たとえ全てを忘れても 作:五朗
不意に―――
『僕は強くなりたいんです』
あの子の事を思い出した。
『あの人に追い付きたい―――それだけじゃ、ないんです』
真っ白な髪と、真っ赤な瞳。
冒険者には見えない弱そうで、頼りなさそうな体つき。
人畜無害という雰囲気を身に纏ったその子が、だけど、しっかりと私を見つめながら誓いのように口にした言葉。
『遠征』に向かう少し前。
あの事件の後に自分の力不足を感じ、フィルヴィスさんにお願いして秘密の訓練をしていた時に、偶然知り合った男の子。
アイズさんから直々に訓練を受けていると知った時は、思わず追い回してしまったけれど……まあ、今でも納得はしていないけど……。
アイズさんが納得してやっていることに私から口を出すのは憚られたし。それに私も、他のファミリアに所属している人から教えを受けているから余り声を大きくすることも出来なくて……まあ、おかげで私もアイズさんと特訓することができるようになったし……黙ることにした。
でも、やっぱり心の中ではもやもやがあって、だから、あの子がアイズさんとの訓練を終えた時を見計らって―――つい話しかけてしまったのだ。
そう、あの子―――彼と同じ【ヘスティア・ファミリア】のベル・クラネルに。
『ね、ねえ。あなた』
『は、はい? っ!?』
アイズさんとの特訓で、見るからにボロボロとなっていたあの子に声を掛けた時、振り返った彼は私の顔を見た瞬間ビクリと身体を震わせると咄嗟に逃げ出そうとした。
まるで恐ろしいナニかに見つかったといったその様子に腹が立ったけれど、逃げられては元も子もないと吹き上がりかけた怒声を押さえ込み必死に呼び止めた。
『―――ちょっ!? 待って大丈夫だから!!? もう追いかけないからっ!!』
『え? あ、あの……じゃあ、何ですか?』
あの子は何とかぎりぎりのところで足を止めると、恐る恐るといった様子で私に向き直った。
『そんなに警戒しないでも、もう追いかけたりしません。ちゃんと事情はアイズさんから聞いてますから……その、他の人にも話していませんし安心してください』
『は、はあ……じゃあ、何のようでしょうか?』
困惑を浮かべる彼に、私は少し逡巡しながらも口を開いた。
『ちょっと……聞きたい事があって』
『聞きたいこと?』
『シロ―――さんって、知ってるわよね』
私から彼の名が出ると、あの子の様子は一変した。
『っ!? シロさんがどうかしたんですかっ!?』
それまで小動物が窺うような気弱な様子が豹変して私に掴みかからんばかりに迫ってきた。
『わ―――ちょ、ちょっと』
『もうずっと会ってないんですっ! 神さまも心配して―――シロさんのことだから大丈夫だとは思っているんですが、やっぱりそれでも―――』
『っ、だから落ち着いてっ!?』
『っっ!! す、すみませんっ!』
両手を押し出しながら後ろに逃げて距離を保つと、あの子も我に返ったのか顔を真っ赤にして激しく頭を上下して謝りだした。
『はあ……まあいいですけど。やっぱりその感じだとあの人は【ファミリア】には帰ってないんですね』
『―――はい』
『そう……』
『あの、何でシロさんの事を』
『え? ああ、ちょっと言いたい―――話したいことがあって』
そう、あれからあの人とは一度も会えていなかった。
話したいこと―――聞きたいことは色々あった。
あの力もそうだけど、あんな事があったて言うのにも関わらず、何も言わず姿を消してしまって言いたいことが色々あって。
だから、同じ【ファミリア】であるこの子に行き先を聞きたかったんだけど、その様子からして【ファミリア】に姿を見せるどころか行き先にも検討が着かなかったのだろう。
『そう、ですか……』
項垂れたあの子になんと声を掛ければいいか逡巡していると、どうやら彼もどう私に話しかけようかと迷っている様子で。
『『…………』』
『『―――あの』』
『『―――え、あ、先に……』』
『『…………』』
『じゃ、じゃあ私から……』
『は、はい』
無言の譲合いの結果、私から先に話しかける事になった。
とは言っても、最初に声をかけた理由はもう達成しており、これ以上聞くことは特になかったのだけれど、折角の機会だからと、前から興味を持っていた事を聞いてみた。
『……彼は、どう、何ですか』
『え? どうって?』
『あ……えっと……その、【ヘスティア・ファミリア】では、あの人はどんな感じなのかなって……』
『え?』
腕を組んで『う~ん』と首を大きく傾げるあの子に、私は胸の奥から何故か沸き上がってきた羞恥心に押されるがまま聞きたかった事を強調するように問いかけていた。
『っ、だからっ、その、あの人……シロさんは【ヘスティア・ファミリア】の中じゃどんな感じなの?』
『え? あの、どうしてそんな―――』
『べっ、別に気にしているわけではないんですよっ! でもその何度も助けてもらったからそれでその一応礼儀としてその―――』
あの子の純真な瞳に浮かぶ疑問符に見つめられ、何故か焦燥感を感じながら誰に対する言い訳なのか、何か弁解染みた事を口にしていると、彼は―――ベル・クラネルは不意に小さく笑うと、何処か遠く―――昔の記憶をなぞるように目を細めた。
『……シロさんは、とても優しい人です』
『―――なにか……と』
『何時も、助けてくれて』
一つ、一つ。
『料理がとても上手で、美味しい料理を僕や神さまにたくさん作ってくれて』
まるで、大切な宝物を取り出すかのように。
『
『困った事があったら、知らないうちに解決してくれて』
彼の事を口にするあの子は、何処か誇らしげで、自慢げで。
『誰よりも頼りになる人です』
その姿だけで、あの子が彼をどれだけ慕っているのがまる分かりだった。
『……そう、なんだ』
『はい―――だから、何時も頼ってばかりで、甘えてばかりで……』
情けないと自分の頭をかきながら、あの子は苦笑を浮かべていた。
『…………』
『だから、僕は強くなりたいんです』
無言でそんなあの子を見ていると、突然、彼は私を改めて見つめ直してきた。
先程まで、少し視線が合うだけで落ち着きをなくしていたのに、あの時私を見つめ直したあの子の目には、動揺は欠片もなく、ただ真っ直ぐに、何かを伝えようとする意思だけがあった。
『え?』
『僕には、追いつきたい人がいます』
その追いつきたい人が、彼―――シロさんじゃないことは何故か漠然とわかった。
『その人に追いつきたい、だから強くなる―――そう、思って今まで頑張っていました』
追いつきたい。
強くなって、少しでも近付きたい。
その気持ちは、私には痛いほど理解できた
何故なら私もそうだから。
追いつきたい人がいる。
だから、強くなりたい。
この子も同じ。
追いつきたい人がいて―――だから強くなるために努力している。
『でも、今はそれだけじゃ―――』
だけど、この子の強くなりたい理由は、もう、それだけじゃなくなったみたいだった。
『
宣言するように、誓うように、そう口にしたあの子は、また、何かを思い出すかのように目を細め何処か遠いところへ視線を向けていた。
『シロさんは、とても優しいんです』
さっき口にした同じ言葉を、前とは違う思いで口にする。
『そして、とても強いんです』
『……知ってる』
知ってる。
私はあの人が戦うところを何度も見てきた。
レベルに合わない―――隔絶したその強さを。
『何時も頼られてばかりで、一人で何でも出来るから。だから、何時も一人で……』
『そう、だね』
思い返せば、彼は常に一人だった。
一緒に戦っていたときも、共に、という感覚はなく、一人で戦っているように見えた。
それはきっと、気のせいなんかじゃない。
あの人の強さは異端で、異常で、意味不明で―――だからだろうか。
彼は何時も一人な気がしていた。
でも彼に、それを気にしている様子はなかった。
飄々と、変わらない彼。
ふと、あの時の情景が思い返された。
モンスターの群れにたった一人立ちふさがった彼の後ろ姿を。
私は、あの時、何を―――
『でも、僕はそれが、嫌なんです』
『え?』
過去の情景に捕らわれていた意識を、あの子の声が呼び戻した。
真っ赤な瞳で、私をしっかりと見つめて、はっきりと『嫌だ』と口にして。
『頼ってばかりは、やっぱり嫌なんです』
『……だね』
頼ってばかりは嫌だ―――それも、私も共感できる。
頼ってばかりは、助けられてばかりは、嫌、だよね。
そう―――私もそう。
だから強くなりたかった。
強くならないといけなかった。
『だから、僕は強くなって―――何時か……』
『そう』
何時か―――その言葉の続きは聞かなくてもわかる。
私も、同じだから。
小さく頷いた私に、あの子も頷きを返す。
『はい』
『……そんな風に思うのは、やっぱり同じ【ファミリア】だから?』
ふと、浮かんだ疑問を口にした。
私が頼ってばかりなのが嫌なのは、憧れの人に少しでも近付きたいから。
あの人の隣に何時か立てるようになりたいから。
じゃあ、この子は?
同じ?
でも、何か少し違う気がする?
『その、同じ【ファミリア】だからもありますけど―――シロさんはその、あの』
『どうしたの?』
先程までの凛々しい(少しだけ)姿から一変して、最初の時のようにもじもじと身体を揺らしながら、彼は恥ずかしげに頬をかき口にしたのは―――
『シロさんが、どう思っているかはわからないけど……僕は、シロさんの事を―――』
噛み締めた口元から動く度に堪えきれず吐き出される呼気が、悲鳴のような金切り音と共に強制的に押し出される。
一秒毎に体力が目に見えて削られていくのを感じながら、それでも動きは止めない。
いや、止められない。
止まるどころか少しでも落ちれば、即座にこの均衡は崩れるだろう。
―――いや、均衡、ではないか。
必死に食らいつく。
動かず不動のままの男に対し、その周りを縦横無尽に駆け回りながら時に双剣を、短剣を、槍を繰り出す。
ほんの僅かでも構わない。
微かな警戒、困惑、それをもって何とかぎりぎりの所で生存を得る。
始まってからどれだけが経ったか。
数秒?
数分?
それとも十数分?
体感的には何時間も感じるが、実際に過ぎた時間はその何十分の一でしかないだろう。
それ程までに濃密にして限界。
この男の攻撃―――いや、牽制の一撃でも当たれば即座に終わりだ。
だからこそ、相手に主導権を渡すことはできない。
間断なく攻撃を加えるなか、それでもこの男はその手に握る大剣を振るう。
こちらの攻撃など気にする様子がない。
剣先が奴の皮膚をなぞる。
鋼鉄の革―――確かに皮膚であるのに金属を思わせる剛性を感じさせる感触。
確実に鋭い刃がその身体に当たっているにも関わらず、血の一滴すら見せることなく振るわれる一撃を―――勘だけで避わす。
目で見て動いては到底追い付かない。
この身体に宿る
しかし、それも殆どギャンブルのようなもの。
考える前に動くそれが、偶々正しかったにすぎない。
「―――カ、ァっ」
横を通りすぎた大剣に遅れて衝撃が全身を叩く。
重ね合わせて双剣で何とか反らすも耐えきれず、両手から弾き飛ばされた。
肺の中から残り少ない酸素が吐き出され、鼓膜が殴り付けられる。
揺れる視界。
霞がかる意識。
耳鳴りで何も聞こえない。
だが―――それでも―――ッ
「ヅ―――っおおおあああああっ!!」
前へ出るっ!
―――入った。
手を伸ばせば奴の身体に触れ得る至近距離。
無手―――だが何も出来ないわけではない。
固く握りしめた拳を向ける。
向ける先は広く分厚い鉄塊の如き身体―――ではなく、今まさに降り下ろされた剣を握るオッタルの右腕。
切り返される前に―――そこへ、全身を連動し一気に集束した力をぶつける。
―――衝撃。
まるで鋼鉄の塊にぶつかったかのようで。
指の数本に罅が入った。
相手はーーー損傷なし。
僅かに体勢が崩れただけ―――だが、
―――
手に入れた数瞬の好機。
オッタルの位置は変わらない。
不動のまま。
それも、想定内。
潜り込むように更にオッタルの内側へ踏み込む。
手には―――
魔剣ではないが、その鋭さは上位のモンスターの外皮すら易々と切り裂く力がある。
これならば、オッタルの身体でも貫くことは可能。
狙いは右脇腹。
切っ先がオッタルの腹部に触れ―――掴み取られる。
左手で、刀身を掴み取られた。
短刀と奴の腕が一体になったかのように微動だにしない。
だが―――
抵抗することなく自然に手を放す。
奴の
―――
短刀から手を放した手を―――視線を向けることなく想定していた位置―――自分の頭の上に伸ばす。
そこに、弾き飛ばされていた双剣の一つが落ちてくる。
「ッヅおおおおおあああああああああ!!!」
掴み取ると同時に降り下ろす。
狙いは首。
二度崩された重心により、僅かに前傾となりさらされた首筋。
そこへ、全力を込め振り抜く。
瞬く間もない僅かな好機は―――
空気を圧し砕きながら振り上げられた足が、自身の首へと迫る断頭の刃を蹴り砕いた。
予想していた
ぐるりと蹴りの勢いが殺せず背中を曝してしまっている。
―――
剣を砕かれる直前に放した手には、時間差で落ちてきた双剣の片割れが既にその中に。
「ッッ!!」
目の前には無防備な背中。
剣を手に取った瞬間には既に強化は最大に。
僅かな時間であったが、それでもその刀身は
最大に強化した剣を―――盾のように自身の横にかかげる。
瞬間―――衝撃。
コマ送りのように背中がいつの間にか真正面に変わっていた。
―――
事前に
その勢いに逆らわず吹き飛ばされ―――いや、自分から後方に下がる。
十数Mを一度も地面に着くことなく吹き飛んでいく。
その最中―――吹き飛ばされる進行方向にある弓と短剣を掴み取る。
同時に、強化する。
特に短剣―――いや、
地面に着地した時には、既に強化は終え、構えも既に狙いは
弦に引かれている矢は―――歪み捻れ狂った魔剣だったもの。
銘は【紅玉】。
上級魔法に匹敵する威力の炎の塊を、短剣でありながら十数発も放たれる魔剣として最上級に位置する一振り。
それを
元の原型は既にない。
刀身は矢尻のように小さく凝縮され、柄は長く細く、矢というよりもまるで短槍のような姿。
視線の先、
そこへ空間を歪ませる程の密度の魔力を漏れ出す短剣だった矢尻を向け。
―――
一射のみ放てればいい。
そう最大にまで強化された弓はその弦もまた余さず強化されており、鋼よりも堅くありながらも柔軟性を失っておらず。
代償としてたった一射で千切れてしまうも、その力は十全に発揮され。
弦から矢が離れた瞬間ーーー既に矢尻の切っ先は音の壁を突き破っていた。
オッタルとの距離は十数M。
このままでも文字通り秒も掛かることなく到達する距離だ。
だが、あの男に対するにはそれでも足りない。
だから―――。
弓から完全に解き放たれた矢の魔剣の柄だった部分―――矢で言えば矢柄となったそれが
正確に後方へ向け放たれた衝撃により、鏃のみとなった矢が更に加速し
「オオオオオオオオオオッ!!!」
戦いが始まってから初めてオッタルの気を込めた咆哮が響き、その両手で握られた大剣が振り下ろされた。
同時―――爆炎が衝撃と共に吹き荒れ―――。
「…………―――化け物め」
ビリビリと衝撃と炎が身を震わせ焼き上げる中、噛み締めた口元からくぐもった悲鳴染みた声が漏れてしまう。
今だ燃え盛る
影が、横に剣が大きく振るわれ―――炎が一息に吹き飛ばされた。
残されたのは、全身を炎でねぶられながらも大した痛痒を感じさせもしない姿を見せる
あの雷光の如き一撃を、あの
僅かな拮抗の後、砕けたのは鏃。
オッタルの外皮の耐久力は深層の階層主にも匹敵しかねない。
故に、確実に、一撃で仕留めるには何とかしてその外装を撃ち抜き内部で魔法を発動―――中から破壊するしかなかった。
だから、鏃は固さよりも鋭さを優先した。
それが、裏目に出たか。
いや、元からライフルに匹敵する速度のそれを真正面からこの距離で叩き落とすなどといった事は考えられなかったのが敗因か……。
焼け焦げた地面の上で、未だに不動のままのオッタルが、
もはや手は全て出し尽くした。
双剣どころか残された武器で使えるものは精々2、3本。
その内の一本である足元に転がっていた槍を拾い上げ、状態を確かめるように横に薙ぐ。
損傷はなし、だが魔剣ではなく業物といえるが奴の身体を切り裂ける程ではない。
確認すると同時に強化を施す。
重点的に強化するのは耐久性―――ではなく刀身の刃の部分。
耐久性を代償に何とか奴の身体を貫ける段階にまで引き上げる。
結果、奴の大剣を受けるどころか反らすだけでも砕けてしまう形になってしまうが、元から受けにまわればそこで終わりだ。
僅かな、微かな勝機は既に消え。
もはや、目の前には
時間稼ぎにもならないだろう。
それはわかる。
―――なのに。
―――それでも、と。
「まだ、もう少し足掻かせてもらおうか」
この身体は前へと進んでいた。
咄嗟に顔の前に掲げた両手を、全身を熱と衝撃が包み込んだ。
百Mは離れているにも関わらず、ここまで迫ってきた熱と衝撃に身体をふらつかせるが、何とか踏ん張り倒れ込むことはなかった。
熱と炎の赤光で霞む視界に慌てて目を擦り、急いで再び前へ―――オッタルとシロとの戦いに視線を向ける。
数瞬揺らいでいた像が線をしっかりと結んだ直後、大通路に包んでいた熱と煙が斬り払われた。
たった一振りで立ち込めていた熱と煙を斬り払ったのは、その中心にいた男。
露になったその姿は、炎と衝撃で一見してボロボロに見えるが、その五体に損傷はない。
その事実に、その現実感のない光景に―――相対しているのは自分ではないにも関わらず絶望が全身を包み、知らず地面に膝を着いていた。
それは自分だけではなく、他の皆もそうだった。
周囲では同じように膝を着いたり倒れ込んでいるものばかり。
あの―――オラリオで最強の一角を誇る【ロキ・ファミリア】の『遠征』にさえ選ばれたメンバーが、ただ見ているだけで膝を屈していた。
未だ両の足でもって立っているのは【ロキ・ファミリア】最強の一角の一人であるガレスと【ヘファイストス・ファミリア】の椿ただ二人だけ。
現実逃避気味に周囲に気を向けている間も、戦いは続いていた。
重い身体と思考の中、のろのろともう一度その戦場に目を向ける。
彼は、まだ、戦っていた。
どうして、戦えるのだろう。
あれだけの一撃。
きっと最後の手段だっただろうに。
あれだけあった武器ももう見当たらない。
ああ、ほら、今も槍が砕かれてしまった。
砕けた武器と共に、地面を削りながら転がっていき―――直ぐに立ち上がった手には短剣が。
まだ、戦うの?
まだ、戦えるの?
どうして、戦えるの?
分かっているはず。
もう、無理なことは。
なのに、彼は向かっていく。
自分から―――絶望に向かって。
まるで自ら死に逝くように―――でも、その咆哮からは―――その目から絶望は感じられず。
ただ戦意のみが。
なぜ―――どうして―――彼はこんなにも強いのだろうか。
今だけじゃない。
これまでもそうだった。
自身の戦力を凌ぐ相手に、彼は何時も怖じけることなく向かっていた。
恐怖に足を止めることなく。
絶望に顔を歪めることなく。
悔恨に憎悪を吐くことなく。
ただ、立ち向かっていくだけ。
―――どうして?
―――なぜ?
―――なんで?
あなたはそんなにも強いの?
―――つよ、い?
―――ほんとうに?
―――たちむかえるのは……
―――勝機の見出せない絶望に立ち向かえるのは、本当に彼が強いから?
―――本当に、そうなのだろうか?
閃光のように、私がこれまで見てきた彼の戦う姿が浮かび上がる。
浮かび上がった光景の中、その全てで彼は私にその赤い背中を向けていた。
彼の前には絶望的な光景が広がっていて。
それを前に、彼は一人立ち塞がっている。
―――あ
声なき声が、漏れた。
それには、気付きが含まれていた。
それは直感、勘、それとも別の何かか。
唐突に、わかった気がした。
違う―――違うっ―――違うッ!!
あの人は、強いから立ち向かえるんじゃないッ!!
どうして、あの人が絶望に立ち向かえるのか。
何故、ああも自分の事を省みることなく戦えるのか。
強いからじゃない。
そんなんじゃなかった。
それを理解すると共に、胸の奥から噴火のように怒りが沸き上がり吹き出してきた。
知らず屈していた膝は立ち上がり、口からは詠唱が。
視線の先には、とうとうオッタルの一撃を受けてしまい岩壁へ叩きつけられ倒れ込む彼の姿が。
あの一撃、例え上級の冒険者でも致命傷になりかねない。
レベル1でしかない彼では即死していてもおかしくない。
それがわかっていても、もう唱えている呪文を止めることはなかった。
前へ―――止めを刺すため彼の下へとその足を向けようとしたオッタルに―――止めようとするガレスさんの声を無視して―――
「【穿て必中の矢―――アルクス・レイ】ッ!!!」
ーーー完成した魔法を撃ち放った。
―――これで、終わりか。
もった方だろう。
何せ相手はレベル7。
都市最強の冒険者を相手に、未熟な自分がこれだけ食い下がったのだ。
驚嘆すべき偉業と言ってもいい。
叩きつけられた岩壁を背に、力なく投げ出された手足はピクリとも動かない。
耳などはもう随分と前からまともに聞こえてはいない。
戦いの最中鼓膜などとっくに破けていた。
それでも何とか聞き取っていた周囲の音も、もう自身の呼吸の音さえ拾えていない。
酸欠状態が続いていたことから鈍りきっていた思考は、腹部から止めどなく流れる出血も加わり既に途切れ途切れ。
とっくに色を失い白と黒のみとなっていた世界は徐々にくすんでいき、全てが朧気で何も見えなくなっている。
恐怖は―――なかった。
ただ、少しの寂しさと。
何も言わず姿を消したことで心配を掛けてしまっているだろうヘスティアたちに対する申し訳なさがあるだけ。
いや、あともう一つ。
五感が消えていくなか、奴の―――オッタルの気配が変わるのを察する。
止めを刺すのだろう。
油断も隙もない男だ。
最早立ち上がる処か呼吸さえ難しい状態の男を前に、その身に纏う気配に一切の弛緩はない。
その身体も精神も鋼鉄のような男だ。
抵抗は―――もうするつもりはない。
する理由も―――ない。
ああ、ないのだ。
元からそんな理由はなかった筈だったのだ。
あの女神の魂胆が何かはある程度予想はつくが、まあ、ろくでもない事に間違いはないだろう。
それでも、最悪な事態にはならない筈だった。
元々俺が手を出さなくとも、大した話しにはなってはならなかったかもしれない。
だから、そう、これは自業自得。
―――では、何故手をだしたのか?
ここで殺されても、大勢に影響は出ないだろう。
―――それが分かっていながら、何故、俺は手を出し、そして抗ったのか?
繋がっているヘスティアは気付くかもしれないが、ここで俺がいなくなったとしても、二人は変わらないだろう。
いや、きっとこれで良かったのだ。
いる筈のない俺がいたことで歪んだ運命が、きっとこれで正される。
そうだ。
まだ1年も経っていないのだ。
そんな短い関係。
これから長い時を過ごし、多くの出会いがあるだろう二人の中からあっという間に埋もれてしまう筈だ。
―――なら、そう思っていながらここまで抗ったのは、どうしてだ?
だから、もうここで終わりだ。
元から始まる筈のなかったものなんだ。
もう、これで終わりに―――
「【穿て必中の矢―――アルクス・レイ】ッ!!!」
―――白く染まりかけていた視界を、更に強い光が埋め尽くした。
ビリビリと震える大気と共に極太の光の束が、真横からこちらに向かおうとしていたオッタルの全身を包み込んだ。
衝撃と轟音を伴い通りすぎていった光の後には、足を止めたオッタルの姿が。
その様子からは、やはりダメージを受けているようには見えない。
空白がちになっていた思考が、僅かに戻る。
戸惑いが渦を巻く中に、その光に覚えがあったことからその魔法を撃ち放っただろう人物の名が浮かぶ。
―――レ、フぃーや?
何故?
どうしてここに?
『遠征』?
このタイミングで?
何故魔法を?
オッタル?
敵対?
理由?
不明?
混乱が広がり、答えを見出だせない中、霞みきった視界に、小さな背中が映った。
結んだ長い金の髪が尻尾のように揺れる中、細いその身体を大きく震わせ、こちらに背を向け、オッタルを前に立ち塞がったレフィーヤの姿が。
わからなかった。
何故、レフィーヤがここにいるのか。
何故、オッタルに魔法を放ったのか。
何故、オッタルの前に立っているのか。
何もわからない。
それは、例え身体が十全だったとしてもわからなかっただろう。
死の間際故ではない理由により呆我となる中、オッタルの前に立ち塞がったレフィーヤの声が微かに聞こえた。
鼓膜が破れ、意識も朦朧とする中にありながら、何故か彼女の声は消えゆこうとする意識に届いていた。
「ッ―――何をしているんですかあなたはッ!!?」
身体を―――声を震わせながら、少女は叫んでいる。
「こんなところでっ、あんな人と戦ってっ!! 何を考えているんですかっ!!」
足は今にも挫けそうな程に震え、すがるように握りしめる両の手は力を込めすぎていて杖から悲鳴が上がっている。
本能が、理性が今すぐ逃げろと金切り声を上げるのを、沸き上がる怒りでもって叩き伏せながら少女は叫ぶ。
「馬鹿じゃないんですかっ!! っっ!! いいえっ! 馬鹿ですっ!! あなたは大馬鹿ですっ!!」
背中を向けながら、少女は背後にいる男へと罵声を浴びせかける。
怒りが。
悲しみが。
憤りが。
悔しさが。
そこには詰め込められている。
「何で逃げないんですかっ!」
罵声は何時しか糾弾へ。
責めるように。
問いかけるように。
「今も、これまでだってっ!!」
少女の脳裏にあるのは、絶望に立ち向かう彼の後ろ姿。
ああ、確かに。
あの時、彼が立ち向かわなければ誰かが死んでいたかもしれない。
だけど、だからといって、彼が戦わなければならない理由はなかった。
逃げれた筈だった。
なのに―――
彼は何時も―――
「逃げれた筈ですっ! 何時も、何時だってっ!!」
投げ出せばいい。
もう嫌だと。
逃げ出せばいい。
どれもそれを責められるような
「戦う必要はなかったっ!!」
『正義の味方になりたい』―――ああ、とても素敵な夢だ。
逃げ出せない―――逃げ出さない理由になるかもしれない。
でも―――死んだら意味がないでしょ。
「なのに―――何時もあなたは……」
強大な敵に、圧倒的な数に立ち向かえたのは、私とは違うからだと思っていた。
「私は、あなたが強いからだと思っていました」
だってあなたは強かった。
レベル1な癖に、私どころかベートさんさえ倒してしまって。
あの赤髪の怪人さえ一蹴して、モンスターの群れを剣の一振りで焼き尽くす。
そんなの見たら、あなたが強いって思ってしまうのはしょうがないじゃない。
「心も、身体も私とは違って強いから戦えるんだと思っていました……」
だから、あなたは一人でも戦えるんだと思ってた。
そう、思っていたのに。
ああ、そうだ、そう思っていた。
だけど、それはとんだ勘違いだった。
「―――でも、そうじゃなかった―――そんなことじゃ―――強いから戦えてたわけじゃなかったッ!!」
この声が届いているのかわからない。
後ろを振り返りたい。
振り返って、目を見てしっかりと伝えたい。
だけど、駄目だ。
少しでも動いたら、もう何も言えなくなりそうで、動けそうになくて―――。
だから、ありったけの思いと共に声をあげる。
あなたが、どうしてあんなにも果敢に立ち向かっていけるその理由を。
「シロさんッ!! あなたはただ自分の事を無視していただけでしょッ!!」
二者択一を迫られるのは、天秤で重さを量るようなものだ。
逃げるか、戦うか。
名声、周囲の期待、怪我の恐れ、勝機、状況―――数多の
その
「自分を省みず戦っていたのは、絶望的な相手に躊躇なく立ち向かっていけたのはッ!
だから、彼の天秤は何時も戦うに傾いてしまう。
「
ああ、そうなのだ。
彼の天秤に乗っていたのは何時も他人だけ。
自分のそれは乗ってはいなかった。
「ッっ!!! 本当にあなたは大馬鹿者ですっ!!」
再度、強い罵倒が口から吐き出される。
様々な感情がごちゃまぜになって、何でこんなにも苛立っているのか自分でもわからない。
「そんなことをしてっ!! そんなことをされて誰が喜ぶんですかっ!!」
何時からか、視界が滲んで歪んで。
叫ぶように上げた声は、段々とその力を失いしぼんでいく。
「そんなことをして……誰が悲しむと思っているんですか……」
歪む視界の中、あの子の姿が浮かび上がる。
誇らしげに、自慢気に自分の【ファミリア】を語るあの子の姿が。
「ねえ、シロさん」
ぽつりと呟くように、囁くように口から溢れた声は、先程までの激しさはどこにもなく。
ただ、柔らかく吹く風のような透明な気持ちが含まれていた。
「私、ついこの前、ベル・クラネルと話をしたんです」
ああ、そうだ。
どうして私はこんなにも怒っているのか。
その理由の一端がわかった。
「その時、あなたの事を聞いたんですよ。どう思うって」
本当に、この人は大馬鹿だ。
あんなに強くて色々できて、何でも知ってるって顔をしている癖に、肝心な事を、子供でもわかっているようなことをわかっていない。
「あの子、何て言ったと思います?」
あの時、あの子は私の質問にこう答えた。
「ベル・クラネルはこう言ったんですよ」
恥ずかしげに、でも誇らしげに。
迷いなく、心からの思いで。
『シロさんが、どう思っているかはわからないけど……僕は、シロさんの事を―――』
小さな子供が、自慢の家族を紹介するように。
「『―――お兄ちゃんだって思っているんです』って言ったんですよ」
そう、あの子は言ったんだ。
「あなたは、自分の事をわかってはいない。周りのことも、あなたを知る人たちのことを何もわかっていない」
そう、わかっていない。
あなたは、わかろうとしていない。
周りの人の思いを。
これまであなたに関わった人の気持ちを。
きっと、いや間違いなく私のことも全くわかろうとしていない。
そんな事―――。
私が、こんなにも気にしていると言うのに―――。
「だから、こんなところで死んでしまう何てことは許しませんっ!」
こんな所で死なせてたまるものかッ!!
「―――話は終わったか」
改めて決意を固めるも、それは眼前に立つ男のたった一言で脆くも砕けてしまうものでしかない。
今まで黙ってレフィーヤの話を聞き流していたのは、慈悲かそれとも別に何か理由があったのか。
それはわからないが、もうその猶予は終わりなのだろう。
オッタルが、剣を握り直す。
周囲の空気が凝縮されたように固く重く感じられる。
「っ!?」
「許す、許さないは関係ない。その男はここで死ぬ。俺が殺す」
一歩、オッタルが前に出る。
それだけで、腰が砕けそうになる。
膝を着いて頭を抱えて通りすぎるのを待ちたくなる―――だけど
「ッ、させません」
今にも屈しそうになっている膝を無理矢理立ち上がらせ、両手を広げオッタルの前を遮る。
小さな風が吹いただけでも倒れそうな程に、障害にもならない抵抗。
「止められると思っているのか」
意味のない行為だ。
足止めにもならない。
結果は変わらない。
そんな事はわかっている、だけど―――
「ッ、それ、でも、私は―――」
落ちそうになる視線を、声と共に上げる。
せめて目を反らしてやるものか。
歯を食い縛り、無理矢理顔を上げ、オッタルを見る。
その巌のような顔は、不動のまま、変わらず驚愕を浮かべ―――え?
背後から、誰かが立ち上がる音が聞こえた。
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