たとえ全てを忘れても 作:五朗
赤焼けた空が黒く染まり。
小さな星々と欠けた月が黒を彩る空の下。
オラリオの中心にある白亜の巨大な塔の最上階にある一室。
樫の木で出来た扉の先にあるその部屋の主人である一柱の女神が、深いスリットの入った黒いドレスから伸びる、大理石の如く白く滑らかな足を惜しむことなく大胆に組んだ姿で椅子に座っていた。
都市の中心である
金の輝きが窓からそそぎ、銀の髪が柔らかく浮き上がるように輝くその光景は、あらゆる者を魅了し虜にする程の魔性の色香があった。
燻らせるワイングラスから聞こえる微かな音すら聞こえてしまうほどの静寂が満ちるなか、ポツリと、月明かりを見上げたまま、フレイヤが囁くように声を上げた。
「―――もう、大丈夫なの?」
「はい」
問われた声に、応える声が一つ。
それは腰かけるフレイヤの直ぐ傍。
月光の輪から僅かに逸れた薄闇の中から聞こえた。
気付いた瞬間驚くだろう。
巨岩から削り出したかのような巌のような男がそこにいた。
壁の如き巨躯を誇る男が、闇に溶け込むようにまるで気配を感じさせずに立っていた。
オラリオ最強、否―――世界最強とも詠われる男、オッタルがそこにいた。
「不調と聞いていたのだけど」
「申し訳ありません」
くるりとワイングラスを一つ回したフレイヤが、月明かりから視線を外し、揺れる赤い葡萄酒の水面に視線を落とした。
「そう」
だが、その最強と言う名も、今は大分揺れていた。
―――そう、
揺るぎなかった筈のそれが、大きく揺れる事件があった。
これまでも確かにそれを揺るがすような事はあったが、少し前に起きたそれは、今までのものとは決定的に違った。
そう―――敗北という形で。
腕を断ち切られ、死の寸前まで追いやられた。
実際、後少しでも手当てが遅れていれば危なかったという。
それほどまでに、この
だが、そのオッタルを倒した者が、次の確固たる最強者であるのかというと、それもなくなってしまった。
だというのも、その男は―――佐々木小次郎と名乗る男はもういないからだ。
とある男。
少し前から色々な意味で、この
その戦いは、
勿論、フレイヤもその目で見た。
決着の瞬間を、世界が斬り裂かれ、斬り抉られるその光景を。
神として生まれ。
気の遠くなるような時を過ごした中であってさえ、見たこともないその光景は、オラリオ中の人よりも寧ろ、その意味を知る神を熱狂させた。
あれは誰だ、何者だ、と。
だが、あれから暫く過ぎたというのに、全くと言って良いほどに情報は上がってこない。
それを成した一人は、黄金の光の中に消え、もう一人は最近目を覚ましたというが、それに関して話そうとせず。
関係者に聞こうとしても、本当かどうか何も知らないと言う。
ただ強い。
それだけしかわからない中、しかしその影響は大きかった。
【フレイヤ・ファミリア】にもその影響はあった。
あの戦いの後、これ以上ないだろうと思われた『
死闘染みた訓練のそれが、真に死闘となり。
既に再起不能だけでなく死亡者も出ていた。
その熱に当てられた中には、勿論ファミリアの団長たるオッタルも含まれていた。
だが、
具体的に何がおかしいのかはわからないのだそうだが、訓練もその様子も何時もと変わらない。
圧倒的な強さで周りを蹴散らし、ただひたすらに己を鍛える姿は何時もと変わらないが、何かが変であるという。
フレイヤもその話を耳にし、オッタルの様子を見ていたが特におかしな所はなかった。
だが、やはり何か違和感のようなものを感じたのは、確かであった。
フレイヤもそれを形にすることは出来なかったが、気にするほどのものではないと判断し、そのまま放っておいていた。
むしろ、今はそれに意識を向ける余裕はなかった。
とある男神からもたらされた情報。
自身が焦がれる少年の事を、ある女神に知られたと言う。
フレイヤは迷っていた。
どうするか。
一番大事なことは揺るがない。
やるべき事もわかっている。
行動を起こすことに躊躇いはない。
だが、動けない。
少し前までは、そう、精々半年前までは、こんな事はなかった。
気軽に、それこそ都市を飛び出すことさえ気ままに行動することすら出来たのに、今は、一つ何かしようとしても、それがどう動くのかが掴めず、どう何に影響するのか把握することが出来ず迷いが生まれてしまう。
それはフレイヤだけでなく、あの自由気ままに遊び回っているように見える
この間会った際も、何時もの飄々とした姿の中に、以前は感じられた余裕のような余分が消えていた。
イレギュラーが多すぎるのだ。
暇を持てあまして地上に下りてきた神々に取って、知らない、分からないという未知―――
確かにあの戦いを目にして騒いでいる神は多くいる。
どちらかと言えば、それが大多数ではあった。
だが、少しでも目端の聞く神であれば、興味や楽しみは確かにあるだろうが、その根底には警戒が確かにあるのだ。
それがどう影響するのか分からず、流石のフレイヤであってもヘルメスからもたらされた、ベル・クラネルに執心している事実をイシュタルに知られたという事に対する対応に動けずにいた。
己に一方的に敵愾心を向けるもう一柱の『美の女神』について考える。
何時の頃からか覚えてはいないが、その殺意にも感じられる嫉みに対し、これまでフレイヤは対応を取ったことはなかった。
そんなことは、フレイヤの意識を捕らえるようなモノではなかったからだ。
周囲の者達を押さえる方が、よっぽど気を取られる程度のものであった。
それが、自分の一番大事な、柔らかで暖かな場所に乱雑に乗り込もうとしている。
それを思うだけで、胸がざわつく。
白い彼。
初めてその存在を知った時から決めていた。
絶対に手に入れると。
それは確定的な絶対事項で。
揺るがないことであった。
例え今現在、別の【ファミリア】にいたとしても、それは関係ない。
最終的に自分の手元にあればいいのだから。
まるで物語の英雄のように、強く、その輝きを増しているその姿を見ているだけで、心が満ちているのを感じられた。
まるで初めて恋を知った少女のように高鳴る鼓動を感じながら、少年の事を想うフレイヤは、ワイングラスを傾けその紅を口に含む。
するりと甘さが喉に流れ込み、吐息を一つ。
「―――あなたは、私のモノよベル・クラネル」
「―――っぁああ~~~……」
白い雲が幾つか数えられる空の下、長い長いため息が糸を引くように響いていた。
周囲に建物の残骸が散らばる廃墟の中で、元は何処かの塀だったと思われる膝下程しか残っていないモノの上に腰を下ろした一柱の女神がそこにいた。
頭の上で二つに分けて垂らした長い黒髪を揺らしながら、自分の膝上に両肘を置き、組んだ両手の上に顎を乗せた格好で長いため息をつき終えた女神―――ヘスティアは、ため息をついて、胸の中で渦を巻く何かが僅かでも軽くなったのか、視線を上げると流れ行く白い雲を視線で追った。
「ほんと、どうしよ」
ぽつりと誰にも言うでもない独白は、鉛染みた疲れが感じさせる。
ヘスティアの瞳は空を行く雲を映してはいたが、その意識は別のモノに捕らわれていた。
それはついさっき、朝帰りした自分の『ファミリア』の者に対しての説教を終えた後、それぞれから話を聞いていた時の事であった。
何でも事の発端である命が歓楽街に行った理由である、歓楽街にいたと聞いた故郷の友人が何と、シロ本人が曰く、緊急避難的な行動の結果一緒にいることになった娼婦その人であったというのだ。
まさかという感じで互いの情報を擦り合わせた結果、間違いないとわかるや否や、命はまたも歓楽街へ向かおうとしたが、それは流石に皆から止められていた。
まあ、朝となり、夜に開く歓楽街は閉じているだろうから今行っても意味はない。
しかしそうは言っても命にとってはようやく手にいれた手がかりだ、逸り焦るその様子にこのままでは何をするか分からないと判断したヘスティアは、まずは無断で行動したことなどに対する罰として、全員に奉仕活動を命じた。
時間稼ぎと落ち着かせるための時間を与えるためのそれを、シロをお目付け役にした後、皆を
今はまだ青い空ではあるが、太陽は間もなくオラリオを囲む高い壁の向こうに消えかけている。
直ぐに青から赤へと空は変わっていくだろう。
そんな事を頭痛を紛らわすように、ヘスティアはぼんやりと思い浮かべていた。
最後に確認した時は、命は大分落ち着いているようには見えた。
しかし、あの様子では確実にその友人とやらに会いに行くために歓楽街に行くのは間違いない。
行くだけなら問題はないが、無理矢理助け出そうとする可能性がある。
まず間違いなくそれは失敗するが、最悪下手をすれば【ファミリア】同士の争いになるかもしれない。
リリもそれを恐れているらしく、奉仕活動中にそれについては何度となく命に警告している様子が見られた。
命は一応はそれに理解を示していた様子ではあるが、どうなることやら。
そんな心配がまたも胸の奥から鎌首をもたげ、ヘスティアの歪んだ口元の隙間から小さなため息が漏れた。
「っはあぁ、全く次から次に……」
命の事は大きな問題ではあるが、他にもヘスティアの頭を悩ます事は多い。
借金もそうではあるし。
最近何かとうるさい他の神の連中もそうであり。
あの『戦争遊戯』からこっち、落ち着く暇がなかった。
だが、しかし、何よりもヘスティアの頭を悩ましていたのは、自分のファミリアの一人であり。
多くの問題の中心にある男の事であった。
「―――どうしたら、いいのかな」
『
その結果は―――不明。
『分からない』―――シロを診たミアハは、そう口にした。
何故、目を覚まさないのか。
何故、
脈はある。
呼吸もしている。
肌には暖かみがあり、鼓動もはっきりとしている。
しかし、眠るシロは恐ろしいほどまでに
少し意識を別に移せば、目の前にいる筈なのに見失ってしまうほどまでに。
まるで肉体とは別のナニかが、砕けてしまったかのようで。
その事にベル達も何となく気がついていたようではあったが、ただの気のせいだとそこまで気にする様子はなく。
シロが目を覚まさない理由も、その存在感の薄さの原因もなにも分からないと、そうミアハは申し訳なく告げた。
このまま目を覚まさずに、何時の日か
幼子が親にすがるように、または母親が眠る子を安心させるように、シロが目を覚ますまでの間、殆どの時間を手を握って過ごしていた。
幸いにも、シロはヘスティアの手から消える事なく目を覚ました。
その時には消え入ってしまいそうな存在感の薄さも弱まっていて、ずっと眠っていたとは思えない程に元気に動き回り、ベル達を鍛えたりもしていた。
けれど、時折ふと、思い返したようにシロの存在感が薄れていることがあった。
シロにそれとなく聞いてみても、特に何もないとばかり口にして、それが本当なのか、それとも誤魔化しているのかは、ヘスティアでもわからなかった。
しかし、シロの問題は
シロが失踪する前からの問題もまた、解決していなかった。
それは、『ステイタス』の更新。
シロが目を覚まし、ある程度落ち着いた日に、
以前と同じく。
いや、それ以上だった。
ヘスティアが更新のために流した
シロが【ヘスティア・ファミリア】であるという僅かな痕跡は、ただその背中に刻まれたモノだけで。
その上を流した血がすがるように垂れていくのを、ヘスティアは涙で滲む瞳で見つめていた。
ステイタスの更新が出来ない。
そんな事は、聞いたことがない。
神が地上に降りてきてから長い時が過ぎたが、そんな話は噂でも聞いたことがなく。
ヘスティアよりも多くの事を知るミアハもまた、知らないと言う。
何せ絶対にないと言っても良いほどに有り得ない事であるからだ。
何故なら『ステイタス』とは『
神と契約することで、形となる筈のない『経験』を己の『力』とし、様々な能力や可能性を形として現出させる人智を越えた力である。
それが拒絶される事など有り得ない―――筈であった。
しかし、現実としてシロの『ステイタス』は更新できず、ただ残滓のようにその背中に形だけ刻まれていた。
分からないことだらけであった。
それでも、ヘスティアだけが知らないという話ならそれで良かった。
だけど、それだけじゃない。
最近、知らないことが、わからない事が起きすぎている。
未知だ、知らない事だ、不思議だ不可思議だと他人事のように喜ぶ神々であっても、困惑するような事が続いている。
佐々木小次郎。
あの男もそうだった。
『
死体すら残さず、まるで黄金の光に溶けるように消え去った謎の男。
そして、その男はまず間違いなくシロと関わりがあって。
そもそも、そのシロ自身の事すら何もわかっていないのだ。
出会ってから、まだ半年も経っていない。
離れていた時期もあったが、そうであっても、もう何年も一緒にいるようなそんな感じがするほどにシロの存在は馴染んでいて。
記憶がない。
その言葉を聞いて、何度か、それとなく尋ねた事はあった。
しかし、実のところそれは答えを期待していたわけではなかった。
ただ、ヘスティアは安心したかっただけなのだ。
尋ねる度に『わからない』と否定する言葉を聞きたくて。
何かを思い出して、
シロがいなくなった時、怒りがあった、悲しみもあった、寂しさもあった。
そして、やっぱり、という思いもあった。
何時の日か、ふと、消えるようにいなくなってしまうのではないかという思いが、常にあったから。
―――だけど。
風が吹き、細めた瞳の中で茜色が一瞬走り―――闇の中に溶け込んだ。
本当にいなくなってしまうとは、決して思わなかった。
だから、不安がるベル君に大丈夫だと自信を持って答えていた。
ボクの傍からいなくなってしまう何て事は、本当の本当に―――思わなかったから。
確信があった。
シロ君は決していなくなったりしないって。
だって、ボクは覚えてる。
周囲が闇に沈んでいく。
灯り始めた明かりは遠く、瓦礫に満ちたここには届かない。
次第に空に輝き始めた星々と、沈んだ太陽を追うように昇り始めた月だけが、僅かに照らし出している。
ぼんやりと、浮かぶこの瓦礫の中で、目を閉じる。
思い出すのはあの時。
決して忘れないあの日―――あの時の光景。
伸ばした手を掴んでくれたあの時。
ボクは確かに見た。
眩いばかりの月の光に照らされながら、ボクの手を取ってくれたシロ君が浮かべていたその顔は―――。
だから、大丈夫。
いなくなったりなんかはしない。
「だって」
手を伸ばす。
光出した僅かに欠けた月に向かって、広げた手をあの日のように伸ばして。
「君は、ボクの【ファミリア】なんだから―――ね、シロ君」
バルコニーの欄干に身体を寄せて視線を落とせば、そこには眩いばかりに数えきれないほどの魔石灯が輝き、まるで地上に広がる満点の星空のようで。
負けじと夜空に星々と少し欠けた月が照らし出す地上から響く騒々しい男と女の嬌声も、空に近い宮殿の最上階に位置するそこには、川の小波よりも小さく聞こえていた。
手摺に手を添えた姿で、目を細めてこの光景の全てを治める
そう言えば、あの日もこんな夜だった。
あれは、もう何年も前のことのようにも、または、つい昨日のことのようにも思われた。
実際は、一月もまだ経ってはいないが、それほどまでに衝撃的な出会いだった。
あの日は、そう―――かなり苛立っていた。
理由はあの頃の何時もの苛立ちの原因であるフレイヤの事だ。
細かいところは覚えてはいないが、確か偶然街中で出会って何か言い争いをしたのだったか。
どうその言い争いが修まったのかは覚えてはいないが、不満の残る終わりだったのだろう。
我ながらかなり苛立っていて、夜中になっても苛立ちは収まらず。
ますます募るばかりで、だから、少しでも気を粉らわせるために、秘蔵の酒を持ち出したのだ。
その酒の名は『
それも時折外へと出される失敗作としてのそれではなく。
【ソーマ・ファミリア】の中でだけ消費される筈の、神さえ酔わせると詠われる正真正銘の『
それは随分と前に、【ソーマ・ファミリア】の団員の何人かを誘惑して落とした後、持ち出させたもので。何人か失敗はしたが、一瓶だけ女神の魅了と『
『
そのため、瓶の中にはまだ半分以上『
そんな酒瓶とグラスを片手に、バルコニーに出て。
酒瓶の蓋を開けてグラスに注ごうとした時だった。
「―――そんな顔して呑むんだったらオレにくれねぇか」
あの男と出会ったのは。
全くの気配のない場所から聞こえた声に、驚愕して顔を向けた時、私の世界は白く染まった。
そう感じてしまう程の未知が、そこにはいた。
青い、肌に張り付くような衣服を身に纏った男が、欄干の上に両足をついて猫のように立っていた。
右手に掴んだ紅く染まった槍を肩に乗せ、頭
の後ろで一つに縛った長髪が、尻尾のようにバルコニーに吹く風に揺れていた。
その格好も、手に持った武器も目を、意識を奪うには十分なインパクトはあった。
しかし、それ以上に目を惹いたのは、私の意識を奪ったのは、その紅い瞳。
まる裸のまま、草原に
固まったまま動かない私に、そいつはニヤリと一つ口を歪めると、からかう調子で話しかけてきた。
「それ、その匂いからして神酒の一種だろ。んな不機嫌な顔して呑むにはもったいねぇだろ」
すっと、音もなく欄干から降りた奴は、一歩私に近付いてきて。
その姿に、咄嗟に私は後ろに下がってしまっていた。
恐れるように、怯えるように、興奮するように。
何故なら。
「―――っ
「あん?」
その男が、
神は、見間違わない。
神は、目の前にいる者が神であるのか人であるのかを間違えることはない。
人は、目の前にいる者が神であるのか人であるのか分からない事がある。
神がその神としての存在感を消せば、人の目では神と人との判断はできなくなってしまう。
しかし、神の目は、例え相手がどれだけ神としての存在感を消そうとしても、誤魔化そうとしても
そう、その筈なのに。
「おま、えは―――『神』なのか? それとも『人』なのか?」
そいつがそのどちらなのか、私には分からなかった。
「へぇ―――さぁてな。あんたにはどっちに見えるんだ?」
「それは―――」
「まぁ、どっちでもいいか、そんな事は」
「っ」
気付けば奴は、私の手から神酒の入った酒瓶を盗み取っていた。
まるで魔法のように奪った酒瓶を一嗅ぎすると、なんの躊躇もする事なくぐいっと口を着けて仰いだ。
「馬―――お前何を―――っ?!」
それは自殺行為そのものだった。
たった一口で神さえ酔わせる事が出来る『神酒』である。
常人ならグラス一つ飲み干せば心が蕩けてしまい、もう帰っては来れなくなってしまう。
冒険者であっても、例え高レベルの者であったとしても、一気に飲んでしまえば下手な毒よりも、いや、毒でない分更に厄介だ。
咄嗟に手を伸ばした私の目の前で、大きくぐびりと喉を鳴らしたそいつは、ゆっくりと酒瓶から口を離して。
「っかぁ~~うめぇ!」
「な―――」
感嘆の声を上げた。
その口調から、その瞳からは、神酒を飲んで堕ちた者に見られる淀んで澱んだ気配は欠片も感じられず。
ただちょっと良い酒を呑んだかのような、そんな姿で。
「何とも、ないのか?」
「はぁ? そんなに強い酒かこれ? この程度で酔いつぶれるような奴ぁいねえだろ、ほれ、あんたも呑みな」
「ちょっ」
無造作に傾けてくる酒瓶に反射的にグラスを差し出すと、奴は無遠慮にどぼどぼと神酒を注いできて。
呆然とする私に笑いかけては、神酒が入った酒瓶に口を着けては無邪気とも言えるようなそんな顔で笑って。
それを見ているうちに、知らず私の顔にも苦笑染みた笑みが浮かびはじめ。
「は―――そうだ、それだ。湿気た
「は? 笑って」
頬にやった手のひらには、確かに笑みの形に持ち上がった感触が。
それは普段、周りに魅せるために意識して浮かべるそれではなく。
『美の女神』として浮かべたそれでもなく。
何時ぶりか、我知らず浮かんだものであって。
「―――ふ」
「あ?」
「はははははっ」
「何だ? 呑まずに酔ったか?」
「ああ―――そうかもしれないね」
いつの間にか胸に渦巻いていた苛立ちは霧散していて。
ただ、腹の底から震える笑いが口から漏れて。
小娘のように目尻に涙を滲ませながら笑い声を上げた私は、グラスに入った『
それは確かに『
神の意識すら酔わし溶かしかねない力のあるそれで。
酔って堕ちて行こうとする意識を、神としての矜持で押し止め。
たった一杯で幸福感で酩酊しかけて歪む視線の先で、飲み干す勢いで、しかし確かな意志ある目のまま酒瓶を傾ける彼がいた。
一体何者なのか。
神すら溶かす『
しかし、そいつは確かにそこにいて。
だけど、あまりにも現実離れたその男に、目を離せばもう二度と会えない気がした。
だから―――。
「あんた、景気よく呑んでるけど、その酒幾らするかわかってるのか」
「……あ~、やっぱまずかったか?」
「それはもう、二度と手に入らないかもしれないものだよ」
片手に持った酒瓶を振るうと水音が微かに鳴り、その音から残りの量を悟って浮かべた苦笑いを私に向けてきた。
「そりゃ、困ったな。で、どうする?」
困った様子で、しかし楽しげな声でそう尋ねて来たから、こちらも満面の笑みで返して告げて上げた。
「勿論、身体で払ってもらおうか」
「あ~……それは色々と怖そうだな」
普通そんな事を言えば、どれだけ自制心のある男や神であっても喜んで飛びかかってくる筈なのに、そいつはただ酒瓶と槍を持った手を横に軽く広げ、おどけるようにそう口にした。
その時、何故か私は断られてたというのに、驚く事も、苛立つ事も、不満に思うこともなく。
ただ、口元に浮かべていた笑みを更に深くしていた。
「断れると思ってるのかい?」
「さて、ただこういった誘いに乗るのはヤバイって色々と経験があってな。それに野暮用があってな。そんな事に煩ってる暇はないんで」
「へぇ、野暮用ねえ。で、それって?」
「ま、色々とあるんだよ」
肩を竦めて首を横に振るその顔は、何処かからかうような仕草でありながら、こちらを見つめる瞳に宿る強い紅光には油断ならないモノがあった。
それをゆっくりと宥めるように、柔らかな動作で更に一歩詰め寄って、何でもないことのように私は提案した。
内心では激しく動揺する心を、意志と意地で決して表に出さず。
「ふぅん……ねぇ、ならそれなら暫くここにいないかい?」
「は? そりゃどういう意味だ?」
「ただ
欄干に僅かに身体を寄せながら、楽しげにこちらを見てくる彼に引かれるように、更に一歩を進める。
まだ、遠い。
手を伸ばしても指先すら掠りはしない距離。
「まあ、そうだな」
「で、その用事とやらが終われば、少しは暇になるんじゃないか」
「否定はしねぇな」
小さく一つ頷く。
「なら、その用事が終わったらでいい。こっちの用に力を貸してくれないか?」
「はん?」
一瞬訝しげな目をしたが、直ぐに視線で続きを促してきた。
それに合わせ、一歩更に歩み寄って口を開く。
「あれだったら、あんたの用とやらにも手を貸すが―――どうだい?」
「……っは、いいぜ。そうだな、それも悪くねぇ」
すっと、一瞬だけ目を閉じた奴は、その一時で結論を出してしっかりと頷いてみせた。
その時、私は胸から溢れた歓喜の衝動のあまり、堅く固めた筈の
それこそ、これまでの
今にも鼻唄を歌いそうな、いや、実際歌っていたかもしれない私をにやにやと見下ろす奴に気付いた私は、直ぐに切り替えるように一つ咳払いをすると、頭に浮かんだ重要な懸念に対処するための事を告げた。
「契約成立だ。ああ、ただ一つ条件があるんだが」
「あん? 条件だ?」
「ここは私が治める『歓楽街』で、色んな子がいるんだけどね。せめてそっちの用とやらが終わるまでは、ここの子に手を出さないでくれないかい」
普段ならばそんな事は口にしなかった。
逆に女達をけしかけて決してここから離れなくさせていた。
別に嫉妬とかそういうものではない。
―――ない筈ではある。
しかしそれは重要なことだった。
この男は危険であると、神としてというよりも、女の勘として告げていた。
そう、この男は魅力的すぎると。
特に【イシュタル・ファミリア】に数多く在籍する『アマゾネス』の女達にとっては、毒にも成りかねないほどの魅力がこの男にはあったからだ。
そんな、普通の男なら不満を持つだろう提案に、しかしやはりというか、拍子抜けというか、特に何の未練も感じさせずにそいつは了承した。
「ま、別に構わねぇが、理由を聞いてもいいよな?」
「うちの娘達の仕事に支障が出そうでね」
もし、娼婦の誰かと関係を持ってしまえば、きっと―――いや、絶対にその娘はこの男に溺れてしまうという確信があった。
それは、もしかしたら―――。
「はっ、了解了解。いいぜ、誓ってやるよ。『オレの用件が終わるまではここの女には手を出さない』ってな」
「そう、ならこれは―――」
だから、あと一歩まで近づいた時、私は更に一歩を進めてしまったのだろう。
もしこれが、何らかの害意を持ってのものだったのならば、きっと奴は確実に避けていたか、防いだ筈だった。
しかし、それはただただ純粋な、心のままに動いたものであり。
『美の神』としての自然な動きで。
男であれば決して避けられないモノであって。
だからこそ、これほどの男でもそれを止められなかったのだろう。
「―――っ」
「詫びと礼だ」
唇が奴のそれに触れた時、確かに私は全力だった。
その一瞬で、これまでの最高をそこに込めた。
それは最高の冒険者であっても。
それは至高の神であっても。
男ならば一瞬で蕩けさせ堕とす事の出来る程の『
「っ―――は、だから女神って奴は油断がなんねぇな。これはオレから手を出してねぇから問題ねぇよな」
こちらを見下ろす彼の瞳には、変わらずその血のような紅の瞳と輝きがあって。
「――――――」
間近でそれを改めて見た私の心臓が、大きく―――大きく一つ鳴った。
まるで心臓を槍で貫かれたような痛みが、大きな鼓動と共に走って。
全身に血潮が一気に巡り、茨のように痛みが身体中を斬りつけて。
顔が血に濡れたように紅く染まっていくのを自覚して、だから、それを隠すように一歩後ろに下がって私はそいつに背中を向け誤魔化すように聞いたのだった。
「はは、そうだねぇ……ああ、そういやあんたの名前―――聞いてなかったね」
その問いに、『
危惧した通り、その男を知った女達は仕事が疎かになるほどに夢中になっていた。
今は大分落ち着いてはいるが、もしも、あの時奴と約束していなければ、今ごろどうなっていたのかと思うと、少し憂鬱になってしまうほどだ。
そんな事を思い、グラスを傾けて残っていた酒を空にすると、口元に笑みが浮かんでいることに気付いた。
こうやって、自然と笑っている自分がいることを、我ながら不思議に思う。
今までも、機嫌の良い時はあった。
しかし、こんな穏やかとも言えるものはこれまでになく。
何処か、気恥ずかしい。
誤魔化すように、夜景に背を向けて一つ伸びをする。
良い感じに眠気が来て、ベッドに寝転べば直ぐにでも寝れそうだ。
それが、楽しみ。
そう、楽しみなのだ。
最近は、寝ることが楽しみになっていた。
それは、寝ること自体が楽しみではなく―――その時に見る
場面は途切れ途切れの飛び飛びで、しかしそれでも一つの物語であることは間違いではなく。
とある男の―――英雄の物語。
神と人との間に生まれた男の波乱に満ちた
決闘―――戦争―――競争―――争い―――陰謀―――嫉妬―――愛―――
目まぐるしく怒濤のようなその生涯に、私は圧倒され魅了された。
その時々に魅せる彼の姿の虜となった。
今宵は一体どんな
「楽しみだ。なぁ―――」
高鳴る鼓動に身を任せ、瞳を閉じる。
紅い槍を持って戦場を駆ける彼の背中を追う。
風よりも速く大地を駆け、どんな戦士や英雄よりも輝く彼を、その
「―――クーフーリン」
感想ご指摘お待ちしています。