのように、それとも挑みかかっていくかのように白亜の塔の下へと消えていく一団をその銀の瞳で見下ろしながら、背後に控える小柄な猫人(キャットピープル)に声をかける。

 その背に控えていた猫人(キャットピープル)の青年は、一瞬口許を歪ませたが、直ぐに顔を伏せ自身の主に己の意思を委ねて見せた。

 

「そう、問題はないのね」

「はい……全て問題はありません」

 

 ―――そう、問題はない。

 

 顔を伏せ、地面を砕かんばかりの強さで睨み付ける男はそう心の中で再度告げた。

 それは自身へか、それとも主へか、それともあの男へか……。

 足元へと向けられた自身の視界に、右足が映る。

 傷一つない足だ。

 だが、自分の目には、未だ赤く濡れているようにも見え、あの鋭い氷のように冷たい感触も感じられていた。

 あの(足を切り落とされた)後、幸いにして切り離された足は近くに落ちていたため、直ぐに回収ができたことからもあって早期に足を繋げることが出来た。後遺症もなく、翌日にはほぼ8割方は元に戻ってはいた。

 だが、元に戻らないものもあった。

 それは形はないが、男にとって最も大事なものであり、汚すことを許されないものであった。

 それを拭うには、それを汚したものに購いをさせなければならない。

 だが―――。

 

「―――アレ(・・)はいらないわ」

「…………」

 

 その言葉には、感情が感じられなかった。

 怒りも、悲しみも、憎しみも―――歩いた先に転がっていた小石に対しての方が、よほど感情を感じられる程に、淡々とそれを口にした主に、猫人の青年はゆっくりと顔を上げてその動かない背中に視線を向けた。

 それ以降主は何も口にすることなく、ダンジョンへ挑む一団を無言のまま見下ろし続けていた。

 背中しか見えない今、一体今どんな顔をしているのかわからない。

 これまでも己の主の事がわかっていたとは言えないが、今はこれまで以上に全くわからないでいた。

 一体、主は今どんな顔を―――思いを抱いているのか……。

 少なくとも、あの男が健在であることを願ってはいないのは間違いないだろう。

 だが、それなら俺は―――。

 もう一度、自分の右足を見る。

 傷一つない足。

 だが、視界が一瞬朱に染まり、鋭い痛みが走る。

 幻覚と幻痛に口許が歪む。

 

 

 ―――ああ、主に対し不敬であるとわかりながらも、願わずにはいられない

 

 

 ―――叶うはずもない願いを

 

 

 ―――あの男が、生きてもう一度俺の前に現れることを…………。

 

 

 

 

 

 

 




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