家中に置かれた多くの人形たちが、じろじろと泥だらけになった卓郎を見ている。
「ついてない。まさか、こんなことになってしまうなんてね……」
窓の外を眺めながら、人形のような金髪の少女が言う。しかし、今の彼女も彼と同じように全身泥だらけになっており、きれいな髪も今や茶色に変わってしまっていた。
少女はため息をついて、顔についた泥を拭う。
「さっきは私が悪かったわ。油断してたというか……弁解の余地もないわ。天気も大荒れだし、あなたの服も洗わなくちゃならないし、今日はここでゆっくりしていきなさい」
現在、外は激しい雷雨が降っており、とても外に出られる状況ではなかった。すでに時刻は夕方であり、雨の勢いが弱くなる頃には夜になっているだろう。
さすがに普通の人間が夜になっても歩けるほど、この一帯は安全ではない。紅魔館の住人たちには心配を掛けてしまうが、今日は彼女の言うことに従ったほうがいいだろう。
大勢の人形の視線に戸惑いつつも、卓郎は頷いた。
「はい、ありがとうございます」
この家の主、アリス・マーガトロイドは不機嫌そうに泥だらけの服を見た。
「あーもーっ。服もこんなになっちゃって。さすがにここまでひどいと簡易魔法じゃ落とせないし、着替えるしかなさそうね」
アリスは泥だらけになった卓郎の姿を見て、困ったように頭を掻いた。
「あなたも着替える必要があるわね。でも、さすがに男性用の着物なんて持っているはずがないし……。ちょっと待ってて」
アリスは、部屋の隅に置いてあった大きい布と小さい布を卓郎に渡した。
「私は奥の部屋で着替えてくるから、卓郎はその間に小さい布で体をきれいにしていてちょうだい。服はちゃんと全部脱いでおくのよ。で、服をきれいにしている間は、この大きい布で体を覆っててちょうだい。分かった?」
「分かりました」
さすがにこの状態で一晩は過ごしたくなかったので、卓郎は素直に頷いた。
アリスは「じゃあ、よろしく」と言って、そのまま奥の部屋へ行ってしまった。卓郎も早速、着物を脱ごうとしたが、すぐにその手を止めてしまった。
なぜなら、大勢の人形たちが卓郎をじーっと見つめていたからである。
どの人形も可愛らしい女の子の形をしており、青色のドレスを着ていたり、どこか遠い国の民族衣装のようなものを着ていたりと、衣装は実に多種多様だった。
「人形だと分かっていてもなあ……」
相手は人間じゃないと分かっているが、それでも奇妙な感覚を抱かざるを得なかった。
卓郎は、何となく目の前にいた長い金髪の人形と目を合わせてみたが、人形は卓郎からの視線に動じる気配もなく、じーっとこちらを見つめるばかりだった。
あまりのまっすぐな視線に、彼の方から目を逸らした。
とりあえず、このままにしておくわけにもいかなかったので、卓郎は服を脱ぎ始めた。
※
卓郎がアリスと遭遇したのは、人里の中だった。
この日、卓郎は午後から人里の店で話し合いを行っていた。
そこはいつも日用品やら雑貨やらを大量に購入している店であり、卓郎は紅魔館を代表して、店長に今後の商品取引に関しての値段交渉を行っていたのである。
この数年、噂を聞きつけて、紅魔館には大量の妖精メイドが入ってきた。
その影響で、日用品などの消費が急激に増えてしまったのだ。
いくら妖精メイドたちに給料が出ないとはいえ、日用品の消費が増えてしまえば、それに伴って屋敷が出すお金も多くなってしまう。
その矢先、卓郎は主人であるレミリアから、「なるべく費用を抑えるようにしてちょうだい」との命令を受けてしまったのである。
いろいろと考えた挙句、卓郎はまず商品をなるべく安く購入しようと考えたのである。
しかし、人里の店をぐるぐる回って安い品物を購入するには手間が掛かるし、どの商品にもある程度の相場が決まっている以上、安く購入するにも限界があった。
そこで、普段から大量の商品を購入しているお店に対して、「今後も商品をいっぱい買うから、店頭で売られている値段よりもっと安くして」と直接交渉するわけである。
人里の店は個人向けに商売をしているところが多いので、たとえ卓郎が少し無茶な要求をしたとしても、店の人はいつも大量の商品を買ってくれる顧客をそうそう逃すわけがないだろう。もちろん、無茶な要求をして交渉が決裂するのは避けたかったので、常識的な範囲内での値引きにするように心掛けた。
この作戦はうまく成功し、いくつかの店で安く商品を購入できるようになった。
そしてこの日、卓郎は主に衣類の生地などを購入している店との直接交渉に臨んだ。
その結果、一定の成果を収めてその店を後にした。外に出ると、空には分厚い雲がかかっており、もう少ししたら大雨が降ってきそうな気配がした。
まずいな、と直感的に卓郎は思った。紅魔館を出た時はまだ青空だったので、不覚にも傘を持ってきていなかったのだ。
寄り道せずに早く帰ろうと判断して、卓郎は笠をかぶろうとした直後だった。
「ねえ、そこの人」
突然、後ろから声を掛けられたので、卓郎はびくんと体を跳ねらせる。まさか、自分の正体を知っている人なのかと焦りつつ、後ろを振り向いた。
そこにいたのは、里ではなかなか見かけない金色の髪の少女だった。初めて見る顔だった。
「僕になにか?」
「さっき、そこの店でいろいろと交渉していたようだけど、うまくいったようじゃない」
卓郎は首を傾げる。
交渉は扉を挟んだ店の奥で行われていたため、たとえ交渉の間に少女が店舗内に入ってきたとしても、会話の内容までは聞き取れないはずだ。
「そうですけど、どうして知っているんですか」
「ああ、ごめんなさい。実はちょっと人形を通じて、こっそり聞いていたのよ」
「人形?」
すると、突然少女の背中からひょっこりと金髪の人形が姿をあらわした。少女が人形を操っているような動きを見せなかったため、これには卓郎も驚いてしまった。
少女は笑みを浮かべながら、人形の頭を撫でる。
「紹介が遅れたわね。私はアリス・マーガトロイド。ただの人形遣いよ。あなたは?」
「……卓郎といいます」
「卓郎ね。ちょっとあなたにお願いがあるんだけど、聞いてくれるかしら?」
直後、別の人形がアリスの背中から出現した。
その人形はまるで自律して動いているかようにアリスの肩に乗って、卓郎の顔をじっと眺めている。大道芸人がやっている人形劇の類は卓郎も見たことあるが、彼女の人形の動きは明らかにそれを逸していた。
この瞬間、卓郎はアリスが普通の人間ではないことを察した。
※
彼女のお願いとは、先ほどの店に置いてある生地を購入して欲しいとのことだった。
自らを人形遣いと名乗るだけあって、アリスは人形を作るのに必要な材料の一部を人里で購入しているようだった。しかし、買うといってもごくわずかな量なので、いつも店の定価の値段で買っているらしい。
そして今日もいつも通り、彼女が店内に入ったところ、ちょうど卓郎が店の主人と一緒に奥に入っているところを見かけたのである。
扉が閉まる前に『値引き』という言葉が聞こえてきたので、ピンときたアリスはひっそりと人形を使って卓郎たちの会話を聞いてみたのだ。
すると、アリスの欲しかった生地が定価よりかなり安い値段で買えると分かったので、卓郎が店を出てきた瞬間を狙って話しかけてきたのだ。
「私は細かい交渉が得意ではないからね。だからお願いできるかしら」
アリスは一枚の紙を卓郎に渡してきた。
「お金は私が持ってるから、この紙に書いてある物を買ってきてくれるかしら。あなたが商品を購入すれば、定価よりかなり安く買えるんだからね。もちろん、お礼はするわよ」
「なら三割でどうでしょうか」
卓郎の言葉に、アリスは「えっ?」と首を傾げる。
「お礼はお金で結構です。僕が商品を買うことで得をした分のお金については、その三割は僕がもらうというのでどうでしょうか」
アリスは眉をひそめた。
「お金にするの? 食べ物とかはダメなの?」
「食べ物だとちょっと手間が掛かりますからね。アリスさんの代わりに僕が商品を買いますので、その手間賃と考えてくれれば」
「こういった交渉はよく分からないけど、手間賃にしてはちょっと高くない?」
この返しは卓郎も想定済みである。だから、少し高めの三割でまずは言ってみたのだ。
卓郎はわざと焦った素振りをしながら、頭を掻いた。
「ああ、そうですね。すいません。じゃあ、二割ならどうでしょうか」
彼女はしばらく訝しげな顔つきになっていたが、やがて首を縦に振った。
「……そうね。じゃあ、それでいいわ」
「ありがとうございます」
交渉が成立後、卓郎はすぐに先ほどの店に入っていった。
店主はすぐに店に戻ってきた卓郎に驚いた様子だったが、「すぐに必要になった」と説明すると、喜んで受け入れてくれた。
指定の商品を購入後、卓郎は店の近くで待っていたアリスと合流した。
品物を受け取ったアリスは、満足気な様子で頷いた。
「うん。いいね。この生地だけは、あそこのものじゃないと見た目が悪くなるのよ」
「それは良かったです」と返しつつ、卓郎は空を見上げる。
どうやら店で買い物をしているうちに、空はますます不穏な雰囲気になっているようで、雨が降ってくるのは間違いなさそうだった。
「雨、降ってきそうですね」
卓郎がつぶやく。
「そうね。早く私も家に戻らないと……。卓郎の家はどこにあるの」
「僕の家は人里から離れたところにあります」
アリスは意外そうに目を瞬かせた。
「あら、そうなの。珍しいわね。人里に住んでいるんだったら、今後もあなたに買い物をお願いしようと思ってたのに」
「いろいろと事情がありまして」
「雨が降ってくる前に帰れそう?」
「どうでしょう。五分五分といったところですね」
「そう……。悪かったわね。余計なお願いをして。だったら急いで里を出ましょ」
二人は急いで里の出口に向かった。
移動しながらアリスと話しているうちに、どうやら帰る方向が同じだということが分かったので、しばらく卓郎は彼女と一緒に歩いていくことになった。
しかし、雲行きはどんどん怪しくなっていき、少し進んだあたりで、ついに冷たいものが卓郎の頬に流れた。
さらに運の悪いことに、雨足はすさまじい速さで強くなってき、あっさりと卓郎は全身がびしょ濡れになってしまった。
「くそっ……。ここまで強くなってくるなんて」
ついに卓郎とアリスは走り始めた。
よく見ると、なぜか隣のアリスは全く濡れていなかった。
彼女の体は青白い光に覆われており、事情を訊いてみると、雨を弾いてくれる魔法を掛けているらしかった。
ここで卓郎は、アリスはパチュリーと同じような魔法使いであることを知った。目の前で魔法を使っているのに、全く驚いた素振りを見せない卓郎にアリスは怪しげな顔をしたが、やがて「まあ、余計な詮索はしないでおくわ」と言ってくれた。
念のため、卓郎は尋ねてみた。
「アリスさん。僕に雨よけの魔法を使うことってできませんか」
「悪いわね。この魔法は術者にか発動することができないのよ」
「そうですか……」
アリスのことだから、もし使えていたら雨が強くなる前にやっていただろう。
「あなたの家はもう近いのかしら」アリスは問う。
「いえ、まだまだあります」
この状況では、もう二、三十分ほどは走り続けなければならないだろう。
その時、近くに雷が落ちて、閃光と共にすさまじい轟音が耳に響いた。さすがの卓郎もこれには一瞬、肝を冷やしてしまった。
アリスは走りながら、小さく息を吐いた。
「この状況はさすがに危険ね。物を買ってくれたお礼もしたいし、雨が弱くなるまで私の家で雨宿りをしていってちょうだい。私の家はこの近くの森にあるから」
「あ、ありがとうございます」
「それにしてもこの雨はさすがにきついわね。こんなに激しいのは久しぶりだわ」
「そうですね」
「あなたがいなかったら、ひとっ飛びで家に帰れるんだけど、そうしたら卓郎が私の家まで行けなくなっちゃうし……。ちなみに、あなたって何か能力とは持ってないの?」
「持っていません。僕は普通の人間です」
全身がすっかりびしょ濡れになってしまい、半ば投げやりで卓郎は言い返した。それとは裏腹に、魔法で濡れていないアリスの表情はどこか余裕があった。
アリスは正面の方向を指差した。
「この先の森の中に私の家があるわ。ただ、普通の人間が通るには少しきつい匂いとかがあるから、そこらへんは私の魔法で守ってあげる。私の家に到着したら、もうちょっとあなたのことを詳しく聞かせてちょうだい。あなた、どう見ても並みの人間じゃないと思うから」
そう言って、アリスが微笑んだ直後だった。
アリスの足がぬかるみにはまり、大きく滑ってしまった。
「あっ――」
そのまま彼女の体は、大きくバランスを崩してしまう。
さらに、転んだ拍子にアリスは反射的に隣を走っていた卓郎の着物の裾をつかんでしまった。何が何だか分からないうちに、卓郎の目の前には茶色に濁った水たまりが迫っていき――。
そのまま、二人は仲良く水たまりに突っ込んでしまった。
さらに、その衝撃でアリスの雨よけの魔法は効力を失ってしまった。
※
大きな布に包まれながら卓郎は、アリスが淹れてくれた紅茶を飲む。
すっかり体が雨で冷えてしまったせいか、紅茶が妙に美味しく感じられた。それとも、紅魔館で支給される紅茶よりも品質の良いものを使っているのだろうか。
まだまだ外から激しい雨音が聞こえてくる最中、卓郎は小さく頷いた。
「おいしいです」
「そう。良かったわ」
アリスは答える。布に包まった卓郎とは対照的に新しい服に着替え終わったので、すっかり人里で会った時と同じ姿になっていた。
卓郎は紅茶と一緒に出てきた焼き菓子を一口かじる。
甘さが控えめに作られているようで、卓郎はすぐにそれが気に入った。紅魔館で食べる菓子類は、住人達の嗜好に合わせてやたら甘く作られているので、なかなか自分好みの菓子が食べられないのだ。
アリスは紅茶を飲んでから言った。
「あなたの着物は今、私の魔法で洗っている最中だわ。もうちょっとしたら終わるから、完了したらそのまま着替えてちょうだい」
「もちろんです。さすがにこの姿で他人の家にいるのはきついですし」
アリスの人形が、卓郎が飲んでいたコップに紅茶を注ぐ。
これだけ見ると、アリスの人形たちは本当に生きているかのような錯覚に陥ってしまう。
この家の人形遣いは、紅茶のカップを置いた。
「で、さっきも言ったかもしれないけど、あなたの家は人里からだいぶ離れたところにあるのよね。私が聞く限り、人里以外の土地に人間が住んでいるなんて話はあまり聞かないわ。いったい、具体的にどこに住んでいるのかしら」
この問いに、卓郎は頭の中でどう答えるべきか一瞬迷った。
しかし、すぐに正直に答えても良いなと判断した。
目の前の少女は人間ではないことは間違いないが、だからといって自分に危害を加えるような気配は全く感じなかったからだ。こんな人気のない森で住居を構えている時点で、ひっそりとした生活を送っているのは間違いないし、純粋な好奇心で尋ねているのだろう。
卓郎は、自分はここから少し離れた場所にある、吸血鬼の館で働いていることを打ち明けた。それを聞いたアリスは、信じられないと言わんばかりの表情になった。
「そこに館があるという話は聞いたことあるけど、まさかそんなところにあなたが働いているなんてね……。よく吸血鬼の餌にならなかったわね」
「働くまでいろいろありましたけど、何とか今日まで漕ぎつくことができました」
苦笑した後、卓郎は周囲にいる人形たちに目を行き渡らせた。
「アリスさんはずっとここに住んでいるんですか」
「まあ、いろいろあってね。今はここで暮らしているの」
「人形もここで作っているんでしょうか」
「当たり前じゃない」
卓郎は、何となく紅茶のカップの横にいる人形に目を留める。
アリスと同じ髪色をした人形は、卓郎のカップをじっと見つめている。おそらく、飲んでる紅茶が少なくなったらすぐに補充してくれる役目を担っているのだろう。
いろいろと雑談をしているうちに、テーブルの真ん中に置いてあった焼き菓子が無くなってしまった。「やっぱり二人だと、お菓子の消費も早いわね」とぼやきながら、アリスは立ち上がり、部屋の隅にある棚に向かった。
中を開けた瞬間、アリスは頭を掻いた。
「しまった……。今日は本当についてないわね」
「どうしたんですか」座ったまま卓郎が問う。
「焼き菓子が尽きてしまったのよ。これから作ってくるからちょっと待ってて」
「いや、そこまで無理しなくていいですよ。僕、そんなに甘いものは食べないですし」
「あなたのためと言うより、自分のためね。私、甘いものは常に置いておかないと落ち着かない性分でね」
小さくため息を吐いて、アリスは奥の部屋に再び向かおうとする。
その時、卓郎の中である閃きが浮かんだ。
「あっ。アリスさん、ちょっと待ってください」
アリスは体を止めて、「どうしたの」と問う。
「これからお菓子を作るということは、材料はここにあるということなんでしょうか」
「そうだけど、それがどうしたの」
「もし、良かったら僕にお菓子を作らせてもらえませんか? 焼き菓子じゃないので長持ちはしませんが、泊めてくれるお礼もしたいですし」
アリスは意外そうに目を見開いた。
「あなたが? 甘いものを?」
「ええ。これでも館の使用人をしていますからね。料理全般はそれなりにできるんです。おまけに館の住人たちはやたら甘いもの好きで、お菓子作りにはかなり自信があります」
「へーっ。で、何を作るつもりなのかしら」
卓郎は、初めて住人達があれを食べた時の反応を思い出しながら言った。
「マジックケーキというお菓子です。僕の一番の自信作です」