たとえ全てを忘れても   作:五朗

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第六話 それぞれの後日

「―――それじゃあ、言い訳を聞こうか?」

 

 にっこりと満面の笑みを浮かべたヘスティアが、その笑顔とは裏腹な平坦な声でそう言葉にした時、張り詰めていた空気が一層強張ったのをその場にいる者達は感じた。

 【ヘスティア・ファミリア】の新たなる本拠である『竈火の館』の一階にある広い居室の中で、今、一柱の神の前で、断罪されるかのように()()の人間が正座をさせられていた。

 結論から言えば、ヘスティア以外の者の考えが甘かったのだ。

 少しだけならばバレないだろう。

 直ぐに戻れば。

 言ったら絶対反対されるし。

 言えば絶対ついてくる。

 等と言ったそれぞれの考えから、命の後をつける事を全員がヘスティアに黙っていたため、それがバレてしまった結果、こうなったということである。

 折しもあの時(命を追跡した日)は、ヘスティアは夜遅くまでバイトでいない。となれば、帰ってくるまでに戻ればどうとでもなると考えていたのだ。

 しかし、命を追跡した先が『歓楽街』という予想外の場所であり。

 更には一番色んな意味で危険であるベルが、そんな所で行方不明となり。

 それを命を追跡していたベル達を更に追跡していたシロが、助け出したはいいが、脱出の時間稼ぎのためと言え、娼婦の一人と長時間一緒にいることとなり。

 様々な予想外が重なりあい、色々とあって最初の一人が本拠へ帰ってきた時には早朝となっていて。

 玄関のドアを開けた先には、両手を組んで仁王立ちするヘスティアが出迎えていたという結果となったのである。

 そして現在、最後に本拠に帰ってきたシロが、満面の笑みを浮かべながら出迎えたヘスティアの前で、ベル達4人が正座をしている姿を見ると、丁度用意されているかのように空いていた真ん中の位置に、そのまま無言で入って正座をした後、先程の一声があったのである。

 ヘスティアの言葉に、正座をする一同は一瞬互いに目を見合わせた後、すがるような視線をベルから受けたシロがその口をゆっくりと開いた。

 

「……言い訳、と言うと?」

 

 気分は爆弾処理である。

 ヘスティアが何処まで事情を把握しているのかということで、これからの言動が決まるが、代表に選ばれた(押し付けられた)シロは今さっき帰ってきたばかりで、事情が全くわかっていない。

 命が歓楽街に向かった理由も、ベルが【イシュタル・ファミリア】の本拠で脱出までに何をされたのか等、本当に色々なことがわかってはおらず、また、ヘスティアがどれだけそれらを把握しているのかもわかってはいない。

 つまり、どれが聞いては、言ってはならないこと(地雷)なのかと言うことがわからないのである。

 

「どうして、『歓楽街』に行ったのかな?」

「っ」

 

 まず一つ。

 ヘスティアはシロ達が歓楽街に行った事を知っている。

 ベル達に聞いたのか、それとも別口で知ったのかは不明であるが、その理由までは聞いてはいない、もしくは知っていてあえて口にしていない、か。

 シロはチラリとベル達を見て、その様子を伺う。

 特に動揺は見られない。

 つまり、歓楽街に行った事については、ベル達から事前に聞いていたということ。

 場所が問題なのか?

 確かに、過保護であり、潔癖なところのあるヘスティアが、夜中に黙って団員達が全員『歓楽街』へ行ったとなれば、怒って然るべきである。

 だが違う。

 そうではない、と。

 これまで様々な修羅場を潜り抜けてきたシロの直感が訴えていた。

 ()()()()()、と。

 ごくりと、一つ息を呑んでシロが再度口を開く。

 

「ベル達から聞いていないのか? 命が―――」

「シロくん」

「―――っ」

 

 そっと、組んでいた両腕をほどいたヘスティアが一歩、シロへと近付いた。

 

「実はね。ある程度事情は聞いているんだよ。だから、シロ君が帰ってくるまでは、どうしてボクに黙っていたのかと、その事を怒るつもりだったんだ」

 

 また一歩、シロへと詰め寄る。

 シロの左右に正座していたベル達が、座った状態のまま、どうやってかじりじりと離れていく。

 その様子を視界の端で捕らえていながらも、シロは蛇に睨まれた蛙のように動けないでいた。

 

「だけどね、シロ君」

 

 手を伸ばせば届くほどの間近に、ヘスティアがいた。

 そうして、そこで足を止めたヘスティアが、鎌首を獲物へと伸ばすように、その口元をシロの耳元へと寄せ。

 すんっ、と一つ鼻を鳴らした。

 

「―――どうして、君の身体からそんな甘ったるい臭いがするのかなぁ?」

「ッ!!?」

 

 ゆらり、とヘスティアの長い黒髪が揺れている。

 ざわざわと風もないのにたなびくそれは、不気味だとか言うよりも、ただひたすらに―――怖かった。

 

「いやまてヘスティア歓楽街へ行けばどうしてもこういったモノ(移り香)はついてしまうものであり別に何かやましいことをしたわけでもなんでもなく―――」

「シロ君」

「―――……あ~……ヘスティア」

 

 舐めるようにシロの耳元から正面へと顔を動かしたヘスティアが、にっこりと笑う。

 そして、何かを察したシロが、最後まで諦めんと口を開こうとするも。

 

「ちょっと、向こうでお話しようか」

「……なんでさ」

 

 出てきたのは、諦めの言葉であった。

  

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「―――またの、お越しをお待ちしております」

 

 窓も扉も締め切ったその部屋の中で、ぽつりと呟かれた言葉が溢れ落ちた。

 時刻は昼を少し過ぎた時刻。

 本来ならば、開かれた窓から差し込んだ光が、部屋の中を明るく照らし出している筈であった。

 しかし、外からの光は、まるで牢屋のように締め切られたその部屋の中には届かず。

 部屋に幾つか置かれている魔石灯の明かりだけが、僅かに部屋の中を照らし出し。

 まだ日中であるにも関わらず、まるで夜のような雰囲気がその部屋の中を漂っていた。

 そんな中で、何処か夢うつつのようにも感じられる少女の声が響く。

 

「ふふ」

 

 さら、さらっ、と畳の上を長い金色の尻尾がなぞり。

 耳の奥がくすぐられるような音が聞こえる。

 

「そんな()()が、何時あるというのでしょうか」

 

 何処か悲しげな、しかし確かに小さな笑いも含んだ、そんな吐息混じりの声は、誰に言うでもなく、聞かせるものでもなく。

 ただ、文字通り溢れたようなそんな言葉であった。

 

「へぇ、随分と楽しそうじゃねぇか嬢ちゃん」

「っ??!」

 

 だからこそ、唐突に帰ってきた声に少女は―――春姫は心臓が飛び出るほど驚いてしまった。

 実際に、正座した状態で数Cは飛んでいた。

 それほどまでの驚きを見せ、畳の上に転がりながらも慌てて声が聞こえてきた方向に顔を向けると、そこには一人の男が壁を背に立っていた。

 二十畳程はあるだろう広さがある部屋の中は、必要最小限の魔石灯の明かりしか光源がないため、端に立つその男の姿ははっきりとは映らない。

 身長や体格、服装ぐらいはわかるが、顔立ちまでははっきりとはわからないが、その姿を見た春姫は、驚きからの混乱からは立ち直ることが出来た。

 知っているからだ。

 冒険者ではないとはいえ、獣人である自分にも気付かれずに締め切られたこの部屋の中に入ってきたとことも、彼であれば驚くことではないことを、春姫は良く知っていた。

 いや、春姫だけではない。

 少なくとも、【イシュタル・ファミリア】に所属しており。

 ある程度事情を知っているものであれば、誰もが理解していた。

 

「ど、どうして、ここに?」

 

 いまだに動揺はあるが、この男が唐突に現れることはそう珍しい事ではなかった。

 以前、愚痴るようにお目付け役を与えられたという者が言っていたが、目を離した隙にいなくなるどころか、目を離さないでいたのに消えてしまうと。

 そう口にした者のレベルは3。

 ベテランと言ってもいい力を持つその彼女が、嘆くようにそう口にしたのを春姫は聞いていた。

 問題は、どうしてこの男がここにいるのかということ。

 話したことなど殆んど所か片手で数える程もない。

 初めて会った時もイシュタルから紹介されただけで、話しかけた事すらなかった。

 相手も春姫に話しかける事もなく、最初にあった時に一瞥された後、一度も興味すら持たれはしなかった。

 いや、一度だけ、鼻で笑われた事はあったかな、と春姫が思い出していると。

 

「別に、何か用があるってわけじゃねぇんだが」

「っ」

 

 思いがけず返事があった。

 その声は、ひどくつまらなそうなものであった。

 軽蔑も、嫌悪も、苛立ちもなく。

 ただ、無関心に近いつまらないというもの。

 暗く、その顔にまで明かりが届かずどんな顔をしているのかわからないが、それでも春姫の全身が、痙攣するかのようにびくりと震える。

 蛇に睨まれた蛙という言葉があるが、それどころではない。

 蛇に睨まれた蛙はせいぜい動けないだけであるが、今、春姫は動けないどころか魂を削られているかのような心地であった。

 汗すら流すこともできない凍えた心地の中、息も出来ず春姫は黙り込んでしまう。

 春姫から伝播するように、薄ぐらい一室の中が凍えた空気で張り詰めていくなか。

 

「どーすんだ」

「ぇ?」

 

 唐突に、何気ない声でそれがほどける。

 それは先程の男から感じられたような、路傍の石にすら感じるものすらない、そんな無関心がなくなった。ただ普通の問いかけであり。

 だからこそ、不意打ちのようなそれに、春姫は困惑しか返せないでいた。

 

「いや、だからどうするって聞いてんだよ」

「っ―――」

 

 知るものが聞けば、それは残酷な質問であった。 

 何が―――とは、流石に聞かずともわかっていた。

 男がどうしてそんな事を聞いているのかはともかく、何をどうするのかと聞いているのかはわかっている。

 だからこそ、春姫は答えられなかった。

 ()()は、考えても仕方がないことであるからだ。

 あと一週間も満たない内に訪れるそれは、きっとここ(オラリオ)に売られた時から決定付けられていたものだから。

 いや、もしかしたら、生まれてきた瞬間、それは運命付けられていたのかもしれない。

 春姫がそう考えてしまうほどに、それに納得してしまうほどに、眼前にまで迫ったそれは、決して変えられないものであるから。

 だから、春姫は答える事は出来ず。

 ただ、向けられる視線から逃げるように黙りこみ顔を伏せてしまう。

 

「―――ちっ」

「ッ!?」

 

 小さな舌打ちの音が響く。

 それは、力なく項垂れるように垂れていた春姫の狐耳にも届き。

 鋭く鞭打たれたように春姫の体がびくりと震えた。

 

「なぁ嬢ちゃん」

「―――」

 

 すぐ傍から声が聞こえた。

 手を伸ばせば届くような位置から、声が聞こえた。

 顔を伏せていたとは言え、常人よりも感覚が鋭敏である獣人である筈なのに、近付いてきた気配を感じさせないどころか、締め切った筈のこの空間の空気すら僅かすら揺らがさずに近付かれていた。

 細かく震える春姫の様子を構うことなく、男の言葉は続く。

 

「なんで、声をあげねぇ」

「ぇ?」

 

 春姫の固く閉じられていた口元から戸惑いの声が小さく上がった。

 それは、未だに男がここにいることでも、質問の内容でもなく。

 その声が、何処か気遣うようなものに感じられたから。

 思わず顔を上げてしまった春姫の眼前に、その男の顔があった。

 

「―――っ」

 

 初めて、まともに真正面からその男の顔を見た春姫は、魅入られたかのように大きくその瞳を開いて見つめてしまっていた。

 美しい顔立ちである。

 ここオラリオでは、多くの美男美女がいる。

 歓楽街であるここでは、特に美しいものは人や神を含め春姫は多くその目で見てきた。

 主人である神もまた、美を司る神であり。

 故に、ある意味『美』に対してそれなり以上の()()がある筈の春姫であっても、魅入られるほどの『力』がそこにはあった。

 特に、その眼である。

 視線を感じる度、顔を伏せて震えていた春姫は、その男の瞳が紅い色であることも初めて知った。

 血のような、それとも紅玉のようなと言えば良いのか。

 どちらが正解というよりも、どちらも正しいといったその瞳の色は、今は微かな魔石灯の明かりに照らされ、妖しく輝いている。

 

「おかしな嬢ちゃんだな、あんた」

 

 暫く無表情でじっと春姫を見ていた男の顔が、小さく、その口元を歪めた。

 

「諦めてんのかと思えば、それもちげぇ。だが、受け入れているわけでもねぇ」

 

 じろじろと春姫に顔を寄せて見ていた男は、一度小さく鼻を鳴らすと、すっと滑るように体を伸ばした。

 春姫の戸惑いや混乱は未だ収まってはおらず、何を言っているのか、したいのかが全くわからないままであったが、男が僅かに離れたことで全身に感じていた圧力が僅かに減り吐息を吐きだす。

 

「意外とずぶてぇのかもしれねぇな」

「へ?」

 

 何を言われたのかわからず、思わず間抜けな声を上げてしまった春姫に、口元を歪めただけの笑みを向けた男は、そのまま背中を向けると歩き出していき。

 外へと繋がる戸へと手を掛けると、背中を向けたまま春姫に声をかけてきた。

 

「―――下ばっかり見ててもつまんねぇだろうが。最後ぐらいは、何かに身体を縛り付けてでも前を見た方が、色んなもんが見えるかもしれねぇぞ」

 

 そう助言のようなそうでもないような言葉を放つと、男は一つ頭を掻いた後、戸を開いて部屋から出ていった。

 残された春姫は、暫く男が出ていった戸をじっと見つめていたが、少しずつ垂れていこうとする自身の頭にはっと気付くと、ゆっくりと立ち上がり締め切られた窓へと近付いていきそっとそれを開いた。

 開かれた窓から差し込まれた光が、さぁっと薄闇に沈んでいた部屋の中を照らし出す中、眩しさに細めた春姫の瞳に、蒼く晴れ渡った空が映った。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

()()()()ッ!!」

 

 部屋から出て歩いていた男の背に、女の声が掛けられた。

 苛立ちが多分に含まれたその声音に、足を止めた男―――ランサーと呼ばれた男は振り返ると、170Cはあるだろう褐色の肌をした、やたらと露出の多い高身の女にニィとその牙のような歯を見せつけるように笑みを向けた。

 

「よぅ、アイシャじゃねぇか」

「ようじゃないよっ! 一体何処をほっつき回ってたんだよっ!!?」

 

 ランサーがひょいっと片手を上げて応えると、足音も激しく近付いてきたアイシャと呼ばれた女が指を突きつけてきた。

 

「別にここ(歓楽街)からは離れちゃいねぇよ」

「当たり前だっ! この前みたいにメレンにまで行かれたらたまったもんじゃないッ!?」

「別に釣りぐらいいいだろ」

 

 ちなみにメレンとは、オラリオから3K程離れた位置にある港町であり、さらに言えば、オラリオから無断で出るのは色々な意味で危険な行為であった。

 特に、これから大事を控えている【イシュタル・ファミリア】にとって、今は少しでも問題を起こしたくはない時期でもある。

 だが、このランサーと呼ばれた男は、度々姿を消したかと思えばメレンで良く釣りをするという悪癖があるのであった。

 

「あんたは良くてもこっちは洒落にならないんだよっ!? あんたと違ってそうここ(オラリオ)からひょいひょいと出られるわけじゃないんだって説明しただろっ!?」

「ああ~わかってるわかってる。だから行ってねぇだろ――――――……最近は」

「何か言ったかい?」

 

 ぼそりと最後に小さく呟かれた言葉は、幸いにも聞かれなかったらしく。

 しかしアイシャの鋭い視線にランサーは小さく肩を竦めて返した。

 

「いんや何にも」

「この―――っはぁ、もういい、イシュタル様がお呼びだよ」

 

 ふざけた態度のランサーに、再度怒鳴り付けようとしたアイシャだったが、肺の中に入れた空気はため息となって口から吐き出されることに。

 

「イシュタルが? めんどくせぇな」

「おい、絶対に行けよ。前に無視したことで、私らがどれだけあんたを探し回ったか」

 

 ぶちぶちと文句を口にするアイシャから逃げるように、くるりと背中を向けたランサーは歩き出す。

 アイシャはじろりとランサーの背中を一瞥すると、一瞬だけ口元を緩めると離れていく後ろ姿を追いかけた。

 

「待ちなランサー。あんたのことだ、目を離したらそのままいなくなっちまうかもしれないからね。一緒に行くよ」

「へいへい」

 

 ぷらぷらと片手を上げて応えるランサーの後ろ姿に、厳しい口調とは裏腹に緩んだ口元をしたアイシャは、それが知られないように後ろの位置からは離れなかった。

 青い身体の線がはっきりとわかる、何処の国のものかもわからない奇妙な服を着ているランサーの姿は、どの位置から見ても絶景であった。

 そのため、ランサーを知る【イシュタル・ファミリア】の団員達の中では、特にアマゾネス達の中ではどの位置から見るかで派閥が出来ているほどである。

 アイシャとしては背後―――つまりは後ろ姿で。

 部位で言うところ、特にお尻が素晴らしいと、一人うんうんと頷きながら前を行くランサーを見ていた。

 そんな浮わつき、口元を緩ませていたアイシャであったが、不意に風が吹いたように誤魔化していた心の中に、さっと黒い影が差した。

 

 

 

 

 

 先程、ランサーが出てきた部屋は春姫の部屋だった。

 春姫の事を思い、影が差した心の中が、一層闇深くなった気がした。

 もしかしたらという思いがあった。

 絶望しかない。

 終わりが決められたあの少女の先に、小さな明かりが見えたかもしれない。

 そう思った時があった。

 この男(ランサー)が、あの女神(イシュタル様)に紹介された時。

 その時の、イシュタル様の様子から、姿から、何か変わるのではないかと、そんな考えが浮かんだ。

 それほどまでに、この男の纏う雰囲気は別格だった。

 不思議な男であった。

 近寄りがたいようでありながら、親しみを感じられて。

 恐ろしいと感じながら、暖かさを思わせて。

 魅了された。

 私だけじゃない。

 あいつ(ランサー)を知る【イシュタル・ファミリア】の女達は、全員があの男に魅了された。

 特に酷いのは、私たちアマゾネスの女達だ。

 確実に全員がこいつを誘っている。

 美形だからと言う理由じゃない。

 強いからだ。

 見ただけでわかった。

 この男は、私らが知る誰よりも強いと。

 そう、あのオッタル(都市最強)ですら、この男には及ぶまいと確信するほどに。

 だからこそ、強い男に惹かれる私ら(アマゾネス)は一目見た瞬間、この男に魅了されたのだ。

 とは言っても、あの女神(イシュタル様)の魅了とは違う。

 一度どろどろになるまで―――自分が自分でなくなるまで堕とされたからこそわかる。

 あんな呪いのようなモノじゃなく、自分の内側から沸き出すかのような、引き寄せられるかのような。

 きっと、物語で語られる英雄ってのは、こういう奴なんだろうなと、自然に思えてしまうような、そんな男であった。

 きっと色んな影響があるだろうなとは思った。

 少なくともこの男の取り合いで、荒れるだろうなという思いはあったが、予想に反してそういうのはなかった。

 皆無ではなかったが、大きな騒ぎになることはなかった。

 せいぜい、普段見かける客の取り合い程度でしかなかった。

 それもこの男の魅力の一つだろう。

 かくいう私も不思議なことに、一発相手をと誘いをかけたのだが、気付けば話している内に満足してしまっていた。

 初めての経験だった。

 だけど、それが思ったよりも悪くない。

 それは私だけじゃなく、他の女達もそうみたいで。

 少なくともあいつがここに来てから、誰かとやったみたいな話は聞いてはいない。

 どうしてもやりたいとか言っていた女もいたけど、正面から真面目に誘おうとしても何故か上手く誘えず、かといって女は度胸と襲いかかっても簡単にあしらわれ。

 ならば夜這いをかけてやろおうとしても、肝心の寝床がわからずじまいで。 

 今のところ成功した奴の話は聞かない。

 やっぱり駄目だったと、女達の嘆きとからかう笑い話が良く耳にするようになった。

 この男が現れる前までにはあった。

 昼と夜が逆転した街であり、男と女の欲望が渦を巻く、混沌としたこの歓楽街に満ちていた、どろりとした腐臭すら漂わせていた泥沼のような空気が、いつの間にか気にならないほど薄れていた。

 ぴりぴりとした。

 常に苛立ちを含んでいるような雰囲気を纏わせていたイシュタル様も、この男が来てからは、かつて時おりにしか見たことがない優しげな笑みさえ、良く見かけることになって。

 以前のぴりぴりとしたイシュタル様しか知らない若い奴は、何処かそれを見て戸惑っているのも良く見るようになった。

 そんな流れに押されたのか、あのフリュネ(ヒキガエル)でさえ、最近は大人しい。

 まあ、昨日はあの白兎をめぐって久々に暴れたけども、それでも中に別人が入ってんじゃないのかと思うほどに、最近のあの女は大人しかった。

 それもこの男が何かしたのかねぇと、前を行く尻から、尻尾のように背中で揺れる青い髪へと視線を上げながら思っていると。

 

「何さっきからじろじろ見てんだよ」

「っ―――別に良いだろ。伝言役の役得だよ。尻ぐらい見せな」

 

 突然足を止めて振り返ったランサーの言葉に、びくりと驚いて反射的に思考がそのまま口から出てしまっていた。

 

「尻ぐらいって―――オレの尻何か見て何が楽しいんだよ」

「はんっ、あんただって良く私らの尻を良く見てくるだろう。それと同じさ」

「そうかぁ? 全然違うと思うがな」

「へぇ……否定しないんだね」

 

 少し驚いた。

 以前から不思議には思っていた。

 この男と寝たという女がいないことから、イシュタル様が独占していると思っていたけど、本人いわくそういうこともないと言っていたから、女達の間では、もしかしたら女に興味がないんじゃないかと言われていたけど。

 誰が言うでもなくそうじゃないとは皆感じていた。

 その理由が、時折ランサーから視線を感じるからだ。

 その視線の先が、他の男とあまり変わらない位置だったから、この男がそっちの気がある奴じゃないと、自然と考えていたけど。

 私らの誘いを断る姿から、さっきの指摘は否定されると思っていたのに。

 

「あん? 何で否定する必要があんだ?」

「何でって、あんたが私らの誘いを尽く袖にするからだろ。そんな興味があるなら、あんたなら好きに出来るだろ」

「あ~……まぁ、それはそうなんだがな」

 

 ぽりぽりと頭を掻くランサーの姿を見ながら、心の何処かで冷笑する声が聞こえる。

 

 『娼婦をこんな男が相手するわけがないだろう』、と。

 

 別に私は自分の事を蔑んではいない。

 自分の生まれ(アマゾネスであること)も、娼婦という仕事も、誇りをもって生きている。

 だけど、それを受け入れられない―――認められない奴らがいることも、また知っている。

 歓楽街の外に出て、私が【イシュタル・ファミリア】の者である―――娼婦であることを知った瞬間に見せる、男達の目を、女達の目を。

 その目が気に入らない、煩わしいと、不快に思っていた時もあったけれど、今ではもう気にすることなどない。

 それがどうした、と鼻で笑ってしまう。

 しかし、今、心の何処かでこうして身構えてしまっているのは、そう思ってしまうのは、あの子の影響かと苦笑いしてしまう。

 あの夢見がちな、純粋で純心な。

 愚かで苛立つあいつのせいかと、そう笑って。

 だから、何気なく口にした。

 

「それともなんだ、娼婦の相手なんかはしてられないってのかい」

 

 まあ、多分はぐらかされるか、話を変えられるのではと思いながら、そう口にした言葉は―――

 

「は? それの何が関係あんだ?」

 

 心底意味がわからないとでも言うような、困惑した顔だった。 

 

「何がって……だって、ほら、あんたうちらの誰ともヤってないじゃんか」

「まぁ、確かにヤってはないな」

 

 その顔や声、態度から、ランサーは本気で私が言った言葉の意味が分からないようだった。

 その様子に、自分でも何故かはわからないが動揺する心のままに、それならばどうして私らの誘いを断るのかと聞いてみると、ランサーはため息を吐くようにしながら頭を一つ掻いて見せた。

 

「だから、その理由が私らが娼婦だからで」

「いや、そこがわからん。何で女を抱かない理由で娼婦が関係すんだ?」

 

 首を傾げて眉根を曲げて困惑を露にするランサーに、私は脳裏に『娼婦』を前にした奴等の姿が思い浮かぶ。

 

「……時々いるんだよ。汚い、穢れているって卑しい娼婦を嫌う奴がね」

 

 そうだ。

 意味がわからない。

 まあ、『歓楽街』の外にいる、まだまだ若い擦れていない女の冒険者ならまだわかる。 

 まだ男女の機微も、どろどろとした色や欲を知らない。きらきらとした夢見がちな女や、男がそういった対象である(娼婦)らを忌避するのは、今ならまぁ、何となくわかる。

 しかし時折いるのだ。

 女を買いに『歓楽街』に来たくせに、『娼婦』だというだけで下に見て、『汚い』や『穢れている』とのたまう馬鹿どもが。

 じゃあ、そんな(娼婦)を買いに来たあんたらは一体何様何だと聞いてやりたい。

 と、そう考えていると、

 

「はぁん……『汚い』、『穢れている』―――ねぇ」

 

 いつ近づいて来たのか、ランサーが目の前に立っていて。

 

「何だ―――ぇ?」

 

 すっと、自然な動きで私の首筋に顔を寄せて来て。

 

「―――良い香りだ。これの何処が『汚く』て『穢れている』のか。オレにはさっぱりわかんねぇな」

 

 すっ、と鼻を鳴らして私の首筋を嗅いできた。

 低い、少しの笑い混じりの声が、私の耳を震わせた。

 その振動は耳を通り越し、内側から私の体をぶるりと震わせ。

 一瞬にして、まるで強い酒を一気に飲み干したかのような熱が全身に走った。

 

「ちょ、あ、あんた……」

 

 喘ぐような私の声に、小さく含むような笑いで受け止めたランサーは、そのまま未練なんて欠片もない様子で私から顔を離していった。

 その飄々とした姿が、自分の明らかに余裕をなくした姿とあまりにもかけ離れていて。

 つい、顔どころか全身を赤く染めながらもランサーを睨み付けてしまう。

 それに対し、小さく肩を竦め、ニヤリとした笑みをランサーが返してくる。

 

「オレがお前らとヤらねぇのは、イシュタルがヤるなって言ったからだよ」

「は、はぁっ? 何だそりゃ。ど、どうしてイシュタル様がそんな―――」

 

 常々私らにあんだけヤれヤれ言っている癖に、どの口で、肝心な男にヤるなと言うのだと別の意味で顔に血が上る思いを抱いていると、ランサーはニヤリとした笑みを苦笑いに変え、何処と無く肩を落としてるような様子を見せた後、くるりと私に背中を向けて歩き出した。

 

「知らねぇよ。こっちもヤらねぇって誓ったからには、破るわけにはいかねぇもんでな。全く惜しい事をしちまったぜ。これがオジキなら自殺もんだな―――いや、オジキなら絶対に了承しねぇか」

 

 後ろにいる私に片手を上げてひらひらと振ってみせながら歩くランサーは、足が長いこともあって、あっと言うまに距離が離れていく。

 私は慌てて駆け出してランサーの隣に並ぶと、牙を向くようにして言い寄ろうとする。

 しかしランサーは、私が隣に立つと、ニッと笑みを向けると駆け出していった。

 

「ちょ―――ま、ら、ランサーっ!? だからそれは一体どういうことだって―――って、待てこらランサーッ!!?」

 

 あっという間に小さくなる後ろ姿を追うために駆け出した私の口元はきっと、緩んでいただろう。

 

 

 

 

 




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