着物に着替えて、ある程度の荷物をまとめた卓郎は館の門まで来た。
そこでは美鈴やパチュリーに加え、大勢のメイドが彼を待っていた。
「卓郎さん……。本当に辞めてしまうんでしょうか」
ナツが恐る恐る尋ねてくる。彼女はあの場にいなかったので、まだ事態をよく把握していなかったのだ。
「ああ、本当だ。お嬢様から直々に言われた」
彼の明確な返事を聞いて、多くのメイドが驚くような素振りを見せる。
正直、卓郎も解雇という現実を、まだ完全に受け入れたわけではなかった。
レミリアに質問をする時点で、ある程度のことは覚悟していたが、まさか館を辞めさせられることになるとは夢にも思わなかったのだ。
すると、ここでパチュリーが彼の前までやってきた。日射しが苦手だということで、横には日傘を差した小悪魔も同行している。
「レミィに代わって私が謝るわ。ごめんなさい。こんなことになってしまって」
「そんな……。パチュリー様が謝ることはありませんよ」
「こんなことになるんだったら、最初から話しておけば良かったわね。レミィのことを知っておけば、今日のようなことも起こらなかったもしれない」
そうつぶやいた後、パチュリーは横の小悪魔に命令する。
「後で卓郎をあの場所に誘導させて。いろいろと話したいことがあるから」
「パチュリー様。話したいこととは?」小悪魔が問う。
「レミィのことについてよ。悪いけど、よろしくね」
そう言って、パチュリーは卓郎に体を向ける。
「卓郎。後で話したいことがあるから、館から出たら小悪魔の言うことに従ってちょうだい。それと、レミィへの説得は私の方からしておくから安心しておきなさい」
「パチュリー様……」
「今回は長期休暇をもらったと思っておくことね。八年間、常に働きっぱなしだったし、体を休めるにはちょうど良い機会なんじゃないかしら。例大祭も近いし、休みの間は入念に準備でもしておきなさい。何かあったら、メイドたちを通じて連絡するから」
「ありがとうございます」卓郎は深く頭を下げる。
今回の解雇命令は、レミリアの感情的な部分が大きく占めている。それならパチュリーの説得で、戻ってこられる可能性は充分にあるだろう。
少しだけ、希望が見えてきたような気がした。
「じゃあ、卓郎。また後でね」
軽く手を振って、パチュリーは去っていった。当然、小悪魔も後ろについていく。小悪魔はパチュリーを館に入れ次第、またここに戻ってくるのだろう。
「この場合、前向きに考えたほうが良さそうですね」
話を聞いていた美鈴が、ここで卓郎に手を差し出す。
「さよなら、とはいいません。また戻ってくると信じています」
「僕もそう信じています」卓郎は美鈴とがっちり握手を交わす。
すると、ここでナツも矯正器を持ち上げながら言った。
「館のことなら私たちに任せてください。しっかりと卓郎さんの代わりを行います」
同調するように、ナツの近くにいたメイドたちもうなずく。
ここにいるのは八年間、卓郎がじっくりと育ててきた優秀なメイドたちである。彼女たちが力を合わせれば、きっと館も大丈夫だろうと判断した。
「ね、ねえ……」
ここで、ハルが慌てたように言った。
「パチュリー様が言うように、すぐに帰ってこれるんだよね?」
「具体的には分からないよ。でも、今はパチュリー様を信じるしかない」
「でも、もしお嬢様の説得に失敗したら、二度と戻ってこれないんでしょ?」
「まあ、そうなるね」
「そ、そんな。リーダーがいなくなるなんて、あり得ないよ」
ハルの目から、どんどん涙が溜まってくる。
「ハル、お前……」
「絶対に戻ってきてよ! 戻ってこなかったら、あたしリーダーのこと憎むから!」
「憎むって、それはよっぽどだな。これはパチュリー様の責任も大きくなるぞ」
いつもの軽い口調で返すが、ハルの目からはどんどん涙が流れていく。ナツが心配そうにやってくると、ハルは彼女の胸元にうずくまって泣き出してしまった。
卓郎は苦笑いをする。
「ありがとう、ハル。必ず戻ってくるから、それまで館を頼むぞ」
ハルは涙を拭きながら、こくりと頷いた。
小悪魔が戻って来たのを確認して、卓郎は荷物を手に持つ。
「じゃあ、僕は行くよ」
「いってらっしゃいませ」
メイドたちは一斉に頭を下げる。
本当に館に戻ってこれるのか、今は不安で仕方ない。でも、綺麗に揃って頭を下げているメイドたちを見ると、何故か妙な安心感が出てきてしまった。
彼女たちに見送られながら外に出て、少し歩いた矢先だった。
「卓郎さーん」という声が、後ろから聞こえてきた。
振り返ると、ユキがこちらに向かっているところだった。
「みんなと話し合った結果、しばらく私も卓郎さんとお供することにしました」
「えっ。仕事の方はいいのか?」
「大丈夫です。仕事はナツちゃんとハルちゃんが、何とかやってくれるそうです。それに、今はお嬢様も、私に対してあまり良い印象は持っていないと思いますので」
「聞いた話によると、だいぶユキもお嬢様に反発したんだってな」と、小悪魔。
「うん。でも、本当はすごく怖かったけどね」
平気そうにしゃべるユキだが、あれは並みの精神力では行えなかっただろう。八年前はかなり繊細な感じのメイドだったが、だいぶ立派になってくれたようだ。
最終的に、卓郎はユキの同行を許すことにした。ただ、卓郎はいつ戻れるのか分からない状態なので、同行するのは数日間だけという条件を付けた。
湖を渡りきり、小悪魔に連れられて卓郎たちはいばら道を進んでいく。
「こんなところに何があるんだ」卓郎が問う。
「来れば分かるよ」先を歩く小悪魔の足取りは、しっかりとしている。
やがて、道の先にぽつんと建っている一軒の小屋が見えてきた。
「へえ。こんなところに小屋があったんだ」
「もう誰も住んでないところだけどね」
小屋に到着し、小悪魔が扉を開けると、中はもぬけの殻だった。向かい側にある壁は所々に穴が開いており、小屋としての機能は果たしてないようである。
「ここなら大丈夫かな」
そう言って、小悪魔が取りだしたのは一本の白墨だった。
そして小屋の床に何かを書き始める。十秒もたたず、小屋の床に白墨で描かれた六芒星が出来上がった。完成した瞬間、六芒星がにわかに光り始める。
「二人とも。この上に足を置いて」
卓郎とユキがそれに従った後、小悪魔もその上に足を乗せる。そして持っていた白墨を構えると、六芒星の中心に弓で獲物を射るかのように鋭く投げた。
床に激突した白墨が真っ二つに割れた瞬間、周囲の景色がぐにゃりを曲がる。
あっという間に、卓郎たちはパチュリーの図書館の中でたたずんでいた。
突然のことに、卓郎は口をぽかんとさせる。
三人のすぐ横では、パチュリーはいつもの机でお茶を飲みながら待っていた。横には美鈴も立っている。パチュリーは、何事もなかったかのような声で言った。
「ただいま。ようやく来たわね」
「パチュリー様……。今のは」
「魔法よ。瞬間的に移動できる転移魔法の一種よ。ただ、そのためには魔力を込めた貴重な白墨を消費しなくちゃいけないから、頻繁には使ってないけどね」
「でも、どうしてわざわざ魔法を……」
「レミィに卓郎が戻ってきたことを知らせたくないためよ。今、この周囲には気配を消滅させる結界を張り巡らせているわ。私が手間をかけず、どうやって卓郎たちとこっそり話せるかを考えた結果、このような形にしたのよ」
そう述べた後、パチュリーは横に置いてある椅子を示す。
「さて、無駄話はいいから、さっさと本題に入りましょ。レミィのことよ」
卓郎は緊張した面持ちで椅子に座る。
それを確認して、パチュリーは口を開いた。
「まず、結論から言わせてもらうわ。私の親友のレミィは、人間に対して非常に甘いわ。良く言えば、優しすぎる吸血鬼なのよね」
「優しすぎる、吸血鬼ですか」
「そう。レミィはかれこれ何十年も人間を殺害していないわ。あなたや多くのメイドたちの前では見栄を張って、いかにも殺害しているような雰囲気を出しているけど、それは全て嘘。主人としての威厳を保つため、やむを得ずに行ってきたことよ」
やっぱりな、と思ったと同時に、多少の驚きも隠せなかった。
時には高慢な態度もとる、あのレミリアがそのような顔を持っていたとは、とても思えなかったからだ。
そうなると、八年前のあの出来事が頭に蘇ってくる。
妖怪の追跡から逃げた卓郎が血まみれで湖に倒れた時、レミリアが彼を紅魔館まで運んでくれた時のことだ。
あの時、レミリアの話によると、たまたま気分が乗ったので卓郎の命を救ったということである。しかし、今回のことが事実なら、レミリアはあの時、最初から卓郎の命を救うつもりでやってきたということになる。
パチュリーは紅茶を一口飲む。
「それで、卓郎はどうしてレミィの秘密に気が付いたの?」
「話をしますと、少し長くなってしまいますが――」
ここで卓郎は、昨晩のことについてパチュリー達に説明をした。
当然、優花との関係は明かさないまま話を進めていった。
聞き終えたパチュリーは納得した様子で頷いた。
「なるほどね。あなたが疑問を抱いてしまうのも無理ないわ」
「あの女性が卓郎さんの知り合いだったなんて、夢にも思いませんでした……」
横にいるユキが信じられない様子でつぶやく。
卓郎はそんなユキに顔を向けた。
「昨日は、ユキがお嬢様と同行したんだよな」
「はい。そうです」
「詳しい人から聞いた話によると、その女性の体には血を吐きだしたような形跡があったらしいんだ。つまり、お嬢様は血を吐いてしまったのか?」
「はい。卓郎さんの言う通りです」
ユキの説明によると、昨晩はレミリアに連れられて空を飛んでいると、ある場所で一人の女性が巨大な石に座って休憩しているのを発見した。
女性の周囲には誰も人はいなかったので、すぐに標的はその女性に決まった。
やり方は至って簡単である。
パチュリーが作った特殊な薬を標的の周囲に散布させ、標的が眠ってから吸血に及ぶのである。この方法なら標的にも姿を見られることなく、吸血ができるのだ。
ユキがこっそり周囲を飛びながら薬を散布させ、何事もなく女性はすぐに眠った。あとは普通に血を吸えばいいのだが、この日もいつもの結果で終わってしまった。
血を吸っている途中で急にレミリアはむせてしまい、そのまま血を吐きだしてしまったのだ。しかも、運の悪いことに吐いた血が女性の体にかかってしまった。
「私が館にやってきた時から、お嬢様は血を吐いておりました」ユキが説明する。
「このことに関しまして、お嬢様からもきつく口外するなと言われてきました。吸血鬼としての名誉にも関わる話ですし、私もそれで納得しました。ただ、どうして血を吐いていらっしゃるのかということに関しましては、怖くて質問できなかったです」
「ということは、ユキも昔からお嬢様の秘密を知っていたのか?」
「はい。そうです」
「というか、この部屋にいる全員がレミィの秘密を知っているわ」
ここで付け加えたのはパチュリーだった。美鈴と小悪魔も頷く。
「知らないのは妹様と、ユキとナツを除くメイドたちよ。スカーレット家の名誉にも関わることだから、信頼できる人にしか秘密を打ち明けなかったのよ」
「でも、お嬢様はそんなこと僕には全く話してくれませんでした」
「それは、あなたが二十年しかこの館で働くことを誓ってないからよ。もし、あなたが生涯ここで働き続けるとを誓っていたら、レミィは話していたかもしれないわね」
それを聞いて、卓郎はうつむく。
つまり、レミリアはまだ完全に彼のことを信頼していなかったのだ。
一瞬、どうしてなんだと疑問に思ったが、日ごろの自分の態度を思い返してみて、何となく理由が分かったような気がした。
もしかしたら、レミリアは卓郎が昔から抱いていた疑問を敏感に察知していたのかもしれない。誕生日の夜にいきなり誓いの約束を持ちかけてきたのも、卓郎が本当に忠誠を誓っているのかを試すための質問だったのかもしれない。
「昔はレミィも、標的が死ぬまで平気で血を吸っていたんだけどね」
パチュリーが懐かしむような感じで言う。
「私とレミィが初めて会った頃――まだ、この世界に来ていない頃の話だけど、その時のレミィの暴虐ぶりは凄まじかったとしか言い様がなかったわ」
「昔は、そんなに人を殺していたんですか」
「そうね。殺さない日が無かったって言えるくらい、だいぶやっていたわね。前にいた世界は、吸血鬼に対する反発が非常に強いところでね。毎日、血生臭いことが起こっていたのよ。レミィの両親は対話的な路線で反発を抑えようとしていたけど、レミィの過激な行動でほとんど意味を成していなかったね」
初めてレミリアの両親について言われて、卓郎はわずかに驚愕する。とはいえ、レミリアも吸血鬼とはいえ立派な生物なので、親が存在して当たり前である。
「いくら昔ながらの親友だったとはいえ、あの頃のレミィは本当に怖かったわ。いつだったかは忘れたけど、血まみれの姿で殺した人間の頭を振り回して笑っている姿を見たときは、さすがの私も思わず鳥肌が立っちゃったし」
卓郎は唾を飲み込む。
「でも、ある時期を境にレミィは人を殺さなくなった。それまで人間を下等な生物と見下して、平気でごみのような扱いをしていた、あのレミィがよ」
「ある時期からですか?」
「両親がいなくなってからよ」
ずしり、と卓郎の中で重たいものが乗っかってきたような気がした。
「両親がいなくなったことについては私も詳しいことが分からないから、うまく話せないわ。ただ、それをきっかけにレミィは急に塞ぎこんでしまった。屋敷から一歩も外に出ないで、時間を無駄に費やす生活を何十年も続けたわ」
「よっぽど両親がいなくなったことが、衝撃的だったんでしょうね」
「そうね。何百年も満たされた生活を続けてきたから、もしかしたら何かを失うことに慣れていなかったのかもしれないわね。吸血鬼としての才能にも恵まれたし、地位と名誉も財産も最初から持っていたしね」
「今はだいぶ立ち直ったように思えますけど……」
「いえ。それはないと思うわ」
パチュリーは強く断言した。
「唐突だけど、卓郎。あなた今、何歳だっけ」
「先日、二十三になったばかりです」
「じゃあ、その倍の時間、何もしないまま生きていける自信はある?」
突然の問いに、卓郎は目を瞬かせる。
「何もしないとは、どういうことですか」
「文字通り、何もしないということよ。例えば、食べて寝るだけの何も変化のない生活を四十年以上続けることはできるかしら」
卓郎はすぐに首を振った。
「そんなの無理ですよ。僕だったら発狂してしまうかもしれません」
「普通の人間ならそうなるね。でも、寿命の長い吸血鬼にとっては、それが逆に功を奏したようで、少しずつだけど、今のような感じに立ち直っていったのよ」
「時間が解決してくれたんですね」
「いえ、ただ単に感覚を鈍らせただけよ。みんな勘違いしているけど、時間が解決することって、そう多くないと私は思っているの。悲しい出来事が起こっても、時間が経てばすぐに忘れちゃう。でも、忘れちゃうだけで本質的な部分は何も解決してないのよ」
遠くを見つめるような目でつぶやくパチュリーに、卓郎は何も言えなかった。いつしかどこかの本で見た、時間は万能で残酷なものという言葉を思い出した。
パチュリーが紅茶を飲み始めた時、美鈴が口を開いた。
「私がこの館にやってきたのは、だいぶ後のことでしたので、詳しいことは分かりません。でも、私が気付いた頃には、お嬢様は血を吐いていたと思います」
カップを置いて、パチュリーは視線を下げる。
「レミィが血を吐くようになったのは、精神的な要因があるからだと思うわ。でも、これ以上は私も言葉を控えるようにするわ。あまりにも私の予測が入りすぎて、かえってレミィの名誉を傷つけることになってしまうからね」
「優しいんですね、パチュリー様は」卓郎が言う。
「レミィに比べたら、これくらいたいしたことないわよ。……正直に言うと、昔の殺伐としていたレミィよりかは、今のような感じが私としてはとても好きね。吸血鬼らしくないと言えば、らしくないかもしれないけど、まあ、たまにはそういった吸血鬼がいても悪くないんじゃないかしら。門番だって、そういったところに魅かれたって言うしね」
美鈴は同意するように、こくりとうなずく。
パチュリーが珍しく苦笑いをする。
「こんなことレミィの前で言ったら、間違いなくただでは済まされないわね」
「そうですね」
「この世界でスカーレット家の看板なんて通用しないことは、レミィだって理屈では理解していると思うわ。でも、今日の卓郎に対する態度を見ると、レミィはまだ今の状況を受け入れることができてないようね。『自分の家がどう見られているかに意識が傾きすぎている』か……。まあ、何百年もスカーレット家の看板を背負ってきたんだから、強がってしまう気持ちも分からなくないけどね」
紅茶を一気に飲み込んで、パチュリーは小さく息を吐いた。
「とにかく、レミィへの説得は私に任せなさい。突然のことであなたも戸惑っていると思うけど、レミィの態度にもちゃんとした理由があったことを理解しておきなさい。さっきも言ったけど、今は長期休暇だと思って体を休めておきなさいよ」
「分かりました」卓郎は首肯する。
とにかく、今はパチュリーに頼るしか方法はなかった。
最後に、卓郎はこの質問をしてみたくなった。
「パチュリー様。最後に一つだけいいですか」
「なに?」
「八年前、僕が初めてお嬢様にお会いになった時、『もし紅魔館に残る選択肢を選んだら、容赦なく僕の血を吸う』と言っていました。もし、僕が死ぬ気で紅魔館に残る選択肢を選んでいたら、お嬢様は僕を殺していたんでしょうか?」
「今だから言うけど、最初からあなたを殺す気なんてなかったわ。もしあなたが死ぬ気で紅魔館に残るんだったら、無理やり気絶させて人里に近い場所に投げ捨てると、レミィは言っていたわ。そこなら、後で妖怪に襲われる心配もないだろうしね」
つまり、最初から卓郎が死ぬという未来はなかったのだ。
どこまでもお人よしな吸血鬼である。
「それで卓郎さん。しばらくは、どちらで過ごす予定なんですか」美鈴が問う。
「人里に宿があると思いますので、そこでしばらくは過ごそうかと考えています。絵を売ってきたおかげで、それなりにお金は持っていますので」
「へえ、いつの間に……。それなら大丈夫そうですね」
「具体的な宿が決まりましたら、ユキが伝えに来るかと思います。ユキも数日は僕と一緒に行動することになっていますので、ユキが戻ってくれば、僕がどこで滞在しているのかも分かると思います」
「なるほど、了解しました」
伝える用件もこれでなくなったので、卓郎たちは館を出ることにした。
やり方は先ほどと同じで、転移魔法を使う。
ただ、先ほどのような白墨を使って六芒星を書く方法ではなく、あらかじめ六芒星を書いた紙を床に敷いておき、その上に足を乗せて転移魔法を発動させるという方法だった。
小悪魔も紙の上に乗り、いざ魔法を発動させようとした瞬間だった。
「ごほっ! ごほっ!」
突如として、卓郎は大きく咳き込んでしまった。
しかも、普通の咳ではなかった。
聞く者の誰もが不安を感じてしまうような、極度に激しい咳を何度も繰り返したのだ。十回ほどでようやく咳は収まったが、この場にいた者はみんな呆然と彼を見ていた。
「すいません……。失礼しました」
苦しそうな表情で返す卓郎に、パチュリーは呆れたように言った。
「やっぱり、今は休んでいたほうが良さそうなんじゃないの。今のは明らかに普通の咳じゃなかったわ。びっくりさせないでよ」
「はい……。そうさせていただきます」
最近、嫌な咳が多くなっているのも、無意識のうちに疲れが溜まっているからかもしれない。八年前は全くそんなことがなかったのだが、これも年齢のせいなのか。
改めて気を取り直して、卓郎は紙の上に乗る。
そして小悪魔は、持っていた白墨を六芒星の中心へ鋭く投げた。