たとえ全てを忘れても   作:五朗

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 m(_ _)m

 随分とお待たせしました。
 まだ、本調子ではありませんが、ちょこちょこと書き進めようと思います。
 どうか暖かい目で見て、読んで頂ければ幸いです。


第二話 Fate/stay night~その夜、運命は動き出す

 

 

 

 

 

 きっと、あそこが始まりだった。

 

 あの日、あの時、あの場所で。

 

 満点の星々が輝く夜の空に、円を描く月が、ボクと君を照らす中。

 

 ボクの伸ばした手が、君の手を取ったとき。

 

 君の硬く固められていた拳が、ボクの手を掴んだとき。

 

 全てが、始まったんだ。

 

 ―――きっと、あそこから……

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ―――…………。

 

 ―――ぁぁ、そういえば。

 

 覚えているかな、君は。

 

 あの時の事を思い返した君が、何時か言っていたね。

 

 救われた、って。

 

 ―――違うよ。

 

 違うんだ。

 

 救われたのは、君じゃなくてボクなんだ。

 

 一人ぼっちが悲しくて―――寂しくて―――寒くて―――すがるように伸ばした手を、君が掴んでくれた。

 

 だから、救われたのはボクなんだ。

 

 君は否定したけどね。

 

 あの時は、お互いがいいや違うと、言い合いになってしまったけど。

 

 それも、君は覚えているかな。

 

 何でもない日。

 

 特に何かがあったわけもなく。

 

 自然と始まった、廃教会の地下での夜のお酒の席で。

 

 他愛ない話から始まった、馬鹿馬鹿しい口喧嘩にもならない言い合いを。

 

 君は、覚えているかな。

 

 日々の記憶に埋もれてしまう、何でもない、何もない日にあった。

 

 あの夜の、じゃれあいを。

 

 ボクは、覚えているよ。

 

 全てが始まった、あの日の夜も。

 

 何でもない、何もないあの日の夜も。

 

 ボクは、全部覚えている。

 

 例え、君が全てを忘れてしまっていたとしても、ボクは覚えているよ。

 

 灯火のように、暖かく灯るその思い出を、ボクは何時までもこの胸に抱き締めている――――――……………

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ―――……そういえば、あの日の夜の言い合いは、どう決着が着いたっけ?

 

 大分お酒が入っていたから、実のところはっきり覚えていないんだよね。

 

 結局、どっちが救われたかの言い合いは、決着が着いたっけ?

 

 君は頑固だから、最後までボクに救われたって譲らなかったのかな。

 

 でもね、やっぱりちがうよ。

 

 違うんだ。

 

 救ったのは君で、救われたのは君。

 

 救ったのはボクで、救われたのはボク。

 

 そうだけど、そうじゃない。

 

 うん、そうだ。

 

 そうなんだ。

 

 救うって言うのはね、やっぱり、そうじゃないんだ。

 

 だってね、シロくん―――――――――

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 あれから、数日が過ぎた。

 大雨の中、ボクが拾ってきたボロボロの男の子供(ヒューマン)が、目を覚ましてから。

 目を覚ました彼は、何と言うことかこれまでの記憶が無くなっていて、自分がどうしてここ(オラリオ)にいるのかどころか、自分の名前すら忘れてしまっていて。

 だから、ボクは彼に仮の名前を付けてあげた。

 その、色を消してしまったかのような、灰色の髪の色から、何も覚えていない、その姿から『シロ』と言う名前を、彼に付けてあげた。

 そんな、何もかも忘れてしまっていて。

 だけど、掃除も洗濯も、料理どころかギルドの受付すらこなしてしまう、何でも出来てしまう、一体何者かもわからない。そんなシロくんと廃教会の地下室で過ごすようになってから、数日が過ぎた。

 その日々は、これまで下界に下りてきたからの驚きに満ちた日々と比べても、比較にもならないほど、充足に満ちた日々だった。

 ある時は、じゃが丸くんの屋台で一緒に働いて、数百Mにもなる行列をつくったり。

 ある時は、シロくんがギルドで受付をしているのを見た女神からの、『ファミリア』に入らないかとの猛アピールをオラリオ中を駆け回るようにして逃げ回ったり。

 ある時は、ちょっと出てくると言ったきり帰ってこないシロくんを探しに、名前も告げずに仕事を手伝ってくれた男の話を追いかけるようにしてオラリオの中を探し回ったり。

 両の手で数えられる程度の、そんな短い日の中で起きたそんな出来事。

 笑って、怒って、泣いて、叫んで。

 信じられない程楽しくて。

 信じられない程幸福で。

 飛ぶように過ぎた日々の中、ふと、凪ぎのように、穴に落ちてしまったかのように、心が静かになる時があった。

 それは、何時も同じ時。

 一緒に、日が暮れた街の中を、廃教会()へと帰るために歩くその時。

 隣を歩く君が、遅れたボクの前へと進んだ一瞬。

 君の背中を、見た瞬間。

 

 ―――大きくて、広くて、そんな君の背中が、とても儚く見えてしまって。

 

 ボクは、どうしようもなくなって。

 手を、伸ばして―――。

 

 シロくん。

 

 君は―――

 

 ―――ボクは

 

 

 

 

 

「―――ヘスティア」

「ぇ、へ?」

「……溺れるぞ」

 

 はっ、と瞼を開き顔を上げると、そこには呆れた顔をしたシロくんが、ボクの事を見下ろしていた。

 それを数秒ほどぼんやりしていた頭で見上げていたボクだったけど、手元に感じる暖かさによって急速に思考に漂っていた霧が徐々に晴れていく。

 現実に意識が完全に浮上すると、緩みかけて落としかけていた、両手で握っていた大きめのカップを慌てて掴み直した。

 一瞬寝ていてしまっていたようだ。

 シロくんが声を掛けてくれなければ、お茶が入ったカップに口から突っ込んで、地上にいながら溺れてしまうところであった。

 誤魔化すように、照れ笑いを向けると、呆れた顔をしながらシロくんが小さく肩を竦める。

 シロくんの両手には、今日の朝食である、余り物のじゃが丸くんを潰して平らに伸ばして焼き固めた、もはや丸ではなくなったじゃが角とも呼べば良いのだろうか。新たに生まれ変わった最近の朝食メニューが、美味しそうな湯気を広げながら皿に乗っていた。

 元々の素材は、何時も食べているじゃが丸くんの筈なんだけど、色々と手間を掛けているのだろうか。ただ潰して形を変えているだけのように見えるが、食べてみると全くの別物であることは既に知っていた。

 3、4日前から朝食にはこれが出ているのだから当たり前だ。

 連続で同じ料理が朝食に出て飽きないかだって?

 はは―――シロくんを侮ってはいけない。

 何故なら、自然と口の中に涎が溢れ出しているこの身体の反応が示しているように、見た目は同じでも何時も違うのだ。

 そう、掛けるタレも違えば、中に入っているアクセントも日々違う。

 さて、今日はどんな驚きが入っているのだろうかと、シロくんが皿を置くのを、両手を握りしめながら待つボクの頭からは、ついさっき。うたたかの意識に浮かんでいた想いは既に消え去っていた……。

 

 

 

 

 

「―――で、今日の予定は何かあるのか?」

「ん~……特にはないね。バイトの方も、今日は屋台がお休みだって言われてるし。これといった予定はないよ」

 

 朝食を食べ終え、簡素なテーブルを挟んで、食後のお茶を飲みながらなんとはなしに会話をするボクとシロくん。

 何やら誰かの手伝いをした時にお礼としてもらったというお茶の葉だそうだけど、明らかに安物ではないそれを、明らかに素人とは思えない巧みさで入れてくれたお茶の香りと味を、食後の多幸感に浸りながら楽しむ。

 

「君の方こそどうなんだい? 何時も色々と頼まれて忙しそうにしてるけど」

 

 暇よりはましなんだけど、問題は彼がその頼まれた何やらは基本無償でやってるって事だ。

 今のところ幸いな事に、相手がお礼として賃金を払ってくれたり、何か物をくれたりしてくれるけど、そのうち悪い奴に良いようにされそうで不安になってしまう。

 ここ(オラリオ)は決して治安が良いわけでも善人だけがいるわけでもない。

 いや、どちらかといえば悪い方に傾いているぐらいだ。

 そんなボクの不安を他所に、シロくんは小さく首を捻りながら軽く頷いてみせた。

 

「こちらも特にはないな」

「ふ~ん、そっか。じゃ―――」

 

 「じゃ、今日はゆっくりしようか」と続けようとしたボクの言葉は、

 

「そうだな。なら、二人で一緒に遊びに行くか」

「ッ!?」

 

 シロくんのそんな言葉(誘い)に吹っ飛んでしまった。

 緩やかに流れていたボクの思考が、一瞬にして沸き上がってしまった。

 それと連動するように飛び上がった身体が、テーブルに乗り上がり。目を丸くしたシロくんの顔を、両手で獲物を捕らえるように掴む。

 

「へ、ヘスティア?」

「賛成だッ! 賛成だとも!! 行こうっ! 遊びにッ!!」

 

 テーブルの上に乗り上げながら、自然と浮かんでいた満面の笑みでシロくんを見下ろして、ボクは跳ねるように鼓動する心臓の音に合わせるように歓喜の声を上げた。

 

「デートだッ!!」

 

 

 

 

 

 シロくんと一緒に住み始めてから、短いながらもそれなりの日が経ったというにも関わらず。ボクはシロくんと一緒に、正確には二人で街を巡ったのは、初日の一日しかなかった。それ以降は、何かとあって、二人で一緒に何処かを回るといった事は出来ずにいた。

 そう考えると、二人並んでこうして一緒に歩くのも、なんだか随分と久しぶりな気がしていた。

 最近では、一緒に歩くのは、何時も帰り道の夕方か日が落ちた夜にしかなかったからだ。

 にこにこと頬が浮かんでいるのを自覚しながら、ボクはシロくんの手を引きながら街の中を跳ねるようにして歩く。

 

「おい、そんな急がなくてもいいだろ」

「ははっ、別に急いでなんかいないさっ! ただ嬉しいだけだよっ」

「っ―――」

 

 ボクの口から出た言葉に、驚いたように目を開いて受けたシロくんは、一瞬硬直した後、何処か戸惑うような笑みを口元に浮かべると、おとなしくボクの手に引かれて少し駆け足になるように足を早めた。

 

「でも、何処に行こうか。シロくん何処か行きたい所とかあるかい?」

「何処かと言われてもな。ここ(オラリオ)は広いからな。まだまだ行ったところのない場所なんてあちこちにあるが……」

「そっか、なら丁度いい。ボクが案内してあげるよっ!!」

「そちらもここへ来てからそう長くはなかった筈では?」

 

 シロくんに顔を向けたボクに、彼は何処かからかうような笑みを向けてくる。

 それに挑戦的な笑みを返してボクは軽く胸を張って見せた。

 

「それでも君よりは良く知っているさっ!」

「なら、案内を頼もうか」

「任せたまえっ!!」

 

 笑って、笑って、そうしてボクはシロくんの手を引いて駆け出した。

 青空が広がる下を、廃屋が広がる中を、喧騒が聞こえてくる方向へ向けて彼と共に―――。

 

 

 

 

 

 最初に回ったのは商店が立ち並ぶ場所だった。シロくんも食材の購入で良く立ち寄る見知った場所だったけど。奥まった場所までは良く知っていなかったから、地面に布一枚だけを広げただけの、見るからに怪しい物売りがいる所までは行った事がなかったようだ。ボクもたまたま偶然知っただけの場所で、時折冷やかしに行くだけだったけど、シロくんと一緒だとまた違った面白さがあった。

 そこを軽く見て回った後は、小腹が空いたお腹を、屋台で買った少食を歩きながらパクついて、色々なお店が立ち並ぶ場所へと歩いていった。

 そこにどんなお店があるかは知っていたけれど、立ち寄った事のなかったシロくんは、珍しげにお店に並ぶ品々を眺めていた。中にはそこらの一般の家庭にもあるような道具でも、シロくんは興味深そうな視線を向けていた。

 その様子からは、まるで未開の奥地からやって来たばかりの人の姿を思い浮かばせた。

 そうして、色々なお店に立ち寄っては、シロくんが物珍しげな顔を商品に向けるのを観察するのを続けて、お昼が近付いた頃。

 折角だから最近見つけた雰囲気の良い、人気がある食事処に行こうかと思った時だった。

 ミアハと出くわしたのは。

 

「ヘスティアか?」

「へ―――あ、ミアハっ」

 

 ふと、盛況な人の流れの中から、自分を呼ぶ声を耳して、反射的に立ち止まって声が聞こえた方向に視線を向けると、そこには買い物帰りなのだろう。何か物が入っているのだろう手提げの袋を片手に持ったミアハがそこには立っていた。

 

「久しいな―――と言うほどではないか」

「そうだね」

 

 空いている手の方を軽く振りながら近付いてくるミアハに、ボクは笑って返事を返す。

 

「今日はどうした? そろそろ昼時だから休憩か?」

「いや、違うよ。今日は―――」

「どうした、ヘスティア?」

 

 何時もこの時間はバイトなのは知っているからだろう。

 少し疑問が浮かんだ顔をしながら、ミアハが首を傾げるのに対して、その疑問の答えを返そうとした時だった。ボクが付いてこないことに気付いたシロくんが、戻ってきて声をかけてきたのは。

 

「っ―――」

「?」

「あ、シロくん」

 

 ボクが振り返ると、シロくんが疑問を浮かべた視線をミアハに向けていた。

 一瞬どういうことかと思ったけれど、そういえばと直ぐに思い直す。

 ()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()、と。

 あの日、シロくんを拾った日の夜。

 明けて次の日、暫く経っても目を覚まさなかったシロくんを不安に思ったボクは、ミアハにお願いして彼の診察をしてもらったのだった。診察の結果は、特に問題はないようだと言うことで、シロくんが目覚める前にミアハは帰ってしまったけれど。そう言えば、シロくんが目を覚ましてから、色々あったからミアハに連絡を取るのをすっかり忘れてしまっていた。

 とは言え、ミアハは怪我人と関わった時は、何も言わずとも、その怪我人が回復するまで色々と気を使うから、直ぐにまた来るだろうと油断していたところは確かにあった。

 そう考えれば、どうしてミアハはあれから一度もシロくんの様子を伺いに来なかったのだろうか?

 ミアハは色々と何時も忙しいから、単純に時間がなかっただけ?

 それも、何だか違和感があるような気もするけど……。

 そんな思考を何とはなしに流していると、肩をつつかれる感覚にびくりと身体を震わせた。

 

「へっ?」

「ヘスティア。知り合いなのか?」

「あ、うん。そうだよ―――って言うか、実のところシロくんも会っているんだけどね」

「なに?」

 

 ボクの言葉にシロくんが記憶を辿るように眉間に皺を寄せて唸るのを、鼻で一つ笑ってからかった後、軽く謝罪を口にした。

 

「ごめんごめん。正確にはシロくんがまだ目を覚ましていなかった時に、怪我がないか診てもらったんだよ」

「みてもらう?」

 

 一瞬疑問を浮かべたシロくんだったけれど、直ぐに察したのか「ああ」と、小さく納得の声を上げた。

 

「ミアハは医者なんだよ。正確には医療の神様だよ」

「神―――ぁあ……そう、か」

 

 ボクの言葉に、目を丸くしたシロくんだったが、何とも言いがたい複雑な顔をした後、頭を振ってミアハに改めて向き直った。

 視線を向けられたミアハは、何時もの柔和な笑みを浮かべていた顔を、何処か強ばらせていたけれど、一瞬肩を震わせた後、小さく息を吐いて何時もの柔らかなモノへと戻した。

 

「?」

 

 それに少し疑問を感じながらも、視線を向ける先ではシロくんがミアハに向けて頭を下げてお礼を口にしていた。

 

「その節は迷惑を掛けてしまったようで」

「……いや、構わないよ。彼女とは友人だからね。彼女のお願いなら聞かない話はない」

「いや、本当にあの時は助かったよ」

 

 シロくんに、何時ものような笑みを向けるミアハに、さっきのは気のせいかと思い直したボクが、頭をかきながら感謝を口にする。診るだけみてもらった後、直ぐにミアハが帰ってしまったから、お礼とかそう言えば殆ど言えなかったなと思い直していると、何やら鋭い視線が頭部に感じて、何となく嫌な予感を思いながらその先へ目を向ける。

 すると、そこには眉間に皺を寄せたシロくんが、鋭い視線をボクへと向けていた。

 

「……まさかとは思うが、ヘスティア」

「な、なんだよシロくん」

「ちゃんと、診察代は払っているだろうな」

「…………」

 

 じっとりとした汗が滲む顔をゆっくりとシロ君から逸らす。

 

「おい、ヘスティア」

「―――いや、だって聞かれなかったし」

 

 が、頬へと突き刺さるシロ君の視線が更に突き刺さるかのように強くなるのを感じて、言い訳染みた言葉がポロリと突きだした唇の先から出てしまう。

 我ながら子供のような態度だと思いながら、大人の対応は出来そうになかった。

 数時間にも感じる数秒が過ぎる間、シロ君の刃のような突き刺す視線から目を逸らし続けていると、ため息混じりのあきれた声と共に感じていた圧力がすっと弱まった。

 

「お前と言う奴は……まぁ、それを受けたオレがとやかく言うのは筋違いかもしれないが」

 

 恐る恐るとちらりと横目でシロ君を覗き見ると、彼はボクから視線を外すとミアハへと改めて向き直っていた。

 

「あ~……ミアハ、様」

「―――ミアハで構わない。畏まる必要もないよ」

 

 何と声を掛けようかと迷いながら声を上げたシロ君に対し、ミアハは口許にだけ小さな笑みを浮かべ軽く首を横に振って見せた。 

 

「そう、か。なら、ミアハと呼ばせてもらうが。色々と助けてもらったようで、改めて礼を。正直、手持ちがなくてな。そんなに蓄えはないんだが、遅れながら診察代を払おうと思うのだが、いくらだろうか?」

「……いや、彼女には(天界)にいた頃に色々と世話になった時があったからね。今回は特に何かしたわけでもなし。診ただけだからね。そういうのはいらないよ」

「それは―――」

「いや~それはごめんね。とは言えこっちも心苦しいから、何か手伝える事があれば言ってくれ。何でも手伝うからさっ!」

 

 ミアハの提案に対し、異義を唱えようとしたシロ君の言葉を、そっと息を殺して存在を消していたボクが慌てて遮った。ミアハには悪いとは思うけど、最近はシロ君が色々とやってくれてボクが一人だったときよりかは、生活はましになっているけれど。

 まだまだ生活は苦しい。

 具体的に言えば懐が、特に。

 

「おい、ヘスティア」

「シロくん」

「ん?」

(うちの家計は苦しいでござる)

「―――っ」

 

 非難の声を上げるシロ君に対し、ボクは決意を込めた視線を向ける。

 ボクの強い視線に、戸惑いの色を瞳に過らせたシロ君に向け、小さく、しかし心からの言葉を放ったが、返ってきたのは深く刻まれた彼の眉間の皺と凍りつくような冷えた視線であった。

 それに対し、背筋を震わせたボクは、このままではヤられると悟り、咄嗟に後ろに飛び離れると、思考を高速回転させると共に、周囲へと視線を巡らせた。

 

「あ―――そ、そうだっ!? お昼に行くとこ人気だからもう席とっとかないと食べれなくなっちゃう! ちょっと行って席だけ取っとくから待っててっ!!」

「待てっ!!」

 

 巡らせた視線の端で、最近耳にした人気の食堂の看板を見つけたボクは、そこへと指差しながら反射的に走り出した。そんなボクの背中に向けて、シロ君の責める声が当たるが、それを聞こえない振りをして何とかその場からの脱出を成功させた。

 

 

 

 

 

「はぁ……全く時間稼ぎにしかならんだろうが」

 

 昼時と言うこともあるのだろう。

 混雑していた通りに、更に人が増えた中を、ヘスティアの小さな背丈が隠れてしまえば、もうその姿を見つけ出すのは困難になってしまう。

 とは言え行き先については、消える間際に指差した食堂の看板に気づいていたため、後で合流するのは問題はなかった。

 見えなくなったヘスティアの背中を目で追いかけていたシロが、呆れれば良いのか、怒れば良いのかわからない、複雑な顔を浮かべていると、隣からぼそりと、呟く小さな声が上がった。

 

「―――仲が、随分と良いのだな」

「あ? ああ……そう、だな。良く、してもらっている。その、すまない。色々と―――」

 

 小さな、それでいて無視できない何か探るような声音に、若干戸惑いながらもシロがミアハに向き直る。

 ミアハへと視線を向けたシロであったが、しかし、その向けられた当の本人はヘスティアが逃げ出した方向へと視線を向けていた。

 

「事情は何となくだがわかっている。気にしなくて良い」

「それは、助かる」

 

 シロへと目を向けないまま、言葉を返すミアハの姿に、何とも言いがたい感覚を得ながら、さてヘスティアを追うか、それともこのまま少し話をするかと迷っていると。

 

「君は」

「ん?」

 

 すっと、滑り込むようにいつの間にかミアハがシロへとその細めた目を向けていた。

 一瞬話しかけられた事に気付かなかったシロであったが、直ぐに思い直すと改めてミアハへと意識を向ける。

 それに察したように、ミアハは口を開く。

 

「記憶がないそうだな」

「どうして、それを」

「一応商売をしていてね。それなりに情報は手に入る。最近ヘスティアが記憶を無くした男と一緒にいると言う話を耳にする事ぐらいはあるさ」

「そうか」

 

 別に秘密にしているようなものではなく。

 自分の記憶がないことはそれなりの数に話している。

 積極的に調べなくとも、ヘスティアの知り合いと言うのならば、耳にする機会なら幾らでもあるだろうと、シロは納得した。

 

「それで、本当なのかい?」

「え?」

「記憶がない、と言うのは」

「―――ああ。残念ながら」

 

 疑問―――と言うよりかは、探るような視線を向けられたシロは、どうしてそんな確かめるような聞き方をするのだろうかと訝しく思いながらも、まぁ、友人の傍に記憶のないと言う不振な男がいると聞けば不安に思うものだと考え、嘘でもないしと、ミアハの問いに肯定を返した。

 

「そう、か……」

「その」

「何かな?」

 

 しかし、流石に無視できないものはあった。

 

「……何故、そんなに警戒している」

「っ―――そう、見えるかい?」

「ああ」

 

 だから、シロはそれについてミアハに対し疑問を呈した。

 それは最初からだった。

 初めは、記憶のない不審な(シロ)に対するものだと思っていたが、それにしては何かがおかしいと感じていた。

 ヘスティアの前だからだろうか、上手く表に出さないように表情は繕ってはいたが、その身から感じられる緊張と言えば良いのか、身体の微かな強張りを、シロは見逃さなかった。

 そしてそれはどちらかと言うと不審者を前にしたものではなく―――危険な。

 それこそ猛獣―――いや、そうではない。

 そんな直接的な脅威と言うよりも、もっとわからない。

 見覚えのない、危険かどうかすらわからない()()かを前にするかのようなもので。 

 

「――――――……なに、彼女(ヘスティア)は古くからの友人でね。ここ(下界)に来てから日も浅い。あまり心配するのも何だが、流石に記憶がない者と共に暮らし始めたと聞けば」

「それは、確かに……」

 

 そんな考えを思い浮かべるシロの前で、ミアハは表情だけを見れば穏やかな笑みを浮かべながら、誤魔化すような台詞を口にしていた。

 突き崩そうと思えば崩せそうな姿に、しかしシロは進むことなく一歩後ろへと下がった。

 代わりに、ただ改めてミアハへと向き直ると、真っ直ぐにその目を見つめ返した。

 

「記憶がないオレが言うのも何だが約束しよう。彼女を傷つける事はしないと」

「……一つだけ。聞きたいことがある」

 

 その言葉に何か感じるものがあったのか、ミアハは一つゆっくりと瞬きをすると小さく長く息を吐き、口を開いた。

 ミアハのシロへと向ける視線は、鋭く、深く。

 探る、と言うよりもそれは包み込まれるかのような。

 人とは違う視線。

 超常たる意思を感じさせる()()()()であった。

 ゆっくりと周囲から押し潰されるかのような圧力を感じながらも、しかしシロは表情を帰ることなくミアハを見つめ返していた。

 

「何を?」

()()()()()()()?」

 

 その問いに対し、シロは周囲を歩く様々種族を視界に納めた後、ゆっくりと首を捻って見せた。

 

「尻尾はなく、耳も長くはない。背も低くなく特徴らしい特徴も、ない。だから、まぁ……そう、だと思うが」

「そうか。すまないね、おかしな質問をしてしまって」

 

 数秒ほど、そんなシロの様子を見ていたミアハは、納得したのかしてないのかはわからないが、小さく笑みを返すとそのまま背中を向けて歩きだした。

 

「いえ、それは構わないが、どうしてそんな―――」

「すまないが、用事があるので、これで失礼するよ」

 

 その背中へ向けて反射的にシロが声を掛けるも、ミアハは背中越しに軽く手を振るとそのまま人の流れの中にその姿を消してしまった。

 

 

 

 

 

 

 

 ―――気付けば、もうそろそろ日が暮れ始める頃となっていた。

 未だに空には青い色が広がってはいるが、その源となる太陽の姿はだいぶ傾げていて。オラリオを囲む壁の向こうに見えなくなってしまうまで、もう間もなくと言ったところだろう。

 それに気付いたとき、楽しい時間はあっという間に過ぎてしまうと言う言葉を、ボクは実感した。

 

「もうこんな時間か……」

「色々と回ったが」

 

 つい口から漏れたそのボクの言葉を拾ったシロ君が、同じように壁の向こうへと消えようとする太陽の姿を、細めた目で見つめていた。

 

「半分どころか一割も回ってないよ」

「流石はオラリオ(世界の中心)とでも言うべきか」

 

 少しまばらになった通りの中で、壁に寄りかかるようにして、並んで斜めに空を見上げながら会話を続ける。

 互いに顔を向けてはいないけど、どちらも笑っているのを何となく感じていた。

 本当に、今日は色々なところを回った。

 普段いくところから、ボクもまだ行った事のないところまで。

 駆けるようにあちらこちらを回ったけれど、まだまだ見ていないところは沢山ある。

 それが少し悔しくて、でも、まだまだシロ君と回れるところがあると思って。

 とても、嬉しくて。

 だから、自然とそう口にしていた。

 

「そうだね。ま、残りはまた今度だね」

「―――っ、ああ、そうだな」

 

 笑うようにしてそう言ったボクに、シロ君は少し息を飲んだ後、空を見上げながら頷いてくれた。

 そっと、横目でその姿を覗き見ていたボクは、肯定してくれたシロ君の様子に、安堵の吐息と共に口許に笑みを浮かべる。

 断られないだろうという確信はあったけれど、やっぱり怖いものは怖かった。

 どうして怖いのかと言う、その本当の事は曖昧なまま。 

 

「どうする? このまま今日は帰る? それとも外で食べようか?」

「そう、だな―――ん?」

「あれ? どうかした?」

 

 歩きながらちょくちょく色々と食べていたけれど、あちこち歩いていたこともあってか、お腹の方が空腹の主張を上げているのを感じて、ボクが今日の最後の予定について確認しようとシロ君へと改めて顔を向けると、彼は何かに気付いたような顔をして何かを―――誰かに視線を向けていた。

 シロ君の向ける視線の方へとボクも目を向けると、ギルドの職員の姿をした誰かが、人の流れの中に消えていく瞬間が目に入る。

 

「ああ、ちょっと知り合いが……すまないがヘスティア。ここで少し待っててくれるか。朝市の知り合いで、少し頼むことがあってな。時間はかからないが」

「わかったよ。ここで待ってるから行ってきな」

「すまない」

 

 ついていこうかと一瞬思ったけれど、ボクのせいで追い付けなくなってしまってはと思い直して、走り出そうとするシロ君の背中へ向けて軽く手を振った。

 ボクの言葉を背に受けたシロ君は、軽く手を上げてそれに応えると、その誰かを追って人の流れへと飛び込んでいった。

 だいぶ少なくなったとは言え、まだまだ人通りの多い中に、その広い背中が消えていくのを見つめながら、ボクは胸の奥に感じる寒さを誤魔化すように、建物の壁に背中をつけて空を仰ぎ見た。

 空はまだ青い。

 だけど、視界の中には、太陽の姿は、もうなくなっていた。

 

「あっれ~ヘスティアじゃんか」

 

 そんな時だった。

 不快な声が聞こえたのは。

 

「げっ」

 

 反射的に上がった濁った声と共に、嫌々視線を前へ。

 不快気に歪んだ視線を前へ向けると、そこにはやはり予想した通りの嫌な()の姿があった。

 

「何だよ何だよ~その顔は?」

「折角いい気分だったのをぶち壊しにされたらこういう顔にもなってしまうよ」

 

 友()等では全くなく。

 知り合いですら思いたくはない。

 そんな相手()であった。

 (天界)にいた頃に、ちょっかいをかけてきた男神の一人(一柱)で、ヘファイストスの所から出る(追い出される)際、彼女からいるという事だけは「一応気を付けときなさい」という言葉と共に教えられていたから、ここ(オラリオ)にいることだけは知っていた。

 とは言え狭いが広いオラリオである。

 何かの集まり以外では会うことはないだろうとたかをくくっていたのだが。

 まさか、こんな時に出会うとは。

 折角の初デートの日に出会うとは最悪だった。

 まあ、シロ君はおらず、デート自体も終了直前であった事は幸いかもしれないが、それでも不快な事には違いない。

 そんなボクの心情を視線に向けて乗せるが、奴はそれを感じているのか感じていないのかわからない嫌な笑みを浮かべながらこちらに近付いてくる。

 その後ろを、彼の【ファミリア】だろう、20人ぐらいだろうか、武装した冒険者が着いてきていた。

  

「はっはー。相変わらずボッチのようだな」

「残念ながら違うよ。連れが用事で少し離れているだけだ。ほら、さっさと行った。しっしっ!!」

 

 ボクを前に腕を組んだ奴が、わざとらしくぐるりと周囲を見回した後、からかって来たが、それに対してボクは壁に背中をつけたまま、顔を背けて虫を払うように手を動かした。

 いつ、シロ君が帰ってくるかわからないのだ、こんな場面を見られれば、何が起こるかわからない。

 色々と只者じゃない姿を見せるシロ君だけど、冒険者じゃないことは確認している。

 つまり、もし万が一揉め事となれば―――考えたくはない。

 

「連れ―――ああ、あの噂になってる可哀想な奴か」

「むっ」

 

 そんなボクの思考をとらえた訳ではないだろうが、奴の目が一瞬訝しげに細まった後、ニヤァと嫌な形に歪んだ。

 そうして口を開いた奴の言葉からは、どうやらシロ君の話は聞いた事があるらしい。

 笑う―――と言うよりも、嘲笑しながら少しずつ、なぶるように近付いてくる奴は、とうとう手を伸ばせば触れられる距離まで接近すると、ボクの顔を下から覗き混むように見てきた。

 

「中々評判が良いようじゃないか。ただまぁ運が悪いようだけどな」

「何を―――」

「お前みたいな神に拾われたとなっちゃ。お先真っ暗だしなぁ」

「っ―――何だとッ!!?」

 

 奴の言葉に、反射的に上がった声は、自分の声でありながら、その声量とこもっていた感情の強さに、驚いてしまう。

 ただ、その声を向けられた本人と言えば、いつの間にかボクに背を向けて、背後にいた自分の【ファミリア】へと、聞かせるように両手を広げて演説染みた言葉を投げ掛けていた。

 

「だってそうじゃないか。ここ(オラリオ)にいる神で、【眷属】のいない奴なんか何処にもいねぇぜ。片手で数えられる程度の弱小はいるが、一人もいないなんて神は見たこともねぇ。ほら、見ろよ」

 

 くるりと体を回し、伸ばした手の指先を突きつけてくるのに対し、ボクは少し前へと顔を動かせば、触れてしまう位置にある指先を通じて、自分でも驚くほどの怒りが籠った視線を向ける。

 それに対し、奴は視線をちらりと横に立つ縦にも横にも大きいヒューマンの男に視線を向けた。

 見るからに冒険者の装備をしたその男は、周囲にいる他の冒険者達の中でも一際目を引くのは、その内在する力によるものだろうか。

 その考えは、自慢げに口にしてきた言葉によって肯定された。

 

「俺の【ファミリア】の団員は二十人近くいて、更には、この団長は何とこの間レベル2へ上がったんだぜ」

「っ、ぅ」

 

 お腹の下の辺りから、どろどろとした形容し難い熱の塊のようなものが込み上げてくる。

 咄嗟に噛み締めた口元から飛び出そうとなるその熱を、無理矢理に喉元へと押し込めたお陰で、向けられた言葉を返せなかった。

 そんな何も返事をしないボクの姿に、気圧されていると勘違いしたのか、ぐっとそのにやけ顔をこちらに近付けると、粘りつくような口調で話しかけてくる。

 

「だから、可哀想な奴だって言ったんだよ。偶然拾われた先が、こんな神だったなんてな。まぁ、不幸中の幸いと言えば良いか。聞けばまだ【契約】もしてないんだってな。で、相談なんだけどな、なぁヘスティア。お前も前途有望な子供に、明るい未来をやりたいだろ。噂のそのヒューマン、俺にくれよ」

「っっ!! いい加減に―――」

 

 流石にその言葉は看過出来る筈もなく、怒気がこもった声と共に伸ばされた手が、間近にあった首元へと伸びた瞬間、

 

「失礼」

「っ?!」

 

 一瞬にして現れたレベル2になった団長と言われたヒューマンの男が、伸ばされた両の手首を、その大きな掌で二つとも掴み取ってきた。

 分厚く鞣した革のような感触の掌が、ぎゅっとボクの手首を締め上げる。

 ぎしりと骨が軋む感覚に、喉奥から鋭い呼気が漏れてしまう。

 

「おいおい、仮にも神だぜ。もう少し優しくやってやんな」

「すみません。我が神に手をあげられたので、つい少しばかり力が入ってしまいました」

「なら、仕方ないか」

 

 苦しげに歪むボクの顔を横目に見るそのにやつく視線に対し、反射的に睨み返すが、それは両の手首に更に加えられた圧力によって断ち切られてしまう。

 

「っ」

「逆上して掴みかかってくるとは、神ともあろうものが。まぁ、金を稼ぐために屋台でバイトなどしているような神ですからね。ヘファイストス様のような、他にも自ら働く神はいらっしゃいますが、あなたはそういった方とは違うようですし。神が望まないのに、神が働く必要になるような【ファミリア】も問題ですが、あなたはそもそも【ファミリア】どころか【眷属】すらいらっしゃりませんからね」

「く、ぅ」

 

 ボクの両手を掴んだそのヒューマンの団長の男は、わざとらしい敬うような大袈裟な仕草を見せているが、その態度や視線の中には、子供でもわかるような嘲笑が宿っていた。

 文句の一つでも言ってやりたかったけれど、口を開こうとする度に、握られた手首に力を加えられて、開こうとする口からは苦痛の声しか上げられない。 

 

「何故、今でもその噂の彼と【契約】していないかはわかりませんが、我が神が望まれているのです。その彼もあなたのような者の下にいるよりも、こちらへ来ることを望むでしょう。我が神が直接誘う前に、一言断りに来たのだから礼の一つぐらい口にしてもよろしいのでは?」

「しろ、くんは―――」

 

 こういうことは慣れているのだろう。

 小さいとは言えボクの両の手を片手で握ったそのヒューマンの団長は、巧みに腕を振って必要以上に怪我をさせずに。でも、痛みは十分以上に感じるようにボクの体勢を崩すと、地面に膝を着かせてきた。

 蹲るボクを見下ろしながら、団長の男と、その主神が口々に言いたいことを言ってくる。

 本当に好き勝手な事を口にして。

 多分、本当にそんな事は望んではいないのだろう。

 ただ、ボクが気に入らないから、からかうネタとして、扱き下ろす道具の一つとして口にしているのだ。

 そんな事はわかっている。

 気にすることはない。

 そう、ただのムカつく奴の言い掛かりにもならない、そんなものだ。

 

 でも―――。

 

「お前だってわかってんだろ。自分が相応しくないってことぐらい。だから今まで【契約】してなかったんだろ。わかってるって」

「お前に、何がっ―――ボクは―――ぼく、は……」

 

 押さえつけられたボクに更に近付いて、にやにやと笑いながら手を伸ばしてくる男神に向けて、嫌悪の感情を目一杯に込めた目で睨み付けようとする。

 だけど、その目が、力を失ったように下へと落ちてしまう。

 

 本当に?

 

 でも、本当に?

 

 ボクは―――違うって、言えるのかな?

 

 だって、シロ君は本当に凄いんだ。

 

 多分―――ううん。

 

 きっと【契約】すれば、あっという間にレベルを上げて、凄い冒険者になれる。

 

 それこそ、あのいけ好かないロキの所にいる【眷属】の誰よりも、それこそ物語に唄われる【英雄】にも―――きっと慣れる程に。

 

 ボクには、確信がある。

 

 でも―――だけど―――なら、どうしてボクは、シロ君と【契約】していないんだ?

 

 【ファミリア】を創ること。

 

 それをずっと望んでいた筈なのに。

 

 お願いすれば、きっとシロ君は断らない。

 

 何時ものように、笑って頷いて―――

 

 

 

 

 

 ―――笑って?

 

 

 

 

 

 

 

 

「―――おい」

「は?」

 

 低く、重く。

 冷たく、その硬質な声音は、まるで鋭く研がれた鋼の切っ先のようで。

 初めて聞くその声が、誰の声なのか、ボクは一瞬わからなかった。

 

「汚い手でヘスティアに触れるな」

 

 はっと顔を上げた先にいた、一度も見たこともない顔をした。だけど最近は見慣れた顔となった、そのシロ君の姿を目の当たりにした瞬間、先程まで頭にぐるぐると回っていたモノは一瞬にして消え去ってしまった。

 

「っ!!? 痛だだだだだ!?!」

「なっ―――貴様ぁッ!!」

「しろ、くん?」

 

 伸ばされた男神の手を掴んだシロ君が、いつの間にかボクの横に立っていた。

 捕まれた手を捻り上げられ、悲鳴をあげる主神の姿に、ボクを掴んでいた手を離した団長の男がシロ君に掴みかかろうとする。だけど、それを制するように、男神を向かってくる男へと向けて押し飛ばしたシロ君が、慌ててその体を受け止める男の横から、解放されたボクを掴んでさっと距離を取った。

 

「大丈夫かヘスティア。すまない、来るのが遅れた」

「そんな、全然―――って、そうじゃないっ! ダメだシロくんっ!! 早くここから逃げ―――」

「っ、逃がすとでも思ってんのか? ああヘスティアッ!!」

 

 自由の身となったけれど、まだ安全となった訳ではない。

 それどころか、まだまだその真っ只中にいる。

 それを証拠に、団長の男の手から体を起こした男神が、顔を怒りに真っ赤にしながら片手を上げて、自身の【ファミリア】の団員にボクとシロ君を包囲するように指示を出していた。

 

「ごめんシロ君。ボクのせいで」

「謝ることはない。どう見てもあっちの方が悪い」

 

 シロ君は背後を取られないように、ボクを背に後ろへと下がるけれど、それは直ぐに建物の壁へと追い詰められてしまった。

 誰か助けに来てくれないかと、包囲網の向こうを見るけれど、遠巻きに見てくる野次馬の姿はあるけれど、助けに来てくれるような感じは全くしない。

 改善を求められない状況に、心と体に冷や汗が流れるのを止められないまま、震える声でシロ君に謝罪を口にするけれど。

 でも、シロ君はボクを背に庇ったまま、何時ものような落ち着いた声で返事をしてくる。

 

「そうだけど」

「ヘスティア」

 

 窮地にいながら、何時ものような落ち着きを見せるシロ君だったけど、ふと、その口調がさっき聞いた時に感じたような硬質なモノへと変わった。

 

「っ、ぇ? シロ、くん?」

「その腕」

 

 腕という言葉に、咄嗟に自分の腕に視線を向けると、そこには捕まれた手首にはっきりとした痣が見えていた。

 肌が白いからか、浮かび上がった痣は酷くグロテスクな程に黒く醜く見える。

 シロ君は前を見ているのに、羞恥と痛みに、反射的に両手を後ろに隠してしまう。

 

「あ、ちょっと強く捕まれて」

「……そうか」

「あの、シロ君?」

 

 呟くような、その小さな声に、胸騒ぎを感じてしまったけれど。

 それが、どういう意味の。

 誰に対するモノなのか、ナニに対するモノなのかは、その時はわからなかった。

 

「少し下がっていてくれ」

「ちょ、シロ君っ!?」

 

 ボクの戸惑う声にシロ君は足を止める事はなく。

 そのままシロ君は、何の気負いもない姿で、逃げ場のなくなったボクたちをいたぶるような目で見ていた男神の前まで歩いていった。 

 そんなシロ君に対して、奴は余裕を取り戻した顔で、あのむかつく表情で下から見上げるように睨み付けてきた。

 

「ああ? なんだ? 謝って許されると思ってんのか?」

「何を言っている?」

 

 そんな男神に向け、シロ君は小さく鼻で笑って返した。

 

「あん?」

「馬鹿か貴様は、この状況でどうしてこちらが謝るという話になる?」

「……状況が分かってねぇのはお前だろ。こっちは二十人近くの冒険者に、レベル2がいるんだぞッ!!」

「で?」

「は、はぁ?」

「それが、どうかしたか?」

 

 怯える反応を期待していたのだろう男神は、変わらないシロ君の様子に戸惑う気配を見せたけれど、直ぐに苛立ち混じりの怒声を張り上げた。

 

「お前っ、馬鹿かっ!? 記憶がねぇとは聞いてるが、常識すら覚えてねぇのかよっ!! 神と【契約】すらしていねぇレベル0の人間が、冒険者に勝てると思ってんのかっ!!?」

「常識―――常識、か」

 

 ぐっと顔を寄せて、唾を吐く勢いで怒鳴り散らす男神を無視するように、シロ君の横に立つ冒険者の一人に視線を向けると、無造作に片手を振るった。

 ボクの目では霞んでしまう程の速度で―――だけど、冒険者にしてみたら止まって見えるだろうそんな速さでしかない、そんな速度で繰り出された拳は、だけど見えていた筈のそれを、向けられた本人は避けることなく―――否。

 ()()()()()()()()()()()()()()()()

 

「なっ―――がッ?!」

「「「ッッ!!??」」」

「……レベル、レベルと言うが、それがどうした?」

 

 団長がレベル2だと言っていたから、レベル1であろうその団員は、まるで頷くようにその頭を下に一度振った後、そのまま膝から崩れるように地面に倒れ込んだ。

 

「お、おい! なにふざけてやがんだっ!? さっさと起きて―――」

「目が覚めてから色々と見聞きしたが、確かにレベルというものは驚異的だ。一つ違うだけで大人と子供以上の差が生まれてしまう。だが―――」

「お、お前何を」

 

 倒れ込んだまま動かないその団員を無視して、シロ君は戸惑う様子―――違う。

 怯えを滲ませた顔をした男神に向けて、小さく肩をすくませて見せた。

 

「だからといって、人間でなくなるわけではない」

「ッ―――びびんじゃねぇッ!! さっさと囲んで袋にしちまぇッ!!」

 

 目の前に立つシロ君から後ろに向かって飛び離れた男神が、周囲に向かって声をあげる。

 その指示に従って、団員達が一斉にシロ君を包み込むようにして襲いかかってきた。

 四方八方から襲いかかられるシロ君。

 逃げ場のない絶体絶命のなか、だけど当の本人たるシロ君は、何処か呆れたような口調で小さく呟くと共に、ゆらりと流れるようにその大きな身体を動かした。

 

「馬鹿が―――それは悪手だ」

 

 そして―――蹂躙が始まった。

 

 

 

 

 それからの出来事は、ボクの口から説明出来ないものだった。

 別に目にも止まらない早さだったとかじゃない。

 ただ単純に、何がどうなっていたのかがわからないだけ。

 だって、殴りかかってきた男に対して、シロ君がちょっと手を添えたかと思えば、まるで魔法を使ったみたいに殴りかかってきた方が何故か吹き飛んでいったり。軽くシロ君が頬を叩いただけに見えたのに、筋骨隆々の2Mは軽く越えている巨漢が、白目になって気絶してしまったり。何がどうやってどうなったのかさっぱりわからなくて。

 まるでお芝居を見ているかのような光景で。

 でも、何よりも驚いたのは、レベル2の筈の団長を相手にも、変わらなかったこと。

 他のレベル1の団員と同じく。

 シロ君の無造作に振るわれた一撃で倒れてしまった。

 危うげなく、シロ君は傷一つつくこともなく20人はいただろう冒険者の一団。

 いや、【ファミリア】一つを倒して見せたのだ。

 それは、有り得ない光景だった。

 レベル0とレベル1とでは、それこそ大人と子供程の差がある。

 それが20人近く。

 それも中にはレベル2もいたのだ。

 勝つ負ける以前に勝負に成りはしない。

 そんなの試す以前の常識の問題だ。

 その―――筈なのに。

 それが、覆った。

 

「っ、ひ、ぃ」

「これ以上ヘスティアに関わるな。次、貴様が彼女に何かすれば―――どうなるかは、わかるな」

 

 自分のファミリアの団員が全て地面の上を転がっている様を見せつけられた男神は、腰が抜けて地面に尻を着けたまま、シロ君を見上げながらただただ嗚咽のような悲鳴を上げていた。

 そんな相手に一つ脅し文句をつけた後、シロ君はボクにちらりと視線を向けると、ゆっくりとその場を立ち去っていった。

 

「ば、ばけ、もの……」

 

 何が起きたのか本当の意味で理解出来ていないのだろう。何処か戸惑った雰囲気のまま周囲を取り囲んでいた野次馬も、しかし何かを感じたのだろう。シロ君を近付くと、大きく別れて一つの道が出来た。

 怯えるように奇妙なほどに静まり返った群衆の中を、切り開かれた道を歩くシロ君の背中を、気を取り直したボクが追いかける。

 シロ君は歩いていて、ボクは走っていて。

 直ぐに追い付ける筈の距離だったけど、でも、ボクがシロ君の背中に追い付いたのは、整理された街道から随分と離れた。廃教会に続く、廃墟が広がる区画に入った時だった。

 周囲には人気はなく。

 微かに背後から時おり風に乗って、虫の鳴き声に混じって街の声が聞こえるだけ。

 そんな静けさ。

 明かりは遠く。

 少し雲が多いけれど、それでも雲越しに見える月の明かりが僅かに足元を照らす中、シロ君の後ろを、ボクは歩いていた。

 ボクの足で歩いて付いていける程に、シロ君の歩く速度は遅い。

 それはまるで、ついていくことを、許していてくれているようで。

 だから、大丈夫だと思っているけれど。

 でも、どうしてもボクは声を掛けられないでいた。

 そのまま、無言の時が過ぎて、ただ、シロ君の影を追いかけるように、うつ向いたまま、歩き続け。

 瓦礫の―――廃墟が広がる中を。

 

 そして―――

 

「―――ぁ」

 

 ボクの足が、止まった。

 それは、俯いた視線の端に、見えた瓦礫の形。

 そこら中に広がる瓦礫の中で、どうしてそれだけ目に留まったのは。

 あの夜の―――あの時の夜が重なったから。

 それは、あの日の光景。  

 

「ここ」

 

 だから、その言葉がぽろりと、ボクの口から知らず、溢れていた。

 

「シロ君を―――見つけたところだ」

「―――」

 

 足を止めたのは、どちらが先だったのか。

 自然と立ち止まったボクとシロ君。

 沈黙が続いている。

 どのくらいだろうか。

 数秒にも、数十秒にも。

 もっと、長い時間にも感じるその瞬間。

 その間―――ただ、ボクの前には、シロ君の広い大きな背中が立ち塞がるようにそこにあって。

 壁、というよりも。

 それはまるで、大きな墓標のようで―――。

 そんな、変な感覚を感じていると。 

 

「ヘスティア」

 

 静かな、声が聞こえた。

 呟くような。

 囁くようなその声。

 はっと、顔を上げたボクの前に、シロ君がいつの間にか振り返っていて。

 ボクよりも頭一つ以上大きなその背で、見下ろして。

 でも、ボクには何故か、まるで見上げているように見えて(感じて)

 

「なに?」

 

 不思議と、ボクの声は震えてはいなかった。

 ただ、静かに。

 自分でも、不思議なほどに。

 優しいほどに、柔らかい声で、応えていて。

 

「オレは、どう―――すればいいのだろうな……」

 

 

 ―――ああ

 

 

「―――」

 

 その声を。

 その言葉を。

 

 

「シロ君」

 

 

 その姿を。

 その瞳を。

 見た瞬間。

 空高く―――天高く空を往く雲が、月明かりを隠して。

 シロ君の姿を闇に隠して。

 闇に、暗闇に、君の姿が掻き消えて。

 見えなくなって。

 それは、まるで、深い闇の中に、底のない泥の中に、落ちていくようで。

 そう、見えて。

 だから、ボクは、その時、咄嗟に、反射的に、自然と―――手を、伸ばしていた。

 

「ボクの―――」

 

 そして、口は、言葉を、紡いでいた。

 

ファミリア(家族)になろう」 

 

 驚くほどに、それは、すっと、ボクの口から出ていた。

 ずっと言えなかったこと。

 その理由は様々あった。

 あの男神が言ったように、ボクみたいな神が契約して、シロ君のためになるのかという、恐れ(不安)

 シロ君から断れるかもしれないっていう、恐れ(不安)

 他にも、色々ある。

 たくさん―――細々な事も上げれば、それこそ無数にあって。

 そして……その中には、()()()()()()()()()も―――うん、あった。

 だけど、その(あの)時のシロ君の姿を、声を見た時、ボクの頭にはそんな恐れ(不安)は欠片も浮かばなくて。

 ただ―――ただ、胸の奥が。

 奥底が、きゅっと、ぎゅっと、まるで締め付けられるような、痛いような、苦しいような。

 そんな気持ちで溢れて。

 その溢れ出す想いに、押されるように、ボクの手は、シロ君に伸ばされていて。

 だって、仕方がない。

 あんなに何でも出来て。

 飄々と、何でもこなして。

 余裕を見せて。

 冒険者の集団すら、怪我一つなく蹴散らして。

 そんな君が―――まるで―――うん。

 

 まるで、何処に行けば良いのか分からずに。

 

 うずくまって。

 

 小さくなって。

 

 泣かないように、ぐっと、唇を噛み締めている。

 

 そんな小さな男の子のように、見えて。

 

 

 

 

 そして、ボクが手を伸ばした先で。

 

 月の光が、流れる雲に隠されて。

 闇に隠されていた、シロ君の姿が。

 不意に吹き寄せた風によって流れていったその雲の向こうから、姿を見せた月の明かりに、照らし出されて。

 現れた、君の姿は。

 

 ああ、まるで、泣いているようで。

 

 まるで、笑っているようで。

 

 そんな、不思議で、複雑な、顔で。

 

 ぐっと、握りしめていた、手を、ゆっくりと、花開くように、綻ばせて。

 

 ボクの、手を、取って。

 

 指先に、触れた君の、硬く、暖かく、でも、怯えるような、微かに震えを感じながら。

 

 君の手を、掴んだ時。

 

 大きな。

 

 丸い、円を描く、大きな月が、君の背の向こうに上っていて。

 

 ああ。

 

 きっと。

 

 そうだ。

 

 あの日。

 

 あの時。

 

 あの夜。

 

 月の光が、ボクと君を包んだその時。

 

 きっと―――運命が、動き出したんだ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 おちていた。

 

 落ちていた。

 

 堕ちていた。

 

 墜ちていた。

 

 闇の中を。

 

 泥の中を。

 

 黒の中を。

 

 延々と。

 

 延々と。

 

 終わりなく。

 

 ただ、ひたすらに。

 

 冷たくて。

 

 苦しくて。

 

 痛くて。

 

 辛くて。

 

 どれだけの時を。

 

 どれだけの深さを。

 

 落ち続けていたのか。

 

 そんな思考すら浮かばない中、ただ、時折泡沫のように浮かび上がる思考が、時の流れを感じさせて。

 

 しかし、それも少しずつ、だが確実に削られ、減っていくのを感じるなか、ふと、何か、暖かいモノに、触れた気がして。

 

 既に感覚はとうになくなっている筈の、動かせない筈の腕を、その暖かさを求めるように、伸ばした時。

 

 指先に。

 

 手のひらに。

 

 暖かさを感じて。

 

 そして、それに導かれるように、落ちていた意識が。

 

 心が。

 

 魂が。

 

 ゆっくりと、浮上していき。

 

 そして。

 

 そして……。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「―――っ、ぁ」

 

 霞む視界。

 目を開いた感覚はある。

 なのに、磨りガラスを間に挟んだように、周りがはっきりとしない。

 全身は鉛に変わったかのように、指先一つ動く様子はなく。

 今、瞼を開いたことすら、奇跡にすら思えるほどに、体はまるで動かない。

 悪いことばかり感じるそんな中、唯一違う感覚を与えるのは、右手から感じるもので。

 それは、柔らかく、暖かな感覚で。

 

「ぁ」

 

 声ではなく、呼吸の音でしかない、しかしそんな音を聞きつけたのか、誰かが、顔を近付けてきて。

 霞む視界で、しかし、黒い、長い髪だけは、不思議と鮮明に見えて。

 その瞬間、それが誰なのか、判然としない思考の中でも、何故か浮かび上がった時。

 

 何時ものように。

 

 何でもない、何時もの、あの(日常)の声音で。

 

 彼女は微笑むように、その言葉を掛けてきた。

 

 

 

 

 

 

「お帰り、シロ君」

 

 

 

 

 

 

 

 





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