死にもの狂いで走った末、卓郎は湖らしき水辺の前で力尽きた。
すでに時間は夜である。辺りは霧がたちこめており、周囲の状況がほとんど確認できず、ちろちろと近くで水の流れている音しか聞こえなかった。
いったい何時間、逃げ続けただろう。
しかし、そんなことを悠長に考える暇もないくらい彼は疲れ果てていた。
今、彼の脳裏にあったのは、家の床が赤色に染まっている光景だった。
農作業から帰ってきた時のことである。家の中で母親と兄が倒れており、その中心に髪の長い少女がたたずんでいたのだ。母親と兄は手首を切り取られており、腹に刺し傷がある状態で息絶えていた。
――妖怪だ。
そう思った瞬間、少女のひどく澱んだ目がこちらを振り返った。
彼女の右手は血に染まっており、いったい彼女がこの家でどんな行為を犯してしまったのか言うまでもない。
持っていた道具を全て投げ捨て、卓郎は走った。後ろで妖怪が追いかけてくる気配がして、彼はさらに走る速度を上げた。
――いやだ。死にたくない。
とにかく、その時はただ殺されるのが怖くて、卓郎は必死で逃げ続けた。草木の生い茂った森を駆け抜け、流れる川を強引に突破し、何としてでも妖怪から逃れようと無我夢中で走り続けた。
その甲斐もあり、何とかここまで逃げ切ることができたが、もはや指一本すら動かす体力も残っていなかった。
気付いたら、手足のところどころに傷ができていた。
特に左腕の傷がひどい。逃げている最中に、木の皮で思いっきり皮膚を抉ってしまったのだろう。かなり出血している。
だが、疲れで感覚が麻痺しているのか、不思議と痛みはあまり感じなかった。
「ふっ……」
卓郎は小さく息を吐き、目を閉じる。
もう考えるのも嫌になってきた。
朝から農作業に追われて何も食べてないし、口の中もひどく渇いている。早くこの苦しみから逃れようと、卓郎は体の力を徐々に抜いていく。
その直後、何者かがこちらに近づいている気配を感じた。
「あら、なにかしら」
女の声だった。ただ、女にしてはやけに幼すぎる声だった。
「人間、みたいですね。しかも、怪我をしているみたいです」
「見た目からしてまだ若いわね。ユキ。生きているか確認しなさい」
「分かりました」
幼い声が命令すると、何者かが卓郎の腕を掴んでくる。
当然、抵抗する力などない。会話から察するに、幼い声の方がユキと呼ばれる者よりも地位が高いようだ。
「生きているみたいですね。呼吸していますし、脈も動いています」
「そう。生きているのね」
直後、小さな手らしきものがそっと卓郎の顔に触れる。
「起きなさい」
その言葉に釣られるように、彼は目を開ける。
瞬間、全身の体温が一気に下がった。
目の前にいたのは、幼い女の子だった。だが、その背中には蝙蝠を彷彿させる羽根が付いており、一目で普通の人間ではないことが分かった。
「どうしてこんな所で寝てたの?」
少女はそう訊いてきたが、卓郎は口を動かすことができない。彼女から発せられる雰囲気に、完全に圧倒されていたからだ。
これまでの人生の中で、弱小の妖精程度なら何度か遭遇したことはあるが、彼女の雰囲気は明らかにそれとは別次元のものだった。呼吸をするのも苦しく感じる。
「答えられないのね。まあ、いいわ」
彼女は手を引っ込めて、その口を小さく開ける。
そこには、鋭利な牙が付いていた。
「館の近くで生きた人間を見つけられるなんで、今日は運の良い日ね」
「お嬢様。今日はここで済ませるつもりですか?」
「ええ。いつも人間を探すのも手間がかかるし、今日はここで済ませるわ」
抵抗する暇は一瞬たりともなかった。
お嬢様と呼ばれた幼い女の子は、卓郎の左肩に勢いよく噛みついてきた。そして傷口から噴き出てくる血を、そのままごくりごくりと喉に流し込んでいく。
いつしか村の噂で聞いたことがある。
村から遠い場所には、恐ろしい吸血鬼が住んでいる館があると。その吸血鬼はどんなに多くの妖怪が束になっても勝てないほどの強さを持ち、人間など一瞬で葬り去られてしまうらしい。
卓郎の脳裏に、母親と兄が倒れている姿が浮かんだ。
僕もここで死ぬのかな、と思いながら卓郎は意識を失った。
この作品は上海アリス幻樂団『東方Project』の世界を下敷きにしました、二次創作になります。
主に『東方紅魔郷』のキャラクターが出演しますが、作者オリジナルのキャラクターも多く出演します。あらかじめご了承ください。また、時系列は原作から少し昔となっております。