たとえ全てを忘れても   作:五朗

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 呪腕さんを出そうと思った時から頭にあったシーンが書けて満足。
 でも、書きたかったシーンの中で3番目なんですがね。
 二番目は次話で、一番はエピローグです。
 


第六話 刻め、我が名を―――

 18階層(アンダーリゾート)の太陽である天井にある巨大な白水晶は、その身とは真反対の闇のような漆黒の怪物を産み出すと、代償にするかのようにその身は砕け散ってしまった。

 白水晶(太陽)を失い、一気に闇に包まれる18階層だが、天井に群生する青水晶は未だ健在であったことから、幸いにも完全な闇となる事はなかった。

 白の光の代わりに青い光が冴え冴えとした青い光が降り注ぐ様は、まるで蒼い月が空に昇った夜のようで、淡い蒼の光が18階層を満たす幻想的な空間の中、しかし響くのは異形の怪物の咆哮と悲鳴、そして破壊の音であった。

 18階層の中央にある巨大な中央樹を破壊して降り立った黒い怪物は、運悪くベル達の前から逃げ去っていたモルド一派をその目にしたことから、最初の獲物と定めて襲いかかっていた。

 そして戦う様子すら見せず逃げ惑うモルド一派を追う黒い怪物の背を、更に追いかける影があった。

 

「―――全くもうっ!? ベル様ったら本当に信じられないですっ!?」

「それは俺も同意見だが、お前も別に反対してねぇだろ」

 

 近付くにつれ、木々の隙間から遠目でも巨大に見えた影が更に大きくなっていく様を目にし、同時に膨れ上がる不安や恐怖を誤魔化すように叫ぶリリ。前を走るベルには聞こえないように小さく叫ぶリリに対し、隣を走っていたヴェルフが苦笑いしながらも答える。返ってきた返答に、リリは怒っているのか笑っているのか判断に困る微妙な顔をしながら、悔しげな声で今度は大きく叫んだ。

 

「それはそうなんですがぁっ!!」

 

 天井の白水晶から現れた巨大な黒いモンスター。

 それが現れ、たまたま近くを逃げていたモルド一派が襲われたのを見たベルは、迷うことなく救出に声を上げた。つい先程まで自分を陥れた相手を救うと声を上げたベルに、しかし異を唱える者は誰もおらず。ベル達一行はモルド一派の救出に向かっていたのが、やはり不平不満はあるもので、特にリリには大事で大切なベルを痛め付けた相手の救出には色々と思うことはあり。ベルの言葉に反対はしなくとも、やはり心情的には不満はあった。

 それはヴェルフも同じではあったが、隣で叫ぶリリが代わりに声を上げた事から比較的冷静となっていた。 

 

「ほれ、口を動かしてないで足を動かせ! ったく、しかし一体なんだってんだありゃ……」

 

 きー! と叫ぶ隣を走るリリに、やれやれと小さく肩を竦めたヴェルフは、近づく黒い巨体を改めて見直すと、自問するように小さく口の中で頭に浮かんだ疑問を形にする。

 小さなその疑問の声は、しかし前を走るエルフの長い耳は捉えた。

 

「姿形は間違いなく17階層の階層主(ゴライアス)ですが、大きさと肌の色が違います」

 

 現れた異常事態(イレギュラー)のモンスターの姿形は、リューが過去、仲間と共に何度となく倒してきた17階層の巨人―――ゴライアスと酷似していた。

 豚頭人体(オーク)と似た体格の、体の六割を占める上半身は逞しく。常に前屈みとなっている背には荒縄染みた長い頭髪が広がっており、顔面も覆うそれの隙間からは、血のように赤く染まった眼球が確認できる。

 その姿は間違いなく17階層の階層主であるゴライアスではあるが、明らかに違った。

 直ぐに違うとわかるのは、その肌の色だ。

 本来の―――17階層の階層主たるゴライアスの肌の色は灰褐色であるが、この18階層に現れたゴライアスの肌の色は、闇のように深く黒い。

 それがただの虚仮威しではないことは、此までの幾多の苦難による勘と経験が違うと判断していた。

 それを証明するかのように、モルド一派を追う黒いゴライアスが、前傾だった身体を反らすと、咆哮を上げた。

 

「ッッ―――っはは、ただ黒くなってるだけ―――って訳じゃ無さそうだな」

「ええ―――」

 

『オオオオオオオオオオオオオオオオオォォォォォォッッ!!!』

 

 リューの頷きに答えるように、黒いゴライアスが咆哮を上げた。

 と、同時に、大気が、周囲にある太く逞しい樹木が衝撃によりその身を大きく揺らす。

 走りながら衝撃から身を守るように反射的に顔の前に掲げた腕に、折れた枝葉や土や小石がぶつかるのに目を歪ませたヴェルフが、()()()()()()()()()()に目を向け顔をしかめた。

 モルド一派が逃げているだろう先。

 黒いゴライアスが顔を向け、声を轟かせた方向から()()()()()()()()()()()()()()のが見える。

 明らかに先ほどの咆哮が原因だろう。

 あれは最早、威嚇のためのただの咆哮なのではなく。

 完全な攻撃手段となった魔力を込めた声による、本来のゴライアスには持ち得ない筈の、衝撃波による『咆哮(ハウル)』であった。

 

「―――そのようですね。急ぎます、このままでは全滅する恐れがあります」

「はいっ!」

 

 近距離での攻撃手段しか持たなかった17階層のゴライアスならば、モルド一派も逃げ切れる可能性があったが、遠距離の攻撃方法を持つ黒いゴライアスではその可能性も潰えてしまう。

 焦りを含んだリューの声に、走るベルの声が応えた。 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「ひっ―――ひいいいい!?!」

 

 突如現れた黒いゴライアスを前にパニックに陥ったモルド一派等は、立ち向かう様子を欠片も見せずに逃走し、何とか大草原地帯まで逃げるも、『咆哮(ハウル)』による遠距離攻撃を前に、逃げる足を遂に止めてしまう。運悪く『咆哮(ハウル)』を受けた仲間の一人が、原型を止めているが、身動き一つすることなく転がっているのを目にしたモルド達の意識が、再起動し逃げ出そうと体に命令を下すよりも早く。黒いゴライアスは蒼い光をもたらす天井を仰ぎ見ると、今度は攻撃手段である衝撃波を纏う咆哮ではない声を上げた。

 追撃することなく、ただ上空へ向け吠える黒いゴライアスの姿に、反射的に怯えるように身体を丸め踞ったモルドが、戸惑いながら、目前まで迫ったゴライアスを見上げる。衝撃波(ハウル)ではなく咆哮を上げた黒いゴライアスに、戸惑うモルドではあったが、直ぐにその意味を知ることになる。

 

「―――なっ、そ、そんな嘘だろおぉ?!」

 

 18階層全体に遍く轟いたゴライアスの咆哮に応じ、周囲から大量のモンスターが姿を現したのだ。

 姿を現したのは、18階層に生息する様々なモンスターであり、普段のモルド達ならば苦戦するほどの相手ではなかったのだが、1体1体ならば兎も角、軽く見ただけでも数十は迫るモンスターの姿に、欠片程もなかった戦意が遂には影さえ消してしまう。

 武器を手に持つ者達の中には、諦めたように腰を落とし天井を仰ぎ見ている者もいた。

 そんな中、自身の雄叫びに集ったモンスターを蹴散らしながら迫ってきた黒いゴライアスが、周囲をモンスターに取り囲まれ立ち尽くすモルドの前に迫っていた。

 

「あ、ああ―――」

 

 蒼い光を遮り、深い黒を落とす主を見上げたモルドは、体の震えに耐えきれず、すがるように掴んでいた武器を遂には手放し、そのまま地面へとへたり込んでしまう。

 戦うことも、逃げることもできず小さく蹲る獲物(モルド)の姿を見下ろす黒いゴライアスは、その赤々と鈍く輝く瞳を愉悦に細ませると、鉄固の如し右の拳を振り上げると、それを一気に降り下ろした。

 

「―――ッ!」

 

 数瞬後におとずれる血と肉の感触を思い、その顔を歪ませる黒いゴライアスであったが、大地を砕き、大量の瓦礫を周囲に撒き散らす中に、期待した色と感触がないことに気付くと、不満の唸り声を漏らしながら周囲を見渡した。

 

「―――っ、ごほっ?! げほぁっ?!」

「さっさと逃げなさいっ!!」

 

 大量の土煙が上がる中に聞こえてきた方向にゴライアスが目を向けると、そこに腹を押さえ地面へとえずくモルドと、その前に立つ覆面で顔を隠したエルフ―――リューの姿があった。

 ゴライアスの拳が降り下ろされる直前、加速したリューは速度を落とすことなく、そのまま地面をけってモルドへと飛び蹴りを叩き込んだのだ。ぎりぎり何とか回避はすることは出来たが、窮地から未だに脱してはおらず。周囲にはモンスター、眼前からは黒いゴライアスが迫ってきていた。

 

「ぁああああああっ!!」

 

 と、高らかな咆哮と共に、二条の線が地面へと刻まれる。

 砕け散った最悪の足場をモノともせずに、獲物を奪ったリューに視線を奪われた黒いゴライアスの背後へと迫る者が二人。

 そして、ゴライアスが間近へと迫る影と声に気付き、振り返るよりも早く、迫る二人―――『タケミカヅチ・ファミリア』の桜花と命が弾かれるように分かれると、斧と刀、それぞれの武器を振りかぶり巨人の左右の膝裏へと叩き込んだ。

 

「「はああああああああっ!!」」

「ッ―――ゴ、アアアッ??!」

 

 同時に叩き込まれた全力の一撃。

 次の瞬間、黒いゴライアスと桜花等は互いに驚愕に目を見開いた。

 黒いゴライアスは強制的に体勢を崩され、後ろへと倒れ込んだことに。

 そして桜花と命は、会心の一撃を叩き込んだ己が振るった武器が、ただの一度で砕けたことに。 

 

「―――何を呆けているッ!!?」

 

 リューの怒声の警告に、桜花と命が我に帰る。

 倒れたゴライアスの直近にいながら、驚愕のあまり立ち尽くしていた桜花等は慌ててその場から離れようとする。手にもった武器だった残骸を捨て去りながら、二人は苦しげな顔を背後へと一瞬向ける。

 全力を込めた会心の一撃だった。

 この一度で大したダメージを与えられるとは考えてはいなかったが、それでも無防備な状況で、薄いと思われる膝裏へとまともに攻撃することができた。

 しかし、返ってきた手応えは生物のそれではなく、金属染みたもののそれであり。もしも武器が砕けて衝撃が逃げていなかったのならば、砕けていたのは自身の手首だったのかもしれないと思うほどの強靭さであった。叩き込んだ武器が欠けたり折れたりする所か、砕け散る様を目前にした桜花等は、それでもあの黒いゴライアスの体表に、僅かな掠り傷さえ与えられなかった事に歯噛みしていた。

 

『オ、オオ―――ッアアアアアアアアアアッ!!』

「「「―――ッッ!!?」」」

 

 立ち塞がるように周囲を取り囲むモンスターの群れを、何とか避わしながら突き進んでいたリュー達だったが、明らかに怒りが籠った濁った吠え声に反射的に背後に視線を向けてしまう。

 飛び込んできたのは、モンスターを吹き飛ばしながら迫り来る()()()()()であった。

 仰向けに転ばされたゴライアスが、飛び起きると共に、そのまま地面に触れるほど前屈みとなった格好で、右腕を大きく凪ぎ払っていたのだ。

 自分で集めたモンスターも関係なく、目の前の全てを吹き飛ばすとばかりに振り抜かれた右腕が、走るリュー達の後ろへと迫っていた。普通ならば、余裕をもって避けられる速度ではあるが、今は周囲をモンスターに取り込まれている上に、リューは腰の抜けたモルドを引きずっていた。

 普段ならば考えられないほどに、その速度は低下していた。

 そして―――

 

「「「っ、あああああ!!?」」」 

 

 気合いの声か、それとも悲鳴なのか、見ずとも感じる巨大な何かが迫る圧力と音に、すくみかける足に発破をかけて更に前へと足を踏み出すと同時、背中を形のない何かが思いっきり押し出した。

 

「「「―――ッ!!??」」」 

 

 一瞬逃げ切れなかったかと思い、声にならない悲鳴を上げた桜花達だったが、直ぐにそれが背中の間近を通り抜けたゴライアスの腕が引き起こした風だと気付くと、前へと転がりかけた身体を何とか押さえつつ、更に前へと駆け出していた。

 

『ッ―――オオ、アアアアアッッ!!』

 

 あと僅かで取り逃がした事に対する苛立ちは大きかったのか、届かなかったと気付いたゴライアスは、身体を起こすと背中を大きく反らした。

 そして、逃げるが十分に未だ己の攻撃範囲(手元)にいるリュー達へ向け、その手(ハウル)の照準を向け解き放とうとする―――が。

 

「【燃え尽きろ、下法の業】ッ!」

 

 突如、大きく開かれた黒いゴライアスの口から爆炎が立ち昇った。

 鈍い声を途切れ途切れに上げるのに合わせ、黒煙が口から立ち上るゴライアスへと片手を突き出しているのは、対魔力魔法(アンチ・マジック・ファイア)を発動させたヴェルフであった。

 

「マジかよ……」

 

 暴走した咆哮(ハウル)は爆炎となって黒いゴライアス自身の口元だけでなく、顔の下半分を燃やし炙り上げた。しかし、その姿からは弱った様子は欠片も感じられず、それどころか傷が着いたような様子すら見えない。ただし、衝撃はそれなりに感じたのか、初めて受けたそれに怒りを露にしているのが、爛々と鈍く輝く赤い瞳からヴェルフは遠目からも感じていた。

 頬をひくつかせ、思わず後退りしてしまうヴェルフに気付いた黒いゴライアスの赤い瞳が、怒りに見開かれた。

 

「ッ―――やばいっ!?」

 

 階層主を越える黒いゴライアスの怒りをまともに受けたヴェルフの身体が一瞬いすくまってしまう。

 はっと、気付いた時には既に遅く、視界には大きく開かれた黒いゴライアスの姿があった。その姿から、咆哮(ハウル)を撃とうとしているのは明白。しかし、先程と同じように対魔力魔法(アンチ・マジック・ファイア)を放つには時間がない。

 身体はその場から離れようとするが、頭ではわかっていた。

 

 ―――間に合わねぇっ!?

 

 逃げようと動くヴェルフだが、それが間に合わないと言うことを自分でもわかっていた。

 そしてそれは、黒いゴライアスも気付いていた。

 ゴライアスの目が歪み、咆哮(ハウル)が解き放たれる―――直前、

 

「ハァアッ!!?」

 

 ゴライアスの頭が弾かれた。

 ヴェルフが狙われていると気付くや否や、モルドを放り捨てたリューが背中を向けたゴライアスの背を駆け上ると同時に、咆哮(ハウル)を放とうとする直前の頭を手にもった木刀を叩き込んだのだ。

 意識外の衝撃は大きく、強制的に傾けられた(照準)は、逃げるヴェルフの背中とは検討違いの方向へと解き放たれていた。

 仲間を救った会心の一撃。

 しかし、リューのその覆面で隠された顔は焦りに歪んでいた。

 

 ―――硬すぎるッ!!?

 

 リューは17階層の階層主であるゴライアスとの戦闘は過去に何度となく経験してきた。

 だからこそ、レベル4相当である標準(階層主)のゴライアスとの違いがはっきりと感じ取れていた。黒い体表という見た目だけの違いなど問題ではない。本来持たない筈の遠距離攻撃(ハウル)に加え、先程の一撃。通常の階層主であれば、更に深い位置にいるものであっても相当なダメージを与えていた筈の攻撃を受けてなお、全くの痛痒を感じさせない姿。それに加え、超大型の弱点とも言える、反応や初動の鈍さといったものが、これ(黒いゴライアス)には感じられない。更に厄介なのが、目の前の敵をただ襲うだけの17階層のゴライアスとは違う、知能の高さを感じられる動きからみても、この個体は17階層の階層主の上位互換というよりも、全くの別の個体として見た方が良い気がした。

 

「この強さっ―――レベル4どころではない。レベル5―――いや、まさか6に届く―――っ!?」

 

 最悪の予想を胸に、黒いゴライアスの意識を自分に向けさせる立ち回りをするリューは、振り回される巨大な腕を避けながら、苦い言葉を吐き出す。

 雄叫びを上げ振り回される破砕城の如き腕を避けながら、リューは絶望的な相手を前にそれでもと勝利のための糸口を探っていた。頭への一撃の後も、この巨人の攻撃を避けつつ幾度も攻撃を加えていたが、最初の一撃よりも力が入っていないとはいえ、脇腹や首、腹部等少しでも防御(装甲)が薄い場所はないかと攻撃をくわえ様子を見るも、全く通じている様子は見えやしない。

 その頑強さは異常なほどで、咆哮(ハウル)や巨体から繰り出される直接的な攻撃等よりも、よっぽど危険であると、リューはこれまでの経験から判断を下していた。

 しかし、そう思ってはいても、糸口どころか攻略の手掛かりの気配すら感じられない中、リューの中に溜まる焦りは増える一方で減る様子は全くなく。

 

「―――どうすれば」

 

 食い縛った口元から溢れた声には、隠しきれない焦燥が混ざっていた。 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 リューが黒いゴライアスの注意を引くように立ち回り、桜花と命が召喚されたモンスター達の相手をしている中、放り出されたモルドは、周囲を見渡しながら混乱する頭の中を知らず口から溢していた。

 

「なっ―――何で……?」

 

 黒いゴライアスに襲われた事や、集まってきたモンスターに取り囲まれた事に対する恐怖や混乱は勿論ある。だが、それ以上にモルドの頭を振り回したのは、自分が散々貶めなぶった筈の相手の仲間から助けられたという事実であった。

 あり得ないことであった。

 そんな事は、モルドにとって黒いゴライアスが現れた事(異常事態)よりも更に理解出来ないものであった。

 抱えられない混乱と、そして胸に渦巻く言葉にならないナニかに、逃げる事もせずに座り込んだまま動かないモルドの背に、突如衝撃が走った。

 

「何してるんですかっ! さっさと逃げて―――ってもういいですっ! 運んじゃいますからねっ!!」

「は? え? ちょ、あだだだだっ?!!」

 

 モンスターの攻撃かと、前転するように前へと転がり仰向けに倒れたモルドは一瞬パニックに陥りかけたが、直ぐに大した痛みを感じないことに気付き、声が聞こえてきた方向に顔を向けると、そこには嫌悪を丸出しにしたパルゥムの少女―――リリの姿があった。

 リリは見上げてくるだけで、立ち上がる様子のないモルドに顔をしかめると、その襟元を握り、そのまま駆け出していった。

 地面を削る勢いで引かれるモルドが、喉を締められる苦しさと背中に走る痛みに苦悶の声を上げるも、リリは逆に噛みつく勢いで文句を口にし、更に駆ける速度を上げる。

 

「ぎゃーぎゃー騒がないでくださいっ!」

「だからっ! 何で手前ぇらが俺を―――俺達を助けて」

 

 引き摺られながら、モルドは何とか襟元に指を入れると、若干の苦しさを感じながらもリリに胸に渦巻く何かに押されるように問いかける。

 

「……それはお人好しが過ぎるベル様に聞いてください」

 

 大の大人を一人引きずっているとは思えない程の速度で、集まってくるモンスターを避けながら走るリリは、モルドに目を向けることなく暫く無言でいたが、最後にはため息混じりの声で諦めたような声で答えた。

 

「っだから―――あのガキが……何で」

 

 肩を落とし、力なく引き摺られるモルドは、視界の端に、桜花や命、ヴェルフ、そしてベルが自分の仲間達を、つい先程まで貶め罵っていた相手を救う姿を目にし、苦しげな声で呻くようにして自問自答するように答えを求めた。

 

「……それがベル様だからですよ」

 

 悲鳴のような、押し殺した水気の感じられるその声を耳にしたリリは、ちらりとモルド一派に襲いかかっていたモンスターを斬り伏せたベルを見ると、修羅場の中にいるとは思えない程の柔らかな笑みを一瞬口元に浮かべ、モルドへと唯一の答えを返した。

 答えでない答えに対し、モルドは悪態の一つでもついてやろうかと口を開いたが、

 

「―――っ、くそっ……」

 

 震える口元から出たのは、弱々しい誰かに対する罵倒だけであった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 リューがただ一人で黒いゴライアスの足止めをする中、ベルは周囲に集まってくるモンスターの相手をしながら逃げ遅れたモルド一派の救出に当たっていた。とは言え、混乱の中逃げ惑っていたとはいえ、18階層まで来れる程の実力はある者達である。ベル達の応援により、一瞬の落ち着きを取り戻した者もいたことから、モルド一派が草原地帯から逃げ出すのにはそう時間はかからなかった。

 問題はその後、襲う相手が減った事から、草原に集まってきたモンスターの狙いが、その場に留まっていたベル達へと定められることは自然な事であった。

 次々と襲いかかるモンスター。

 逃げ出せば、黒いゴライアスの注意を引いてくれているリューに向かうことは間違いなく。そうなれば、危うい均衡を保っていた戦いが一気に崩れるのは明白。そのため、ベル達は逃げる事も出来ずモンスター達の相手をしていた。

 まだ限界ではないが、苦しく先が見えない状況に、ベル達が焦燥を感じていた―――その時である。

 雄叫びと共に、薄闇の中でも見える程の土煙を立てながら近づいてくる集団が現れたのは。 

 

「あれって―――」

「ああ、街から応援が来たようだな」

 

 様々な武器を手にした男達が、駆け寄ってくる勢いをそのままに、モンスター達へと襲いかかる姿を目にしたヴェルフが、ベルに頷きを返す。

 

「これなら」

「とは言え、敵さんも減っている様子はねぇな」

 

 次々と倒され灰となって消えていくモンスター達の姿を目にしたベルが、見えてきた希望に声を弾ませるが、周囲を見渡したヴェルフが、森の中から次々と姿を現すモンスターの姿に、ため息と共に首を横に振る。

 ヴェルフの言葉に、後を追うように周囲を確認したベルが、焦りを噛み殺すように歯を噛み締めながら頷く。

 

「それは……だね」

「さて。で、お前はどうする? あいつら(桜花達)は寄ってくるモンスターの相手をしているが、俺もそれに加わろうかと思ってるが……」

 

 応援が駆けつけたとはいえ、敵の姿は減る様子は見えない。

 しかし、ベルに怖じ気づくような様子もなく、戦意は十分だと感じたヴェルフが、試すようにこれからの事について確認する。

 ヴェルフの言葉に、ベルは周囲で戦う桜花や命、何かを投げつけたりしてそのサポートをするリリの姿を見ると、一瞬目を瞑り自身の中の逡巡を振り切ると、目を開くと同時に口を開いた。

 

「……ごめんヴェルフ。僕は―――」

「はっ―――あっちも呼んでるみたいだしな。期待に応えて―――いや、目にもの見せてやれよなっ!」

 

 何処か申し訳なさそうな顔をするベルに、ヴェルフはこちらに顔を向け何かを叫んでいる応援に来た男達に視線を向けた後、不敵な笑みを浮かべると同時に相棒の背中を勢いよく叩いた。

 背中に走った痛みと衝撃にびくりと飛び上がったベルだったが、顔を向けた先のヴェルフの信頼の籠った目を前に、自然と浮き上がって来た笑みを顔に大きく頷くと、自分の二つ名を呼ぶ男へと向かって駆け出していった。

 

「うんっ! 行ってくる!!」

 

 

 

 

 

「はは―――来たな【リトル・ルーキー】! そんな武器であのデカブツを殺れると思ってんのか?」

 

 自分を呼ぶ声の眼帯をした大男の下へと着いたベルは、その強面の顔を歪めて笑う男のからかいの言葉に対し、言い返す事はなく必要な物を求めた。

 

「大剣はありますか?」

「使えんのか?」

 

 ギロリと、大男の一つ残った目がベルの全身を確かめるように見渡す。

 挑発するようなその声に対し、応えるようにベルは真剣な顔で返事と共に大きく頷いた。

 

「はいっ!」

 

 打てば響くような返事に、眼帯をした大男は同じく大きく頷くと、集められていた武器の山から大剣を取り出すと、ベルに向かって放り投げた。

 

「よっしゃ持ってけ!」

「行ってきますっ!!」

 

 飛んでくる大剣の柄を器用に受け止めると、確かめるようにそのまま投げ渡された勢いを殺さず一振りしたベルが、背中を向けて駆け出していく。向かう先には、今にも黒いゴライアスへと向かおうとする小隊の一つ。先程ベルを挑発するようにして呼んだ男達の小隊である。

 駆け寄ってくるベルに気付いた男達は、身の丈程ある大剣を肩に担ぎ、疾風のように駆け寄る姿にその口許を笑みの形に曲げた。

 

「おう来たか【リトル・ルーキー】!」

「はいっ!」

 

 迎え入れるように横一列に並んでいた中に、隙間を明けベルを入れると、左右から発破を掛けるようなからかいの言葉が向けられる。

 

「びびって逃げんじゃねぇぞっ!」

「大丈夫ですっ!」

 

 力強く頷くベルの背を、隣に立った男が叩くと、その勢いのまま黒いゴライアスへと目掛け走り出した。

 鎧を纏い巨大な武器を手にしているとは思えない動きで巨人の下へと駆ける彼らは、口々に声を張り上げ徐々にその大きさを増していく姿に比例し増加する怖じ気を振り払いながら走る。

 

「いくぞ手前ぇらっ! このまま一気に―――あ」

 

 その最中、唐突にベルを除いた全員が足を止めた。

 

「「「―――やっべ」」」

「へ?」

 

 一人足を止めず走るベルが、自分一人が巨人へと向かっていることに気付くと呆けた間抜けな声を上げた。

 まるでベルを罠に嵌めたような格好となったが、別に彼等にはそんな意図は全くなかった。

 ただ、彼等は長年の経験による勘が訴えてきた危機に対し、敏感に反応し足を止めたのだが、未だ新人から域を越えていないベルは察する事が出来なかっただけである。

 

『オオオオオオオオオオッ!!』

 

 彼等の勘が正しかったのは、直ぐに証明される事となった。

 取り残されたように一人巨人へと駆けるベルの目に、『咆哮(ハウル)』の予備動作である背を反らすゴライアスの姿が飛び込んできた。 

 今さら立ち止まっても、反転して逃げ出しても意味がないと一瞬にも満たない間に思考せずに反射的に理解したベルは、唯一の活路だと本能が叫ぶ方向―――前へと更に走る速度を加速させた。

 

「ッ―――あああっ!!」

 

 恐怖や迷いを振り払う時間もないまま、直後ゴライアスの『咆哮(ハウル)』が放たれる。

 悲鳴か気合いの雄叫びか、自分でも分からないまま声を上げたベルが、背に受ける衝撃で更に速度を加速させ辿り着いた

ゴライアスの足元へと目掛けあらゆる勢いを乗せた一撃を叩き込んだ。

 

「―――っ、硬、い?!」

 

 会心の一撃であった。

 しかし、返ってきたのは敵の悲鳴や手応えではなく。振るった大剣が上げた砕けた悲鳴だけであった。

 たたらを踏みながらゴライアスの足元を駆け抜けたベルが、驚愕を目に巨人を思わず仰ぎ見る。

 と、目があった。

 足元を駆け寄ってきた(ベル)に気付いたゴライアスが、雄叫びと共に足を振り上げた。

 咄嗟に逃げようと足を動かそうとしたベルだったが、先程の一撃で返ってきた衝撃が未だ残っていたのか、一瞬ふらついてしまう。それはその場では致命的な隙であり、ベルの背中に冷たい汗が流れた瞬間。

 

「全く無茶をする。あなたという人は……」

「リューさん!?」

 

 手を捕まれたと思えば、勢い良く後ろへと体を引かれた。

 眼前でゴライアスの巨大な足が壁のように突き立つのを目にし、危機一髪の状況に顔を強張らせたベルだったが、聞こえてきた呆れた、しかし安堵が含まれた声に慌てて顔を向けると、そこには覆面で顔を隠したリューの姿があった。

 

「あれの外皮に下手な攻撃は意味をなしません。精々気を引く程度です」

「っなら―――」

 

 ベルを逃がしてしまった事に気付いたゴライアスが、後を追おうと体を動かす前に、駆け寄ってきたアスフィがベルトから取り出した試験管を投げつけ気を引き付けた。

 その間にゴライアスから離れたリューは、ベルから手を離すと、逃げるよう促そうと口を開こうとした、が。

 しかし、目があったベルの瞳には恐れはなく、戦意に満ちている姿に下手な言葉では逆効果になると察したリューは、小さく諦めたように覆面に隠された口許に苦笑いを浮かべた。

 

「……今、後方で魔導士達が詠唱をしています。ですが、発動まで時間を稼ぐ必要があります」

「それって」

 

 逃げろと言われるとばかり思っていたベルは、予想外のリューの言葉に目を輝かせる。 

 そして、自分に向けられる期待の籠った声と目にしたリューは、近くに転がっていた誰かの大剣を拾い上げると、それを差し出しながらベルに背中を向けた。

 

「私の合図に従ってください。貴方の足なら付いてこれる筈です」

「―――はいっ!」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 草原において、黒いゴライアスを相手にした戦いが始まってからどのくらい経ったのだろうか。

 始めに比べ、戦う冒険者達の顔に疲労はあるが焦燥はそこまで大きくはなかった。

 それは、一つ一つの攻撃の範囲と威力は強くとも、手足を使った直接的な打撃と『咆哮(ハウル)』による遠距離攻撃の二つしか攻撃手段を持っていない事から、時間がたつにつれ、パターンを把握した冒険者達の被害が減っていった事も理由だろう。

 だが、だからといって余裕があるわけではない。

 あちら(ゴライアス)の攻撃が当たらなくなってはいるが、こちら(冒険者達)がこれまで加えた攻撃では、此れといった効果が未だ確認できてはいなかった。

 この黒いゴライアスの厄介な点はそこである。

 攻撃よりも防御。

 その頑強さは、中層どころか下層、いや、下手すれば深層域の階層主にも迫りかねない力があった。

 例えそこまでなかったとしても、その闇のような黒い肌の防御力を突破したものは未だ誰もおらず、血を流させるどころか、傷の一つ刻み付けた者すらいない状況であった。

 その中にはレベル4であるリューの全力の一撃や、アスフィ手製の爆炸薬(バースト・オイル)の爆発ですら何ら損傷を与えられずにいた。

 これまでで一番ダメージを与えたのは、ゴライアスの『咆哮(ハウル)』を暴走させ自滅させたヴェルフの魔法だろう。

 故に、ゴライアスの相手を間近でするアスフィとリューの二人は、自身の手による打倒に執着することなく、()()()()()()()()()()()()()()()()()()()

 冒険者の中で、最大の攻撃力を誇る砲台たる魔導士達の詠唱が終わるまでの時間を。

 そして、遂に彼女達が、否。

 この激闘の中にいる冒険者達が待ちわびた時間がきた。 

 

「でかいのが来るぞっ! 前衛の野郎どもはさっさと逃げやがれぇ!!」

 

 リヴィラの街を取り仕切る山賊の頭目のような雰囲気と見た目を裏切らない気性を持つ眼帯の大男たるボールスが、合図の声を上げた。

 響き渡る号砲たるボールスの声に反応し、ゴライアスの注意を引きながら巧みに包囲網の中心へと誘導していたリュー、アスフィやベルと前衛を張る冒険者達が、一斉に後ろへと駆け出していく。

 己を中心に弾かれるように離れていく冒険者達の姿に、ゴライアスが一瞬戸惑ったように逃げていく彼等の背中へ迷うように視線を向けていたが。直ぐにその向かう先に、今にも魔法を解き放とうとする何人もの魔導士や魔剣を構えた冒険者達の姿を目にすると、陥った自らの状況に気付きその赤い目を見開かせた。

 

『――――――ッッ!!?』

「よっしゃ!? これで最後だっ! ぶち殺せぇえええっ!!」

 

 そして、ボールスの指示に従い一斉に魔法が解き放たれた。

 炎、雷、水、風―――魔法によるもの魔剣によるもの大小種類と様々な限界まで高められた魔法が雨のようにゴライアスへと降り注ぐ。

 その衝撃はゴライアスの咆哮(ハウル)染みた衝撃波を周囲へと轟音と共に轟かせ、後方へと移動し状況を確認していたリューとその隣に立つベルの全身を震わせていた。

 まるで戦争のような魔法の一斉掃射を初めて目にしたベルが、そのあまりの威力と光景に身を揺るがす衝撃とは別の恐れにより身体を震わせる隣で、顎に手を当てたリューが何かを思案するように目を細めていた。

 そうして、長くも短くも感じられる魔法の一斉掃射が終わり、ゴライアスを中心に黒い黒煙が周囲に漂う中、あちらこちらから冒険者達の歓声の声が上がり始める。

 黒煙により良くは見えないが、所々から見える隙間から確認できるゴライアスは、敗けを認めるかのように膝を着いた姿勢のまま動く様子は確認できない。そして、周囲に草原には、魔法による攻撃によりダメージを与えた証拠である血や肉片が飛び散っていることから、あの強固過ぎる防御を貫いた事は明らかであった。

 そして、止めを刺そうと、周囲を包囲していた冒険者達が我先にとゴライアスへと駆け出していく。

 段々と大きくなる歓声と止めを刺さんと雄叫びが上がる中、ベルもまた勝利を確信し、歓声を上げようと口を開けた時であった。

 

「……っ、いや、まさか……そんなっ―――いけないっ!?」

 

 隣に立つリューから、驚愕と恐怖に震える声が上がったのは。

 ()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()のを、微かに捉えたリューが、それを意味することが分からずとも、これまでの経験から発せられる警告が大音量で脳裏に響き渡る。

 

「え? リュー、さん?」

「全員下がれぇええええ!!」

 

 突然声を上げたリューに、ベルが状況を把握できず困惑の声をあげる。

 そんなベルに視線も意識も向ける余裕のないリューは、響く歓声と雄叫びに負けじと警告の声を上げる。

 しかし、その声は周囲の音に押され紛れ、ゴライアスへと駆け寄る冒険者達の耳には届かない。

 僅かな者にだけ届いたその警告の声を聞いた一人であるアスフィは、リューの視線を追うようにしてゴライアスを見て、怪訝な顔を浮かべていたそれを驚愕へと変えた。

 

「つ―――まさか、そんな馬鹿なことが―――」

 

 リューの視線の先。

 黒煙が晴れ、露となったゴライアスは、()()()()()()()()()を起こすと、足元まで近付いてきた冒険者達を睥睨した。

 

「自己再生だとぉお?!」

 

 最悪を目にし、冒険者の誰かが答えを口にした。

 負った傷が幻ではないと示すかのような、残光のように僅かに残った赤い光の粒子を振り払いながら、ゴライアスが両手を大きく頭よりも高い位置まで振り上げる。

 そして、初めて受けた損傷に対する怒りを込めた拳を咆哮と共に、状況をやっと把握し逃げ出し始めていた冒険者達へと向かって振り下ろした。

 ゴライアスの手の届く範囲に冒険者の姿はなかったが、それは決して安全地帯にいると言うことではなかった。

 地面へと叩きつけられたゴライアスの拳は、これまでにない威力であり。

 大草原の中心にて振り下ろされた鉄槌は、その衝撃を地面深くへと轟かせ。地面へと突き立つ拳を中心に放射線状の深い罅を大地に刻み付けると同時、円状に広がる衝撃波と大量の瓦礫が逃げる冒険者達の背中へと襲いかかった。

 数Mはあるだろう巨大な岩石が、文字通り数えきれない数となって周囲へと降り注ぐ。ゴライアスへと止めを刺さんと駆け寄っていた冒険者達は、背から受けた衝撃により地面に叩きつけられた後、大地に刻まれた峡谷の如きひび割れの中へとその大半が落ちていき、隆起する岩や大地に挟まれ潰され赤黒い血溜まりとなっていく。

 そして後方にいた魔導士達には、無数の岩石が襲いかかっていた。最悪な事に、攻撃が当たり勝利を確信していた彼等は油断し、ポーション等での回復を怠っていたことから、大量の魔力を消費したことによる消耗により咄嗟の回避が間に合わず、降り注ぐ岩石を避けきれず潰され弾き飛ばされる者が続出していた。

 

『ッオオオアアアアアアァァァッッ!!!』

 

 惨劇の中心に立つゴライアスが雄叫びを上げる。

 それは怒りの声か勝利の声なのか。その声に応じるように、遠く近くから未だ現れていないモンスターからの応答の咆哮が上がる。

 自身が作り上げた、己の胸辺りにまで届きかねない火口染みたクレーターの中心で、ゴライアスは周囲を見渡すと、ゆっくりと前へと歩を進め出した。

 向かう先には最も冒険者達の姿が確認できる位置。

 

「……包囲網が」

「どうすんだよこれ……」

 

 こちらへと向かってくるゴライアスの姿に、リヴィラの街の頭領であるボールスが周囲から上がる悲鳴のような声を前に、その身体を弱々しく震わせていた。

 腰を抜かしかけ、間もなく地面へと腰をへたり込ます間際、直ぐ隣から焦燥を感じながらも未だ冷静さを失っていない声を耳にしたボールスは、何とか踏ん張ると胸ぐらを掴む勢いでその声の主へと詰め寄った。

 

「出鱈目な再生―――これは魔力を燃焼させて……」

「おい本当にどうすんだよアンドロメダっ!?」

 

 唾を飛ばしながら顔を寄せてくるボールスに、しかめた顔を反らしながら怒鳴り返したアスフィは、ゆっくりと間もなく自身が作り上げたクレーターから出てきそうなゴライアスへと指を指した。

 

「どうもこうもありませんっ!? 私達には逃げ場はないんですよ! なら、あれをどうにかするしかありませんっ!!」

「そうは言ってもよぉ!?」

 

 涙目になりながら情けない声を上げ、アスフィにすがるような視線を向けたボールスが、力なく肩を落とす。

 そんなボールスを無視し、アスフィは前へ―――黒いゴライアスへと向けて足を踏み出した。

 

「ボールスッ! あなたは部隊を再編成して体勢を立て直しなさいっ!」

「立て直せって簡単に言うけどなぁ?!」

 

 背中を向けたまま、ボールスに指示を出したアスフィは、後ろから上がった泣き言のような抗議の声を無視すると、一気に駆け出していった。

 

 

 

 

 

 

『オオオオオオオオオオォォォッ!!』

 

 ゴライアスの声に応じ、草原地帯へとまた新たなモンスターが姿を現してくる。

 ぞくぞくと姿を見せるモンスターに、無意識の内に『ヘスティア・ナイフ』を握る手に力を込めるベル。

 

「っ、また!?」

 

 生き残った冒険者達が何とか応戦してはいるが、先ほどの範囲攻撃の被害は大きく。最低限の連携すら崩壊した戦いの中、じりじりと冒険者はモンスターに押されていた。

 

「リューさん……」

「……クラネルさん。貴方は他の者達と合流して、集まってくるモンスターの対処をお願いします」

 

 反射的に隣のリューへと視線を向けると、返ってきた答えにベルはしかし、直ぐに頷くことはなかった。自分に指示を出したリューの視線が、クレーターから出てこようとする黒いゴライアスと、それを妨害するように立ち回る一人の冒険者へと向けられていたからっだ。

 

「じゃ、じゃあリューさんは?」

「私はアンドロメダと合流し、あれを何とか押さえます」

 

 予想はしていたが、頑強さだけでなく、出鱈目な回復力を見せたゴライアスに向かうという言葉に、ベルの顔が苦く歪んだ。

 

「そんな―――無茶です!」

「無茶でもやるしかない。少しでもあれを止めなければ、被害は広がる一方だ」

「でも―――」

 

 幼子が手を引くような、そんな弱々しいベルの言葉に、覆面の下で耐えるように一瞬歯を噛み締めたリューは、振り切るように前へと足を踏み出す。

 そして、ベルへと背中越しに振り払うように叱咤の声を上げると共に、アスフィ()の応援へと駆け出していった。

 

「―――時間がありません。貴方もやるべき事に集中してくださいっ!!」

「っ、はい……」

 

 小さくなっていくベルの気配を背中に感じる中、リューは覆面に隠した口の中で小さく声を上げた。

 

「……御武運を」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「―――リュー、さん……」

 

 あっという間もなく小さくなったリューの背中に目にしながら、ベルは何かを迷うように答えを欲するように名前を呼ぶが。今までのように返ってくる言葉はない。

 周囲を見渡せば、集まってくるモンスターと戦う冒険者達の姿が。

 前を見れば、黒いゴライアスの足止めに終始するアスフィと合流したリューの姿が。

 迷うように、その目が二つの分かれ道の間を揺れ―――定まった。

 

 ―――やるしかない。

 

 目を閉じ、開いたベルの目は、既に覚悟を決め、揺れる事はなかった。

 眼前に右腕を掲げ、己の最後の手段を引き起こす。

 【英雄願望(アルゴノゥト)】―――大型のモンスターでさえ、最短の蓄力(チャージ)で一撃で打倒し得るベルの切り札。

 最大に蓄力(チャージ)すれば、威力は跳ね上がるがその分体力、そして精神力も大幅に削られる諸刃の剣。今の消耗した身体では、一発打てば最早身動き一つ取れなくなってしまうだろう。下手すればマインドダウンを引き起こして意識すら失う可能性もある。

 どちらにせよ、この一発でどうにかしなければ、自分に出来ることは何もなくなってしまう。

 鈴が鳴り始め、右腕に白い光が集う中、焦燥に喉を鳴らすベルの頬を、一筋の汗が流れ落ちる。

 3分―――それがベルの【英雄願望(アルゴノゥト)】を最大に蓄力(チャージ)するまでに必要とする時間だ。

 たった3分。

 普段であれば、あっという間に過ぎ去る時間が、まるでその倍でも足りないほどに長く感じられる中、ベルの耳に、そして目には否応もなく周囲の光景が突き付けられていた。

 倒れ伏し、血を流す男の冒険者にすがり付く女の人。

 倒れた男の人の名を必死に呼び掛けるも、男は応えない。

 当たり前だ、身体の半分―――下半身がなくなって生きていられるような人はいない。

 大岩に辛うじて潰されなかった上半身にすがり付く女の冒険者の後ろでは、同じ【ファミリア】なのだろう。同じエンブレムを着けた男の冒険者が、泣きながら襲いかかってくるモンスターを防いでいる。

 やがて、モンスターの隙をついたその男の人は、死んだ恋人だったのだろう男の人にすがり付く女の人を無理矢理抱え上げると、その場から離れていった。

 肩に担がれた女の人が、亡くなった男の人のだろう名前を叫びながら遠ざかっている。

 彼等だけではない。

 似たような光景は、見渡さなくとも嫌でも目にはいってくる。

 血溜まりの中に倒れた。しかし微かに動いている女の人を背中に、襲い来るモンスターの前に立ち塞がる男の冒険者。

 撤退する仲間を背に、致命傷とわかる傷を受け、夥しい血を流しながら、それでも仲間が逃げるための時間を稼ごうとモンスターの前に立つ冒険者。

 例え目を逸らそうとも、瞼を閉じたとしても、その声は、悲鳴は、願いは、怒りは耳を、心を逃がしはしない。

 これが、現実だと突きつけてくる。

 消えていく命。

 それは、数多の物語の終演。

 彼ら彼女らは、モンスターひしめくこのダンジョンを潜り抜け、ここ(18階層)まで辿り着いた冒険者だ。ならば、この場にいる殆どの人が、レベル2へと至っている人たちだということ。

 つまり、その全員が神様さえ認める偉業を、少なくとも一つを乗り越えたという事だ。

 世が世なれば、もしかしたら歌に唄われたような人がいるのかもしれない。

 ひょっとすれば、僕が知らないだけで、【英雄】と呼ばれている人もいるのかもしれない。

 そんな人達が、まるで嵐の中の火のように次々と消えていく。

 誰にも知られず、語られる事もなく……。

 ひゅっ―――と、一瞬胸の奥底を冷たい風が吹き抜けた気がした。

 心の底―――魂を凍えさせるかのようなそんな冷たい気配を一瞬感じたけれど、それが何なのかわかる前に、短くも長かった蓄力(チャージ)が終わった。

 

 収束する白い光が収まるが、未だ小刻みに(チャイム)を響かせる右腕に力を込めると、ベルは駆け出していった。

 向かう先には、丘のように盛り上がった地面の前で、乗り越えようと迫る黒いゴライアスの相手をするリューとアスフィの下。

 (チャイム)を鳴らし、ベルは右腕から放たれる白い光で、薄闇の中に白い線を描きながら駆ける。

 近付いてくるその()と光に、黒いゴライアスの相手に何とか凌いでいたリューも気付き、一瞬の隙をついて音が聞こえてきた方向に何らかの予感を感じながら目を向けた。

 

「っ―――クラネルさんっ!?」

 

 何とはなしに気付いてはいたが、実際に目にすれば胸に去来するのは不安と焦り。

 口からでたのは悲鳴を含んだベルの名前。

 そのリューの様子と言葉に、釣られるように動いたアスフィの目に、(チャイム)を鳴らしながら駆け寄るベルの姿が映る。

 その姿に、小竜(インファント・ドラゴン)を一撃で倒したという情報を耳にした事があったアスフィは、黒いゴライアスの異様な耐久力とベルの奥の手の力を咄嗟に比較するが、結局結論は出ることはなかった。

 

「あれはっ―――賭けるしかないかっ」

 

 数瞬の逡巡の後、祈るような言葉と共にリューと共にアスフィはゴライアスから離れる。

 魔導士達の魔法の一斉掃射でさえ倒すことは出来なかった現状、打てる手は全て打たなければなかった。可能性があるとすれば、魔石か頭や心臓といった急所を砕くしかないが、下手な攻撃はゴライアスの防御を突破することは出来ない。 

 もう一度魔導士達の一斉掃射を、今度は頭部に集中して放てば可能性はあるが、黒いゴライアスはあの一斉掃射を受け、魔導士達に警戒を抱いたのか、あれから何度も『咆哮(ハウル)』を放ち魔導士達を執拗に狙っていた。 

 そうでなくとも、あの火山の噴火のようなゴライアスの一撃から生まれた流星群(メテオ・ストライク)のような岩石の雨を受けた魔導士達の中で、再度詠唱できる者は数えるほどしかいなかった。

 そんな中、駆け寄ってくるベルの話に聞く一撃は、か細くも確かな可能性が感じられた。

 アスフィは、駆け寄ってくるベルを止めようとするリューの腕を取ると、睨み付けてくる彼女に顔を左右に振ってみせ、そのまま逃げるように腕を引いた。

 

「リオンっ、気持ちはわかりますが今は逃げますよ!」

「っ―――クラネルさん」

 

 丘のように盛り上がった地面を走るベルは、ゴライアスから離れていくアスフィとリューの姿を確認すると、駆ける足を更に加速させた。

 地面を砕く勢いで駆けるベルは、あっという間に造られた丘の頂上へと辿り着く。

 目の前には黒いゴライアスの巨大な顔が。

 咆哮を上げようとしたのか、丁度口を開けていたゴライアスのその口は、自分の身体を一口で納められるだろう。その巨大な顔を前に、ベルは沸き上がる恐怖を雄叫びと共に吐き出すと白い粒子を放つ右腕を突き出した。

 

「【ファイアボルト】ぉおおおおっ!!!」

 

 直後、大きく開かれた口の中に飛び込んだ白い稲光は、ゴライアスの喉奥に突き刺さると同時、先の魔導士による一斉掃射にも匹敵する凄まじい爆音を周囲に轟かせながらその頭部を吹き飛ばした。

 巨大な光の柱となってベルの右腕から放たれた大炎雷は、頑強なゴライアスの頭骨を粉微塵に砕くに止まることなく、そのまま更に先へ。遥か先、18階層の端にまで到達すると、大きく壁を打ち砕き爆破させた。

 頭部を失ったゴライアスの身体が、力なく地面へと膝を着いた。

 その姿から力は感じられず、一見すれば決着が着いたようにも見える光景。

 だが、ベルの胸には会心の思いはなく、その反対に焦燥に染まっていた。

 

 ―――外した。

 

 ベルの本来の狙いはゴライアスの胸部。

 モンスターの絶対の急所たる魔石を狙ったものであった。

 魔石の位置は不明であったが、最大にまで蓄力(チャージ)した【ファイアボルト】ならば、ゴライアスの体でも大きく吹き飛ばせる可能性があった。

 それに賭けていたのだが、間近に迫ったゴライアスの恐怖に僅かに逸れた狙いが、想像以上のフルチャージの【ファイアボルト】の威力に体勢が大きく崩れ、放たれた大炎雷が砕いたのは頭部のみであった。

 地面へと膝を着いたまま、ゴライアスに動きはない。

 頭部を破壊されれば、例えダンジョンのモンスターでさえ活動できるものはいない筈。

 周囲で様子を伺っていた冒険者が、胸の奥で渦を巻く不安を振り払うように、僅かに見えた希望にすがるように信じ込もうとした時であった。

 ゴライアスの首元から噴火のように吹き上がる赤い粒子が立ち上ったのは。

 

「「「―――ッ!!?」」」

 

 言葉にならない悲鳴が周囲から立ち上った。

 衝撃もなく、また音もなく。

 ただ赤い光が立ち上る光景を前に、それが何を意味するのかに気付いた時には、もう遅かった。

 立ち上る赤い光の中で、まず白い骨が見えた。

 続いて、肉が、血管が、神経が骨へと纏い付き形を成していく。

 瞬く間に失われた頭部を修復させていくゴライアスは、最後に暗い眼窩の奥に赤い光を灯すと、ゆっくりと立ち上がり周囲を見渡した。

 赤い残光を纏い、完全に修復を終えたゴライアスは、誰が見てもわかる程の怒気に染まった目で己を一度殺した相手へとその視線を向けた。

 明確な殺意が込められた強大な怪物を前に、【英雄願望(アルゴノゥト)】と通じなかった事実と反動によるマインドダウン寸前体調から、指一つ動けないまま見上げるしかないベルへと向かい、ゴライアスは大きく口を開いた。

 

「逃げ―――」

 

 遠く、リューがベルへ駆け付けながら叫ぶ声が形になるよりも前に、ゴライアスの『咆哮(ハウル)』が放たれてしまった。

 衝撃波を伴う魔力塊は、ベルが膝を着く地面ごとその身体を吹き飛ばす。

 子供に乱雑に投げ飛ばされた人形のように、軽々と吹き飛ぶベルの身体は、高く宙へと放り飛ばされた後、地面へと叩きつけられた勢いのまま転がっていった。大小の石と土と共に転がるベルの身体からは、一切の力は感じられない。

 意識がないのか、抵抗する力がないのか―――それとも。

 それを目にした者の胸に、最悪の可能性が過る。

 

「クラネルさんッ!!?」

 

 悲鳴のような声は、しかし直後目にした光景に続く言葉を失ってしまう。

 丘のようになった草原の上を下へと転がり落ちたベルへと目掛け、身を乗り出したゴライアスが拳を高く振り上げていたのだ。

 命どころか形すら残さないとばかりの、怨念染みた執念を前に、リューの心胆が大きく震えるが、直ぐに救出のために駆け出した。

 しかし、既にゴライアスの拳は振り上げられており、後は降り下ろすだけ。

 いかなレベル4であり、『疾風』の二つ名を持つリューであっても、間に合うような状況ではなかった。

 だが、それでもただ見ているだけにはいかなかった。

 目に映る。

 しかし届かない光景を前に、リューの口から咄嗟に上がったのは、悲鳴だったのか、それともベルの名だったのか、それと他の何かだったのか。

 それは分からない。

 

『オオオオオオオオオオオオオォォォォォッッ!!!』

 

 降り下ろされたゴライアスの拳が、丘となった草原の一部を砕いた轟音と轟く雄叫びに、リューの言葉は掻き消されてしまったからだ。

 小さくも丘と言える隆起した草原の一部を一撃で砕くゴライアスの拳の直撃を受ければ、いかな相手であっても無事である筈がない。形すら残っていなくともおかしくはないそんな現実を前に、立ち止まってしまったリューが、噴石の如く空へと舞う草原の破片を呆然と見上げる中。

 

「ッ―――クラ、ネルさんッ?!」

 

 宙を舞う土塊に混じって吹き飛びながらも、まだ五体を残すベルの姿を見つけた。

 ゴライアスの拳は間違いなくベルのいた間近に降り下ろされた。例え僅かにそれたとしていても、鉄槌の如く降り下ろされた拳の破壊は容易にベルの身体を砕いていた筈だった。なのに、見える限りのベルの体に、欠けているものはない。

 その理由(答え)は、そのベルの傍にいた。

 ベルの間近。

 吹き飛ばされるベルの近くに、もう一つ人影。

 砕けた盾の破片を振り撒きながら、意識なく力が抜けた姿を見せるそれは、【タケミカヅチ・ファミリア】の桜花であった。

 あの一瞬。

 ゴライアスの拳が降り下ろされる間際、桜花はギリギリの所でベルの下へと辿り着いていた。

 しかし、ゴライアスの拳を盾で防ごうとしても、何の意味がないことは桜花も気付いていた。そのため、桜花は駆けつけた勢いのままベルの身体を捕まえると、そのまま駆け抜けると同時。ゴライアスの拳が丘を破壊した直後に地面を蹴ると共に、ベルの身体を自分の身体を盾として、至近から受ける衝撃と吹き飛んでくる岩石から守り抜いたのだった。

 即死を避けるぎりぎりの咄嗟の判断。

 それは決して間違いではなかったが、代償は大きかった。

 放たれた衝撃と吹き飛んでくる石や岩は、桜花の身体を容赦なく撃ち抜き砕いた。

 一瞬にして桜花の意識は失われ、固く掴んでいた筈のベルの体さえ何時の間にか手放してしまっていた。

 吹き飛ばされる二人の姿に、それを目にしたベルと桜花の仲間達の口から悲嘆の声が上がる中、ゴライアスの雄叫びが轟いた。

 

『オオオオオオオオオオオオオォォォォォ――――――ッッ!!!!!』

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 黒い泥濘の中に沈んでいるかのような、自分の身体さえ見えない闇の中に、僕はいた。

 目を開けているのか、閉じているのかさえわからない。

 指先一つどころか、瞼さえ動かす事が出来ずいる。

 いや、感覚でさえ最早感じられない。

 そんな中――――――声が、聞こえた。

 

 誰の、声なのか―――男のものなのか、女のものなのかさえわからない……。

 

 それが現実のものなのか、夢のものなのか、意識はあるのかないのか―――それさえもわからない暗闇の中に一人浮かんでいるような、沈んでいくような中……。

 

 誰かの、声が、聞こえる。

 

『―――何故、貴様は此処にいる』

 

 闇の中に、白いナニかが浮かび上がってきた。

 白い影に見える二つの黒い穴―――浮かび上がった白い髑髏は、僕を見つめて囁くように告げてくる。

 

『資質も資格も持ち得ぬ貴様が―――』

 

 出来るかも、と思っていた。

 僕なら、倒せるかもしれないと、そう、思っていた。

 だけど、それは結局僕の思い上がりでしかなかった。

 確かに倒せたかもしれない。

 それだけの力があったのかもしれない。

 でも、現実は理想(夢想)とは違う。

 崩れた不安定な足場、聞こえてくるモンスターの咆哮と、誰かが上げる悲鳴と怒声。

 たった一人で立ち向かう時の怪物の恐ろしさと心細さ。

 全力の一撃を撃つ際にかかる負担という、自分自身の力でさえ全くわかっていなかった。

 些細な、一つ一つならば問題にもならないそれが、幾つも重なることで大きく歪み、自分が望んだ結果に手が届かなくなってしまう。

 

『―――貴様は、英雄には成れん』

 

 白い骸骨は、溶けるように闇の中に沈んでいく。

 

 僕もまた、意識がどんどんと落ちていく。

 

 思考が鈍く、意識が薄れて……。

 

 もう、ナニモカンガエラエナ―――――― 

 

『『諦めない者』でしょうか―――』

 

 ふわり、と背中に暖かな風が抜けた気がした。

 

『―――自信を、持ってください』

 

 落ちていく背中を、そっと押してくれるように、言葉が、僕の身体を包み込んでくる。

 

『あなたの力が必要な時はきっとあります―――』

 

 指先一つ動かせず、凍りついたように冷えきった身体の中に、確かに今、何かが灯った。

 風もないのにゆらゆらと不安げに揺れるそれは、あまりにも儚く弱々しい。

 だけど、確かな暖かさがそこにはあった。

 

『―――ですが、全て一人でやる必要なんて、ないんですよ』

 

 声は、僕を抱き締めるように包み込み、言葉の一つ一つが胸に宿ったものへと薪をくべていく。

 少しずつ大きく強くなるそれは、血管を通る血のように、ゆっくりと僕の全身へと巡り始める。

 

『―――あなたの思いはどうなんですか』

 

 責めるような、逃げる事は許さないとばかりに、強い意思が籠った言葉が胸を打つ。

 真っ直ぐな、瞳と言葉が、僕を掴んで放さない。

 凍りついた身体を、叩き起こさんと打ち付ける言葉が、固まった泥濘(諦め)を打ち砕く。

 

 拳を―――握る。

 

 強く、強く。

 灯った火が消えないように、取りこぼさないように―――強く。

 

『―――語られぬ英雄になる覚悟はあるか』

 

 未だ燃え上がることが出来ないでいる火へ、吹き寄せる風のように。

 また、あの人の声が聞こえた。

 

『―――星の数ほど英雄はいる』

 

 ―――やっと、少しだけあの人の言葉が分かったかもしれない。

 ―――何人も、幾つもの命と物語が、あの時消えてしまったのを、僕は感じた。

 僕の知らない【英雄(冒険者)】。

 だけど、その人達の事を【英雄】として誰よりも知る人もきっといた筈だ。

 『私にとって、彼女達は皆【英雄】です』と言ったリューさんの【ファミリア】の人達のような、そんな僕の知らない【英雄】は、それこそ星の数ほどいるのだろう。

 その人達は、自分の友人に、仲間に、家族に、子供達にその【英雄】の事を語るのかもしれない。

 でも、それはやがて何時かは語られず、忘れ去られ、消えていくのだろう。

 どれだけ自分を賭したとしても、命を捨てて何かを成し遂げたとしても―――何もかもが忘れ去られてしまうかもしれない。

 自分という足跡を、遂には何も残せずに、消えていく―――それは、確かにとても……。

 

 じわじわと、指先からまた、冷たい氷のような(諦め)が忍び込んでくる。

 手足を掴み、底へと引きずり込もうと押し寄せてくる。

 胸に灯った熱に、翳りが―――――― 

 

 

 

 

 

 声が、聞こえる。

 

『―――ベル君』

 

 神様の、声が―――。

 

『―――ベル様』

 

 リリの、声が―――。

 

『―――ベル』

 

 ヴェルフの、声が―――。

 

『―――ベル君』 

 

 エイナさんの、声が―――。

 

『―――クラネルさん』

 

 リューさんの、声が―――。

 

 皆の声が、聞こえて。

 誘われるように、引き上げられるように僕は自然と目蓋を開いていた。

 深く重たく、冷たい泥濘のような闇が広がる向こう。

 星のように、輝く光が、二つ。

 

 月のように、黄金に輝く光と―――。

 

 太陽のように、紅く輝く光が―――。

 

 そこにはあって。

 凍りついた身体と意志を、その熱で溶かし。

 その光で、闇に道を示す。

 遠い。

 手を伸ばしても、決して届かないのはわかりきっている。

 どれだけ遠いのか、それすらも分からない。

 目指すべきではない。

 決して届かないのだから。

 嘲笑する声が、肌に張り付く泥濘から囁かれる。

 

 否定はしない。

 

 そんなこと、わかっている。

 

 そう、わかっている―――のに。

 

 僕の手は―――足は、前へと―――。

 

 二つ(二人)(英雄)へと向かって伸ばされていた。

 

 遥か遠い、果てで更に前へと進むあの人達の、背中へと向かって、僕は―――――――――

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「―――ベル君っ!? やった! 目を開けてくれたっ!?」

「ベル様ぁあ!!?」

「かみ、さ―――ま? り、り……?」

 

 仰向けに寝ていると分かったのは、二人分の人影の向こうに、蒼い光を降り注がせる蒼い水晶の姿を目にしたからであった。

 僅かに開いた瞼の向こうに見える視界の中、霞んでいてもベルには自分の名を呼ぶ者が誰であるかは未だ定まらない思考の中でも理解できた。

 かさつきひび割れた唇を震わせながらその名を口にするベルに、ヘスティアは涙に濡れる瞳を苦しげに歪めながら顔を左右に振る。

 

「っ、喋らないでいい! 傷は何とか塞いだけど、まだ体力も精神力も何もかも回復していないんだ」

「どう、なって―――」

 

 起き上がろうとするが、微かに体が震えるだけで終わったベルの姿に、痛みを堪えるように歯を噛み締めながらも、ヘスティアはそっとその身体に手を添えると、激闘を続ける方向へと視線を向けた。

 

「―――っ、今は、彼女達が時間稼ぎしてくれている。けど……あいつを倒す算段がまだつかないんだ―――っ」

「な、ら―――」

 

 自分の身体の上に置かれたヘスティアの手が、自らのものが要因ではない震えである事に、気付いたベルが、何かの予感を感じ無意識のまま動かない筈の身体に力を込めた。

 その様子に気付いているのか、それとも気付いてはいないのかは分からないが、ヘスティアは改めてベルの顔を見下ろすと、身を引き裂くような思いが籠った声を落とした。

 

「……ベル君。今から僕は酷いことを言うよ」

「ヘスティア様っ!」

 

 ヘスティアが何を言おうとしているのか察したのだろう。

 リリがベルから視線を外すと、ヘスティアへと噛みつくような勢いで怒りと焦りに満ちた視線と声を向けた。

 

「ぇ?」

「こんな状態の君に言うことじゃない。それはわかっている。だけどもう、君にしか頼めないんだ。君にしか、出来ないん―――」

「―――、ぁ」

「―――だ、っ……」

 

 普段見ないリリのヘスティアへと向ける視線と声音に、ベルは思わず呆けた声を漏らしてしまう。ヘスティアは、しかしそんなリリに視線も意識も向けることなく、ただじっとベルを見下ろしながら祈るように言葉を向けた。

 力なく垂れ下がったベルの手を握るヘスティアの両手は、熱く―――しかしはっきりと震えているのがわかった。

 それが何を元にした震えなのかは分からないが、ベルは話を聞こうと返事をするが、未だ回復薬(ポーション)で傷は塞ぐも、未だ回復しきれない身体では言葉さえ紡ぐのは難しかった。

 その姿に、続ける言葉を思わず飲み込んでしまい、そのまま逃げるようにその視線はベルから外れてしまう。

 しかし、その続きを口にする()が現れた。

 

「―――そう、君にしか出来ない事があるんだよ」

 

 ベルの天井を見上げる視界の中に、もう一つの人影が加わった。

 膝を着いて、ベルに寄り添うような格好のリリとヘスティアの後ろに立ち、覗き込むように身体を伸ばして見下ろしてくるのは、アスフィの主神であるヘルメスであった。

 

「っ、ヘルメス!?」

「ヘスティア。もう、迷うような時間すらない。君は、どうするベル君?」

 

 非難と怒り、そして若干の後ろめたさが含まれたヘスティアの声を、切り払ったヘルメスは、無知な者を唆す蛇のように、暗い道の上を導くかのように、ベルへと囁く。

 

 君は、どうする? と。

 

 戦わないのか? と。

 

「ぼ、くは―――」

 

 地に伏し、空を仰ぐ敗北した己の姿を恥じるように、悔やむように身体を震わせるベルは、そのヘルメスの言葉に応えるよう、その傷ついた身体に力を込めようとする。

 しかし、力を入れる端から、流れ落ちるように抜けていく活力。

 どれだけ立ち上がろうと猛ろうとも、尽きた身体は一切の反応を見せてはくれない。

 それでも、なおも立ち上がろうとするベルの姿に、リリも、ヘスティアも何も言えず。

 期待に口元を緩めるヘルメスが見下ろす中。

 

 ―――声が、響いた。

 

「―――惑わすな、落ちた神如きが」

「「「―――ッ!!!???」」」

 

 悲鳴が、怒声が、モンスターの雄叫びが響く戦場の中。

 その声はまるで抜けるようにヘスティア達の耳へと届いた。

 だが、突然の声よりも、その声が聞こえた瞬間に生じた気配にこそ、ヘスティア達は驚愕した。

 

「なっ、んだい君は……」

「モンスター、いえ、しゃべった、から―――人? でも、これは―――」

「―――はっ……っ―――誰だい君は」

 

 咄嗟に上げた顔の先に、それはいた。

 間近にいる、ベルの足元に立つ黒い影。

 手を伸ばせば届きかねないその位置に、いつの間にかそれは立っていた。

 大きい。

 身長は2Mはあるだろうか。 

 その身体の大半を黒いローブで隠す中、唯一露になっている顔は、髑髏を模した白い仮面を被っていた。

 死が満ちるモンスターと冒険者が争う地獄絵図染みた草原の中、蒼い闇に佇むその姿は、神の目であっても、まるで死神のように感じられた。

 だがそれは、その姿故にではなく。

 身に纏う不吉さと、それ以上に濃密過ぎる【死】の気配故に。

 しかし、何よりもヘスティアとヘルメスを困惑させたのは、その姿形や、全く気配を感じさせないその様子ではなく。

 ()()()()()()()()()()()()()()()()()()()事であった。

 【人】と【神】は違う。

 【人】は【神】を。

 【神】は【人】を見間違える事はない。

 例外は確かにあるが、【神】が目の前の者を【人】かどうか分からない事などない―――筈なのに。

 今、ヘスティアとヘルメスは、眼前に立つそれが、【人】なのか【神】なのかすら分からないでいた。

 混乱するリリや、初めて見る未知に対し、無意識に問いかけるヘスティアやヘルメスを無視し、その死神のような存在は、ただベルへと選択を持ちかける。

 

「―――選べ」

「ぇ?」

 

 混乱しているのはベルも同じであったが、しかし、消耗した肉体と精神が、深く考える力さえ奪っていたことから、幸か不幸か混乱することはなかった。 

 そんなベルに向かって、黒い影は、取引を持ちかける。

 

「貴様が、今、ここで助けを求めるのならば、私がアレを殺そう」

「!?」

 

 18階層に満ちる地獄の元凶を打ち倒そうと。

 何でもないことのないように、確かな確信を持った声で告げてくる。 

 

「なっ!?」

「何をっ!?」

「私の全てを賭け、あの巨人を殺すのを約束しよう」

 

 否定と疑問が含まれた声が上がる中、黒い影は周囲から上がる声を無視し更に言葉を紡ぐ。

 

「貴様がただ一言『助けてくれ』と言うだけで良い」

 

 腰を曲げ、その白い髑髏の面をベルへと近付かせながら、囁くように告げてくる。

 

「それだけで、私が貴様を救ってやろう」

 

 悪魔のように、悪辣な商人のように―――されど何ら感情を感じさせない声音で告げるその声は、しかし続けてその代償についても語った。

 

「だが、その場合、今後貴様は冒険者から身を引け」

「なっ―――お前は何を―――っ、ぁ」

 

 告げられた代償に、ヘルメスの目が据わり黒い影へと声を上げようとしたが、視線も向けることなく。ただ、殺意の念を首に突き立てられたヘルメスは、首を絞められたかのように喉を押さえながらその場に蹲る。

 まるで神の怒りに触れた人のように、意思だけでヘルメスの言葉を封じた黒い影の姿に、警告するように首元に触れた冷たい殺意に、リリもヘスティアもただ固まるしかなかった。

 

「一切冒険者に関わらず、【英雄】を夢見ることなく一生を過ごすと誓えるのならば、助けを求めろ」

「っ―――ぅ」

「さあ、どうする」

 

 余分な者を黙らせた黒い影は、見下ろすベルから視線を動かさずにただ求める。

 ベルの答えを。

 何を選ぶのか、を。

 平坦な声からは、何の感情さえ感じられない。

 では、何故、この男はこんな事をしているのか。

 

「早く選ばなければ、それだけ多くの命が潰えるぞ」

 

 ただ呻き声のような声しか漏らさないベルを急かすかのように、男は答えを求める。

 その姿に、口を挟むことが出来ないでいるヘスティア達の口から、それぞれの思いを胸にベルの名を呼ぶ。

 

「……ベル君」

「ベル様……」

 

 ヘスティアも、リリも一番大事なのは何よりもベルの命であるのは間違いなかった。

 ベルの夢を知る二人ではあるが、それで命を落とす事は良しとは決して思ってはいない。

 だからこそ、もし、この男の言う言葉が本当ならば、という思いがあった。

 だが、ヘルメスは違った。

 ある思いを胸にこの場にる彼には、ここでベルに折られては納得出来ないでいた。

 

「ぼ、くは―――」

 

 だからこそ、迷うように震えるベルの瞳を見た彼は、我を忘れつい叫んでしまった。

 

「やめろベル君っ!? 君は―――」

「―――黙れ」

 

 だがそれは、先程とは比べ物にならない殺意により強制的に閉じられる事となった。

 

「「「―――ッッ!!??」」」

 

 決して大声でも荒げた声でないにも関わらず、男から発せられた言葉は氷の刃となってヘルメスの言葉を封じ、その波紋だけでヘスティアとリリの心胆を震わせた。 

 再度の警告を無視したヘルメスに、初めて男の白い骸骨の面が向けられる。

 

「私は、この小僧と話をしている。貴様は口を挟むな」

 

 底無しの穴のような眼窩の向こうに感じる視線に、ヘルメスが『死』を感じた時であった。

 

「―――て―――さい」

 

 声が、聞こえたのは。

 

「何だと?」

 

 その声に、男はゆっくりと視線を下へと、ベルへと向けた。

 

「―――て、ください」

 

 今にも意識を失いかけているのだろうか、ぼんやりと揺れるベルの視線は、自分を見下ろす男の姿を捉えてはいないのかもしれない。

 擦りきれた声は、その身体と同じくぼろぼろで、間近にいても途切れ途切れにしか聞こえなかった。

 

「……はっきりと口にしろ。貴様は―――」

 

 だから、男が改めて答えを求めるため、ベルに言葉を向けたのだが、それは先程までの感情を感じさせない平坦なものではあったが、微かにだが、確かに苛立ちのようなものが混じっていた。

 それが何が理由としたものかは分からないが、落胆めいた雰囲気を微かに感じさせる男の声に、しかし返ってきた声は―――

 

「っ―――手を、貸してくださいッ!!」

「―――っベル君!」

「ベル、様ぁ!」

「―――はは」

 

 『助けてください』というすがるための言葉ではなかった。

 ヘスティアの、リリの、そしてヘルメスの安堵や歓喜、苦笑や若干の悲しみが混じった声が上がる中、初めてはっきりとわかる、戸惑いが含まれた声が聞こえた。

 

「貴様、何を―――」

「手を、貸してください」

 

 疑問の声に応えるように、ゆっくりとベルは身体を起こしていく。

 自分を見下ろす白い髑髏を見つめる瞳に、震えはない。

 

「たし、かに―――僕は、あなたが言ったように、英雄になるための『資質』も、『資格』も何もないのかもしれない」 

 

 力およばず敗北した。

 振り上げた拳は届かず、身体は地へと叩きつけられた。

 

だけど(・・・)っ!! ()()()()ッ!!」

 

 おじいちゃんの声が、言葉が聞こえる《甦る》。

 豪快な笑みを浮かべ、自慢気に笑い語るのは、数多の【英雄】の背中《物語》。

 その中には、僕が後を追う二人の背中もあって。

 気付けば、僕はその背中を追うように駆けていた《立ち上がっていた》。

 眼の前には、立ち塞がるようにあの男の人がいて。その背中の向こうでは、今もリューさんや他の冒険者達が戦っているのが見える。

 それを目にした僕の口から、気付けばその言葉が放たれていた。

 

「僕はッ!! 英雄になりたいッ!!」

 

 誰かの息を飲む音が聞こえた。

 だけど、そんな事に気にしているようなそんな心地はない。

 その言葉を口にして、僕は気付いてしまったから。

 違う、と。

 ()()()()()()()じゃない―――

 

「っ、違う―――そうじゃないっ」

 

 僕は、もうとっくの昔に選んでいたんだ。

 あの日。

 あの時。

 伸ばされた2つの手に。

 その背中に憧れて―――僕はとっくの昔に走り出していたんだ。

 

「僕は―――僕はっ!」

 

 だから、違う。

 英雄になりたい―――じゃ、ない!!

 僕は―――

 

「英雄に成るッッ!!!」

 

 冷え切っていた身体が、今はもう、燃えるように熱い。

 いけっ! いけっ! と張り上げる内から上がる声が、僕の背を押し足を前へと進ませる。

 

「今、ここでっ!! 僕は英雄になるっ!!」

「貴様……」

 

 眼前のあの人が、何処か悔しそうな、だけど微かに弾んだ声を上げる。それが何を意味しているか分からないまま、僕はそのまま勢いに任せて声を上げる。

 

「だけど、今の僕じゃ、何もかも足りないのもわかっているんです」

 

 手を、伸ばす。

 

「だから、時間を、僕にください」

 

 それは、縋るためのものではなくて。

 

「手を、貸してください」

 

 自分の足りないものを知りながら、それでもと立ち上がる意志と共に伸ばされた決意の証。

 頭を深々と下げ、手を伸ばす。

 

「―――何を言っているのかわかっているのか」

「都合の良いことを言っているのはわかっています。だけど―――」

 

 永遠にも感じた無言の時が過ぎ、返ってきたのはあの感情が感じられない平坦な声で。

 振り払われないよう、咄嗟に上げた声と顔の前で、変わらずあの人は僕を見下ろしていて。

 だけど、感じるその視線には―――

 

「やれると言うのか、貴様が。あれ(巨人)を倒せると」

「はいっ!!」

 

 視線に込められたものが何なのか分かる前に、あの人から向けられた言葉にとっさに頷く。

 

「あれほどやられたにも関わらず、よくも吠えられるものだ」

「はいっ―――だけど僕は―――っ!!」

 

 呆れたような声に、反射的に声を上げた僕は、

 

「…………そう、か」

「え?」

 

 そこで、返ってきた声に感じたそれに、先程の視線に込められた感情を理解した。

 

「どれだけだ」

「は―――え?」

 

 その、思ってもみない答えを唐突に知った僕が、思わず惚けていたため、その問いかけに咄嗟に答えられなかった。

 

「どれだけ時間がほしい?」

「っっ!!? 少なくても三分以上はっ!!」

 

 その問が意味することを理解し、反射的に上がりかけた声を何とか押し込める事に成功した僕は、慌てて必要な時間を伝えた。

 

「ふんっ。早く終わらせることだな。でなければ、私が終わらせてしまうぞ」

「―――待ってくださいっ!」

 

 必要な時間を知り、暴れるゴライアスへと向かわんと身体を向けようとしたあの人の姿を目にした時、知らず僕の口からは制しの言葉が出ていた。

 

「なんだ?」

「どうし―――っ、あなたは―――あなたは一体誰なんですかっ!?」

 

 訝しげに傾けられた白い髑髏の面を前に、思わず口を噤み掛けたけれど、必死に開いた口から出たのは、ずっと―――この人に助けられてからずっと知りたかった事で―――。

 

「―――っ、名前を、あなたの名前を教えてくださいっ!!?」

 

 僕の声に、言葉に、その人は何か驚いたように身体の動きを止めると、ゆっくりと、何かを確かめるかのように自分自身の身体へと目を落とした。

 

「私の、名前―――」

 

 そして、噛み締めるように、震える声で何かを呟くと、空へと、蒼い光を降り注がせる水晶を見上げた。

 

「っ、ぁあ―――私の名、か」

「あ、あの―――」

 

 僕の言葉の何が、この人をここまで反応させたのかはわからなかったが、明らかに普通じゃない雰囲気に、思わず声を挟もうとした時だった。 

 この人が、自らの姿を隠していた黒いローブに手をやったのは。

 そして、首の辺りで掴んだローブを、戸惑う僕たちの前で一気に脱ぎ去った。

 

「「「―――ッ!?」」」

「いいだろう。ならばその目で、耳で、我を知り、そして刻め―――」

 

 彼の声が響く中、僕達の口から言葉もなく上がったのは、恐れの悲鳴だったのか、それとも驚嘆の声だったのか。

 露になった黒いローブに隠されていた身体は、僕の―――僕達の想像を遥かに越えた光景だった。

 一見すれば、痩身のように見える身体は、その線がハッキリとわかる、肌に張り付いたような不思議な黒い服で隙間なく隠されていた。痩身―――なのだろうか、骨の浮き上がり、筋の形すらはっきりと見えるその姿からは、力強さは感じられない。

 だけど、だからといって弱々しいという印象は全くなかった。

 むしろその逆。

 近寄りがたい恐ろしさ、怖さがあった。

 細身の身体から伸びる手足もまた、長く細く。

 特に両の手は、普通の人よりも確かに長く。

 目を引くのは右手。

 左手よりも一回り―――いや、二回り、三回りは太く見えるのは、ぐるぐると黒い布で何十にも巻き付けているからだろう。

 近付く処か、目を向けることさえ不吉を感じ、忌避を抱かせるこの感覚に、僕は何処か覚えがあった。

 ああ、これは蟲だ。

 それも危険な、一刺しで人を簡単に殺す蟲を目にした時に感じたそれに近い。

 何も知らずとも、見ただけで危険だと感じるその不気味さは、致死の毒を抱く蟲に感じるそれが近かった。

 特に、あの布で何十にも巻かれた右腕が、恐ろしい。

 僕が―――僕達が声もなく見入る中、彼は朗々と声を上げていた。

 宣言するように。

 訴えるように。

 誇るように。

 己という存在を、僕に、神様達に―――世界に刻み込ませるように。

 

 高らかに―――吠えた。

 

 

 

 

 

『―――あなたは一体誰なんですか』

 

 この少年が―――ベル・クラネルが私に向かってそう口にした時、私は一瞬その答えが浮かばなかった。

 

『あなたの名前を教えてください―――』

 

 名を聞かれた時に、浮かんだものは、一体()()()()()()()()……。

 己の事でありながら、わからなかった。

 私は一体何者で、誰なのか―――その答えが、わからなかったのだ。

 足元が揺れ、己の存在が揺らいだ一瞬―――救いを求めるように仰ぎ見た(天井)から降り注ぐ蒼い光を目にした時、私は、確かに何かを見た。

 遠く、揺らぐ幻影のような影。

 朧なその向こうに見えたのは、幾人もの白い髑髏の面。

 『山の翁』であることを証明するその面を被った、幾人ものその影の向こう。

 一番奥に見えたその影と―――彼らの中に立つ己を見つけた時、私の口は自然と開いていた。

 

 そうだ。

 

 私は―――っ

 

 私こそは―――ッッ

 

「我こそは【暗殺者】の祖に連なりし一人にして、暗殺教団教主たる『山の翁』―――っ!!」

 

 曲げていた背を大きく反らし、長い両腕を一杯に広げて私は叫ぶ。

 不吉を纏い。

 死を押し込めて型どったこの身を誇るように。

 

「魔神の腕を奪い、数多の英雄の心臓を抉り、魔物を屠ふりし我こそは―――」

 

 全てを捨て、賭けて。

 

 足りぬ己が才と力に絶望しながらも諦めず、ただ我武者羅に求め、血肉を削り辿り着いた頂き。

 

 望んだ、願ったそれとは違うと知り、絶望に落ちたが―――それでも、私は―――。

 

 私こそが――――――っッ!!

 

 

 

「【ハサン・サッバーハ】」

 

 

 

 この世界に。

 

 我ら(ハサン)を知らぬ世界に―――。

 

 (ハサン)を知らしめる―――っ!!

 

 

 

「―――【呪腕のハサン】であるッ!!!」

 

 

 

 

 

 

 

 

 




 感想ご指摘お待ちしています。
 
 気づけば3万文字。
 一話でこれは初めてかも……。
 次話ですが、もしかしたら来週の投稿は難しいかもしれません。
 なので、もしかしたら更新は一日ずれるか、最悪一週間ずれるかもしれません。 
 もしそうなった場合はすみません。
 一応次で決着、その次がエピローグの予定です。
 次話の題名はもう決めています。
 「暁鐘は英雄に、晩鐘は怪物に響く」です。

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