たとえ全てを忘れても   作:五朗

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第四章 ■■穿つ死棘の■
プロローグ はじまり


 ―――うごめいていた。

 

 くらいくらい。

 

 くろのなかで。

 

 どろりとしたどろのなかで。

 

 およぐように、もがくように。

 

 ぴくりぴくりと、ばちゃりばちゃりと。

 

 まるで、みずのなかにおちてしまったむしのように。

 

 それは、くらいくらい、くろいくろいそこで、どろのなかをうごめいていた。

 

 いしきがあるのか、いしがあるのか、かんじょうがあるのか、それはわからない。

 

 ただ、それはうごいていた。

 

 だれにも、なにものにもにんしきされないどろのなか、しずかによどみながら、それでいてあらしのごとくあれくるうどろのなかで。

 

 うえもしたも、みぎもひだりも、なにもかもわからない、ただくるしみだけが、にくしみだけが、いかりだけが、あらゆるふを、やみを、このよにあるだろうすべてのあくとくをのろいを、にこみぎょうしゅくしたことからどろのようになってしまったものがただようなかに、それはあった―――いたのだ。

 

 ―――…………いったいどれだけのときがすぎたのか。

 

 それでも、それはそこにいた。

 

 そこにいて、まだ、うごいていた。

 

 いたみか、くるしみか、それともそれいがいのなにかか、それはふるえながら、なにかをもとめるように、すがるように、ぴくりぴくりとうごいて……。

 だけど、それももうおしまい。

 それのかたちは、まわりのどろとのきょうかいがあやふやになってきて。

 とけてまじわって、どろどろに、どろどろに……。 

 ―――それが、いやなのか、こわいのか、さいごのちからをふりしぼるように、ゆっくりと、ゆっくりと、おびえるように、まようように、てを、のば、して……。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「っ、ぁ」

 

 最初に視界に映ったのは、石材で作られた天井だった。

 ぼんやりと周囲を照らすのは、光の様子から、その光源は地面にあるのだろう。しかし、どうやらその明かりの光源は弱く、天井にも満足に届いてはおらず。天井は、まるで黒い塗料を塗ったかのようにも見えている。

 意識ははっきりとしないためか、己の今の現状を把握が全く出来ていないにも関わらず。焦りも動揺も、心の動きはどうにも動いてはいない。

 パニックになっていないため、ある意味ではちょうど良いのかもしれない。

 あまり良いとは言えない寝台にどうやら寝かされているようで、仰向けに転がっているだろう身体の背からは、何か布的な感触は感じるが、どうも品質にはこだわりがないのだろう。

 そんな思考が、漂うように回りながらも、やはり動揺するような心の動きは感じられない。

 目覚めたばかりというのもあるだろうが、意識だけでなく身体の調子もどうやら良くはないようだ。

 目を覚ましたことから、瞼は動いたようではあるが、どうも身体が上手く動いてはくれない。

 全身が鉛になってしまったかのような倦怠感はあるが、力が入る気はするし、感覚も何となく感じるため、身体が不随となっているわけではないとは思う。

 だが、上手く身体が動かせない。

 それは、まるで()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()で。

 それでいながら、頭だけは、思考だけは冷静なままであり。

 他人事のように、己の現状を俯瞰するかのように欠片も動揺することもなく、第三者のように自身の状況を見下ろしていた。

 奇妙なほど落ち着いた心のままで、周囲の様子を感じていた。

 首も動かない、動かせないため、天井以外の周囲の状況を見ることはできない。だから、他の感覚に意識を向けた。

 匂いがある。

 何か、花のような匂い。

 匂いというよりも、これは香りだろうか。

 甘い、香りに、油の匂い。

 この匂いは匂いというよりも臭いだ。

 ジャンクフードから感じる特有の油の臭い。

 どうやら、それを主食としている者がいるのだろう。

 他にも様々な匂いがする。

 どうやら誰かの住みかなのだろうが、石造りの天井しか見えない現状では、もしかしたら牢屋の可能性も否定は出来ない。風は感じられず、地面にあるだろう光源以外に、他の要素が感じられないため、少なくとも近くに窓はないだろう。重苦しい空気からして、もしかしたら地下室である可能性もある。

 と、感じられる感覚から周囲の状況を推測していると、上の方からドアが開く音を耳が拾った。

 その後に続くのは、規則的な、トントンとした誰かの足音。

 軽いその感じから、子供か女か。

 足音の調子からして、上りではなく下り。

 地下室という推測は、もしかしたら正解なのかもしれない。

 足音に混じり、何かが聞こえる。

 一定のリズムで聞こえるそれは、鼻唄だろうか。

 機嫌の良さそうなその唄と共に、漂ってくるのは、この部屋に満ちる油の臭いと同系統のそれ。

 

「運が良かったなあっ! 人気のじゃが丸くんスペシャルが余ったからってこんなにおまけしてくれるなんてっ!!」

 

 弾んだ声が聞こえる。

 女、と言うよりも少女の声だ。

 喜色を含んだその声色は、聞く者の頬を緩めるような、そんな幸福に満ちたものであった。

 

「たっだいま~って、返事何てないんだけどねっ!? 眠り姫ならぬ眠り男ならい―――て……」

「…………」

 

 視界の端で、この部屋の主であろう少女の姿を捕らえる。

 そして―――息を飲んだ。

 意識が止まった。

 ぴくりとも動かない身体。

 事情も状況もわからない状態でも、緩んではいたが、それでも冷静に動いていた思考が、意識が、その時止まった。

 薄暗い中でも、視界の端のぎりぎりであろうとも、そこに立ち竦むようにしていた少女の姿を捕らえたとき。

 その美しさに、囚われた。

 星空を閉じ込めたかのようなその瞳に。

 夜空を編み込んだかのようなその髪に。

 幼くも完成された―――一つの答えと言っても良いその美しい容姿に。

 己もまた、捕らわれたかのようにその動きを、意識を止めてしまった。

 どれだけの間、そうしていただろうか。

 次に動いたのは、視界の端で立ち竦んでいた少女であった。

 驚きに見開かれていた目を、何度かぱちりぱちりと瞬かせた後、安堵の息を吐きながら、笑みを浮かべ近付いてきた。

 そして、己が寝かされている寝台だろうものの近くまで、顔の横まで来ると、心底安心した、良かったという笑みを浮かべながら、見下ろしてきて。

 

「やあ、ようやく目を覚ましたね。随分とお寝坊さんだね君は」

 

 すっと、細めた目の奥に見えるのは、その幼さすら感じる容姿とは裏腹に感じる、慈母のような優しい労りが満ちた光で。

 それだけで、ああ、この少女はとても優しい人だと分かって。

 惚ける様に見上げる自分を、彼女は微笑みながら見下ろして、そして―――語りかけてきた。

 

 

 

「―――()()()()()、ボクの名前はヘスティア。良かったら、君の名前を聞いてもいいかな?」

 

 

 

 




 感想ご指摘お待ちしています。

 新章開始です。

 過去編は多分2、3話で終わる予定です。

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