彼が彼女と過ごす時間のなかで思い出した若い頃の思い出とは。
夏の日差しの中、俺は歩いていた。
汗で透けたシャツ、首にかけたタオルで額を拭う。白の混じる髪と少し曲がった背筋。
もう中年とすら言いがたい年齢なのに、炎天下の休日にこんな所を彷徨っている。
(ハハ、何やってんだろ俺……)
ここは神田の神保町、日本一の古書店外だ。
ここで俺は思い出の本を探している。題名のない、内容だって覚えちゃいない、そもそも特定の本じゃなく、ただの『思い出の本』。そういう物が見つからないかと、店から店へと巡っている。
なんでそんな事をしているのか、それは―――
「青年……」
「そう、森鴎外の。考えたんだけどこれかな~って」
「ありがとうございます」
そう言って彼女は大切な宝物みたいに俺が手渡したその本をそっと受け取って抱きしめた。そして、俺を真っ直ぐに見つめてくる。綺麗な瞳。
彼女は俺を、好きだという。
橘あきら。17歳。高校生の女の子。長い黒髪の綺麗な美人さん。若くて、希望に溢れ、キラキラ輝いている。うちの店のアルバイトのウェイトレス。
対する俺は、近藤正己。45歳。ファミレスチェーンの雇われ店長。バツイチ。子供一人。格好もだらしない、10円ハゲのある冴えないオジサンそのもの。
最初はからかわれているのだと思った。けれどどうやらそうではないらしい、と言う事もそう遠くないうちにわかった。彼女はあまり純粋で、まっすぐに好意をぶつけてくるものだからだ。
でも、彼女の気持ちに応える事はできない。
だってそうだろ? どう考えたって釣り合わない。上手く行く筈もない。愛があれば年の差なんて……なんて、この年になるとそんなことも言えなくなる。
仮に俺と橘さんが結婚でもしてごらんよ。周りの目、世間の目、家族の目、障害ばかりは山ほどある。それを耐え凌いで何が残る? 俺との間に家庭を築いたってその先どうなる。30年後、俺は75だ。彼女は47。両親と変わらないような年齢の俺を介護するようになって、彼女は何を思う?
それともその前に過ちに気付いて別れる、破局、あるいは離婚。何にせよだめさ。
それを解っていて彼女と付き合う? 若い子の青い思いにつけこんで……彼女が若く美人で素敵だから? 相手がいずれ後悔するとわかっていながら自分の欲望だけ考えて? そんな酷い話ってあるだろうか。
あるいは、欲望に脂ぎった親父だったら、世間体も良識も投げ打って橘さんと付き合い、彼女の若い肢体を貪るのだろう。
あるいは、まだ夢や希望を抱いていられるような男だったら、様々な障害も二人で乗り越えて、後悔しない本当の幸せってやつを見つけられるのかもしれない。
でも俺は、そのどちらでもないんだ。
夢も希望も欲望も、もう涸れたおじさん。今から新しい事を始めるような気力もなくて、波風を立てないように流されて生きているだけ。
だから当然断った。けれど彼女の想いは、俺のそんな打算と常識から出たような言葉で止まるようなものじゃなかった。俺なんかの言葉に一喜一憂して、彼女の想いは受け入れられないと言う俺に対して自分の思いは迷惑ですかと塞ぎ込み、そうではないと告げれば安心して涙すら流す。
本当に毅然とした大人なら、そこで迷惑だと突き放すべきなのだろうか。一時的に傷付けることになっても、それが若人のためなのだと、そう考えるべきなのだろうか。
けれど俺にはそれも出来ない。彼女の涙に、俺はせめて……薄っぺらくて中身の無い自分だけど、嘘をついたり誤魔化したりせずに精一杯向き合ってやりたいと、そう思ったんだ。
それでいつか彼女が俺なんかに見ている夢から醒めてくれれば、それが一番良いのだと。
今現在、俺と彼女は友達と言う事になっている。
他愛も無い話をしたり、メールのやり取りをしたり、たまに一緒に出かけたり。
嬉しい事に彼女は俺が好きな純文学に興味があるみたいで、古本市に行ったり、おすすめの本はどれですかなんて会話で結構俺達の場を持たせてくれる。
そんな風に二人で出かけたある日、彼女に聞かれたんだ
「原点回帰?」
「はい。店長って純文学凄く詳しいじゃないですか」
「いや~俺なんか全然だよ。ただ好きなだけで、詳しいって程のことはね~、はっはっは」
「あたし、店長がそんな風に本が好きなったきっかけって知りたいです」
「好きになったきっかけって……俺の?」
「はい……だめですか?」
そう言って橘さんは俺を見つめてくる。
俺の答えを待つ彼女。そのきらきら光る大きな瞳。どうして彼女はこんな風にまっすぐ相手を見詰める事ができるのだろう。若い頃は、俺もこんな目が出来たのだろうか……。
「あーいや、だめなんかじゃないよ。勿論ね」
「それじゃああたし、知りたいです」
「でもなぁ……う~ん、俺が本が好きになったきっかけかぁ」
歩きながら考え込む俺の横で、橘さんは静かに俺を見て答えを待ちながら一緒にあるいてくれている。
「それじゃあ今日帰ったら家の書棚でこれだっていう本を探して、明日店に持ってくるよ。それでいいかな?」
「はい」
俺がそう答えると、彼女は目を見開いて強く頷いてくれる。こんな風に自分の何気ない言葉を彼女に大げさなまでに真剣に受け取ってもらえるのは、さえない日常にさび付いた自分の心さえ洗われるような気がするんだ。
「うん。それじゃあまた明日店でね」
「はい!」
そうして俺は自室の書棚を久々にじっくりと眺めたんだ。
どの本にも色々な思いがある。面白かった本、心打たれた本、いまいちだったけれど目を引く部分があった本に、つまらなかった本や期待はずれだった本。
それだけじゃない。それを買ったとき、自分が何をしていたか。
学生だった頃、友人と共に筆を取っていた時に何度も読み返して居たこの本。結婚し、家庭を持った頃に妻になった彼女と買ったあの本。その彼女と別れ、灰色の生活のなかで手慰みにかったその本。
書棚の本には、俺がそれを読んだ時の人生の欠片が染み付いている。
(なんて、はは……中年どころか老人のセリフだな)
自嘲して、本を眺めていく。
原点、原点……この本達のなかで、俺が一番最初に心を打たれたやつ……。
「これ……かな……」
そうして次の日。バイトに来た橘さんに、この本を手渡したのだけれど―――
「……店長」
「ん? あれ、なんかだめだったかな」
橘さんは確かに喜んでくれている様だったけれど、同時にどこか納得がいかない様子だった。
「だめじゃないです。嬉しいし、これも大事にお借りして読みたいです。でも、これって純文学ですよね?」
「うん、そうだね。有名な名作だし」
「……この本って店長が何歳の頃に初めて読んだんですか?」
「そうだねぇ。この本は大学に入ってすぐだから18の時だね」
そうだ。大学の文芸サークルに入りたての頃、あいつに言われたんだ。「え、お前仮にも純文で文芸やろうってのに森鴎外も読んでねーのかよ」って。それで適当にサークルの本棚からとったのが……。
「あたしの一つ上……」
「え? あぁ、そうだね……考えてみればこの本を初めて読んだのは橘さんと殆ど変わらない歳かぁ。俺が18の頃読んだ本をこうして17歳の橘さんに薦めることになるなんて、なんだか面白いね」
俺がそう言うと彼女は頬を紅潮させて、森鴎外の青年をぎゅっと抱きしめた。
「はい。きちんと読みます!」
「うんうん。あ、聞きたかったのってそれだけで良かったの?」
「……あっ、いえ、そうじゃなくて……いえ、この本を紹介してくださったのも凄く嬉しいんですけど」
「うん?」
「文学青年だった店長が読んだ思い出の本も嬉しいんですけど、店長がそんな風に本好きになったきっかけになったような、子供の頃に読んだ本って無いのかな……って」
「成る程……ああっ、ごめんね。勘違いしちゃって。そっかぁ子供の頃の思い出の本かぁ……そりゃあ森鴎外じゃおかしいよねぇ」
「いえっ、これも凄く嬉しかったです。私の一つ上の歳だった頃の店長がこれを読んでたんだって知れましたし」
「あ、そう? 橘さんが良いなら良いんだけど、でも子供の頃の思い出の本かぁ……」
「だめ、でしたか?」
「いやだめってことはないけどね。でも俺ももう歳だからねぇ~。子供の頃の事は流石になかなか覚えて無くて、明確に本が好きになったきっかけって言うのもないかもしれないし」
「そうですか……」
「あぁ、何ていうかごめんね」
「良いんです。あたしの方こそ無茶なお願いしてしまってごめんなさい。それに、この本のこともとっても嬉しいですから」
「そっか。うん、まぁ……だったらよかったよ」
「はいっ!」
その時の彼女の笑顔が眩しくて、それで俺は休日にこんな風に古書店を巡って何か思い出の本でも見つからないものかと彷徨ってしまっているわけだ。まったく思春期の子供みたいな行動だ……枯れたおじさんのやることじゃないなこりゃ。
俺は気恥ずかしくなって、汗を拭ってその時たまたま横にあった喫茶店に入った。
「いらっしゃい」
カランとドアチャイムを鳴らして店内に入ると、初老のマスターがカウンターから声で迎えてくれる。
落ち着いたアンティークっぽい内装に涼しい店内。いかにもって感じの古き良き喫茶店だ。俺は席についてメニューを見る。
コーヒー、紅茶、アイスコーヒー、アイスティー、オレンジジュース、メロンソーダ、フロート、コーラ。軽食類もトースト、サンドイッチ、ピラフ、ナポリタン。本当に昔ながらのって感じで、俺はなんだか嬉しくなってしまう。
調度お腹もすいていたので、ナポリタンと食後のコーヒーを頼んで一息つく。先に出された水を飲んで、お絞りで顔の汗を拭うととても気持ちが良い。はたから見たらおじさん臭いのだろうけど、止められない。
「ふぅ~」
俺はすっかり落ち着いてしまい、きっとナポリタンも期待通りの味に違いないと今から楽しみにしていた。
そして改めて店内をゆっくりと見回す。すると落ち着いた調度品の中にやけに本棚が混じっている事に気付く。普通ならレジの側に週刊少年誌や新聞の刺さった本掛け、そして小さな本棚に週刊マンガのバックナンバーや、北斗の拳だとか美味しんぼとか、とにかく古くて有名なマンガがはいってるのが定番なのだが。
(はは、喫茶店でもやっぱりここも神保町だなぁ)
この街の本への愛情にほっこりとしながら、俺は本棚を見て回る。
(ん、これって……絵本か)
本棚にいくつも収められていたのは、たくさんの絵本だった。
(へぇ……)
ぐりとぐら、はらぺこあおむし、おしいれのぼうけん、ちびくろ・さんぼ、かわいそうなぞう。有名所は一通りそろっている。
(なんだか懐かしいな……ん、これって)
俺の視線はその沢山の絵本の中の一冊に吸い寄せられた。俺はそれに手を伸ばし、本棚から引き抜いてみる。
西風号の遭難、と題打たれたその絵本は色鮮やかなパステルの、けれど物静かでどこか寂しげな表紙が大きく表を飾っていた。
(そうそう、こんな絵だったな……)
それは俺が子供のころに母に読んで貰った絵本だった。何度も読み返したわけじゃない。特別気に入っていたわけでもない。けれど、どこか妙に記憶に残ったこの絵本。
(……)
俺はその絵本を手にとって、席に戻ったのだった。
「西風号の遭難……店長、これって」
「あぁうん。橘さん、この間言ってたでしょ? 俺が本が好きなきっかけになった本が何かって。それがそうかどうかはわからないけれど、子供の頃に読んだ絵本でそれが一番印象深かった気がしてね……なんて言ってもたまたま見かけるまで忘れてたんだけどさ」
「でも、それでわざわざ……あの、ありがとうございます」
「いや、そんなにかしこまることないよ。たまたまだから、たまたま」
「はい……でも、これが店長が本が好きになった一番最初のきっかけかも知れないんですね」
「はは、そうかもしれないね……」
俺はそう答えながらも、内心では違うと感じていた。
たしかにその絵本は俺に影響を与えたのかもしれない。けれど橘さんが言うように、本が好きになった一番最初のきっかけと言える物ではない気がした。俺にとってそれは―――
それからしばらくしたある日、俺は実家の押入れのダンボールをあさっていた。
「正己、あんた急に帰って来たと思ったら何やってるの?」
「ん~、ちょっと探し物をね……」
訝しむ母の言葉もよそに押入れをあさり続け、昔のアルバムなんかの中から出てきた古びた原稿用紙。それは、小学生のころに作文コンクールで俺が県の賞か何かをとったやつだった。たぶん、これが俺にとって文学が好きになって行くようになった最初の……。
両親や兄夫婦への挨拶もそこそこに、家に持ち帰ってそいつを読んでみる。
小学生のころ書いた物なんて、恥ずかしくてまともに読めたものじゃないと思っていた。
けれど違った。
そりゃ文章は荒いし言葉選びも酷いものだ。でもそう言う物に目をつぶって読んでみれば、書き手の思い、表現したかったもの、そういうものがひしひしと伝わってくるエネルギーがある。
今の僕が未練たらしく偶に筆をとって書いている私小説もどきなんかより、よっぽど立派だと思った。
(昔の僕……か)
この頃、自分はいったいどんな気持ちで筆を取っていただろうか。
思い出すように、懐かしむように、コーヒーを飲みながら僕はその作文を、骨子をそのままに文を手直しして見たりしてみたのだった。
(橘さん、君といると僕はよく昔のことを思い出すよ……)
とうに過ぎ去った青春。かけがえのない時代。日々の生活に追われてすっかり忘れかけていたそれを、彼女は僕に思い起こさせてくれる存在なのだった。
だから彼女にも、今と言う彼女の青春を大事にして欲しい。こんなおじさんに構っていないで。そう思いながらも、彼女とすごす時間がだんだんと自分にとって大切なものになって行くのを、僕は自覚しながら止めることが出来なかった。