たとえ全てを忘れても   作:五朗

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 明けましておめでとうございます。
 
 今年もよろしくお願いします。



第五話 宿りし火は、やがて炎へ

「―――……どうしても、やるんですか」

「ああ、と言うか、もうやってしまっただろう?」

 

 18階層にある森の中で、女の苦しげな声が響く。

 自己嫌悪に染まったその声は、懇願染みた響きをもって傍らに立つ男神―――己の主神へと向けられていた。

 その声を向けられる当神は、小さく肩を竦めながら、女の真剣な声に反して軽い調子で応えていた。

 

「ですが、まだ今なら―――」

()()を奪い返して、無かったことにできると?」

 

 とんとん、と自身の被った帽子を指先で叩きながら、男神―――ヘルメスは立ち塞がるように眼前に立つ自身の【ファミリア】を導く団長であるアスフィに尋ねる。

 

「……そうです。今ならまだ」

「まあ、確かに今ならまだ、全てなかった事には出来るね」

「なら―――」

 

 何時ものように、顔に張り付かせた胡散臭い笑みを浮かべたままうんうんと頷くヘルメスに、アスフィが俯かせていた顔を上げて期待を露にするが、それは即座に否定される事となった。

 

「だけど、駄目だ」

「何故ですかっ!? そこまで彼に拘らなくとも良いじゃないですかっ!」

 

 先程までは、何とか抑えていた声が、感情の高ぶりと共に激して発せられる。

 それに反応してか、遠くからモンスターの遠吠えが聞こえた。

 もう、ここは森の奥。

 人の姿はないが、モンスターはそこかしこに隠れ潜んでいる危険な場所である。そんな事は、彼女も百も承知なのに、それでも声を上げてしまうほどの苛立ちに、アスフィは呑まれていた。

 

「はは―――まあ、色々とあるんだよ」

「どうしても駄目だと言うのなら……」

 

 はぐらかすかのように、遠吠えが聞こえてきた方向へと顔を向け、顔を逸らすヘルメスに、アスフィは据わった眼差しを向ける。

 その口から漏れるのは、覚悟の決まりかけた声。

 このまま放置すれば、彼女は確実にこの場から取って返し、『冒険者の町』へと戻ってあの男からあれを取り返してしまうだろう。

 それがわかってしまったヘルメスは、内心ため息を着きながら、自分を睨み付けてくるアスフィへと視線を戻すと、何時もの胡散臭い笑みを張り付けた口を開いた。

 

「アスフィこそ、どうしてそこまで拘るんだい? これくらいの事、今まで何度もあったじゃないか?」

「……確かに、そうですね。これまでも似たようなことはありました。不満はありましたが、従っては来ました……ですが、私―――いえ、私達には()に返せない借りがあります」

「……」

 

 アスフィのその言葉には、流石のヘルメスも直ぐには言い返すことは出来なかった。

 彼―――ヘスティアのたった二人の【ファミリア】の内の一人。

 自身のファミリアが関わった案件において、その【ファミリア】を救ってくれた男。

 もし、彼がいなければ、少なくとも数人は、悪ければ今目の前にいるアスフィですら命を落としていたかも知れなかったと言う。

 

「ヘルメス様にも、お伝えした筈ですよね」

「……ああ」

 

 もし、そうなっていたらと言う考えは、ヘルメスの心を凍てつかせる。

 今までにも【ファミリア】の子供達がいなくなってしまった事は幾度も経験してきたが、それでも慣れる事などはない。

 そう思えば、それを防いでくれた彼には、本当に感謝しかなく。何時かはその感謝と借りを返さなければと思っていたのだが……。

 

「彼自身にもう、借りを返せなくなった今、出来るのは、彼が所属していた【ファミリア】の方達に少しでも返す事しか出来ません。なのに、あなたは―――」

「わかっているよ。オレも一度は会って見たいとは思ってたんだけどね。残念だ」

 

 その借りを返す相手は、今はもういないと言う。

 彼の噂は色々と聞いていた。

 だから最初から興味は持っていたのだが、タイミングが合わず今まで会うことが出来ず。

 アスフィ等から報告を受けた時は、更に興味が募り、今度こそはと思っていた時に、あの話だ。

 ヘルメスがその報告を聞いた時の落胆は、酷いものであった。

 

「……やはり、彼は―――ですが、ヘスティア様は―――」

 

 アスフィがあの天幕の出来事を思い返し、ヘルメスに若干の希望を持った声をかける。

 あの時、全員が彼の死を思っていた。報告を聞いていたアスフィは、最初彼ならばと言う思いがあったが、それもあの天幕での話を聞くまではだった。あれほどの力を持つ彼が、崩落に巻き込まれただけで死ぬとは到底思えなかったのだ。

 しかし、本当に信じられないが、どうしてそうなったのか詳細は聞けなかったが、59階層で彼は何故か【ロキ・ファミリア】と合流し、そこで起きた戦闘の結果。階層がまるごと崩壊する中、一人取り残されたと言う。

 そうなれば、いくら彼とはいえ―――。

 

オレ達(神々)は、自分達が契約した子供達の生死をある程度知ることが出来る。まあ、絶対に外れないとまでは言えないが、ほぼほぼ確実に、ね」

「なら―――いえ、それなら……」

 

 ヘルメスの言葉に一瞬アスフィの脳裏にあの天幕の中で、ヘスティアが【ロキ・ファミリア】の団長に対し言った言葉が再生される。しかし、その言葉の意味を改めて考え直した結果、得た結論は―――。 

 

「ああ、気付いたようだな。そう、あの時ヘスティアは、『信じる』と言った」

「……つまり」

 

 『生きてる』という確信としての言葉ではなく。

 『信じる』という希望を持った言葉。

 それの意味するところは、ヘスティアは彼の生存に対する明確な根拠はない、ということ。

 

「ああ、少なくともヘスティアは、契約による繋がりから『生きている』と確信は出来ていないと言うことさ」

「それはっ……」

「普通に考えたら駄目だろうな。だけど、ふむ……」

 

 一瞬生まれた希望は、しかし儚く溶けて消えていく。

 力なく俯くアスフィの下がった頭を見下ろしていたヘルメスは、顎に手を当て何を言おうか迷っていたが、不意に何か言い様のない疑問が胸を過った。

 そしてそれを敏感に感じとったアスフィが、怪訝な顔を浮かべ、ヘルメスへと戸惑いの目線を送った。

 

「ヘルメス様?」

「いや、なに少し疑問があってね。あいつも神の端くれだ。死んでいると本当に考えていたのならば、ああは言わないと思うのだが……」

「どういう、事でしょうか……」

「さあ、残念ながらオレも分からん」

 

 ヘルメスの自問とも言うような言葉に、意味を良く捕らえられなかったアスフィが疑問を呈する。しかし、ヘルメスは自身でも答えが出せないのか、小さく肩を竦めると顔を左右にゆっくりと一度振って見せた。

 

「まあ、アスフィが反対する気持ちはわかるが、すまないがこれだけは勘弁してくれ。必要な事なんだ」

「必要って……私は、そうは思えません」

 

 話を切り替えるように、ヘルメスがまたも俯くアスフィの両肩に手を置いて頼み込む。が、アスフィは納得はいかず、顔を俯かせたまま頭を左右に振る。

 それに対し、ヘルメスはただ、激高することなく。

 穏やかとも言える声でアスフィを見下ろす目を上へと、微かな灯りを灯す『夜』の水晶群を見上げた。

 

「いいや。必要なんだよ。ベル君にとってもそうだが、オレにとっても……そして―――」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「―――っ、神様」

 

 ベルは走っていた。

 レベル2の全力を持って駆けるその速度は、並みの動物どろこかモンスターのそれよりも早く大地を駆ける。

 あっという間に目の前の景色が後ろへと消えていくが、それでも満足することなくベルは駆ける。

 焦りと怒りを胸に、指定された場所へと向かって走るベルの思考は、ただただ自身の主神であるヘスティアの無事だけを祈っていた。

 その裏では、どうしてこうなったのかという今までの行動を、無意識下で精査を行っていた。

 最後に神と―――ヘスティアと会って話したのは昨日の『夜』の事であった。しかし、それも僅かな時間だけ。あの後、戦闘の音に気付いたリューと合流し、【ロキ・ファミリア】の野営地に戻ったベルは、フィン等に事の次第を伝えた。すると、何か相手に覚えがあったのか、フィン等は慌ただしくその現場へと向かっていった。

 その際、事情聴取を受けたベルは、解放された後は疲労困憊状態であったため。待ちかねていた仲間やヘスティアと録に話す力は既になく。次の日には、ダンジョンからの脱出のため、【ロキ・ファミリア】の出発に合わせる必要もあることから、詳しい話は明日にとなった。

 そして、次の日。

 先行するアイズ達を見送ったベル達は、まだ用事があるというヘルメス達やリューとこの場で別れる事とし。次に出発する後続と共に18階層を後にするつもりであった。

 しかし、皆が準備を終え、残りはあと一人と言う段になって、【ロキ・ファミリア】の後続が出発する間際となってもその神は姿を現すことはなかった。

 やがて、とうとう後続の部隊が出発し、流石におかしいと感じたベル達は、残りの一人―――主神であるヘスティアの姿を手分けして探し始めた。

 別れ、各自がヘスティアの姿を探すためあちらこちらを探す中、ベルは野営地の近くで広がる草原で、幾つもの試験管が散らばっている箇所を見つけた。  

 何か怪しく感じたベルが、そこを調べてみると、そこには一本の巻物があった。

 その巻物の中には、ヘスティアを預かっている事と、返してほしければここまで来いと地図が描かれていた。そして、その巻物の中には、一人でという言葉も書かれていたことから、ベルは誰に言うこともなく、直ぐにその場から離れ。書かれていた地図が指し示す方向へと向け駆け出していた。

 

「神様―――神様っ―――神様ッ!!?」

 

 森の中をひたすら駆け抜けるベルの目に、地図が指し示す目的地である中央樹の真東にある、一本水晶が映った。気付けば、これ以上はないと思っていた駆けるベルの速度が更に上がる中、一秒毎に一本水晶が近付いていく。

 そうして、木々の合間を抜け、ベルの視界が一気に広がった瞬間、周囲に何者かの声が響いた。

 

「―――来たぞモルドっ!!」

 

 ベルの耳に冒険者だろう男の声が届き、同時に足が止まる。

 一本水晶を中心に、ぽっかりと出来た広間のような場所へとたどり着いたベルは、強く大地を踏みしめ急制動を掛けると、足元から大量の土煙が立ち上っていく。

 煙幕のように周囲に土煙が広がる中、長大な水晶の影から現れた男が姿を現す。

 現れた男の姿を目にしたベルの顔が、見覚えのない姿に一瞬戸惑いに揺れる。しかし、直ぐに先日、(リヴェラ)

すれ違った男であり、更に言えば、【豊穣の女主人】亭でベルに絡み、リューに追い出された男であると思い出す。

 

「あな、たは―――っ神様はっ!?」

 

 一瞬ベルの口から男に対し問い詰めるための言葉を上げそうになるが、視界にヘスティアの姿がないことから咄嗟に口から出たのは姿がない神の安否であった。 

 焦燥を滲ませたベルの声と顔を見たモルドは、その傷だらけの顔を歪ませると頬を曲げ口を開いた。

 

「はっ、安心しな。俺たちも馬鹿じゃねぇ。神を傷付けるなんて禁忌(馬鹿な真似)をするわけがねぇだろ」

「それなら―――」

 

 何処に―――という言葉が続く前に、一歩前へと足を出したモルドが笑いながら首を左右に振る。

 

「ただまあ、今すぐに返すわけじゃねぇがな。何が言いたいかは、薄々察しはついてんだろぉ? ああ、勿論一人で来てんだよなぁ?」

「……はい」

 

 気圧されたように、じりっ、とベルの足が僅かに後ろに後退する。

 その様子に、モルドが浮かべる笑みがますます深くなり、纏う嗜虐的な雰囲気が強まっていく。

 

「ま、他に誰か連れてきたとしても、別に構いやしなかったんだがな」

「ぅ、あ……」

 

 モルドの言葉を合図に、ベルを取り囲むように森の中から隠れていた冒険者達が姿を現していく。次々に現れる冒険者の数は優に20に届き。あっと言う間にベルはモルド一派の冒険者に周囲を固められてしまっていた。

 逃げ場を塞がれたベルの口から、呻き声に似た声が漏れ、周囲を見渡す瞳と体が動揺に揺れ始める。

 

「何びびってんだぁ? 安心しな、そいつらは手は出さねぇよ。ほらっ、さっさと付いてこい!」 

「……何を、するつもりですか」

 

 怯えるように震え始めたベルの姿を鼻で笑ったモルドが、顎をしゃくり促すように後方を指し示す。

 ベルは囃し立てるように、自身を取り囲む冒険者が、武器と防具を打ち合わせて鳴らす金属音を耳にしながら、眼前に立つモルドへと問い掛ける。

 ベルの問いに、目を細め見下ろしながら笑い混じりの声で告げたモルドは、くるりと身体を反転させると先導するように歩き始めた。 

 

「はんっ、わかって言ってんだろ? 決闘だよ決闘」

「……決闘」

 

 モルドの答えを小さく口で繰り返すベルは、歩き始めたモルドの背を追うため足を動かし始める。周囲を取り囲むモルドの仲間達が打ち鳴らす武器と防具による金属音は、早く行けとばかりにその音と叩く速度が早くなる中、ベルの中で渦巻く焦りと恐怖は比例するように大きくなっていく。

 

「決闘のルールは単純だ。お前と俺との一対一での決闘で。勝った奴は負けた奴に一つ好きな命令を出せる。俺が勝てばお前の身ぐるみを全部いただく。お前が勝てば、お前の大事な神様は返してやるよ」

「―――っ、わかり、ました」

 

 足が止まれば二度と動かないのではないか、そんな感覚の中、ベルは必死に足を前へと動かす。その心の中では、ヘスティアの安否を思っていた。この場にヘスティアがいない中、上手くここから脱出出来たとしても、その先をどうしたらいいのかが分からない。ヘスティアの居場所の手がかりがない中、今はモルドの要求に従う他はなかった。

 ひたすらにこれからの自身の行動を考えるベルは、しかし、本当に見るべき所から目を逸らしていることに気付いてはいなかった。

 そうして、モルドの後を追うベルが辿り着いた場所は、自然に出来た舞台(ステージ)であった。

 周囲から一段高く、歪であるが円を描くように盛り上がった直径7M(メドル)はある台地は、若干の凹凸はあるが綺麗な平面となっている。

 モルドは真っ直ぐにその舞台(ステージ)へと進み出すと、一息で飛び上がりベルへと振り向いて、同じように登るよう促す。

 返事をすることなく、同じく飛び上がって舞台(ステージ)へと上がったベルと3、4M程離れた位置で対峙する形となったモルドが、腕を組みながら口を開く。

  

「さて―――と、ここで、てめえと俺は決闘をする」

 

 ベルと向かい合ったモルドが軽く周囲を見渡す。舞台(ステージ)の周囲には、モルドの仲間達が観客よろしく取り囲んで野次を飛ばしている。

 それを確認したモルドが、再度ベルを見て声を上げて笑った。

 

「くく―――だがまあ、勘違いすんじゃねぇぞ」

「なに、を―――」

 

 右手で背中に背負った大剣を鞘から抜き放ち肩へと担いだモルドが、同時に左手を腰へと回しながらベルへと言葉を投げ掛ける。

 モルドの声に対応しながらも、ベルも腰に手を回し武器を抜き放つ。

 左右の手に《ヘスティア・ナイフ》と《牛若丸》を持つその姿は、ベルの戦闘型(バトルスタイル)として定着し始め、もう一端の冒険者として様となり始めていた。

 その中々に嵌まっている姿に、取り囲む冒険者から囃し立てるように口笛が響く中、モルドの強面の顔が大きく歪む。 

 そして―――

 

「これから始まるのは、決闘だが―――てめえをなぶり殺すための見世物(ショー)でもあるんだよっ!!」

「な―――っ?!」 

 

 モルドは宣言と共に肩に乗せていた大剣を、一気に足元へと叩きつけた。

 

「うっ!?」

 

 大地を割り砕けた破片と共に砂ぼこりが大量に周囲に舞う。一瞬にしてベルの視界が塞がれ、モルドの姿を見失ってしまった。咄嗟に口許を押さえたベルが、油断なく周囲を見渡し警戒を厳にする。

 周囲から野次馬の冒険者の口汚い罵り声が響く中、吹き寄せた風が周囲に漂っていた砂ぼこりを振り払う。

 

「―――え?」

 

 クリアとなった視界の中、飛び込んでくるだろうモルドへと身構えていたベルは、予想外の光景に戦いの最中であると言うにも関わらず戸惑いの声を上げてしまう。

 

「いな、い?」

 

 しかし、それも仕方のないことだろう。

 そこにいる筈の、モルドの姿が何処にもなかったからだ。

 慌てて周囲を見渡す。

 前後左右を素早く確認―――いない。

 高座(ステージ)の下にいる野次馬(冒険者)の中には―――いない。

 上かっ?! と視線を上げるも、誰もいない。

 では、何処に、というベルの疑問は、即座に解消される事となる。

 

「がっ―――ぁ?!」

 

 衝撃と痛みを伴って。

 先程確認したばかりの真横からの衝撃。

 頬を殴られる感触と同時、驚愕の思いと共に地面を転がるベルは、一瞬高座(ステージ)の外にいた冒険者が飛び出してきたのかと思ったが、それも転がっていく先に受けた再度の不可視の衝撃により否定される事となった。

 

「っゴ?!!」

 

 何者かの爪先が脇腹に突き刺さる。鉄靴(サバトン)の硬い感触が薄い肉を貫き、内蔵に衝撃と痛みが響く。

 視線は通っていた。

 衝撃を受けた瞬間、確かにベルの視界は、衝撃を受けた位置を捕らえていた。

 しかし、()()()()()()

 それは、早すぎて見えないというわけではなく。

 ただ単純明快に、()()()()()()というだけ。

 

「な、にが―――?!」

 

 混乱する中、それでもベルはこれまでの戦いの中で培ってきた危機回避の本能が、動かなければいけないと警鐘を鳴らす。ベルはそれに逆らうことなく、痛む体と未だ混乱から抜け出せずにいる思考の中、必死に立ち上がり転がるようにして逃げ出した。

 

「っ―――ぁ」

 

 息を吸う度鋭い痛みが肺を襲い、鈍く重い痛みが攻撃を受けた部分を責める。

 口の中に鈍い血の味が広がるのを、唾と共に吐き出し、必死に見えない何かから逃げ出す。

 『いけぇ!!』、『ぶち殺せぇ!!』―――興奮した男達の声が周囲を轟かせ、空気を震わせる。ぐらぐらと、ベルの思考と視界が激しく揺らめく。

 

「あっ―――がっ、は?!」

 

 『おおおおおおっ』と、どよめきが轟く。

 混濁する思考の中、ベルの足元が崩れた瞬間、見えない何かが再度襲いかかる。

 頭では何が起こっているのかは、ベルにも既に理解していた。

 スキルか、魔法か、それとも何かの道具によって、モルドは姿を隠したのだろう。先程の一瞬、体が攻撃を受ける間際、ベルは確かに何かが動く衣擦れの音と地面を踏みしめる足音を感じた。 

 しかし、その肝心の姿は捕らえられなかった。

 顔面に受けた衝撃に、勢いよく吹き飛ばされるベルの体が、高座(ステージ)の端まで転がっていく。落ち掛けた体は、しかし即座に周囲を囲む野次馬達に捕まれ、蹴り出され強制的に高座(ステージ)の中央へと戻される。

 

「っげほ?!」

 

 たたらを踏みながら中央へと戻されたベルの腹を、透明となったモルドの蹴りが突き刺さる。叩き込まれた鉄靴の硬い爪先が、腹部を貫き内蔵へと衝撃の槍を突き刺す。

 口中に溜まっていた血と共に、胃の中のものが混ざり周囲へと撒き散らされる。

 『うげぇ』、『汚ねぇなっ!』との野次馬達の笑い混じりの声を背に、自分が撒き散らした吐瀉物の上に身体を落とすベルは、言い返す事も逃げる事も出来ず、衝撃と痛みから腹を押さえその場で丸くなってしまう。

 反撃する様すら見せることも出来ないベルに対し、しかし容赦のない攻撃は続く。

 腹を押さえ、地面に丸くなって目を閉じ必死に痛みを堪える姿からは、反撃の芽は欠片も見えることはない。

 それが分かっているのか、周囲を取り囲む冒険者の野次には、ベルに対する『弱さ』と『情けなさ』を中心にした罵倒が投げ掛けられていた。

 痛み、熱、罵倒、嘲笑―――今ベルが受け止めているそれは、これまでの経験で未だ一度もその身に受けたもののないものだった。

 人の悪意。

 これまでベルは、様々な痛みをその身体と心に受けてきた。

 祖父を亡くすという肉親を失う喪失の痛みを。

 【ファミリア】への加入を受け入れてもらえなかった際の、拒絶の、孤独の痛みを。

 何時も何時も、誰かに助けられ守られてばかりの自信に対する弱さに対する情けなさ、不甲斐なさという痛み。

 その中には勿論、モンスターとの戦闘による直接的な肉体に対する痛みもあった。

 だが、今受けているものは、そのどれとも違う。

 熱く、暗くヘドロ染みたねばついた痛みのそれは、ベルが知る今までに感じた事のないものであった。

 初めて受けるそれを前に、ベルの意思が、そして身体が、冷たく、固く動かなくなっていく。 

 反撃も、逃走する様子も見せず、目を閉じ丸くなるだけのベルの姿に、しかしモルドの攻撃は弱まるどころか更に激しく強くなり、それに比例し野次馬達の笑い声も高まっていった。

 痛みと衝撃と、悪意に満ちた笑い声の中、ベルの意識は振り子のように浮き上がっては沈むを繰り返す。

 意識と痛みが遠のく度、ベルの思考にノイズのように響く声があった。

 それは、あの白い髑髏の面を被った謎の男から告げられた言葉の数々であった。

 

 ―――貴様は、英雄には成れん

 

 死神の如く、闇の中気配もなく佇む彼が託宣の如く告げられた言葉。

 

 ―――度し難い―――貴様のような輩が、何故こんな所にいる

 

 非難するそれとは違う。

 ただ単純に、理解できないというように、吐き捨てるようにそう言ったあの人の言葉が、暗く落ちた思考の中に響く。

 落ちていく。

 意思が。

 思考が。

 落ちて―――消えていく。

 このまま落ちきれば、どうなるかは火を見るよりも明らかである。

 僕の意識は完全に失われ、次に目を覚ましたときには、装備の全ては剥ぎ取られた惨めな姿となっているだろう。

 神様の名を冠した《ヘスティア・ナイフ》も、友達(ヴェルフ)が造ってくれた《牛若丸》も失ってしまう。

 そうなれば、僕はもう一度立ち上がる事は出来るのだろうか?

 ―――わからない。

 これまでも、何度も情けない姿は見せてきた。

 

 (都市に初めてやってきて、何処の)(ファミリアにも加入できず途方に暮れた)時も―――

 

 (シロさんとはぐれたところで)(出くわしたミノタウロスに襲われた)時も―――

 

 僕はただ、何も出来なかった。

 

 結局は、誰かに助けられただけ。

 

 シロさんに―――

 

 アイズさんに―――

 

 強くなったと思っていた。

 レベルは2になり、世界記録(レコード・ホルダー)だと称えられて、そんな気はなかったつもりだったけれど、やっぱり何処かいい気になっていたのかもしれない。

 リューさんはああ言ってくれたけれど、やっぱり僕はこの程度でしかないのだろう。

 こうして、情けなく倒れて踞っている姿が、僕の本当の姿なんだ。

 

 ―――【英雄】になりたい

 

 はは……―――こんな僕が、なれるわけ、ないじゃないか……。

 あの人の―――言った通りだ。

 僕みたいなのが、英雄になんてなれるわけがない。

 こんな僕なんて、英雄になんて、なるべきじゃないんだ―――っ!!

 

 ―――衝撃が頭に響く。

 頭を蹴り飛ばされたのだろう。

 これまで以上に意識が揺さぶられ、視界が明滅する。

 蹴り飛ばされた勢いで地面を転がった先で、仰向けに寝転ぶ形となった僕の霞む視界の先に、光を灯す水晶が微かに見えた。

 嘲笑の声は、罵倒の響きは、既に遠い。

 揺らめく意識は、今にも消えてしまいそうだ。

 明滅する意識と視界の中、唯一視界に映る水晶の光が、星の様に見え―――て―――。

 

 ―――おじいちゃんっ!

 

 ―――何だ、ベル?

 

 不意に、形のない目に浮かび、耳に聞こえたのは―――

 

 ―――【英雄】って凄いね!!

 

 ―――……ああ、そうだな

 

 遠い過去の記憶で、幼い僕が、暖炉の前で椅子に揺られるおじいちゃんに話しかける姿で―――

 

 ―――格好よくて、きらきらで、ねぇおじいちゃんっ!

 

 ―――ん?

 

 ベッドの上で寝転がった僕が、何時ものようにおじいちゃんから【英雄譚】を聞かせてもらって、その興奮を胸に宿らせたまま口にしたのは―――

 

 ―――【英雄】って、何だか星みたいだねっ! 

 

 ―――星……星か、確かに、そうだな

 

 無邪気で純粋な。

 何も知らない、何もわかっていなかった幼い子供の頃の時分のそれは。

 希望と憧れに満ちた言葉で―――

 

 ―――ねぇ、おじいちゃん?

 

 ―――何だベル?

 

 何も知らないからこそ言える、賢しい者ならば鼻で嗤う愚かしいまでのその言葉は―――

 

 ―――僕も、なれるかな?

 

 だけど、眩いまでも白く、純粋で―――

 

 ―――あの【英雄譚】のような―――きらきらしたあの星みたいな【英雄】に、僕もなれるかな?

 

 胸に灯ったそれは、始まりの火。

 小さな小さなそれは、その時から消えずに残り。

 そしてその火は、ここ(オラリオ)に辿り着いて、シロさんに、アイズさんに出会ったことで燃え上がり、火から炎へと姿を変えて。

 僕を鍛え上げて。

 そして―――ここまで来た。

 

 ―――クラネルさん。あなたは、確かにまだまだ弱くて未熟です。何もかもが足りません

 

 言葉が―――リューさんの深い森の奥のような翡翠の色と共に闇の中に響き。

 自分の弱さと情けなさに自信を無くし、落ち込む僕へと手を伸ばしてくれたリューさんの姿が浮かび上がる。   

 

 ―――あなたは『強さ』よりもっと得難いものを、既に持っているのですから

 

 僕の手を握り、花のように笑ったリューさんの姿が闇の中照らす光のように広がって。

 

 ―――あなたは、尊敬に値するヒューマンだ

 

 闇の中に灯った(明かり)は、次第に大きく強くなっていく。

 

 ―――大丈夫?

 

 ミノタウロスの返り血を全身に浴びた姿で、腰を抜かした僕が仰ぎ見るように見上げた先には、黄金で出来たかのような綺麗な女の人が、僕を心配気に見下ろして手を伸ばしている。

 その美しさに見惚れて、続いて頭に上った血と共に沸き上がった気恥ずかしさと情けなさのあまり、僕はあの人が伸ばした手を取ることもなく咄嗟に逃げてしまったあの日。

 生まれた新たな憧憬を前に、ひたすらに駆け抜ける日々の中、あの人―――アイズさんに手解きを受ける日が来て。

 

 ―――強く、なったね

 

 訓練の最後に、初めて気絶せずに終えたあの日。

 力尽きて尻餅をついた僕の目の前に、あの日と同じく伸ばされたアイズさんの手を、その言葉と共に握って立ち上がった。

 

 未だ届かない。

 それどころか更に遠ざかっているようにも感じるほどの遥か先にいるあの人だけれど、確かに、僕はあの日、一歩近付くことができた。

 朝日を背に手を伸ばすアイズさんの姿が、光と共に更に闇を押し退けて輝きを強める。

 

 そして―――

 

 ―――どうした?

 

 あの日。

 僕が初めて迷宮都市(オラリオ)にやって来た日。【ファミリア】に入れてもらおうと奮闘して幾日も駆け回る日々。だけど、何の力もない子供な僕を迎え入れてくれるような【ファミリア】は何処にもなく。遂には路金も尽きて、宿を出る始末。一人これからどうしようかと途方に暮れる僕に、あの人が―――シロさんが声を掛けてくれた。

 シロさんは、僕が冒険者になるために迷宮都市(オラリオ)に来たという話を嗤うこともなく、最後まで聞いてくれると、冒険者になることの危険性を僕に話し始めた。だけど、それは僕の意思を否定するようなものではなく、純粋に心配による言葉で、だから、僕がそれでも冒険者になるという意思を示すと、シロさんは口許に笑みを浮かべて―――

 

 ―――なら、うち(ヘスティア・ファミリア)に来るか?

 

 って、言ってくれた。

 手を、伸ばして。

 あの日。

 日が届かない路地裏で、蹲っていた僕に手を差し伸ばしてくれたシロさんの背中から、僅かに日の光が差し込んでいて。

 眩しげに目を細めた僕は、その伸ばされた手に向かって、自分の手を―――。

 全てを諦めかけていたあの日、シロさんの言葉と共に伸ばされた手を取った瞬間から、小さかった火は大きく燃え上がり炎と成って。

 

 今もまだ、燃え盛っている。

 

 それを、こんな所で消してしまうのか?

 

 こんな相手を前に、消してしまうのか?

 

 自問する言葉に、僕は――――――

 

 僕は――――――ッ!!

 

 

 

 

 

 

「――――――ッあああああ!!!」 

 

 咆哮と共に振り払う。

 止めとばかりに顔面へと向けられた鉄靴を、見えないそれを未だ手を放さずにいた《ヘスティア・ナイフ》で切り払う。

 

「―――なにッ!?」

 

 驚愕の声が何もない場所から響く。

 たたらを踏んで後ろへと下がる気配を感じながら、時分から地面を転がり距離を取ったベルが、ゆっくりと立ち上がる。痛みはある。全身あますことなく蹴り、殴られていることから、どこもかしこも痛くて堪らない。

 しかし、それは立ち上がれない理由にはならない。

 口中に溜まった血を吐き捨てながら、ベルは【ヘスティア・ナイフ】を構える。

 幸いにも、全身の痛みは酷いが、骨が折れるといった動けないような怪我はなかった。

 ベルは先ほどまでの怯えが混じっていた視線から一転し、覚悟の決まった手に持つその短剣の如く鋭く硬い意思を宿した目で、見えざる敵を見据える。

 その真っ直ぐな視線は、正しく対峙するモルドの姿を―――視線を捉えていた。

 

 見えている?!

 

 一瞬の動揺は、しかし直ぐに否定する。

 見下ろした自分の手は見えてはいない。

 姿は確かに消えている。

 はったりだと言う確信と共に、モルドはベルに襲いかかる。

 

「―――ッ!?!」

 

 無言のまま、大きく振りかぶった拳はしかし、頭を下げたベルの頭上を通りすぎた。

 驚愕の声が上がりかけるモルドの口から、

 

「ご―――はっ?!」

 

 しかし声ではなく圧し殺した呻き声が上がった。

 モルドの拳を避けたベルが、直ぐ様反撃に移ったのだ。

 レベル2の中でも速度に特化したベルの足が、確かな確信をもって振り抜かれる。そしてそれは、違うことなく体勢を崩していたモルドの腹へと突き刺さった。

 アイズ直伝の回し蹴りによるベルの装靴(グリーブ)の爪先が突き刺さり、装備の胸当てを越えた衝撃が御返しとばかりにモルドの胃を押し潰す。

 

「―――ごっ、げぇええ?!」

 

 土煙を立ち上げながら転がった先で、モルドは腹を押さえ踞ると、胃からせり上がるモノを押さえようと口許を押さえるが、油断していた所に受けた衝撃は酷く、耐える事は出来ず。

 数秒の猶予の後、何もない空間から酒臭い吐瀉物が地面へと撒き散らされた。

 

「こ―――のっ、舐め、やがっ、て」

 

 吐き散らかしたモルドが、口許を拭いながら立ち上がろうとする。 

 罵りを吐瀉物混じりの唾を吐き捨てながら上げ顔を上げたモルドの視界に、しかし映ったのは。

 

「な―――ばっ?!」

 

 迫り来るベルの装靴(グリーブ)の姿で。

 視界全てを塞ぐその光景に、最早避ける猶予はなく。

 驚愕の声が上がりきるよりも早く、ベルの渾身の一撃はモルドの顔面へと叩き込まれる。その衝撃は、モルドが被っていた姿を消す魔道具(マジックアイテム)である漆黒兜(ハデス・ヘッド)の耐久値を遥かに超え。再度殴り飛ばされるモルドの頭から外れると、欠片となって周囲へと黒い破片を撒き散らしながら、モルドの姿を露にした。

 

『なあああああああ!??』

 

 周囲から、野次馬たる冒険者たちの驚愕の声が上がった。

 それもそうだろう。

 つい先程まで踞りされるがままになっていたベルが、突然モルドの攻撃を受け止めたかと思えば反撃を行い。もろに攻撃を受けて嘔吐するモルドに向かって、止めの一撃を叩き込む。

 劇的すぎる逆転劇に、状況を把握出来ず驚愕の声を上げた後、周囲を取り囲む冒険者たちは立ち尽くすしかなかった。

 高座(ステージ)を取り囲む冒険者達は、どうすれば良いのかわからず、血を流し倒れるモルドと息を荒げながらも、油断なく周囲を見渡すベルを見比べていた。

 

「っ―――あ、このっ、舐めやがってぇえ!!?」

「っく」

 

 冒険者たちが動揺する中、砕けた漆黒兜(ハデス・ヘッド)がある程度衝撃を受けてくれたのか、血を流す顔面を押さえながらモルドが立ち上がってベルへと罵り声を上げた。

 咄嗟に身構えるベルを前に、モルドは最初に地面を叩き割った後、背中の鞘へと戻していた大剣を抜き放つと、その切っ先をベルへと向けて叫んだ。

 

「このクソガキガアアアアアアアアアアアアアア!!!??」

 

 怒りと憎しみに赤く染まった瞳でベルを睨み付け叫ぶモルドが、握った大剣を振りかぶり飛びかかろうとしたその時であった。

 

「やめろおおおおおおおおぉぉぉぉっ!!!」

「「「―――っ!!?」」」

 

 捕らえられていた筈のヘスティアの声が響いたのは。

 予想外のその声は、怒りに染まっていた思考にも一瞬の理性を取り戻させたのか、モルドは飛びかかる寸前の足を止めると、声が聞こえてきた方向へと顔を向ける。

 同じように、周囲の冒険者とベルもまた、声が聞こえてきた方向へと顔を向けていた。

 その視線の先には、息を荒げさせながらも、しっかりと両の足で立つ捕らえられていた筈のヘスティアの姿があった。

 ヘスティアの周囲には、救助してくれたのだろうリリやヴェルフ、【タケミカヅチ・ファミリア】の団員たちの姿もある。

 ヘスティアは息を整えながら、周囲を見渡すとベル等冒険者達を見据えた。

 

「ベル君っ、ボクはこの通り無事だ。もう、これ以上争う理由はないっ! 君達ももうこれ以上のいがみあいはよすんだっ!!」

 

 大喝するヘスティア()の声に、ベルを取り囲んでいた冒険者達から勢いが失われていく。負ける筈のなかったモルドが一転逆転された中、切り札であり弱点であるヘスティアが救出されたのを見て、彼等の戦意は著しく下がってしまっていた。

 ただ一人を除いて。

 その一人であるモルドは、一時的に押さえられていた怒りを再度再熱させると、ヘスティアに大剣を向け睨み付けると怒声を響かせた。

 

「うるせえぇっ!!? それではいそうですかって、剣を納められる訳がねぇだろうがッ!! 構わねぇ、お前らこのまま全員まとめてやっちまぇえっ!!」

 

 剣を振り上げ叫ぶモルドに触発されてか、一旦収まりかけた冒険者達の中から戦意が立ち上ぼりかける。

 その様子に、ベルやヘスティアの周囲に立つヴェルフ達もまた、武器を握る手に力を込めるが、それは再度響いたヘスティア()の声により強制的に納められることとなった。

 

「―――止めるんだ」

「「「―――ッッ!!?」」」

 

 先程とは違う。

 落ち着いた穏やかとも言えるその声は、しかし先程とは比べ物にならないほどの強さをもって、立ち上ぼりかけた彼等の戦意を吹き飛ばした。

 明らかに違う神威を持ったその声による制止の言葉は、ベルを取り囲む冒険者たちから戦意を奪う以上に畏怖を与えることとなった。

 

「う、ああ、あああああああああ」

 

 最初に一人が武器を放り捨てながらその場から逃げ出したのを切っ掛けに、次々にベルを取り囲んでいた冒険者達がその場から逃げ出し始めたのだ。蜘蛛の子を散らすように逃げ出していく仲間達を必死に呼び止めていたモルドも、逃げる仲間が半数を超えると諦めたのか、ベル達に罵倒の言葉を投げ掛けると仲間の後を追って森の中へと駆け出していった。

 冒険者達の悲鳴と足音が遠ざかり、やがて何も聞こえなくなると同時に、ベルは全身から力が抜けその場に倒れ込んでしまう。

 

「ベル君っ!?」

「ベル様っ!?」

「ベルっ!?」

 

 その様子に、ヘスティア達が慌てて高座(ステージ)に掛け上ると、必死にベルへと駆け寄る。意識はあるようだが、見るからに全身傷だらけのベルの姿に、ヘスティアは涙ぐみながらも小鞄(ポーチ)からミアハ印の高等回復薬(ハイ・ポーション)を取り出すと、仰向けに転がるベルの顔へと浴びせかけた。

 最早指一本動かせない状態であっても、しかしベルの意識は未だ残っていた。その上に容赦なく降り注がれた甘い味のする溶液は、ベルの鼻や口に意思とは反して流れ込む。

 

「ごぶっ?!」

 

 気管に入った溶液を吐き出し、咳き込みながら体を起こしたベルが慌てて周囲を見渡す。ミアハ印の高等回復薬(ハイ・ポーション)は流石の効力を見せ、頭を左右に振って溶液を振り払うベルの顔には、既に傷跡が殆んど見えなくなっていた。

 

「ごめんっ、ごめんよぉベル君。ボクのせいでこんな怪我までさせてしまってっ……」

「あ、いえ……そんあ事は」

 

 抱き付いてきたヘスティアを反射的に抱き止めたベルが、戸惑いながら周囲を見渡すと、そこにはリリやヴェルフ。【タケミカヅチ・ファミリア】のメンバーとその後ろに立つ覆面で顔を隠したリューの姿もあった。

 皆ベルの怪我の心配をしながらも、無事であることに喜びを示している。

 口々にベルの安否を気遣い、無事であることに安堵の声を漏らすある種の達成感が漂う中、その最初の異変に気付いたのは遠巻きにベル達を見ていたリューであった。

 

「―――揺れている?」

 

 微かな振動に似たその揺れは、リューのその言葉を合図にしたかのように、一気にその強さを増した。

 確かに揺れる足場に、戸惑いに惑うベル達が周囲を見渡していると、唐突に辺りが暗くなった。

 『夜』とは違う、地上の黄昏時のような薄暗さ。

 それはまるで、巨大な何かに太陽を遮られたかのような感覚で。

 反射的に空を仰ぎ見たベル達の視界の先。

 この18階層の太陽の役割を果たしていた天井を覆う水晶群の中心にある一際巨大な白水晶の中に、何かが見えた。

 染みのように見えたその黒い点は、瞬く間に巨大になると、更に濃く深い黒となって白い水晶を侵すように広がっていく。

 そのあまりの異様にベル達が声もなく見入っている間にも、深刻さと共に事態は進む。 

 治まらない揺れが更に強まり、遂には立つこともままならない程に揺れが大きくなると同時、ビキリ、と何かに罅が入る音が周囲―――18階層全てに轟いた。

 音の発生源が何処だと、その音を耳にした者全てが同時に思うが、その答えは誰に聞かなくとも皆わかっていた。 

 故に、音を聞いた瞬間、その者達の視線は一斉に上へと向けられていた。

 18階層の意思ある者の全員が仰ぎ見る視線の先で、巨大な白水晶に罅が入っている光景が映る。

 そうして、誰かが罅の奥に潜む『黒』に気付き、ぽつりと声を上げた。

 

 

 

「―――黒い、巨人」

  

 

 

 天井の太陽(白水晶)が砕けた破砕音が響き。

 世界(18階層)に『闇』が訪れた。

 薄闇が広がる中、何よりも『黒』いそれが、地響きを立て降り立った。

 そして、『絶望』が蹂躙を始める。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 




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