たとえ全てを忘れても 作:五朗
――――――――――――っ……
水面に浮かび上がるように、不意に取り戻した意識が最初に感じたのは、圧迫感を感じる薄暗い闇であった。
と、同時に全身に感じる、首元まで泥濘にはまったかのような包み込み締め付けるかのような痛みにも似た疲労。
腕一本、指先一つすら動かす事を億劫に感じる程の、煮詰めたような疲労が全身を侵しているのを、熱がこもった意識の中感じていた。
疲労の極致故に、感じるだるさと眠気はしかし、それこそが邪魔をして再び意識を失うという逃避を許してはくれなかった。
纏まりのつかない、はっきりとした形を意識がとれないまま時ばかりが過ぎ、やがて境界に立つ意識が片方へと傾きかけた時であった。
「―――起きたか」
傾きかけた机の上に置かれた、魔導灯ではない、蝋燭に点されたか細い炎の灯りの傍で、椅子に座った男が声を発したのは。
「お、れ―――は……」
落ちかけていた意識は、男の声に呼び戻され、そして反射的に上がった自身の声により明確な輪郭を持ち始めた。
「生きて―――いる、のか?」
「……ああ、かなり危なかったが。シロ―――君は生きているよ」
ぎしり、と軋む音を立てながら、椅子から立ち上がった男は、机の上から蝋燭を持ち上げると、ゆっくりと寝台へと向かって歩き始めた。
椅子と寝台は数Mほどしか離れていない。
普段の男ならば、例え寝ていたとしても、それが10倍以上に離れていた距離でも気付いてた筈であったが、まるで命尽きる間際の老人の如き今の有り様であっては、気付くことは出来ないでいた。
多大な労力と気力を使用し、微かに首と視線を動かし、寝台の横に立つ男を見上げる。
揺れる小さな火に浮かび上がったのは、男の―――否、一柱の男神の姿。
ミアハと呼ばれる神の姿が、そこにはあった。
「み、あは……か?」
「そうだ。体の方はどうだ? 色々と使ったけれど、残念ながら手持ちにはそれほど良いものがなくてな。とはいえ、自慢の団員が作った特製のポーションだ。万全とは言えずとも、かなり回復はしていると思うが?」
「そう、だな―――ああ、傷は塞がっているようだ」
「その様子では、それ以外はまだまだと言ったところか」
視線だけを動かし、寝台の上に転がる自身の身体を見たシロが、頷くようにそう口にすると、口許にミアハは苦笑を浮かべた。
「ここは?」
話している内に、僅かではあるが身体に力が込められるようになったシロが、這いずるように首を動かし周囲を見渡す。シロがヘスティアの前から離れるまでは、ミアハとはそれなりの交流があった。【ミアハ・ファミリア】の拠点等にも直接赴いた事も幾度もある。
しかし、少なくともシロの記憶の中に、今いるこのような場所を見た覚えはなかった。
広さは大体安宿の一室程度の大きさだろうか。家具のような物は殆どなく、今シロが眠る寝台と、先ほどまでミアハが座っていた椅子と、その隣にあった崩れかけの机、そして机を挟んだ対面にある椅子。その4点以外に見えるものはなく。逆に言えば、それ以外は綺麗に片付けられていた。微かに感じる気配のようなモノが、廃墟のように感じるここが、人の手が少しは入った場所であることを告げていた。
とは言え、多少なりとも人の手が入っているとは言え、か細い灯りの中でも分かる程の壁や天井の損傷具合からして、廃墟同然のものであることは間違いはない。
廃教会にある【ヘスティア・ファミリア】の拠点に、シロの手が入る前のような状態であった。
微かな懐かしさに似た感覚を胸に感じていたシロだったが、【ヘスティア・ファミリア】が【アポロン・ファミリア】に襲撃をされた事を思いだし、今その拠点がどうなっているかを思い少し落ち込みかけた思考を、ミアハの声が引き戻した。
「まあ、私の秘密基地のようなものだ。ここを知る者は、ふむ……片手で数える程だな」
寝台の横に立つミアハが、軽く部屋の中を見渡し、指折り何かを数えながら再びシロを見下ろした。
「傷は塞がってはいるが、まだ動かない方がいい。体力も血もぎりぎりの所だろう。身体を動かすどころか、意識があるだけでも驚異的だ」
「―――……あれから、どれだけ経った?」
喉奥がへばりつくような感覚を払いながら、喘ぐような声でシロが身体に残る僅かな体力を燃やし声を上げた。
「……三日だ」
「―――っ、く!?」
咄嗟に起き上がろうとするシロを、片手で寝台に押さえつけたミアハは、ため息をつきながら口を開いた。
「幸い、と言っていいのかは分からないが、まだ何も始まってはいない」
「―――」
寝台に押さえつけられたシロが、視線だけでミアハに続きを促す。
「……ヘスティアもベルも無事だ。しかし、ヘスティアは
「っ、まさ、か」
「した、と言うよりも、そうさせられた、と言う方が正確だな。君がどれだけ把握しているのかは知らないから、最初から教えよう……」
そして、ミアハは寝台の傍に椅子を持ってくると、そこに腰掛けてこれまでの事を。【ヘスティア・ファミリア】が【アポロン・ファミリア】に襲撃されてから、シロが目覚めるまでの間に起きた出来事を語り始めた。
4日前に、ヘスティア達と『神の宴』に参加したこと。
そこでアポロンから言いがかりをつけられ、反論すると『
翌日、【アポロン・ファミリア】に【ヘスティア・ファミリア】の拠点が襲撃され、【ミアハ・ファミリア】の唯一の団員や、【タケミカヅチ・ファミリア】、それに個人的に数人の冒険者等が応援に駆けつけたが、力及ばず撃退することは出来なかったが、ベルとヘスティアは何とか無事であること。
今回は凌げたが、今後も襲撃は続くだろうことからも、苦渋の選択の結果、ヘスティアはアポロンへ『
そして、つい先日その『
「―――『
「一対一の決闘形式なら、何とか可能性はあったんだが」
寝台の上で横になったまま、その心様を示すかのように、シロが天井を見上げる視線を歪める隣で、ミアハのため息混じりの呟きを漏らす。
『
「決闘内容は……」
「『籠城戦』」
「っ」
その心情を表すかのようなシロの重い問いに対する、ミアハの短い返答に鋭い舌打ちが返る。
苛立ちが多分に含まれた舌打ちが、狭い小屋の中の空気を叩いた。
「……ルールはどうなっている?」
「それもあまり良くはない」
ざわつく心情を落ち着かせるように、何度か深く呼吸をしたシロが、最後に大きく息を吐くとともにミアハに詳細を問いかける。
それを受け、仕切り直すように座り直したミアハが、軋みを上げる椅子の悲鳴が途切れる前に、一つ一つ先日決まったルールの内容をシロに伝え始めた。
○ 【アポロン・ファミリア】が籠城―――守る側であり、【ヘスティア・ファミリア】が攻める側であること。
○ 試合期間は一週間であること。
○ 【アポロン・ファミリア】は城主を決め、その者が倒されれば敗けとなること。また、城主となった者は、事前にそれを審判役であるウラノスに届け出た後、それを示す『指輪』を目につく位置に付けること。
○ 【ヘスティア・ファミリア】の勝利条件は、試合期間の間に城主を倒すか、【アポロン・ファミリア】を全滅させること。
○ 【アポロン・ファミリア】の勝利条件は、試合期間の間に城主を倒されず、全滅しないこと、または【ヘスティア・ファミリア】側を全滅させること。
○ 両【ファミリア】は、それぞれ一名だけ助っ人を呼ぶことが出来るが、【アポロン・ファミリア】側はレベル2以下であること。
「助っ人、だと?」
「……その点は良いのか悪いのか。ヘスティアの所の団員の数の少なさが議題に上がってね。アポロンは渋っていたが、ヘスティア側の助っ人に条件を付けない代わりに、自分も条件ありで助っ人を付けると言ってきた。しかし……」
顎に手を当て、考え込むミアハ。
端から聞いても、奇妙に感じる事だ。
【アポロン・ファミリア】と【ヘスティア・ファミリア】は、その団員の数と質の差は比べるまでもない。絶望的と言っても良いほどだ。しかし、その差を覆せられる者は、探せばそれなりにいるのが、ここオラリオでもある。
だから、もしアポロンがヘスティアの助っ人に許可するとならば、その助っ人こそへの条件を付ける筈である。
なのに、ヘスティアが呼ぶ助っ人へは条件はつけず、代わりに自分が選ぶ助っ人には条件を付けると言う。
それもその条件と言うのがレベルが2以下だ。
【アポロン・ファミリア】にはそれぐらいの冒険者等何人もいる。
今さら一人ぐらい増えたとしてもそう代わりはない。
嫌がらせにしても、ヘスティアが選ぶ助っ人に条件を付けない事も変であった。
少なくとも都市外の冒険者といった条件をつけなけば、他のファミリアから万が一とはいえ数の差をひっくり返す事が出来る冒険者が出てくる可能性もある。
そんな事はあり得ないと高を括っているのか、それとも
何も知らなければ、前者であると思うだろうが、シロは知っている。
【アポロン・ファミリア】にいる者を。
「その条件を聞いた時、アポロンはヘスティアでは高レベルの冒険者を引き込む事ができないと高を括っているのだろうと思っていたのだが」
ミアハの視線が、寝台の上のシロへと向けられる。
その目が見ているのは、今は塞がったシロに刻まれていた見惚れるほどに鮮やかな傷跡だったのか。
「……その様子では、別の理由があるようだ」
ミアハの言葉に、シロはただ無言のまま反応はしなかったが、ただ、その閉じられた口許から微かに歯軋りの音が響いた。
「……『
「3日後。既に場所は選定されて、【アポロン・ファミリア】は準備を始めている。場所は―――」
試合場所となるのは、山賊がアジトとしていた砦跡であるが、それなりに大きく、手を入れれば使用には問題はない状態であるそうだ。実際、山賊がアジトとしていただけであって、倒壊寸前と言うことはなく。噂によれば、今の時点で殆ど砦としての機能は回復しているそうだ。
だが、『
元々シロを含め2名しか団員がいない上に、パーティーを組んでいたという他の【ファミリア】の団員達にはトラブルが発生しており。少しでも戦力が必要な現状の中、この苦境を抜け出す切っ掛けを掴むため、ヘスティアは色々と奔走しているという。
「それで、どうする」
必要な情報を一通り伝え終えたミアハが、小さくそうシロに問いかけた。
「決まっている」
短くそう口にしたシロは、別人ものように動かない身体に無理矢理力を込める。全身に広がる鋭い針で刺されたかのような痛みを歯を食いしばりながら耐え、上半身をゆっくりと持ち上げる。
シロの悲鳴を代弁するかのように、寝台が甲高い軋みを上げた。
「っ待て!」
「くっ」
起き上がろうとする身体を押さえようとミアハが手を伸ばすが、それを緩慢な動きで逆に押さえると、脂汗を流しながらもシロは上半身を起き上がらせた。
「すまないが、寝ている暇はない」
「……その有り様で、どうするつもりだ」
自身の手を掴むシロの震える手を見つめながら、ミアハが静かに問いかける。
レベル0の一般人並みの力しかない筈のミアハの手を押さえることすら満足にできない己の現状に、苦笑いを浮かべながら、シロは鉛のように重い身体に更に力を込めた。
「何とか、するさ」
「何を、するつもりだ」
寝台から下りようとするシロの動きを、ミアハは捕まれた腕を使い、逆にその動きを止める。
「何とか、さ」
「……馬鹿な事は考えてはいないか?」
鋭く細められたミアハの目が、シロの疲労と痛みで濁った目を貫く。
揺らめくか細い蝋燭の火に浮かび上がるミアハの瞳は、何時もの如く落ち着いた光を灯しながら、何処までも深く底しれなさを感じさせた。
その眼は人のモノではなく。
成る程、これが神としてのミアハの眼か、と思わせるモノであった。
気圧されたように動きを止めるシロに、不可視の威圧を放ちながら告げる。
「―――君は良くも悪くも思いきりが良いと言えばいいのか……君が何を考えているのかはわからない、けど、一応口にしておこう」
訝しげにシロが眉を曲げるのを見ながら、ミアハは口を開く。
もう【
その試合内容も状況も絶望的で、ここから逆転するなどそれこそ神でも不可能だと口にしてしまうほどだ。
しかし、手段を選ばなければ、手が無くはない。
それこそ禁忌と呼ばれる方法に手を伸ばせば。
だが、例えそれでこの場を乗り切れたとしても、それをやってのけた下手人がどうなるか。
そして、それに関係する者がどうなるか―――。
「君が何をどう考えていても―――君は、
「っ!?」
「それを考えて、行動することだね」
「……」
ミアハのその言葉に何を思ったのか、シロは寝台から下りようとした姿勢のまま、暫くの間動かずにいた。
どれだけの時間そうしていたのか、ふと、ミアハは掴んだシロの手が何時しか力が抜けていた事に気付いた。
「……そう、だな」
「シロ?」
震えた、小さな声。
何処か泣いているかのような、そんな細やかな声に、ミアハが蝋燭の明かりの影に隠れたシロの顔に思わず目を向けると。
「そうか……オレは―――まだ、
「君は―――」
知らない間に力が抜けていたのか、それともこの僅かな間に回復したのか、シロはミアハの手を振りほどくと、そのままの勢いで寝台から立ち上がった。
寝台の横に置いた椅子に座ったままのミアハが、立ち上がったシロを見上げる。
立ち上がったシロの体は、死にかけてつい先程まで倒れていたとは思えないほどに、しっかりとした姿勢でそこに立っていた。
身長の高いシロの顔までは、小さな蝋燭の明かりでは照らすことはできず、今どんな顔をしているのかはわからない。
苦痛に歪んだ顔なのか。
それともそれを見せない無表情なのか。
絶望的な状況に不安に揺れる顔なのか。
この薄闇の中では良く見えないでいた。
ただ、それでも―――。
「安心してくれ。馬鹿な真似はしない」
「シロ……君は」
先程まで感じていた追い詰められ狂気に陥りかけたような声音ではなく。
何時か聞いた、ヘスティア達の横で耳にしたシロの声で。
「何せオレは……【ヘスティア・ファミリア】のシロなんだからな」
そう口にしながら歩き始めたシロが、椅子から立ち上がる事も出来ず、また引き留める事も出来ずにいるミアハを背に、小屋の扉へと手を伸ばし、躊躇いもなく開いた。
吹き込む風が、蝋燭の火を大きく揺らす。
冷たい濡れた風が、小屋の中を荒し、咄嗟に目を閉じたミアハが次にその目を向けた時には、既にそこには誰もおらず。
何時の間にか閉じられた扉だけが、目に映っていた。
「―――雨、か……」
小屋を出て、痛みと疲労の悲鳴を上げる身体を意思だけで動かしながら歩いていたシロが、唐突に足を止めると空を見上げた。
周囲は瓦礫と廃墟だけが広がり、空は分厚い雲に覆われている。
明かりは遠く、周りには闇が広がっていた。
自身の指先すら見えない闇の中、ポツリと頭を叩いた冷たい感触に顔を上げたシロの頬に、雨粒が一つ落ちてきた。
降り始めた雨の勢いは弱く。
身体に当たる雨粒の数も、未だ数えられる程度しかない。
開かれた目に映るのは、空を覆い、ゆっくりと蠢く泥の塊のような雨雲の姿だけ。
「―――オレでは、無理か……」
奴の―――小次郎の力は想像以上―――いやそれすらも及ばない領域であった。
例え自分がこれから何十年と鍛えようとも届かぬ頂き。
それを強制的に理解させる程の力の差が、そこにはあった。
もしも勝てる方法があるとすれば、それは認識外からの致死の一撃のみ。
超長距離からの狙撃、それも周囲一帯を破壊尽くすかのような強力な一撃が必要である。
しかし、もうそんな機会はない。
唯一の機会は先日の一件だけで、次に奴が姿を現すとなれば、何時になるかはわからないし、現れたとしても、決して一人ではないだろう。
そうなれば、他を巻き込むような一撃を撃つことは不可能となる。
だが、だからといって諦める理由はない。
諦めれば、もうそこで終わりだ。
それは、認められない。
だが、他にどんなものがある?
奴を倒す方法は?
手段は?
「不可能だ」
方法などない。
手段などない。
『シロ』では決して佐々木小次郎には勝てない。
どれだけ強力無比な力がある剣であっても。
どれほど理不尽な能力のある剣であっても。
それが届く想像がつかない程の頂きに、佐々木小次郎はいた。
いや、星の数ほどいる英雄であっても、事一対一であれば、あの佐々木小次郎と渡り合える者は数える程しかいないのではないのではないだろうか。
名を上げるとするならば、そう―――例えば……。
「……『オレ』では無理……か、なら―――」
少しずつ強くなる雨足を感じながら、それでも蠢く夜の空を見上げていたシロが、ポツリと呟く。
瞬きする間に形を変え、蠢く闇に包まれた雲を見上げながら、ゆっくりと、拳を握りしめる。
ああ、そうだ。
元より『彼』は―――『オレ』は『戦う者』ではなく『創る者』。
自分の力では届かなければ、それに届く―――打倒できる『剣』を創ればいい。
そして、それでも足りないと言うのならば―――。
それならば―――
「『オレ』でなければ―――いい」
廃墟同然の、崩れかけた小さな小屋の中に、小さな光が揺れている。
隙間から吹き込む冷えた風に揺れる明かりの中、浮かび上がるのは椅子に腰かけた一人の男の姿。
先程までこの小屋の中にいたもう一人の男が出ていった直後から降り始めた雨が屋根を叩き、静寂に包まれていた薄闇の中を誤魔化すように雨音が満たしていく。修繕しているとは言え、素人の手で行われているため、染み込み落ちてくる雨粒が、天井から落ちては床に染みを広げていた。
ふと、微かに揺れる明かりが、不意にゆらりと大きく揺れた。
同時に、大きく軋む音を立てながら、外界を隔てる扉が開かれた。
「―――行ったのかい?」
扉が閉まり、吹き込んだ風により揺れた火が新たに現れたもう一人の影を微かに浮かび上がらせる。
小柄な、華奢な体躯の影。
薄闇に浮かび上がるのは、長い髪を二つに分けた小柄な少女であった。
手元程しか灯さない程の小さな光が、その二つに分けた夜空のような漆黒の髪に流れる雨粒を照らし、星空のようにきらきらと輝かせている。
「……ああ」
空になった寝台を見て呟いた少女に対し、同じく寝台に目を向けていた男が振り向かずに頷く。
「そう言えばヘスティア……私が、何故彼を忌避している―――その理由は言ったかな?」
「忌避―――かい……君には似合わない言葉だね」
少女の―――ヘスティアの言葉を背に受けたミアハは、空になった寝台を見下ろしながら口元だけで笑った。
「
「わからない、から?」
振り向かず、ただそこにまだ誰かがいるかのように、ミアハは寝台を見下ろしながら、独白するように口を動かす。
「多くの―――いや、地上に下りた神の全ては、私も含め大なり小なり『未知』という『娯楽』を求めて
「それは……」
傍若無人、己の快楽だけを追求する多くの神々の中でも、常識と慈悲深さを上げるとすれば、明らかに上位に食い込むであろうミアハであっても、例えその下りてきた理由がどうであれ、地上に『未知』を求めていたという思いは欠片もないとは言い切れなかった。
「
「それは……ボク達が神だから?」
小首を傾げ、ヘスティアがただ自然と溢れた言葉を口にしたものを耳にしたミアハが、小さく頷くように、項垂れるように頭を垂らした。
「
「それは……どういうことだい?」
自嘲するような笑いと共に吐き出されたミアハの言葉に、ヘスティアが寒さからではない寒気を何処かから感じ、自身の身体を抱き締めながら問いかけた。
「言葉遊びのようだが、そうとしか言いようがない。『知らないということを知らない』。言葉通りだ。私達は
「―――っ」
そこで、初めてミアハは振り返った。
寝台の横に置かれた椅子に腰かけたまま、首だけを背後の扉の前に立ったままのヘスティアに向けて。
その顔は、まるで泣いているかのように、恐怖に怯える子供のようにも見えて。
「それでも、私達は知っていたんだよ。『未知』だと『知らない』と口にして喜んだ子供達の輝きは、全知全能たる
「そんな事―――は……」
咄嗟に否定の言葉を言いかけたヘスティアだったが、結局それは形となる事はなかった。
本当に、ないと言えるのか。
そんな疑問が、己の中で生まれたからだ。
だけど、本当に?
本当にそうなのだろうか?
ボクは―――ボク達は神だ。
様々な役割を得て分けられてはいるが、それでもその全員が真なる意味で『全知全能』である。
力の大小はある。
だけど、それでも神である。
知らないことはない。
正確には―――知ることが出来ないことは、ない。
もし、知らない事があるのだとしたら、それは……ああ、ただ―――知ろうとしなかっただけ。
そうだ、その通りだ。
何故ならば、ボク達は『全知全能』。
その気になれば、『神の力』を使えばあらゆる事柄を知る事が出来てしまう。例え即座に他の神による『神の力』により、その記憶が消される事になったり、罰則を与えられる事になったとしても、『知る』事は出来るのだ。
『知った』後の
そう、『全知全能』たる
だけど、もし。
もしも、本当にそんな
「―――――――――」
一瞬、ヘスティアは薄闇が広がる小屋の片隅。
蝋燭の明かりが届かない何も見えない暗闇の奥を、その目に映した。
何も見えない。
その闇に隠された片隅に、何があるのか。
もしかしたら、そこには何かがいるのかもしれない。
今にも襲いかかろうと身構えている化け物がいるのかもしれない。
そんな『
「だから、だよヘスティア」
「あっ」
はっと顔を上げたヘスティアを、ミアハはじっと見つめている。
そこには先程まで感じたものはなく。
何時も目にした、穏やかな微笑みを称えた顔で。
そんな顔で、ミアハはヘスティアに伝えた。
「だからこそ、本当の『
「『わからない』から、忌避したと……」
「そうだ。今でも、私は彼が怖い。恐ろしい。『
「……ああ、そうだね」
苦しげにそう口にしたミアハは、しかし己を見るヘスティアの顔を見ると、はっとその目を見開いた。
「―――うん、そうだ……やっぱり、そうだね」
何かを確かめるように、胸に手を当て、何度か頷いてみせたヘスティアは、最後に大きく頷いて見せると、改めて顔を上げ、呆然と、見とれるように固まるミアハを見つめ、その口を開いた。
「それでも―――シロ君はボクの家族さ」
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