アリスソフト製作のランスシリーズの南条蘭と北条早雲が箱根を旅行するだけの二次創作小説です。
一応、ヤマもオチもありますが、どうなんでしょう……。
この小説に登場する地名は、全て箱根に実在する観光地・景勝地です。
このキャラが分からなくても、箱根に興味があれば楽しんで頂けると思います。
箱根観光に行かれる予定のある方、是非とも彼らの足跡を辿ってみて下さい。
原稿用紙にして25枚ぐらいの短編小説です。

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蘭と早雲の箱根八景

 庭の寒椿の花が萎れて落ちた。冷たい冬のあいだ、雪が降っても風が吹いても咲き続けていた尊い花だ。蘭は、落ちた花の傍らに蹲んで、砂礫が付着した花を拾い上げた。鼻を近付けて匂いを嗅いでみる。香りはほとんど無い。でも、淡い清らかな甘い香りがしたような気がした。

 花を持って、早雲の屋敷に向かった。彼は秋から年末にかけての忙しい時期は比較的、天守の最上階にある国主の間にいることが多いが、仕事が少ない年初から夏にかけては、小田原城下にある早雲の私邸にいることが多い。今の時期は、ほぼ間違いなく、そこにいるはずだ。

 小田原の城下町は、この寒さの中でも人々の往来で賑わっていた。蘭は、若紫色の着物に、濃紺の外套を羽織って、白い息を吐き吐き、街路を歩いた。路沿いの町家からは、魚を焼く匂いや、饅頭を蒸す良い香りが漂って来ていた。津軽塗の下駄が、よく磨かれた石畳を踏むごとに、コツコツと軽快な音を立てた。

 しばらく歩くと、大きな武家作りの邸宅の前に着いた。早雲の屋敷だ。重厚な門の前にある、呼び鈴を鳴らす。すると、すぐに使用人が門の戸を開けて出てきた。彼女は蘭を見て、「あ、蘭さま」と小さく言って、中に通してくれた。

「早雲さまなら、居間にいますよ」

「ありがとう」

 蘭は一言礼を言って、玄関をくぐった。この屋敷の構造なら知り尽くしている。当然、居間がどこにあるかもだ。使用人もそれを知っているので、いちいち蘭を案内しようとはしなかった。

 居間には囲炉裏があって、囲炉裏の中では、天井から自在鉤で吊るされた鉄瓶が湯気を吹いていた。早雲は、その囲炉裏の脇に座って、書を読んでいた。蘭が居間に入ると、こちらに気付いて、そっと書を閉じた。

「……蘭か」

 静かにそう呟いて、蘭に隣に座るよう促した。蘭は、言われた通りに囲炉裏端のい草で編んだ円座に腰をかけ、囲炉裏の熱に当たってしばし暖を取った。早雲は、再び書を開き、続きを読み始めた。蘭は、囲炉裏の火を眺めながら、静かにその沈黙を楽しんだ。早雲との時間の過ごし方は、こうあるべきだと思った。

 目を伏せて本を読む早雲の顔は、囲炉裏の火に照らされて、官能的に見えた。蘭は、身体が火照ってくるのを感じて、手で顔を扇ぎたくなった。横目でちらと早雲を見ながら、どう近付こうかと考えた。

「失礼します」

 さっきの使用人の女が、襖を開けて中に入って来た。

「お茶をお持ちいたしました」

 使用人の女は、蘭の傍に膝を突いて、熱い茶を呈すると、深くお辞儀をし、再び襖を開けて戻っていった。コトと、小さな音を立てて、襖が完全に閉められた。そして、その部屋は、外界から遊離した、完全に二人だけの空間となった。蘭は、生唾を飲み込んで、早雲を見た。このまま抱きついてしまいたい、と思った。そして、けだもののように狂ってしまいたい。

「蘭」

 早雲が顔を上げて、こちらを見て言った。

「さっきから、何をちらちら見ているんだ」

 早雲は怪訝な表情で、こちらを見ている。

「早雲!」

 蘭は真剣な顔で言った。

「旅に出ましょう! 二人で!」

 早雲は蘭の突然のこの申し出に、呆気にとられたような顔をした。そして聞く。

「なぜだ?」

 蘭は早雲の目を真っ直ぐに視ながら答えた。

「庭の寒椿の花が落ちたから!」

 

 というわけで、甚だ難解な理由からではあるが、旅に出ることになった蘭と早雲。二人は小田原城を出発して、南西方面に歩くことおよそ一時間。箱根湯本の温泉街の入り口、湯本橋の袂に来ていた。

 二人共、絹布の小袖に丸ぐけの帯をしめ、首からは袈裟をかけ、錫杖を突いている。虚無僧が深編笠を被っていない姿と言ったら分かり易いだろうか。

 早雲が、蘭の旅姿を見て言った。

「蘭、お前は仏教徒だったか?」

「私は仏教徒だったような気がする。早雲こそ、仏教徒だったっけ?」

「俺は仏教徒だ」

 二人は、これから、箱根旧街道を通り、芦ノ湖を見てから、関所に突き当たって北上し、飛龍の滝を臨み、嶮峻な山道を抜けて、大涌谷を巡ってから帰城する。途中、飛龍の滝に至る登山道の手前にある芦之湯で一泊する。要するに、一泊二日の箱根路の旅だ。なぜ、行き先が箱根になったかというと、早雲の「俺は仕事が忙しいからあまり遠出は出来ん」という鶴の一声があったからだ。

 二人は、早川の清流を眺めながら、湯本橋を渡った。やや流れの早いこの川の一部分に、流れの緩やかな所があって、そこにマスらしき魚が悠然と泳いでいるのが見えた。

「マスかな?」と早雲に聞いたら、

「ああ、マスだ」と返って来た。

 湯本橋を渡り終えると、両脇に旅館や料理屋や土産物屋が延々と連なる、小路が山の中まで続いている。旅人の往来もこの界隈で一番多いところだ。

「温泉まんじゅう、食うか?」

 歩きながら、早雲が言った。

「うん」

 目の前にあった土産物屋の中に入り、早雲が蒸したての温泉まんじゅうを二つ所望した。店のおばさんが、奥の蒸籠からまんじゅうを二つ持ってきて、早雲に手渡した。早雲はそのうちの一つを蘭に手渡した。

 二人は店のすぐ前にある木の縁台に腰掛けて、並んでまんじゅうを頬張った。柔らかくて、甘い味がした。噛んだ途端、熱いあんこから白い湯気が吹き出した。残寒の中、まんじゅうの温かさが身体に心地良かった。

 遠くの空で、とんびのような鳥が、円を描いて飛んでいた。空は、青く透き通っていた。

「行くか」

「うん」

 二人は立ち上がり、再び歩き始めた。

 川沿いの小道を山側に向かってさらに歩くと、川が二手に分かれていた。早川と、それから分流する須雲川である。同じく道も二手に分かれているので、須雲川沿いの、通称「滝通り」と呼ばれる道へ入る。そうしてしばらく進んでいると、やがて「玉簾の滝」という、小振りではあるが、趣のある小瀑が見えてくる。この滝の水は、湯城山の伏流水の湧き水で、古くから延命水とされて箱根路の旅人の喉を潤してきた名水だ。

「蘭、飲んでみろ」

 早雲に促されて、手で滝の水を掬い、口に含んだ。水は、とても冷たかった。軟らかい、なめらかな喉越しの、上質な絹のような感触の水だった。

「美味しい」

 二人は、しばらくその場に佇んで、滝のある風景を見ていた。ひんやりとした飛沫が時折顔にかかって、気持ちよかった。呼吸をすると、滝壺から発生した清浄な霧が、全身に染み渡って、清められているような気がした。滝口の辺りに生い茂った木々の隙間から、浴びる木洩れ日が優しく暖かかった。

 疲れもすっかりと癒えた二人は、玉簾の滝を後にして、先に進み始めた。滝通りは、その終点で、旧東海道という街道に合流する。

 まるで修験者のような格好の二人は、錫杖を突きながら、かろうじて小石で舗装してあるだけの街道を進んでいく。季節は三月。雨が多い時期だが、本日は快晴だった。時折吹き付ける風が冷たかったが、日差しは暖かかった。

 滝から須雲川沿いに一時間半ほど歩くと、石畳の道に出た。両側に細い背の高い杉が所狭しと立ち並ぶ、晴れの日でも陽光が届きにくい道になっていた。そのせいか、石畳の表面はひんやりとしていて、草鞋越しにも冷たさが伝わってきた。杉の根元には、シダ系の植物や、トクガワザサが繁っていた。歩きながら、早雲に聞いた。

「どうしてここだけ石畳が敷かれてあるの?」

「ここは雪が降るとよくぬかるむ地点でな。昔は要人が通行するたびに地元民に竹を切らせて、その都度、竹で道を舗装していたのだが、竹では一年ですぐに駄目になってしまう。そこで、いつしか竹よりも丈夫で長持ちする石を敷いたというわけだ」

 早雲が、まるで自分がその仕事をしたかのように、誇らしげに言った。

 石畳は、つるつるとよく滑った。大沢坂という長い坂道を上り終えると、いくつかの民家が軒を連ねている集落に着いた。街道の宿場町、畑宿だ。

 畑宿は、二百年の歴史を持つ箱根の寄木細工の発祥の地として知られている。多くの寄木細工職人が、この集落で居を構えており、道沿いの店には、職人らの手による物と思しき、目を見張るほど精巧な寄木細工がずらりと並べられていた。そのうちの一つを、早雲が手に取って言った。

「ふむ……、市松、セヤガタ、矢羽根、マス、青海波……。どれもよく出来ている。どれ、ひとつ買っていくか」

「何? イチマツ……?」

 蘭が、聞きなれない言葉を耳にして、早雲に尋ねた。

「和柄のことだ。平安時代から作られてきた日本独自の伝統的な文様のことだな。これが市松」

 早雲がそう言って、蘭に、小さなモノトーンの正方形が規則的に並んでいる模様の寄木細工の箱を見せた。

「これが青海波」

 早雲が、今度は丸い半円状の波模様が無限に並んでいる模様が描かれた盆を見せた。

「なるほど」

 蘭は、そう言って頷いた。

「ちなみに、こういった和柄には、それぞれに意味や用途があるようだが、俺は専門家ではないからそこまで詳しくは知らん」

「ふーん」

 蘭は感心しながら、店頭に並べられている寄木細工の製品のうち、ひとつを何気なく手に持ってみた。手触りは滑らかで、思っていたよりも頑丈に感じられた。手に取った箱らしきそれを、開こうとしてみる。しかし、開けられない。開け方が分からない。

 横で蘭が悪戦苦闘している様子を見て、早雲が優しげに笑った。蘭は早雲に笑われて、顔を赤くして、その箱らしき物を早雲に手渡した。

「はい、開けて。開け方分かるんでしょ?」

 早雲は、それを受け取ると、なにやら両手でガチャガチャと動かして、簡単にそれを開けてしまった。

「わ、すごい!」

 蘭がそう褒めると、早雲が表情をほころばせながら言った。

「これは、秘密箱というものだ。箱根の寄木細工の中では一番人気がある商品だな。どうだ? 面白いだろう?」

「うん」

 蘭は、早雲から返されたそれを、今度は自分でガチャガチャ動かして開けてみた。確かに、面白かった。蘭は、早雲との思い出の品として、それを買っていくことに決めた。

 

 寄木細工の店を出て、畑宿を後にした。大きくうねる山道を、一時間ほど進むと、視界に一軒の入母屋造り杉皮葺き屋根の古民家が入ってきた。近付くと、それは民家ではなく旅人のための茶屋だった。

「入るか?」

 早雲がそう言ったので、「うん」と頷いた。店の前に看板があって、「甘酒茶屋」と書かれていた。

 中に入ると、年老いた男の店主が二人を迎えた。

「いらっしゃい」

「甘酒を二つ」

 早雲が人差し指と中指を立てて、二の数字を示して注文した。

 しばらくすると、店主が甘酒を二つ、杯に入れて持ってきた。蘭が品書きを見ながら言った。

「この力餅って何かしら?」

「ふむ、注文してみるか」

「うん」

 早雲が店主を呼んだ。

「力餅を二つ頼む」

「へい」

 店主はそう言って、店の奥に入って行った。

 温かい甘酒を飲んだ。

「美味しい……」

 甘酒は、感激するほど美味しかった。こんな美味しい甘酒は飲んだことがない。

「む……、こ、これは美味いな」

 早雲も、一口飲んで驚いていた。

「うちの甘酒は江戸時代から伝わる秘伝の製法で作ってますんでね」

 店主が言いながら、力餅を二つ携えて奥から出てきた。

「力餅を二つ、お持ちしました」

 蘭と早雲の目の前に、餅が二つずつ置かれた。どうやら、力餅というのは、二種類の餅で一つのセットになっているようで、ひとつは青白い白い粉が満遍なくまぶされている餅、もうひとつはお馴染みの、焼いて醤油をかけた餅に海苔を巻いた「いそべ」だった。

「江戸時代から伝わる製法?」

 早雲が店主に尋ねた。

「へい、うちの甘酒は砂糖を一切使っていないんですよ。余計な添加物を一切加えず、麹の発酵によって生じる甘味だけで、甘酒を作っているんです。だから、美味いんです」

「なるほど。ところで江戸時代からと言ったが、この店はそんなに古いのか?」

「へい。もう四百年近くになります」

「よ……、四百年だと……」

 早雲は無言になった。古い店内をきょろきょろと見回し、歴史の重みを感じている様子だった。

「ところで、このお餅にかかっている青白い粉は何なんですか?」

 蘭がその粉を指差しながら店主に聞いた。

「ああ、それは青大豆から作ったきな粉です」店主が答えた。「まあ、食べてみて下さい」

 蘭は促されるままに、青白い粉がかかった餅を口に運んだ。

 美味しい……。

 普通のきな粉とは違う、爽やかな味がした。そして、焼いた餅から微かに漂う備長炭の香り。まさに、絶品と言ってよい味だった。

 早雲も夢中で餅を咀嚼していた。

 

 二人は、店主に見送られながら甘酒茶屋を出発した。街道を進み、次なる目的地、箱根関所に向かう。

 杉の並木に光を遮られて、昼でも薄暗い鬱蒼とした山道を進むと、やがて開けた所に出て、周囲の山々を盆にして水を溜めたような形の広大な湖、「芦ノ湖」が目に入ってきた。湖面は太陽の光を反射して、きらきらと光り輝いていた。木々の切れ目の眺めの一際良い所に立って、雄大な湖を見下ろしながら深呼吸をした。そうすると、自分がこの景色と一体化出来たような気がした。

 芦ノ湖は、三千年前、神山が水蒸気爆発と火砕流を起こした際に、山の一部が崩壊してできたカルデラ湖だ。山の中にぽつんと浮かぶような湖の風景は、幻想的に感じられた。

 箱根関所は、その湖のほとり、ちょうど山道を下りた所にあった。山の上から、瓦葺き屋根の小屋が見えた。点々と、旅人が歩いている姿も見える。二人は、その建物目指して、山道を下っていった。

 関所の建物の前に着くと、中から背の低い、頭に髷を結った、小役人風の男が出て来た。男は蘭と早雲の姿を確認すると、すぐさま腰を低くして、頭を下げた。

「こ、これは国主様に、南条家の当主様。本日は一体どのようなご用向きでしたでしょうか……?」

「いや、用というほどではない。少し見に来ただけだ」

「は、はあ……」

 早雲が言うと、男は口をぽかんと開けた。

「ところで、異常は無いか?」

「は、はあ、特にございません」

「そうか。では、今後もこの調子で励んでくれ」

「は、はい」

 男は、不思議そうな顔でこちらを見ている。

「じゃあな」

 男にそう別れを告げて、箱根関所を去った。

 この後は、芦ノ湖東岸の林道を通って、今日一晩の宿をとる「芦之湯」に向かう。

 辺りはもう、薄暗くなっていた。日は、山の彼方に沈み、見えなくなっていた。芦之湯までは、この二人の足ならば一時間半もあれば着くが、その頃には真っ暗になっているだろうことが容易に想像できた。急がねばならない。

 静謐な林道を早足で駆けながら、蘭が早雲に尋ねた。

「ねえ、あの関所って何のためにあるの?」

 早雲はちょっと考えた後に答えた。

「昔から、『入り鉄砲に出女』と言ってだな、女はともかく、領地に秘かに運び込まれる鉄砲などの兵器類を厳しく監視しているんだ」

「へえ、じゃあ、出女は?」

「……まあ、色んな意味で女が出て行かないように、ということだな」

「なにそれ? よく分かんない」

 蘭は、早雲の説明に釈然としない顔をした。

「これは江戸幕府がやったことで、元々北条家とは何の関わりもないことだからな。俺もよく分からん」

「エドバクフ? なにそれ?」

「…………」

 そんな会話を交わしているうちに、芦之湯に到着した。辺りはもう真っ暗だった。森の中から、ふくろうの鳴く声が聞こえた。

 芦之湯の旅館は、数寄屋造りの瀟洒な建物だった。中に入ると、重厚な木の置物があって、玄関の三和土で履物を脱ぐようになっていた。草鞋を脱いで、素足で上框に乗った。

 奥から、山葵色の小紋を着た女将が出てきた。彼女は軽く頭を下げてお辞儀をすると言った。

「ようこそいらっしゃいました。お取りするお部屋は一部屋で宜しかったでしょうか?」

「いや、二部屋だ」

 早雲は、間髪入れずに返した。蘭がそこに口を挟んだ。

「えっ、なんで二部屋? 一部屋でいいわよ」

 この言葉に、早雲は少し戸惑ったようだった。

「い……いや、しかし……」

 と困ったように言って、口を噤む。

「いいわよ。私たち恋人同士なんだし。それに、もったいないし」

「そ……そうか」

 早雲は、それ以上何も言わなかった。しかし、その表情は微かに嬉しそうでもあった。

 二人は「こちらです」と客間に案内された。女将が部屋を出て行った後、二人、背中合わせになって、修験者のような装いを脱いで、宿に備え付けの浴衣に着替えた。一組の男女が、同じ部屋で、修験者の分厚い衣服から、薄い布一枚の浴衣に着替えるのは、なんだか色っぽいような感じがした。すぐ後ろで、着替えている早雲の出す衣ずれの音が妖艶に響いた。早雲も同じように考えているのかと思うと、少し愉しかった。

 着替え終わると、二人向かい合って、すっかり変わった姿を確かめ合った。二人とも頬が紅潮していた。

 浴布を携えて、浴場に向かった。

 芦之湯は、遥か昔から箱根七湯に数えられている名湯だ。浴室の前で早雲と別れて、中に入った。お風呂は、檜の内風呂と、露天の岩風呂に分かれていた。

 まず、檜の内湯に浸かった。きめの細かい、良質の単純泉だった。身体がじわじわと温まって、旅の疲れが抜けていくのを感じた。大分無理を言ったけど、早雲とここに来て良かったと思った。

 内風呂で十分に温まった後、露天の岩風呂に移動した。白い湯気が、湯船の表面からもくもくと上がっていて、上を見ると夜空の星が綺麗だった。大声を出して、早雲を呼んでみたい衝動にかられたが、雰囲気が壊れそうなので止めた。

 お風呂から上がって、浴室前の待合所で早雲と合流した。部屋に戻ると、すぐに夕食が出てきた。炭火で焼いた鹿肉がメインの料理だった。鹿肉はとても美味しかった。

 早雲と蘭は、日本酒を熱燗で注文した。仲居が運んできた徳利を持って、お互いに盃に酒を注ぎ合った。

「乾杯」

 盃を合わせて、ぐいっと一気に飲み干した。熱いお酒が咽喉を通り抜けていく時に、なんとも言えない心地良さを感じた。目の前の早雲も足を崩して、いつもと違うリラックスした姿を見せている。

「いいものだな。こうして二人で旅行に来るのも」

 早雲がぽつりと呟いた。

「でしょう? また来よう」

「今日は、仕事のことを何もかも忘れて、飲みたい気分だ」

「私も付き合うわ。飲みましょう」

 早雲の顔は、魅力的に火照っていた。その顔を見ていると、蘭は否応なしに、何かを期待してしまうのだった。

 早雲はしみじみと酒を飲んでいた。盃が空になると、蘭が注ぎ足した。

「良い気持ちだ。少し風に当たろうか」

 早雲がそう言ったので、二人で外に出た。

 外は夜空に浮かぶ星が美しかったが、風があり、寒かった。酔った早雲が風邪を引かないように、早めに屋内へ入らせた。

 部屋に帰ると、畳の上に布団が二組、きれいに並べて敷いてあった。二組の間はぴたりと密着していた。

 蘭は、さすがに一寸戸惑った。この布団の並びを見た時に、今まで朧気だった想像が、急にリアルになって迫ってきたからである。とはいえ、今さら後には引けないのも事実だった。意を決して、「もう寝よ」と言って、早雲を布団に引っ張り込んだ。

「お、おい」

 早雲は腰が引けたように動かなかった。

「据え膳食わぬは男の恥」

 どこかで聞いたような言葉を言って、強引に早雲を布団の中に引き込んだ。

 

 夜が明けた。

 結局早雲は、蘭を抱こうとはしなかった。嫌になるほど、謹厳実直な男である。仕方がないから、二人別々の布団に入って、手を繋いで寝た。

 雀の鳴く声で目を覚まし、軽く朝風呂を浴びてから、昨日と同じ修験者の装束に身を包んで、旅を再開した。

 まずは、歩いて三十分ほどの所にある、飛龍の滝へ向かう。飛龍の滝へは、自然探勝歩道という比較的なだらかな木立の道を通る。森林浴気分で気楽に歩ける道だ。

 林道傍には、名前が分からないがブナ科らしき常緑樹が枝々に青々とした葉をびっしりと湛えていた。その下を、イトスゲ、リョウブ、フジアカショウマ、シモツケソウ、トクガワザサなどの低木が、密集して繁っていた。

 大量の水が、高所から落ちる、どうどうという音が聞こえてきた。前方に、巨大な滝が現れた。上段十五メートル、下段二十五メートルの二段重ねの滝で、龍が飛揚する姿に似ていることからその名が付いた、神奈川県下最大級の名瀑、飛龍の滝である。

 滝周辺の岩は、流れ落ちる水に削られて、角が鋭く、滑らかになっていた。陽の光を反射して、煌く岩壁と、雄大な滝の流れを低所から仰ぎ見ていると、へへえ、と平伏したくなるような、威厳を感じた。

「よし、では最後の目的地、大涌谷に行くか」

「うん」

 

 大涌谷へは、箱根駒ケ岳や神山、早雲山といった標高の高い山岳地帯にまたがる、殆ど獣道と言って良いような道を通らなければ行けない。常人にはまず不可能な道程であるが、この二人なら、時間さえかければなんとか行ける。

 道なき道を進むこと、およそ三時間と三十分。ついに二人は、最後の目的地、大涌谷に辿り着いた。

 大涌谷は、かつては地獄谷と呼ばれていた、箱根を代表する景勝地である。蘭と早雲が立っている地の周囲からは、到る所から、もくもくと硫黄臭がする白い煙が吹き上がっていた。

「この地では、今でも火山活動が続いているんだ」

 横で早雲が言った。

「えっ? じゃあこの白い煙って……」

「ああ、火山ガスだ」

 それを聞いた時、自然の偉大さを感じた。

 白い火山ガスのすぐそばでは、高熱と有毒ガスで人間ならばすぐに死んでしまうような所に、植物がしっかりと根を張っていた。

 山を登り切ったところには、土産物屋があって「玉子茶屋」と書かれた看板が掲げられていた。

 早雲が楽しそうに中に入って行ったので、蘭も後から付いて入った。

 早雲は、茶色い紙袋に入った、黒い物体を購入した。店の外に出て、袋を開けた。中から取り出した黒い、丸い物を、早雲が蘭に手渡した。

「これが名物の黒タマゴだ。八十度の温泉池で十から十五分茹で、九十五から百度の蒸し釜で五分ほど蒸したものだ。食べてみろ」

「なんで、こんなに真っ黒なの?」

「玉子の殻と温泉成分が結合して、硫化鉄になるからだ」

「ふーん」

 蘭はよく分からなかったが、適当に返事をした。

 真っ黒の玉子の殻を剥いていたら、西の方角で雲に切れ目が出来て、そこから、雪をかぶった富士山が、その頭を覗かせた。さらに、陽光が差し込んで、スポットライトのように富士山頂を明るく照らした。

 二人は、黒い玉子をもぐもぐと食べながら、やっぱり富士山が最高だ、と思った。

 谷底から上ってくる火山ガスが、朝靄のように、富士山全体を覆っていた。

 


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