たとえ全てを忘れても   作:五朗

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第五話 とある娼婦と、とある男の物語

「―――御待ちしておりました、旦那様」

「っ?!」

 

 金の髪と、同じ色の獣の形をした耳、尻尾を持つ少女が、畳の上で三指をついて頭を下げている姿を前に、反射的に開けた襖を閉じて逃走しかけた体を、背後から聞こえた確かに近付く捜索の音が止めた。

 その一瞬の逡巡の間に、金色の獣の少女は下げていた頭を上げ、その美しい顔立ちにおさまった翠の瞳にシロの姿を映した。

 

「今宵の伽をつとめさせて頂きます―――春姫、と申します」

 

 ゆらりと揺れる尻尾の形状からして、狐人だろう少女は、歳の頃は16ぐらいだろうか。

 幼いとも呼べる顔立ちとは裏腹に、身体の線が分かりにくい筈の着物の上からも、その起伏に富んだ体つきが伺え。更には、鮮やかな紅色の着物をしゃなりと着こなすその様子と、何よりもその儚くも柔らかな雰囲気から、独特の色気を漂わせていた。

 夢幻の如く、幻惑な美しさを持つその少女の姿に、息を飲むシロであったが、直ぐにその自分を見つめる少女の翠の瞳に、見知らぬ者を見るような動揺がないことに気付く。

 と、同時に、シロは一歩前へと足を動かし、背後でそっと襖を閉じた。

 微かに聞こえていた探索の物音が遮断され、少女の静かな呼吸の音だけが、部屋の中を震わせた。

 

「……どうやら、待たせてしまったようだな」

「いえ、そのような事は御座いません」

 

 そっと、確かめるように言葉を紡ぎながら、シロは少女の様子を伺うが、返ってきた返事からも、その様子からも、何もおかしな所は見受けられなかった。

 そこでシロは確信した。

 この少女の言動といる場所から、まず娼婦で間違いはない。

 ここで客を待っていたようであるが、自分で客を呼び込んではおらず、紹介か何かで初めて会うだろう相手を待っているということ。

 そして、その客と自分を間違えている、ということを。

 ならば、今はその間違いに便乗し、捜索の目が何処かへ移るまで少しばかりここで時間を過ごすのが良いだろう。

 問題は、本来の客が来ることではあるが、その心配はあまりしなくても大丈夫だろうとシロは判断した。  

 何故ならば、ここへ来るまでに起こした騒ぎはそれなりに大きく。周囲にいた客にも被害を与えていたため、かなりの確率でここへ来るはずだった客も被害にあって、少なくとも今日中は動けないでいるだろうと思料したからだ。

 

「外で少し騒ぎがあってな、遅れてしまった。君は何か知っているか」

「……いえ」

 

 小さく頭を横に振る少女を横目に、シロは部屋の様子を伺う。

 魔石灯の明かりに照らし出されるその部屋は、部屋の目的からか、雰囲気を感じさせるために薄ぼんやりとした光で満たされ、何処か退廃的な様子を感じさせる。

 薄闇に包まれた部屋の奥に広げられた布団の姿からも、その様子を一層強く感じさせた。

 シロは部屋の姿を一通り確認すると、少女の視線を引き連れながら部屋の中央へと歩を進め、そこで腰を下ろした。

 腰を下ろしたシロの前には、小さな机と、その上に置かれた、朱塗りの酒盃と酒が入っていると思われる白いとっくりと呼ばれる酒器があった。

 シロはそれにちらりと視線をやると、朧気な雰囲気を漂わせる少女に声を掛けた。

 

「一つ、付き合ってもらえるか」

 

 

 

 

 

「「――――――」」

 

 どれ程の時が過ぎたのか、数分のようにも、数十分にも感じられる無言の時が過ぎた。

 シロは、少女が注いだ酒が入った朱塗りの盃を、ゆっくりと舐めるようにして口つける。

 部屋の様子や、相手として用意された少女の姿からして、かなり高級な娼婦だろうと考えたのは確かであったようで、口にした酒は明らかに上位のモノであった。

 時間稼ぎのように、ちびりちびりと酒を飲んではいるが、減った量からして時間はそんなには経ってはいない。

 このまま無言で時が過ぎるのを待つのも良いが、流石にそれは不審すぎるなと、シロは内心で溜め息を着くと、盃から口を離した。

 

「春姫、と言ったか」

「はい」

 

 目を伏せながら、とっくりを両手にそっと添えるように持つ少女が、小さくこくりと頷いて答えた。

 

「オレの名は、聞いているか」

「いえ。ただ、ここに旦那様が御越しになるので、御相手をして差し上げろ、と」

「そうか……」

 

 予想していたが、それが補強されたことに小さく安堵の息を着きながら、シロは隣に座る少女を見る。

 若い、狐人の少女だ。

 美しい―――様々な美少女、美女を見てきたシロでも、目を引かれる美しさを持った少女である。

 特に、少女と大人の間にだけ放てる危うい色香と、この少女―――春姫と名乗った少女の持つ独特な雰囲気も合わさって、夢や幻に見える美しさを放っていた。

 しかし、シロの目を引いたのは、そういった美しさではなく、その立ち居振るまいであった。

 最初に目にした、三つ指を着いた姿勢。そこから立ち上がり、傍まで近付く所作。座ってからも、とっくりを持ち、注ぐその動作からして、一朝一夕で身に付くモノではない。

 勿論、シロがこの歓楽街で多々見てきた娼婦の中にも、これに匹敵、あるいは上回る所作を見せる者はいた。

 しかし、何よりもシロが()()()として抱いたのは、他の娼婦からは感じられない何か。

 それは何かと問われれば難しいが、一番近いもので言えば―――育ちの良さ。

 それが、この少女からは感じられた。

 

「随分、着こなしているな」

「えっ?」

 

 ふと、溢れるようにシロの口から言葉が落ちた。

 それは、意識して漏らしたものではなかった。

 少女の着る着物と言う衣装。

 見慣れぬもの、見慣れたものを様々に感じるこの都市(オラリオ)で、時たま見かける東から来たという者達が身に付ける衣服。

 たまにそれを、東から来た者以外が身に付けているところを見たことがあるが、この辺りの衣服と勝手が違う事から、まともに着れずにいていた。

 極東の様相を見せる娼館にいる娼婦達も、ただ着ているというだけで、着こなしているのは殆ど見かけなかった。

 そのため、少女が余りにも自然に着物を着ている様子から、思わずシロの口からそんな言葉が出てしまっていた。

 

「ああ、いや……すまない。特に大した意味はないんだが」

 

 顔を上げた少女の何処かぼんやりしたような少女の翠の瞳が、一瞬その焦点を合わせシロを見た。

 その透き通った翠の中に、捕らわれかけたシロは、顔を逸らすように小さく首を横に振る、と。

 

「―――生まれが、極東となりますので」

 

 返事があるとは思わなかった。

 少女の様子から、客との対話を楽しむタイプではないと考えていたからだ。

 シロが顔を向けると、春姫は手元のとっくりを小さな机の上に置くと、そっと右の手の人差し指を、自身の首にはまった黒い首飾(チョーカー)―――ではない首輪をなぞっていた。

 俯いているため、その金の髪が簾のように少女の顔を隠し、どんな感情を見せているのかはわからない。

 

「随分と、遠いところから来たんだな」

「はい……旦那様は、何処から?」

 

 小さく、こくりと一つ頷くと、さらりと金の簾が揺れた。

 そして、微かに上げられた顔から見える翠の瞳が、シロを見つめる。

 それは探るようなそれではなく、単純な話の流れからの疑問の声であった。

 だからこそ、シロの口は、明確な『嘘』を形にすることは出来なかった。

 

「オレは……オレも、遠いところからだ」

「遠い、ところ?」

「……ああ」

 

 うっすらと残る、酒盃に満ちる透明な酒に、朧気な自身の顔が映りこむ。

 それを遠し、ここではない何処かを見つめているシロの横で、春姫の躊躇いがちな小さな声が上がる。

 

「その、どんなところで……」

「―――割りと温暖なところだったな。ただ、冬が長く、その分、それを越えた後の春に咲く花が……綺麗でな」

「春に、咲く花……」

 

 春姫の声に導かれるように、記憶(記録)の中の情景が思い浮かぶ。

 それは、何処で咲いていた花だろうか。

 誰と共に見ていた光景(もの)だっただろうか。

 それはもう―――記憶(記録)にはない。

 淡い桃色の花が満開に咲き誇る木々の下。

 自分は―――あの男はいったい、誰と共にいたのだろうか、そんな事を思いながら、シロはその花の名を告げた。

 

「桜、という花なんだが」

「あのっ―――旦那様はもしや極東の出身では?」

 

 その花の名を口にした瞬間、隣に座る春姫の体がびくりと震え、何処か焦った調子の声が、シロへと掴み掛かるように問われた。

 

「……少し、違うな」

「少し、ですか?」

 

 酒盃の酒が微かに波打ち、朧気に浮かんでいた自身の顔が儚く消えた。

 揺れて酒とは違い、シロの口から溢れた声には、一切の震えはなかった。

 

「ああ」

「そう、なのですか」

 

 シロの確たる声に、何処と無く肩を落としたような春姫の声が応える。

 無言の間が、再度部屋の中に満ちる中、シロが酒盃に残った酒を喉へと流し込む。

 空となった酒盃に、すっと、優雅な動きで、春姫が酒を注ぐ。

 酒盃に新たに満ちていく酒をシロが見下ろすなか、注ぎ終えたとっくりを手元に戻した春姫が、ぽつりと、呟いた。

 

「……先程口にした通り、私の生まれは極東なのですが、そこでも、桜と言う名の花が春に咲くので、少し、懐かしく思い」

「それは―――」

「よくある、話です」

 

 シロが何かを言い掛けるが、それを遮るかのように春姫が口を開いた。

 その声は、苦い笑いが混じった、疲れたそれであり。

 そうでありながら、何処か遠い、別の誰かの話をするような、空虚なものであった。

 そうして語られたのは、とある一人の少女の物語。

 遠い極東の貴族の家に生まれた少女が娼婦に落ちた物語。

 貴族として様々な束縛や貴族であることからの厳しい習い事や、寂しさを抱く事もあったが、少なくも友人はいて、何不自由のない生活であり、幸福と呼べる生活の中。

 唐突に起きた事件。 

 父親の大切な客人が持っていた品物―――極東に君臨する大神(アマテラス)に捧げるための神餞(しんせん)を寝ぼけて食べてしまったのだ。

 そこからは、まるで坂から転がり落ちるようで。

 父親から勘当され、その客人に引き取られたかと思えば、その者の帰路の途中に(オーガ)に襲われ置き去りにされてしまう。憐れそこで命を落とすかと思われたが、その間際に盗賊に命を救われ、生娘と確認されるやこのオラリオに売り払われたという。

 

「―――旦那様は不思議なお方ですね」

「ん?」

 

 自身の悲劇とも呼べる境遇を、ぽつりぽつりと、呟くように、しかし止まることなく語り終えた春姫が、何も聞かず黙って聞いていたシロに、口の端だけを小さく曲げるような微笑みを向けた。

 

「旦那様に……お客様に、こんな話をしたのは、初めてでございます」

「まあ、そういうこともあるだろう」

「そう、で、御座いますね」

 

 酒盃に口をつけ、誤魔化すような仕草を見せたシロの姿に、知らず、春姫の目尻が柔らかく緩んだ。

 また、無言の間が続くが、それは何処と無くふわりとした、緩やかなものに感じられた。

 それに乗せられるように、また、春姫の口が開く。

 

「……売られて、遠いここまで流れ着いてしまい。ですが、私はそれでも幸運だったのです」

「幸運?」

 

 先程の話の何処に、『幸運』と呼べるモノがあったのかと、思わずシロの口から疑問の声が上がるが、春姫はそれに対し、何かを思い出すかのように目を細めた。

 

「私のいた極東にも、ここ(オラリオ)のお話が伝わっておりましたので」

「それは」

「『迷宮神聖譚(ダンジョン・オラトリア)』」

 

 大切なナニかを、抱くように春姫はその言葉を口にした。

 

「ここ―――このオラリオで紡がれた多くの英雄の物語は、童話やお伽噺として、私の故郷まで伝わっていて。私はそれに幼少の頃より親しんでいました」

 

 一つ一つ、まるで大切な本のページを開くかのように、ゆっくりと、己の思いを口にする春姫。

 

「なので、ずっと昔から、ここ(オラリオ)には何時か来たいと、そう『夢』みていました」

 

 薄暗い灯りの中、浮かび上がる春姫の白い顔は、愛しいものを語るようにきらきらと輝いて見え。

 

「こんな形でではありますが、それが叶い、だから、私は幸運なのです」

 

 決して、嘘を口にしているようには見えなかった。

 その光に当てられたように、シロの視線はゆっくりと落ちるように下へ。

 酒盃の上へと落ちていく。

 

「そう、か……『夢』、か……」

 

 それは、意識して呟かれたものではなかった。

 誰に聞かせるのでもないそれは、僅かに酒盃の酒を揺らすだけで終わる筈であったが、春姫の獣の耳はその言葉をハッキリと聞き取った。

 だから、反射的に春姫はシロへと問いかけていた。

 

「―――旦那様にも、何かあるのでしょうか?」

「何か?」

 

 顔を上げたシロが、聞かれた意味が咄嗟に分からず疑問の浮かんだ視線を春姫へと向ける。

 

「……その―――……」

「――――――……ぁぁ、そう、だな」

 

 シロの視線の圧に驚いたのか、春姫が戸惑い、怯えるような様子を見せる。

 その姿に、シロが誤魔化すように思わず返事をしてしまう。

 

「それは、その……お聞きしても?」

「人に話すような、そんなものじゃ―――」

 

 おずおずとした声を向けてくる春姫に、拒否の言葉を返そうとしたシロであったが、自分を見つめる期待に満ちた目に―――。

 

「……『正義の味方』」

 

 ―――脱力するような調子で応えた。

 

「ぇ?」

「……『正義の味方』、だ」

 

 ぱちくりと瞬きを一つした春姫が、戸惑いを含んだ真ん丸となった目でシロを見つめた。

 

「それは……」

「笑うか?」

 

 春姫の視線から逃れるように、顔を逸らしたシロが頬を掻きながら口許を微かに曲げる。

 誰に向けたものか、皮肉げに浮かんだその口許を目にした春姫は、そっと目を伏せると小さく、しかし確かに首を横へと振った。

 

「―――いいえ……とても―――とても素敵な『夢』でございます」

「そうか……」

 

 口の中に含むようにそう答えると、春姫が顔を上げた。

 顔を上げた春姫に浮かぶ感情を目にしたシロは、思わずそれに絆されるように緩みそうになった口許をぐっと奥歯を噛み締めて耐える。

 そして、それを誤魔化すように口を開いた。

 

「あ~……極東には、その……どんな物語が伝わっていたんだ?」

「え……ぁ、はい。特に、私が好きだったのは、『迷宮神聖譚(ダンジョン・オラトリア)』ではないのですが、異国の騎士様が、聖杯を求めて迷宮を探索するお話をよく覚えています」

 

 唐突に振られた話題に対し、春姫は戸惑いながらも口を開く。

 口を一度開けば、それは自身が好きなものの話である。

 すらすらとその口から言葉が出てくる。

 その言葉を聞いたシロは、その話に覚えがある気がして、それに思い至った時、思わずその答えを口にしていた。

 

「それは―――確か、『ガラードの冒険』だったか?」

「っ!? 知っておられるのですか!?」

「あ、ああ」

 

 ぐいっ、と春姫がシロへと顔を寄せる。

 その姿が先程までの春姫の様子からは、考えられない勢いと言えば良いのか、強さと言えば良いのか。

 思わず後ろへと体を反らしながらも、春姫の問いに頷いてみせるシロ。

 

「で、ではっ、ランプに封じられた精霊を助けに迷宮に向かう、魔導士様のお話の事は―――」

「―――『魔法使いアラディン』」

「ではでは―――」

 

 初めて目にしていた時の、酌をしていてくれた時に感じた幽玄とも呼べる雰囲気は一体何処へ。

 シロへと掴み掛からんばかりの様子で、顔を寄せる春姫の瞳は、薄暗い魔石灯の光でもわかる程にきらきらと無邪気に輝いていた。

 それからも次々に春姫はクイズのように、幾つもの物語の断片を口にし、それにシロがその物語の名を答えるという事が続き。

 そして―――。

 

 

「本当に、好きなんだな」

「あぅ……お恥ずかしい」

 

 そこには、大分落ち着いたのか、我に返った様子の春姫が顔を伏せてぷるぷると震えていた。

 伏せた顔には、垂れた長い髪が壁となってどんな表情を浮かべているのか確かめは出来ないでいたが、それでも僅かに除く隙間から見える白い筈の頬の色が赤いことや、その縮こまって震えている姿から、恥ずかしがっているのは容易に想像が着いた。

 

「いや、恥ずかしがるような事ではないだろう」

「ぅ~……で、ですが、旦那様も良くご存じで」

 

 ふっと、笑いを含んだ声でシロが声を掛けると、顔の前に長い金の簾を垂らしたまま、春姫が覗く隙間から上目使いで見上げてくる。

 

「オレはそういうものではない。一時期、色々と調べていたからな。それに、物語に詳しい―――好きな奴がいてな。良く聞かされていた。特に『迷宮神聖譚(ダンジョン・オラトリア)』関係は良く聞かされたものだ。もし会うことがあれば、春姫ときっと気が合うだろうな」

 

 今頃は脱出している筈だろう少年の姿を脳裏に浮かべたシロは、容易にその少年と目の前の少女が物語の話題で盛り上がる様子を思い浮かべることが出来た。

 そんな想像を浮かべるシロをその隣で見上げていた春姫の口から、小さな吐息のような―――それでいて何か大切なものを撫でるような柔らかな声で、笑い声を上げた。

 

「……ふふ」

「どうした?」

 

 今まで耳にした控えめな笑い声とは何かが違うと思ったシロが思わず疑問を向ける。

 春姫は一瞬びくりと体を震わせるが、直ぐに遠い何処かを見やるように目を細めた。

 

「あ、いえ……少し、懐かしく思いまして……」

「―――春姫が物語が好きなのは、何か理由があるのか?」

 

 淡い光に照らされる春姫の翠の瞳がゆらりと緩く揺れるのを見たシロは、そっと顔を逸らすと話を変えた。

 そのシロの様子に春姫は気付かないまま、そっと目尻を指で拭うと、僅かに濡れた指先に視線を落とした。

 

「理由、と言いますか……ただの、憧れでございます」

「憧れ?」

「はい……何時か、私も本の世界のように、英雄様に手を引かれ、何処か別の世界へ連れていかれたい、と……そう思っておりました」

 

 ぽつり、ぽつりと春姫は独白するように言葉を紡ぎ始める。

 その声からは、悲しみではなく。

 憧憬でもなく。

 

「ただの……幼少の砌の幼い夢でございます。そう、ここ(オラリオ)に来られただけで、既に十分でございます」

 

 擦りきれて読めなくなった古い―――古い物語の本を捲るような、そんな様子が感じられた。

 

「それに……今の私には、連れ出してもらうどころか……そんな事を思う()()すら、ありはございません」

「―――資格?」

「……私は、悪い魔法使いに拐われた可憐な王女様でもなければ、魔物の生け贄に捧げられた、清純な聖女でもありません」 

 

 何でもないことのように、そう口にした少女に浮かぶモノは、自らの境遇に嘆く悲哀ではなく、理不尽に曝される怒りでもなく。 

 

「ただの―――娼婦、でございますゆえ」

「……」

 

 擦り切れ磨耗した後に残った。 

 穏やかにも見える、平らな絶望であった。

 

「未だ拙くはございますが、それでも私はこれまで多くの殿方に体を委ね、(しとね)を重ねてきました」

 

 滔々と語る己の境遇を春姫の姿からは、己の運命を受け入れた者に感じる一種の悟りのようなモノを思わせたが―――

 

「貞淑を守らず、お金を頂くために春をひさいでまいりました」

 

 浮かぶその口元に浮かぶ小さな笑みからは、諦めにも似た穏やかさを見せたが―――

 

「卑しい、そんな私に、どうして……どうして英雄(かれら)救い出して(連れ出して)くれるような、そんな『資格』がありましょうや……」

 

 だが―――少しずつ、しかし、確かに掠れていく少女の声が―――

 

「それに……何より、英雄にとって、娼婦とは()()の象徴です」

 

 淡い光りに揺れ始めた少女の翠の瞳が―――

 

「汚れている、そう自覚したあの日から、私にはそんな思いを浮かべる資格も……あんな美しい物語を読む資格も、なくなりました。『夢』を見ることも……憧れを抱くことも―――許されるわけがありません」

 

 気のせいと切り捨てられそうなほどの、微かな口元の震えが―――

 

(わたくし)は、ただの娼婦でございますので」

 

 何よりも―――ポツンと、取り残された―――見落とされたかのような、小さな……小さな幼子のようなそんな姿が―――

 

「……気分を害するようなお話をしてしまい、申し訳ありません。未熟ではありますが、一層心を込めて御奉仕をさせて頂きま―――」

「―――確かに」

 

 ―――己の中のナニカを震わせたのだろう。

 

「『娼婦』を救う『英雄』の『物語』は、聞いたことはないな」

「っ」

 

 何かを期待していた訳ではなかった筈であった。

 慰めの言葉を望んでいた訳でもなかった。

 それでも、どこかで慰めのようなものを期待していたのかもしれなかった。 

 そう、自分と同じ様に、多くの物語を知るこの人ならば、私の知らない物語(救い)を知っているのではないかと。 

 そんな甘えがあったのだろう、シロの言葉に、春姫から苦いものを噛みしめたような音がした。

 

「――――――少し、用を思い出した。ここまでで結構だ」

「え?」

 

 俯き、黙り込んだ春姫を前に、シロは一度何かを言おうとしたのか、口が開きかけたが、直ぐにそれは閉じられ、再度開かれた時、そこから出たのは別れの言葉であった。

 

「楽しい時間だった……これは本当だ」

「旦那様……」

 

 唐突に終わりを告げられ、戸惑いを露わにする春姫に向け感謝の言葉を送る。 

 春姫は戸惑いから抜けだせないまま、それでもシロの感謝の言葉に笑みを返した。

 そのままシロは、春姫を置いて出入り口である襖の前まで行くが、そこでピタリと足を止めたまま、襖に手をかけずにその動きを止め。

 そして――

 

「――春姫」

「――?」

 

 ――襖を開けぬまま、その口を開いた。

 

「確かに、オレは『娼婦』を救う『英雄』の物語は知らない」

 

 そう――娼婦を救うような、そんな英雄の物語は知らない。

 しかし――

 

「ただ―――……とある馬鹿な男の話なら、知っている」

「旦那、様?」

 

 王女さまではなく、聖女さまでもない……ただの一人の少女に手を伸ばした男の物語ならば、知っていた。

 

「その男はな、馬鹿げた理想を―――……子供染みた『夢』を抱いた男でな」

 

 自身の内から生まれたものではなかった。

 憧れたものから、救ってくれたものから、無理矢理――勝手に奪ったような、そんなものではあったが、それでも、確かにそれは男の形を造る確たるモノであった。 

 譲れない、大切なモノであった筈だ。

 

「……叶う筈のない、そんな『夢』を追っていた男だったが、しかし、ある日、その『夢』に少しだが……手を掛ける事が出来るかもしれない―――そんな事件に出会ってしまった」

 

 そこに至る為の道筋などわからぬまま、たださ迷うように日々を過ごす中、出会ってしまった。

 

「その男は、幾つもの戦いを潜り抜け。その中で、己が目指していた『夢』を―――そうすべきと目指していた(願っていた)やるべき事を前にし―――」

 

 それを手に入れようとした訳ではない。

 ただ、関係のない者達が巻き込まれ傷付くことがないようにと、目指すべき道が見えたような気がして走り出した先で――

 

「―――『夢』を、捨てた」

「……―――ぇ?」

 

 男は選んだ。

 

「代わりに男が手に取ったのは、一人の少女の手だった」

 

 ただ一人(唯一)を選び、それ以外の全て(正義)を捨てた。

 

「―――誰が、悪かったのか……だが、少なくとも、決してその少女が自ら望んだのではなかった」

 

 彼女に抗う術などなく。

 他に選べる道もなかった。

 崖から落とされるかのような道の先に、それはあった。

 

「それでも、彼女は()()()()()()()

 

 そう、それはまるで―――どこかの、誰かのように。

 

「『世界の敵』に」

 

 御伽噺の英雄でも救えない―――救われないそんな存在(悪役)に。

 

「生かしておけば、世界すら滅ぼしてしまいかねなかった。だから、誰もが彼女の死を願い、彼女すら、自身の死を願った」

 

 たった一人。

 世界に取り残されたかのように。

 どうしたら良いのか。 

 どうすれば良いのか。

 何も分からず。

 泣くことも出来ず―――泣いていることにも気付いていない。

 

「しかし、男はその少女の手を取った」

 

 そんな少女の手を、あの男は掴んだ。

 義務(呪い)ではなく、意思(願い)を持って。

 

「……その『物語』は、最後はどうなるのでしょうか」

「―――……残念ながら、オレはそれを最後まで見れなかった」

 

 背中の向こうから聞こえる、春姫の声からは、どんな思いが秘めてあるのかはかることは難しく。 

 ただ、それは静かな声であった。

 

「……何故、それを(わたくし)に」

「さあ……どうしてだろうな…………」

 

 逃げ込んだ先で出会っただけの娼婦に話すようなことではない。 

 なのに、何故こんな話をしたのか、その理由は自分の事でありながらわからない。

 何よりも、何もしてやれない娼婦(少女)に向かって、こんな意味のない―――儚い希望のような……毒にしかならないような話をしてどうしようというのか。

 

「―――旦那様……その方が抱かれていたというのは、どんな『夢』、だったのですか?」

「―――馬鹿げた『夢』だ」

 

 ただ、どうしても―――放っておけなかったのだ。

 

「―――……顔も知らない、人々の幸せ……『世界の平和』だ」

「それは―――」

「―――」

 

 その理由は、もしかしたら―――

 

「最後に―――お聞きしても、よろしいでしょうか……」

「何を、だ」

 

 シロの手は、未だに襖にかかってはいない。

 襖の前で、ただ、春姫に背中を向け立ち尽くすようにそこにいた。

 そうして、その背中を引き止めるように―――それとも押すかのように、春姫は問いかけた。

 

「あなた様のお名前を」

 

 答える義務も、義理も、理由も何もない。

 例え答えたとしても、偽名を口にしても何ら問題はない。

 春姫もその事は分かっている筈だ。

 歓楽街(ここ)へ来るような者も、いるような者も、その多くが本当の事など口にしてなどいない。

 そんな事は、分かっている。

 分かっているのに―――――― 

 

「……シロ、だ」

 

 返した言葉からは、偽りの形をしてはいなかった。

 

「っ―――はい……ありがとう、ございます」

 

 返事があったことか、それとも、その中に何かを感じたのか、答えを受け取り頷く春姫の瞳に、きらりと光るモノがあった。

 

「――――――」

「またの、お越しをお待ちしております」

 

 無言のまま、襖に手を掛けて出ていくシロの背中に、深々と三つ指をつけて頭を下げる春姫の声がそっとふれるようにあたって。

 

「―――シロ様」

 

 パタリと襖が閉じた。

 

 

 

 




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