吸血鬼は紅い血を吐いた   作:個人宇宙

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【18】

 

 

「こんにちは。今日も天気がいいですね」

 本を読んでいる最中、久しぶりに聞く声がした。

 顔を上げると、目の前には常連の女性が佇んでいた。今日は三週間ぶりに里にやってきて、いつものように露店を開いて絵を売っている最中だった。

 

 卓郎は本を閉じて微笑んだ。

「そうですね。いい天気です」

「しばらく見かけなかったですけど、どうかされていたんでしょうか」

「少し仕事が忙しくてですね。なかなか絵を描く時間がなかったんです」

「ということは、新しい絵も描けなかったんでしょうか」

「いえいえ。これは三日前に完成した新しい絵ですよ」

 彼がその絵を差し出すと、女性は感嘆の声をあげた。

 

「すごい綺麗ですね……。これは蛍の絵でしょうか」

「ええ。先日、蛍を見に行く機会がありましたので、それを描きました」

 卓郎がこの絵を描き始めたのは、四日前からである。

 だが、実際に景色を見に行ったのは二週間前のことで、それまでなかなか絵を描く気力が湧かなかったのだ。

 しばらく女性は絵を眺めた後、「うん」と頷いた。

 

「すいません。この絵をください」

「まいど、ありがとうございます」

 今日は幸先の良い始まりとなったようだ。

 現金の取引を済ませた後、女性が持っていた袋から何かを取り出してきた。

「あの……もしよかったら、どうぞ」

「えっ、これは」

 女性が差し出してきたのは、金平糖の入った袋だった。袋の素材が、いつもメイドたちのために買っている店の金平糖の袋と同じだったからである。

 

「中身は金平糖が入ってあります。もしかして甘い物は苦手でしたか?」

「いえいえ、大好物です。わざわざありがとうございます」

 卓郎が礼を述べると、女性は嬉しそうに微笑んでから言った。

「あの、少しお聞きしたいことがあるのですが……」

「どうぞ」

 だが、女性は『絵、売ります』という店の看板を見たまま、口を開こうとしない。

 

 卓郎が訝しげな顔になると、女性は軽く首を振った。

「ごめんなさい。やっぱりいいです」

 そう言い残して、そそくさと露店から去っていった。

 彼女の後ろ姿を眺めながら、しばらく卓郎は呆然としたが、気を取り直して手元に置いてあった本の続きを読み始めた。

 ついでに彼女から頂いた金平糖も早速食べてみる。ほどよい甘さが口の中に広がり、思わず卓郎は笑みを浮かべた。

 

 レミリアに誓いの命令を出されてから、今日で二週間ほどが経った。

 初めて「生涯、紅魔館で働き続けなさい」と言われた頃は、ひどく動揺したが、時間を掛けて考えてみた結果、ひとまず卓郎の中で一つの結論に達しようとしていた。

 

 それは生涯、紅魔館で働き続けようとする結論だった。

 レミリアの命令に従う根拠となったのは、自分の命が彼女によって救われたという事実を思い出したからである。

 八年前のあの日、卓郎は体中を傷だらけにして湖の前で力尽き、偶然通りかかったレミリアに拾われた。こうして奇跡的に命を取りとめた卓郎は現在、様々な紆余曲折がありながらも、館でそれなりに充実した生活を送っている。

 つまり、卓郎はレミリアによって生かされたのだ。自分を生かしてくれた者に対して、生涯を捧げて尽くすことが、最大の恩返しではないのか――。

 

 先日、人里で慧音にやたらと絵や頭脳を褒められた。

 もしかしたら、そこに自分が戸惑う原因ができたのかもしれないと思っている。

 自分の力が人里でも通用するかもしれないと思ってしまったから、死ぬまで紅魔館で働き続けることに違和感を抱いてしまったのではないか。

 

 ――でも、もう迷いはない。

 自分の生涯を、レミリアのために捧げていこう。

 もちろん、絵は趣味として続けていくつもりだ。まだ、彼女には死ぬまで働く意思を伝えてないが、機会があったらしっかりと言う予定である。

 心の中で、そう決意をした矢先だった。

 

「やあ、卓郎。三週間ぶりだな」

 また久しぶりに聞く声が耳に入って、卓郎は顔を上げた。

 露店の前には二人の人間がいた。一人は先日に再会を果たした慧音である。そしてもう一人は、卓郎にとって非常に懐かしい人物であった。

「お、お前が、本当に卓郎なのか?」

 震えた声で訊いてきたのは、だいぶ老けた印象のある卓郎の伯父であった。

 

 ※

 

 今日は早めに店を閉じて、卓郎は伯父の家に向かうことになった。

 道中で慧音が説明してくれた内容によると、先日に卓郎と別れた直後、すぐに彼女は伯父の家に向かって、卓郎が生きていたという事実を話したらしい。すでに卓郎は死んでいたと思っていた伯父は、腰を抜かすくらい驚いたとのことである。

「先生から話を聞いたよ。優しい人が倒れたお前を拾ってくれたそうだな」

 伯父もどうやら、卓郎の作り話を信じてくれたようだ。

 

 卓郎にとって、伯父とも十年ぶりの再会だった。

 寺子屋を辞めて家の仕事で忙しくなってからは、なかなか伯父の家に遊びに行く機会がなかったからである。

 少し歩いて、一行は伯父の家に到着した。

 家は八年前と違い、伯父が経営している着物屋に付属する形で建てられていた。

 店の見た目も、だいぶ華やかになっているようだった。十年前に遊びに行った時は、とても質素な感じのする家だったが、今や見違えるほどになっていた。

 

「立派になりましたね」

「ああ。おかげさまでここ数年、店の売り上げも順調に伸びていてな。金にも余裕が出てきたら、このような形にしたんだ」

 店の横にある細道を通って、卓郎たちは裏口から中に入る。

 居間に通された卓郎と慧音は、ひとまず畳の上に腰を下ろした。

「まだ娘は帰ってきておらんな。それでは、私が茶を用意してこよう」

 伯父がいなくなってる間、卓郎は居間を見回してみた。調度品はどれも高級品までとは言えないが、それなりに品質の良い物を使っているようだ。

 そのうちに、伯父が茶を持って戻ってきた。

 

 礼を述べてから茶を一口飲み、改めて挨拶をした。

「お久しぶりです、伯父さん。元気そうで何よりです」

「ああ。お前も立派に成長したようで、安心したよ」

「今まで生きていることをお伝えせずに、申し訳ありませんでした」

「なに。お前にもいろいろ事情があったのだろう。それくらいのことは気にしないさ」

 伯父は軽く首を振ってから、独り言のように呟いた。

 

「あの事件から、もう八年が経ったのか……」

「はい」

「事件が起きた直後は、私も心が裂けんばかりの思いだった。でも、慧音先生が事件をすぐに解決してくれたおかげで、私もすぐに立ち直ることができたんだ。先生には言い尽くせないほど感謝しております」

「ありがとうございます」慧音は頭を下げる。

「しかも、先生は事件を解決してくれただけでなく、わざわざ亡くなった二人の墓まで故郷の家に建ててくれたんだ」

「えっ。あの墓は慧音先生が建てたんですか?」

 この卓郎の発言に、伯父も驚いたようだ。

 

「ああ、そうだが……なんだ、知らなかったのか」

「はい。何度か墓参りには行きましたが、誰が建てたのかまでは……」

 ここで慧音が苦笑いをする。

「すいません。彼に伝えそびれていました」

「構わないですよ」

 そう言って、伯父は再び卓郎と向かい合う。

 

「となると、故郷には誰も住んでいないことも、お前は知っているんだな」

「はい。その理由も知り合いから聞きました」

「なんだ、卓郎。知っていたのか」と、返してきたのは慧音。

「ええ。妖怪から住人を守るために、と聞きました」

「そうか……」慧音は視線を落とす。

「強引なことだとは承知していた。でも、あの時はあれしか方法がなかったんだ。それくらい、お前の家族が殺された事件は人里にとって衝撃的だったんだ」

「でも、僕にとって生まれ故郷はあの村しかないんですよ」

「……すまない。謝っただけで済まされないと思うが、今はそれしか言えない」

 彼女の顔を卓郎はじっと見つめる。

 

 生まれ故郷への強引な移住政策は、どうやら慧音が大きく関わっていたようだ。気持ちは分からなくもないが、やはり釈然としない所はある。

 すると、伯父が「まあまあ」と言ってきた。

「そう先生を責めるのではない。移住政策は慧音先生が全て決めたわけではないし、先生一人だけを責めるのは酷だろう。とにかく事件は解決したし、だいぶ時間も経ったが、こうして卓郎とも再会することができた。最後までお前の母さんと仲直りできなかったのは残念だが、とにかくお前が生きていたという事実だけで、私は本当に嬉しいよ」

 はぐらかされた気もするが、とりあえず卓郎はそのまま返した。

 

「昔は、伯父さんもだいぶ苦労されていたそうですね」

「そうだな。あの日までは、いつ店が潰れてもおかしくない状況だったな。生活もだいぶ苦しくて、娘にもだいぶ迷惑をかけてしまったよ」

 卓郎は首を傾げる。

「あの日とは、どういうことですか」

 

「私も実に不思議なことだと思っているのだが、事件から数ヶ月後、いきなり私の家の前に大金が置かれていたんだ。実際に受け取ったのは娘だから、細かいことは娘から聞いたのだが、夕食の準備中にいきなり扉が叩かれて外に出てみたら、扉の前に風呂敷が置いてあったらしいんだ。それを開くと、中には驚くことに大量の現金が入っていたんだよ。ついでに、『このお金を店のために使ってください』という伝言も入っていてな。これはきっと神様からのささやかな贈り物だと思って、その内容通りに店の再建のため、金を全てそのために使ったんだ。そのおかげで、店もここまで発展することができたんだ」

 

「へえ。それは不思議な話ですね」

 そう言いながら、卓郎は内心で嬉しい気持ちになった。自分がこっそり渡した金のおかげで、店を再建させることができたからである。

 八年前の事件が起こるまでは、伯父の店も非常に厳しい状況だった。

 それまでは伯父の援助で何とか生活が成り立っていた卓郎の家だったが、伯父の店が厳しくなるにつれ、卓郎の家も苦しめられることになったのだ。

 

 伯父は大きく息を吐いた。

「お前の母さんを助けられなかったのが、唯一の後悔だ。あの時は店と娘を守ることに必死で、ついお前の母さんには辛く当たってしまった。今さらなことかもしれないが、そこのところは許してくれ。本当にすまなかった」

「いえ。もう八年も前のことですし、別に謝らなくていいですよ。こちらこそ、伯父さんにはだいぶご迷惑をおかけいたしました。何はともあれ、伯父さんの援助のおかげであの時は家の生活が成り立っていましたし、むしろ感謝を述べたいくらいです」

「そうか。そう言われると、少しだけ気持ちも楽になる」

 伯父は、すでに湯気の立っていない茶を飲む。

 

 そして大きく音を立てて、湯飲みを置いた。

「まあ、昔の話はこれくらいにしておこう。実は今日、お前を私の家に誘ったのは昔話をするためではない。一つ頼みごとをしたくて誘ったのだ」

「頼みごとですか?」

「ああ。その前に悪いが、お前の絵を見せてくれないかな」

 卓郎は風呂敷をほどいて、一枚の絵を伯父に見せる。

 二ヶ月前に描いた、花と妖精の絵である。ある休日に、道を歩いていたら偶然うたた寝している妖精を発見したので、これは好機だと思って筆を走らせた作品である。

 じっくりと絵を眺めながら、伯父は嬉しそうに何度も頷いた。

 

「うむ。慧音先生の言う通り、これは素晴らしいな。まさか卓郎がこんな素晴らしい才能を持っているとは、思いもしなかった」

「一体、何を頼もうとしているんですか」

 卓郎が怪訝な顔になると、伯父は絵を持ちながら言った。

「実はな。三ヶ月後に博霊神社という所で、例大祭が行われるんだ」

「博霊神社? 聞いたことないですね」

「里から少し外れた所にある神社だから、お前が知らないのも無理ないな。その神社で例大祭が行われているんだが、今年は私が祭りの実行委員長に選ばれてしまったんだ。そのせいで、私がいろいろと催しごとを企画しなければいけなくなってな」

「へえ。それは大変そうですね」

「その一つとして、紙芝居を誰かにやらせようと思っているんだ」

 紙芝居、という言葉を聞いて、卓郎の体がびくんと反応する。

 

 そして恐る恐る自分を指差した。

「も、もしかして、それを僕にやらせるつもりなんですか?」

「ああ。お前ほどの絵の腕前なら、紙芝居もお手のものだろうと思ってな。ちょうど適格な者が周囲におらずに困っていたものだから、ぜひやってくれないかな」

「あはは……。僕が紙芝居ですか」

 卓郎は苦笑いをしながら、七年前の黒歴史を思い出す。

 

 紙芝居は絵だけ上手でもうまくいかない。

 当然、話の構成力や語り手の演出力なども必要になってくる。七年前に比べたら絵の方は格段に良くなったものの、それでも今の自分に紙芝居ができるかどうか定かではなかった。

「今すぐに決めろ、とは言わない。もし興味があったら、二週間以内にまた私の所にやってくればいい。お前の力で、ぜひ例大祭を盛り上げてくれないか」

「お前ならできると思って、私が推薦をしたんだ。どうだ、やってみないか」

 伯父に続いて、慧音も言ってくる。

 

 卓郎は「うーん」と唸る。紙芝居が本当にできるかという不安もあるが、その他にも自分が公の場で姿を現してもいいのかという不安もあった。

 この八年間、彼があまり目立たないように行動してきたのは、例の事件で行方不明の扱いを受けていたからである。つまりは、いろいろと面倒なことを回避したかったからである。

 

 しかし、それはもう八年も前のことだ。

 すでに伯父や慧音には自分の生存が分かってしまっているし、わざわざ自分の身を隠す必要は無くなったのかもしれない。そうなると一応、例大祭に参加する可能性くらいは残しておいたほうがいいのかもしれない。

 そう考えて、ついに卓郎は伯父たちと目を合わせた。

 

「分かりました。考えておきます」

「おお、そうか。突然の頼みで悪かったな」

「いい返事を期待しているぞ」慧音も嬉しそうに言った。

 卓郎は茶で軽く口を潤わせた後、ゆっくりと立ち上がった。

「それでは、僕はそろそろ失礼いたします」

「そうか。それなら私たちも見送ろう」

 彼に続いて、伯父と慧音も立ち上がった直後だった。

 

 がらがら、と近くで扉が開く音がした。

 と、同時に「ただいま」と微かに女性の声が聞こえてきた。

「おお、ちょうど良いところで娘が帰ってきたな」

 伯父がそう呟くと、今度は大声で呼んだ。

「ちょっと優花。こっちへ来なさい。紹介したい人がいるんだ」

「あ、はい」と、扉の先から先ほどの女性の返事が聞こえていた。

 この瞬間、卓郎は首を傾げる。何となく聞き覚えのある声だったからだ。

 

 間もなくして、目の前の襖が開かれた。

 中から入ってきた女性と卓郎の視線が合った直後、二人は同時に驚愕した。

 思わぬことに、卓郎は持っていた風呂敷を落としてしまった。

「あ、あなたは……」

 女性も大きく目を見開きながら、卓郎を見据えている。

 

 この状況に横にいた伯父と慧音も困惑する。

「なんだ、知り合いだったのか?」伯父が問う。

「い、いえ。知り合いという程ではないんですけど――」

 女性はここで、持っていた一枚の絵を伯父たちに見せる。

 それはつい先ほどまで卓郎が売っていた、蛍の大群が描かれた絵だった。

「ついさっき、この方からこの絵を買ったんです」

 

 ※

 

「例大祭で紙芝居なんて、なかなか良さそうな話じゃない」

 卓郎が里から帰ってきた日の翌日。

 伯父が持ちかけてきた話を、レミリアはあっさりと了承してくれた。

 卓郎自身、あまり期待をせずに話してみたが、意外にも彼女は卓郎が公の場に出ることについては一向に構わないらしい。

「ただ、これだけは肝に銘じておきなさい。卓郎はスカーレット家の代表として、例大祭に参加するんだからね。失敗したら、ただじゃ済まないわよ」

「ええっ……」

 心配な顔つきになる卓郎をうかがいながら、レミリアは訊いた。

 

「例大祭は三ヶ月後だっけ?」

「はい」

「それなら十分に準備できる時間はありそうね。ただ、以前のこともあるし、あなた一人だけで準備させるのはちょっと心細いわね」

 七年前のことを思い出して、卓郎は何も言い返せなくなる。

 

「なら、私たちもその準備に協力するわ。なんせ、この館には物語にはうるさい妖精メイドたちやパチェがいるんだからね。彼女たちからいろいろと助言をもらいながら、最高の紙芝居を作りなさい。あなたにならできると信じてるわ」

 どうやら、完全に参加せざるを得ない雰囲気になってしまったようだ。

 とはいえ、卓郎自身は特に不満はなかった。

 これをきっかけに、また彼女に会えるからである。

 

 その日の夜、お茶会の時に早速レミリアの口から紙芝居の話がされた。

 卓郎にとって初めての大舞台に、メイドたちは大きく湧いた。全員にお菓子を配り終わっていざお茶会が始まると、話題は紙芝居のことで持ち切りになった。

「ねえねえ、どんな話にするのかもう決めたの?」

 紅茶を飲みながら、右隣のハルが問う。

 

「いや、まだ完全に真っ白だな」

「物語は幸せな感じで終わらせるんでしょうか?」と、左隣のナツが問う。

「うーん。できれば、その感じに持っていきたいな」

「でも、見た感じあまり幸せではない終わりの方が、逆に見てくれる人に対して印象に残ることだってありますよね」と、正面のユキ。

「それも分かるけど、だからといって気分が悪くなるような終わり方にはしたくないな。できるなら、たとえ見た目が幸せじゃなくても、少しでも希望が感じられるような終わり方にしてみたいな」

「……それって、けっこう難しくない?」と、ハル。

「まあ、そうだね。でも、できればそういう感じの終わり方がいいな」

「なんか、みんな言ってることがよく分かんないですよー」と、後ろでアキがぼやく。

 

 結局、この日のお茶会は結末をどうさせるかで議論になった。

 まだ伯父に参加することすら言ってないのに、かなりの盛り上がり様である。

 何はともあれ、物語をみんなで考えていく作業は非常に楽しいものである。むしろ、実際に書いていく作業よりも楽しいかもしれない。

 早速、卓郎は今週の休日に伯父の家に行こうと決めた。

 そして、もう一つ――。

 彼にとって、紙芝居の他に伯父の家に行きたい理由があった。

 それは、伯父の娘である優花と出会えるからであった。

 

 ※

 

「そうか。お前が参加すると言ってくれて、私も嬉しいよ」

 次の休日。人里の伯父の家に来た卓郎は早速、参加することを伝えた。

 伯父は非常に嬉しそうな顔で、卓郎の参加を歓迎してくれた。

「参加するにあたって、私から内容に関して特に言うことはない。お前のことだから心配はいらないが、公の場にふさわしくない内容以外だったら何でもいいぞ。期限は例大祭の一ヶ月前だ。慧音先生の確認が済み次第、本番に出すという流れだ」

「分かりました」

「期待しているぞ」伯父は微笑んだ。

 

 しばらくお互いの近況を話しあった後、卓郎は伯父の家を出た。

 歩きながら卓郎は今、とても胸が高鳴っていることを自覚した。

 これから、近くの休憩処で彼女と会う約束をしているのだ。

 先ほど、伯父に会うために卓郎は着物屋の正面から中に入った。今日は定休日だったので中には彼女一人だけがおり、その時に約束を交わしたのである。

 

 目的の休憩処の前までやってきて、彼は足を止めた。

 店の前には、肩まで伸びた黒髪の女性が佇んでいた。十年前までは普通の子供だったのに、今では一人の美しい女性に変貌を遂げている。

「優花さん」

 卓郎の言葉に、女性が気付いた。

 

「あっ。終わりましたか」

「ええ。伯父さん、とても嬉しそうにしていましたよ」

「そうですか。私も卓郎さんの紙芝居、楽しみにしていますよ」

「ありがとうございます」

 優花には、最初に会った段階で紙芝居に参加することを伝えている。

「ここで立ち話をするのも難ですし、中に入りましょう」

 卓郎と優花は休憩処に入って、適当な席に座る。

 

 多少の金は持ってきたので、卓郎は迷うことなくお茶と団子を頼んだ。優花も彼と同じものを頼んだ。

 話の始めに、卓郎はまず頭を下げた。

「先日はすぐに帰ってしまいまして、すいませんでした。もっといろいろと話をしたかったんですが、どうしても時間がなかったもので……」

「いえいえ。別に気にしてないですよ」

 

 そう言ってから、優花は軽く息を吐いた。

「ねえ、お互いそんな固い態度になるのはやめましょう。卓郎さんの正体に気付くまでは私もそれなりの態度をとっていたけど、久しぶりに再会したんだから、もっと砕けた感じでいきましょうよ。私もそっちの方が気が楽だし」

「あっ、そう? じゃあ、僕もお構いなくいこうかな」

「ふふっ。でも、なんかちょっと違和感があるわね」

「そりゃあ、一週間前までは大事なお客様だったんだからな」

 お互い顔を見合わせて微笑んでいるうちに、お茶と団子がやってきた。

 

「それにしても」卓郎は茶を一口飲んでから言った。

「まさか、いつも僕の店に来る人が、伯父さんの娘さんだとは夢にも思わなかったな」

「ええ、私も最初は夢かと思っちゃったわ」

 一週間前、卓郎は露店の常連客である優花と再会した。

 

 最初は状況が理解できず、その場にいた全員が困惑した。

 伯父も優花が卓郎の絵を買っていたことは知らなかったようで、最初に絵を見た時点で気が付かなかったのである。卓郎と優花が詳しい事情を話してくれたことで、ひとまず二人は理解してくれた。

 その後、お互いの自己紹介を済ませてから、卓郎は伯父の家から出た。日没の時間が迫っていたので、やむなく出ることにしたのである。

 

 自己紹介の時に聞いたことが、以下の通りである。

 優花は二十四歳。卓郎の一つ年上で、現在は実家の着物屋で親子二人三脚で仕事を行っている。着物を作ることもできるらしく、彼女の作る着物も最近は少しずつ売り上げが伸びてきていると伯父は自慢げに話していた。

 

 表向きは伯父の娘とされているが、直接的な血の繋がりはない。

 伯父の妻――つまり卓郎にとっては伯母の連れ子であるらしく、優花の本当の父親はだいぶ昔に病気で亡くなってしまったらしい。その伯母も十年前に同様の病気で亡くなってしまい、こうして伯父が優花を義理の娘として育てることになったのである。

 卓郎も遠い昔、何度か伯父の家にやってきて優花とよく遊んでいた。

 いわゆる幼馴染という関係である。兄の拓馬は卓郎の八つ年上だったので、伯父の家にやってくる時は、たいてい歳の近い卓郎と優花が遊ぶという流れになっていたのだ。主に、近所にいる優花の友達を集めて、大勢でかくれんぼや鬼ごっこをやっていた。

 

 団子を頬張りながら、卓郎たちは思い出話に夢中になった。

「あの頃はよく優花に負けていたっけな。鬼ごっこの時はいつも優花に追いかけられて、僕が鬼の役をやらされていた記憶がある」

「卓郎さんは、あの時から運動が苦手だったからね。今でも運動は苦手なの?」

「そうだね。その代わり、変な根性はついたと思うけど」

「やだ。なにそれ」優花は可笑しそうに笑う。

「でも、私だって運動が得意だったのは昔のことよ。今は仕事の方が忙しくて、すっかりやらなくなったわ」

「その代わり、着物を作れるようになったじゃないか」

「まだまだ、私なんて半人前よ。いつかお父さんのような素晴らしい着物を作りたいとは思っているけど、肝心のお父さんが『とっとと結婚しなさい』ってうるさいのよね」

「あはは。伯父さんにとっては、いろいろ複雑な心境なんだろうね。優花さんが自分と同じ職を極めることは嬉しいけど、だからといって身を固めないというのもね」

「お父さんの気持ちも分からなくないわ。何回かお父さんから相手を紹介されたけど、いまいちその気になれなくて全部断っちゃったのよね」

 優花の歳を考慮すると、この時期の未婚はかなり遅い傾向にある。

「でも、このまま結婚しないわけにはいかないだろ。仕事の方をもっと頑張りたい気持ちもあるだろうけど、結婚は時期というものもあるしね」

 優花はため息をついて、視線を落とした。

 

 その憂いを帯びた表情を見て、なぜか卓郎は美しいなと思ってしまった。

「卓郎さんは、結婚する予定はないの?」

 えっ、と卓郎は思わず間抜けな声をあげてしまった。

「だから、近いうちに結婚するのかって聞いてるの」

「うーん。どうだろう。全く考えたことがないな」

「相手とかもいないの?」

「そうだね。いないね」卓郎は苦笑しながら、ぽりぽりと頬を掻く。

 自分が結婚することなど、とうの昔に諦めていた。紅魔館で生涯働くと決意している以上、もはや自分が誰かと結婚することなどできるはずがなかった。

 

 それから、話は八年前の事件にまで進んでいった。慧音と伯父はごまかせたが、優花に対してもそれなりに注意を払う必要があるだろう。

「あの事件を聞いて、私も卓郎さんは死んじゃったのかと思ったわ」

 卓郎は無言で耳を傾ける。

「あの時は、私も落ち込んで胸がぽっかりと空いた気分だったわ。いくら何年も会ってなかったとはいえ、昔からの知り合いが死んじゃったんだからね。すぐに慧音先生が犯人を見つけて制裁をしたという話を聞いて、私もお父さんもすぐに立ち直れたけれど、あの時のことは二度と忘れられないわね」

「慧音先生とも、その時期に知り合ったのか?」

「うん。事件の後も何度も家にやってきてくれたのよ。まだ、その時はお店の状態も良くなかったし、私も仕事を手伝い始めたばかりだったから、すごく悩んでいてね。慧音先生の励ましがなかったら多分、お店の仕事なんて続けていなかったと思うわ」

 いくら好きな仕事だとはいえ、『好き』を理由で続けるには限界がある。

 

 優花も慧音がいてくれたおかげで、今の仕事を続けてこられたのであろう。母と兄の墓を建ててくれたことといい、慧音には本当に頭が上がらない。

 優花は続けて言った。

「たしか卓郎さんは、遠い村の農家の人に拾われたんだっけ」

「そうだよ」

「その農家の人って――」

 ここでいったん優花は言葉を止めたが、やがて思いきったように言った。

「もしかして、卓郎さんを拾ってくれた農家の人ってお金持ちだったの?」

 意外な質問に卓郎は一瞬、表情が強張りそうになる。

 何とかそれは抑えたが、優花の意外な質問に心の中で困惑せざるを得なかった。

 

 なぜなら、実際に彼を拾ってくれた館の主は本当にお金持ちだからである。

 スカーレット家の莫大な財産のおかげで、卓郎は優花たちに現金を渡せたのである。当然、お金持ちの農家に拾われたことなど一言もしゃべってない。

 ひとまず、卓郎は笑いながら返した。

「何言ってるんだ。僕を拾ってくれた人は、普通の農家の人だったよ」

「そ、そうだよね……。ごめんね。急に変なこと言っちゃって」

 追究する気はなかったようで、優花はすぐに納得してくれた。

 

 食べ終わってからだいぶ話し込んでしまったので、ここで二人は店を出ることにした。

 優花の提案で、二人は里の外をぶらぶらと歩くことにした。里の外とは言っても、限りなく里に近い場所を歩いていくだけである。

 歩いている間、二人は他愛のない会話を続けた。

 仕事の話だけでなく、周囲の面白い人の話など話題は絶えなかった。近所に住んでいる人という設定でハルの話をすると、優花は「面白そうな人ね」と笑ってくれた。

 

 優花は意外にも教養が豊かな女性で、卓郎が少し知的な話題をしても、ごく普通に乗っかってくれた。道端に咲いている花を題材にして、お互いに即席の自由律俳句を言い合ってみたりもした。

 どこでそのような知識を学んだんだ、と尋ねてみると、一週間に一回の頻度で慧音の家に行って勉強していると答えてくれた。ここまで来ると、本当に優花は慧音によって大きく変わったのだなと思わざるを得なくなった。

 

 楽しい時間はあっという間に過ぎるもので、そろそろ日も傾き始めてきた。

「いくら里から近いとはいっても、夜になると危険だ。早く戻ろうか」

 卓郎の提案に、優花は納得いかないような顔になった。

「えーっ。もうちょっと一緒に歩いてもいいじゃない」

「でも、僕もそろそろ家に戻らないと帰れなくなっちゃうよ」

「ああ、うん……。そっか。卓郎さん、家までかなり歩くんだったよね」

 名残惜しいが、ひとまず二人は肩を並べて里の方向に歩き始める。季節はもうすぐ夏を迎えようとしているが、二人の髪をたなびかせる風はまだ冷たい。

 

「ねえ、次はいつ里に来る予定なの?」優花が問う。

「また一週間か、二週間後くらいかな」

「今日は本当に楽しかったわ。また一緒に話しましょうよ」

「ああ。僕もとても楽しかったよ。絶対、近いうちに会いに行くよ」

「うん」

 その時、卓郎の右手に温かい感触がやってきた。

 

 顔を向けると、背景の夕日に照らされた彼女の輝いた微笑がそこにあった。

 卓郎の心臓の鼓動が急激に速くなる。

 彼女は微笑んだまま、彼の手をぎゅっと握ってきた。

「里に入るまで、いいかな?」

「あ、ああ……。いいよ」

 たどたどしく答えながら、卓郎も手を握りしめる。彼女はさらに機嫌が良さそうに、彼の手をさらに強く握ってくる。柔らかく、夕日のような温かい手だった。

 

 何も話せないうちに、二人は里の入口まで到着した。

「じゃあ、また来週ね」そう言って、優花は卓郎の手を離して去っていく。

「あっ……」

 名残惜しそうに、卓郎はその後ろ姿を眺める。彼女の姿が視界からいなくなった後、卓郎はつい先ほどまで握られていた掌をじっと見つめる。

 それだけで、心の中が満たされていくような気がした。

 この二十三年間の人生で、味わったことのない感覚が彼の中で駆け巡っていた。

 館に戻るまでの間、ついに心臓の鼓動が平常に戻ることはなかった。

 

 


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