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あれは、本当に現実の出来事だったのだろうか。祐巳は布団の中で目を閉じ、反芻する。生まれてこの方、ここまで濃厚な一日を過ごしたことはなかった。
戦いも終わり、安穏の時間を取り戻して時間も経てば、疑いたくもなるだろう。それほど現実離れした状況が続いていたのだ。しかし、祐巳の枕元ですやすやと寝息を立てて気持ちよさそうに眠るメップルさんの姿を見れば、否応にも夢ではなかったのだと思わされる。
--プリキュア。
祐巳は、その伝説の戦士プリキュア――伝説とやらがどのようなものなのかは定かではないがーーとして戦うこととなったのだ。それも、あの祥子さまとともに。果たして、自分にそんなことができるのか。祥子さまの足手まといになってしまわないだろうか。
あの時はメップルさんたちの勢いにのまれてしまったけれど、そもそもプリキュアをやるにあたって、問題がひとつあったのだ。それは、リリアンは携帯電話の持ち込みを禁止しているということ。愛らしいメップルさんだが、見た目はどこからどう見ても携帯電話でしかない。つまり、メップルさんをリリアンに連れて行くことが難しいのである。これでは、学園にいる時はプリキュアに変身できなくなってしまう。人選ミスだったのではと思わざるを得ない。
祥子さまはどうお考えなのだろうか。
祥子さまのお顔を思い浮かべ、思わず破顔しつつ。祐巳はゆっくりと微睡みの中へと落ちていった。
そして翌日、祐巳は見事に寝坊した。
目覚めたときにはすでに、朝食をとる時間もないほど切迫した時間になっていたのだ。未知の経験が続いたこととか、珍しく激しい運動をしたことが原因なのは間違いないけれど、そんなことは言い訳にもならない。とにかく急がなくてはと、祐巳は慌てて着替えを済ませ、家を飛び出した。もちろん、朝食は抜きである。そのおかげで、なんとか祐巳はリリアン行きのバスの時間に間に合ったのだった。
そして、鞄の中には……メップルさんを忍ばせている。
平々凡々なリリアン生たる祐巳が校則を破ることなど今までなかったわけだけれど、メップルさんが「連れて行け」、「ミップルに会わせろ」と騒ぐものだから、時間に追われていた祐巳は仕方なく彼を鞄に入れたのだった。
普通の携帯電話なら、電源を切って鞄から出さなければ校則破りを発見されることはないだろうけれど、生憎この携帯電話は言葉を話すのだ。耳聡いどなたかに聞かれ、見つかってしまうとも限らない。お願いだから騒がしくしないで、と心から願う祐巳であった。
そんなこんなで、祐巳はなんとかいつも通りの時間に背の高い門をくぐり抜けた。銀杏並木の先にある二股の分かれ道、そこに佇むマリア様の像の前で祈りをささげる少女たちに混じり、手をあわせる。
何事もなく今日一日が終わりますように。どうか、どうか。
そうして、いつにも増してじっくりとお祈りをすませた祐巳は、そのまま他の少女たちに続いて校舎へと歩みだした。
「お待ちなさい」
その一歩目を踏み出したところで、祐巳は凛としたお声に呼び止められた。リリアンの生徒として恥ずかしくないよう、優雅な所作で応対しようとゆっくり振り返る。
そして。
そこにぴんと背筋をのばして堂々と立つ、麗しの祥子さまの姿を認めて祐巳は絶句した。
「……え」
「――あら、祐巳ちゃんじゃない」
祥子さまは振り返った祐巳の顔を見て、ふわりと花開くように微笑んだ。
昨日は何度と無く言葉を交わし、驚くべきことに小笠原家のお車にも乗せていただいたけれど、それでも、一瞬思考が停止してしまいそうになる。けれど、リリアンの生徒であるという矜持が、上級生に無礼な振る舞いをしようとする自分を律し、祐巳はなんとか口を開くことができたのだった。
「あ、あああのっ。さ、祥子さま、ごきげんようっ」
しかし上手く舌が回らない。挙げ句にあたふたしてしまい、結局憧れの祥子さまに無様な姿をさらしてしまった。
「ごきげんよう。貴女、本当に落ち着きがないのね」
「も、申し訳ありません」
けれども、祥子さまはそんな祐巳を前にしても不快そうに眉を潜めることはなかった。というよりむしろ、不快とは無縁の清らかな笑みを浮かべている。
「あ、あの、どういったご用でしょうか……?」
昨日プリキュアとしてともに戦う関係になったとはいえ、いきなり声をかけられるとやはり緊張し、萎縮してしまう。
「持って」
「は、はいっ」
言われるままに手渡された祥子さまの鞄を反射的に受け取ると、祥子さまはそのまま祐巳の首の後ろに両手を回す。
「え、ええっ?」
接近する祥子さまのお顔とか、ふんわり漂うシャンプーの香りとか、枝毛の一本もなさそうな艶やかなストレートヘアとか。間近で拝見する祥子さまのあふるる魅力に、祐巳の心臓はこの上ないほどに早鐘をうっている。眼前に迫る祥子さまに、思わず祐巳は目を瞑った。
いったい何をされるのかとどきどきしていたけれど、次に祥子さまが放つ一言で、祐巳の脳内は一気に現実へと引き戻された。
「タイが乱れていてよ」
「……え?」
なんと、祥子さまは祐巳のタイを直していたのだった。現実は非情である。
「身だしなみは、いつもきちんとね。マリア様がみていらっしゃるわよ」
直し終わると、祥子さまはやっぱりにっこりと笑ってみせた。
内心の思考は乱れに乱れている祐巳をよそに、祥子さまは自分の鞄を受け取り、颯爽と歩き去っていく。
ああ、学園での祥子さまとの邂逅は初めてだったというのに。プリキュアとして一緒に戦うことになったのに、早速服装の乱れを指摘されてしまうなんて。こんなのって、ない。
祐巳は徐々に遠ざかる祥子さまの背中を見送りつつ、呆然と立ち尽くしていた。
「ミップルーっ!」
「メップルーっ!」
そこに響く、場違いな二匹の甲高い声。
互いの存在を本能的に感じ取ったのか、それぞれの鞄の中に潜んでいたメップルさんとミップルさんが叫びながら暴れ出したのである。
その瞬間、歩き出していた祥子さまは硬直し、放心状態だった祐巳は我に返った。丁度生徒たちの往来が途切れ、人目がなかったのが幸いだった。何方かに聞かれでもしたら、怪しまれて、調べられて、おしまいだ。
「こら、ミップル! 学園では騒がないと約束したでしょう!」
「ご、ごめんミポ・・・」
祥子さまが自らの鞄の中へお叱りの言葉を向ける。凛とした冷たいその声は鋭く、きゃいきゃいと嬉しそうに騒いでいた二人の声はぴたりと止んだ。そして、中からミップルさんのしょんぼりした声が返ってくる。そして祥子さまの勢いに背中を押され、祐巳もそれに続いた。
「め、メップルさんもあまり騒がないでね」
「わ、わかったメポ……祥子、怖いメポ」
メップルさんも、どこか落ち込んでいるようだった。
「まったく……それにしても、祐巳ちゃんも連れてきていたのね」
「……はい。メップルさんが連れて行けって騒ぐので、仕方なく。祥子さまも?」
「ええ。私たち、二人揃って校則を破ってしまったわけね……まあ、プリキュアとして戦う以上、この子たちを持ち歩いていなければいけないのは確かなのだけれど……」
「そう、ですね……」
ご存じの通り祥子さまは山百合会の一員であるわけで、その祥子さまが率先して校則を破るのは心苦しかろう。
「はぁ……。祐巳ちゃんも、見つからないようお気をつけなさいね」
そう言い残し、祥子さまは今度こそ去っていくのだった。
――
はてさて、祐巳の祈りもむなしく、朝から早速波乱の連続で、一日の幕開けは散々なものとなってしまった。祐巳は教室に着くなり机に伏せ、脱力する。友人の桂さんも心配そうにお声をかけてくれたけれど、気の利いた返事すらできず唸るばかりだった。
授業にも気が入らず、気づけば一日が終わり放課後になっていた。幸いというか何というか、メップルさんはあれから騒ぎ出すこともなく、おとなしくしてくれていた。ほっと一息ついて、掃除当番だった音楽室から出るまさにその時に、祐巳は声をかけられた。
「祐巳さん、何かお疲れのようですね?」
「あ、蔦子さん。どうしてわかったの?」
声の主は、フレームのない眼鏡が似合う祐巳のクラスメイト、武嶋蔦子さんだった。写真部に所属している蔦子さんは、一年生でありながらリリアン中の生徒からその名を知られる有名人である。そんな蔦子さんはシャッターチャンスを逃したくないという思いから、授業中以外はカメラを肌身離さず持ち歩いている。今だってその例に漏れず、しっかり首からさげている。
「どうして、って。朝からずうっと、疲れ切った顔をしていたじゃない。誰だって気づくわよ」
「あはは……バレバレだったみたいね」
被写体はもっぱら人物で、それも「女子高生」を愛してやまないという蔦子さんは、職業柄なのか人のことをよく観察している。だから祐巳の状態なんて、蔦子さんにはお見通しだったらしい。
「それにしても……今朝こんなことがあったのに、どうしてかしら?」
不敵に笑いながら、蔦子さんは二枚の写真を祐巳に差し出した。
「こんなこと? ……って、これっ!」
なんだなんだと好奇心が顔を出し、その思いのままに写真を見て――そこに写るリリアンの制服を身に纏う二人の女生徒の姿をはっきりと認識するまで、数秒は要した。
「なんで、蔦子さんがっ!」
思わずリリアンの生徒にあるまじき大声を出してしまって、すぐさま蔦子さんに口を抑えられる。心が平静を取り戻すまで、またも数秒を要することとなった。
だって。
蔦子さんが祐巳に見せた写真は、今朝祥子さまが穏やかに微笑んで祐巳のタイを直している場面を撮影したものだったから。なまじ関係を持ってしまったものだから、余計に恥ずかしかった今朝の一件。あんな出来事、記憶から消し去ってしまいたいとすら思っていたのに。
確かに祥子さまが優美な笑みを浮かべて下級生のタイを直している場面なんて、あの蔦子さんが見逃すはずがないだろうけれど・・・。
まあそういった意味では、この写真は蔦子さんの腕のよさを証明しているとはいえる。だって、その写真はとても絵になっていたのだから。
だから、祐巳は消したい過去を写したものだということを置いておいて、その写真を欲しいと思った。
蔦子さんの話によれば、何を血迷ったかこの写真を学園祭で展示したいのだという。蔦子さんは盗撮魔でなくカメラウーマンだから、被写体の許可を得てからでないと発表しないらしい。だから、こうして祐巳の元へと足を運んだということなんだろう。
「だからね、紅薔薇のつぼみにも許可をいただかなくてはいけないの」
「えーっ!」
紅薔薇のつぼみに許可をもらい、学園祭に展示できれば写真をあげる。蔦子さんはそう言ったのだ。祐巳が祥子さまのファンだということはクラスメイトには周知の事実だし、当然蔦子さんが知らないはずはない。
つまりは、写真という餌をちらつかせて巻き込もうということだろう。しかし、分かってはいてもその餌に食いつかずにはいられない祐巳なのであった。