吸血鬼は紅い血を吐いた   作:個人宇宙

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【23】

 

 

 目を覚ますと、茶色の天井が見えた。

 一瞬、いつもの赤い天井ではなかったので驚いてしまったが、ここは紅魔館ではないことをすぐに思い出して、卓郎は小さく息を吐いた。

 窓に目を向けると、まだ外は明るかった。時間を確認すると、どうやら二十分ほど眠ってしまったようである。昼寝としては、ちょうど良い感じだった。

 

 現在、卓郎は人里の宿に身を置いている。

 転移魔法を使って元の場所に戻った卓郎は、そのまま小悪魔と別れて、ユキと一緒に人里に向かった。用事を済ませた後、適当に安い宿を見つけて、少し横になることにしたのである。昨晩は慧音の家の座布団で眠ってしまったので、やや寝不足気味だったのだ。

 持ってきた水入れで喉を潤して、ようやく卓郎は目を覚ます。

 

 この宿に来る前、すぐに彼は優花の家へと向かった。

 優花は貧血の症状を起こしており、昨日に比べたらやや顔色が悪かったが、元気そうであった。卓郎の顔を見た瞬間、笑って歓迎してくれた。

 優花自身、昨晩のことはあまり記憶にないとのことである。卓郎と別れた後、急に眠気がやってきたと思ったら、すでに布団の上に寝かされていたとのことである。妖怪に血を吸われたという事実を聞いても、本人はあまり実感がなさそうに首を傾げた。

 しばらく里に滞在しているという話を伝えて、すぐに卓郎は家を出た。優花は名残惜しそうに卓郎を見つめてきたが、構わずに外に出た。優花の無事もこの目で確認できたので、次は一人になっていろいろと考え事をしたかったからである。

 

 当然、考え事とは先ほどパチュリーが話してくれたことである。

 外の景色を眺めながらぼんやりとしていると、扉が叩かれた。

「はい」と答えると、ユキが部屋に入って来た。

「卓郎さん。今は大丈夫でしょうか」

「ああ。いいよ」

 ユキは、部屋の真ん中にある小さな机の前に腰掛ける。

 彼女は数日間、卓郎の隣の部屋で過ごすことになった。

 妖精が人間の宿に泊まるのもおかしな話だったので、申し込みの際は卓郎が一人で向かい、友人が泊まるからという理由で二部屋を借りたのだ。

 

「あまり気分が冴えないようですね」心配そうにユキが言う。

「そりゃあ、パチュリー様からあんな話を聞いちゃうとな」

 卓郎は大きく息を吐いて、机に置いてある紙を指差した。

「ここに来るまでは、せっかく貴重な時間ができたんだから、好きなだけ絵を描けるぞと思っていたんだけど、いざとなるとなかなかその気になれないな」

「パチュリー様は長期休暇と言っておりましたが、やはりそのまま戻れない可能性もありますからね。卓郎さんが、不安になる気持ちもよく分かります」

「それもあるけど、他にも気分が冴えない理由があるんだ」

「えっ。どういうことですか」

 卓郎は、再び窓の外を眺めながら答えた。

 

「まだ、僕が昔から疑問に思っていたことが解決していないんだ」

 ユキの目がぱちぱちと動く。

 このことを他の人に打ち明けるのはユキが初めてだった。長い間、抱えていた思いを打ち明けるので、少しだけ卓郎の方も緊張してしまった。

「どうして、お嬢様は平気で人間を襲うことができるのかな」

「平気で襲う、とは?」

「八年前、僕の母さんと兄さんは妖怪に殺された。その時、僕の故郷の村や人里での反響もかなりすごかったらしいんだ。妖怪退治を専門にする人が出てきて、母さんと兄さんを殺した妖怪はすぐに制裁されてしまったんだ」

「ですが、それとお嬢様にどう関係しているのか――」

 この瞬間、ユキは何かが分かったように息を止める。

 

 卓郎は頷いてから説明した。

「どうして人里に住んでいる人たちは、お嬢様が人間を襲っても、あまり過剰に反応しないんだろうね。もし、人間に危害を加える妖怪に対して徹底的に制裁をするなら、昔から人里に住んでいる人たちは何らかの行動をしているはずなんだ」

「言われてみれば、確かにそうですね」

 先ほど、パチュリーが話したのは、レミリアが血を吐くようになった理由についてだったが、レミリアに対する人里の反応については話してくれなかった。

 

「いつか、その理由も分かればいいですね」

「いや、当てはもうあるよ」

「えっ」

 卓郎は、ぱんと膝を叩いた。

「僕の知り合いに、人里のそういったことに詳しい人がいるんだ。近いうちに、その人に会って話すつもりでいる。だから、きっとすぐに分かると思うよ」

「……そうですか。分かればいいですね」

 ここでユキは窓の外を眺める。

 

「そういえば、まだまだ外は明るいですね。今ならまだ行けるんじゃないですか」

「いや、さすがに今日行くのはやめておくよ。昨日の事件のせいで、だいぶその人も忙しそうに動いているからね」

「じゃあ、これからの予定はまだ決まっていない感じでしょうか」

「うーん。正直、何もすることがないんだよな」

 思えば、紅魔館にやってきて何もすることがないという時間を過ごすのは、初めてかもしれなかった。仕事の合間は常に勉強や趣味を行っていたので、何もせずにぼんやりと過ごすやり方を卓郎は知らなかったのだ。

 

「それじゃあ、墓参りに行くというのはどうでしょうか」

「墓参りか……」卓郎は腕を組む。

 最近は人里に行く機会が多くなったせいで、あまり行ってなかったような気がする。例の日までだいぶ迫っていたが、悪くはないかなと思った。

「すぐに済ませて引き返せば、日が沈むまでは帰ってこれるかな」

「そうですね」

「じゃあ、出発しようか」

 他にやることがなかったので、卓郎たちはすぐ行動に移すことにした。

 多少の荷物を持って、卓郎とユキは一緒に宿を出た。季節もいよいよ本格的な夏を迎えようとしており、この時間でもだいぶ暑いと感じるようになっていた。

 

「ユキ。遅くなったけど、朝はありがとうな」

 故郷の村までの道中、卓郎はユキに礼を言った。

「お嬢様に殺されかけた時、ユキが説得してくれたことだよ」

 その言葉で、ようやく彼女は納得したような顔になった。

「いえいえ。私は妖精ですから、あのようなことができたんですよ」

「でも、妖精は死なないとはいえ、お嬢様の攻撃を受けたら間違いなく痛い目に遭うだろ。ユキや他のメイドたちが守ってくれなかったら、僕も今ごろどうなっていたか」

「それくらい、みんな卓郎さんのことを大切にしているんですよ。私だって卓郎さんを失いたくなかったですので、あの時は必死で説得しました」

 卓郎は小さく笑う。

 

 こんなこと、普段の生活ではまず交わさない会話である。

 いくら信頼されているとはいえ、この八年間、毎日メイドたちと仲良く仕事をやってきたわけではない。時には激しく言い争ったりして、卓郎自身もメイドに対して嫌気が差したことが何度もあった。

 ユキは空を見上げながら、ため息を吐いた。

「でも、結果としましては、説得は失敗に終わってしまいましたけどね」

「そんなことない。僕がこうして生きているだけでも、充分に成功だと思うよ」

「でも、もし卓郎さんが帰ってこなかったら、私たちはどうすればいいんでしょうか」

 ユキの悲痛な言葉に、卓郎は口を強く結ばせる。

 

 彼にとっても、そこが最も気になる問題であった。

「卓郎さんの代わりに値する者なんて、あの館には誰もいません。しばらくはみんなと協力して仕事をやっていくことにしていますが、長い目で見ますと、とても難しいことだと私は思うんです」

「あれだけ個性的なメイドばっかり集まっているとな」

「やはり、みんなを束ねるリーダーがいませんと、無理な気がしてならないんです」

 

 この八年間、メイドたちは常に卓郎の命令に従って動いてきた。

 もちろん、時には彼女たちの独断で動くことも許されているが、それは全体に大きく影響を及ぼさない程度のことである。

 卓郎の不在は、館のメイドにとって大きな支柱を失うことになるのだ。

「とにかく、今はパチュリー様を信じるしかない。それに、もし僕が戻れなくなったとしても、人里から助言をするくらいのことならできるよ」

 苦し紛れにも程があるが、今の卓郎にはそれしか言えなかった。

 

 話し合っているうちに、二人は故郷の村へ到着した。

 八年前に美鈴と一緒に来て以来、卓郎は定期的に墓参りに来るようになっていた。人がいなくなってからだいぶ時間が経ってしまったので、村の家々はどれも跡形もなく崩壊してしまっており、周囲は雑草が生い茂っていた。

 そんな家々を通り過ぎていき、卓郎は母親と兄が眠っている場所へ向かう。空も橙色になりつつあり、夕方を迎えようとしている。

 

 そして、ようやく二人の墓が見えてきた時だった。

 墓の前に先客がいることに卓郎は気が付いた。遠くからなので細かいところはまだ確認できないが、藍色の浴衣を着ており、髪は腰の辺りまで伸びているようだった。

 女性かな、と思いながら卓郎が近づいた直後だった。

 

 その女性が、不意に卓郎たちの方を振り向いた。

 ――この瞬間、卓郎の思考が一瞬にして真っ白になった。

 女性の顔には見覚えがあった。おそらく、死ぬまで忘れることのない顔だった。

 八年前、母親と兄を殺した妖怪がそこにいたのだ。

 

 ※

 

 しばらく、卓郎も妖怪もその場に佇んだまま呆然としていた。

 状況が把握できないユキは、恐る恐る卓郎に言った。

「知り合い、ですか?」

 卓郎は答えない。ただ、徐々にその体を震わせていく。

 状況を把握したのか、髪の長い妖怪はここで微笑んだ。卓郎にとって、それは悪魔の笑みにしか見えなかった。

「へえ。昔、どこかで見たような顔をしているな」

 口調は粗暴だが、端正な容姿によく似合う綺麗な声だった。

 

 その妖怪が一歩前に出る。それに釣られて、卓郎は一歩下がる。

「ああ、そうだ。やっと思い出した。八年前、私が殺した男にそっくりなんだ。腹をぐっさりと刺して、ひいひい震えながら息絶えっていった男にそっくりだ」

「く、来るなあ!」

 さらに卓郎は後ろに下がろうとするが、足を滑らせて尻もちをついてしまう。

 

 卓郎の異変に気付いたのか、ユキが卓郎と妖怪の前に立った。

「あの、失礼しますが、卓郎さんとはどのような関係ですか」

「さっき言ったじゃんか。私は八年前、そいつの家族を殺したんだよ。残念ながら、そいつには逃げられてしまったけどね」

 ユキが「ひっ」と大きく体を震わせる。妖怪は声を出して笑った。

「こんなところで再会するのも何かの縁だな。八年前は運悪く取り逃がしてしまったけど、今日はそうはいかない。しっかり、とどめを刺してあげるからよ」

 そして、妖怪の右手が徐々に赤く染まっていく。

 

 この瞬間、卓郎の脳裏に八年前のあの日の映像が一気に蘇ってきた。

 家の床が血の海になっていた。

 家中が無残に荒らされており、中心には右手が赤に染まった妖怪が佇んでいた。母親と兄はその横でうつぶせに倒れており、二人とも左手の手首から上が切り取られていた。

 

 金縛りにでも遭ったかのように、卓郎はその場から動けなかった。

 言葉を発しようにも、恐怖でまともに声が出ない。

 右手を赤に染め終えた妖怪は、構えの姿勢を見せる。卓郎の記憶が正しければ、その赤色の右手は鉄をも切り裂くことができる凶器となる。

 殺す気だ、と直感がささやいた。

 

 すると、ユキが卓郎を守るようにして妖怪の前に立ち塞がった。

「とどめを刺すというのは、卓郎さんを殺すつもりなのでしょうか」

「当たり前だろ」よどんだ目がユキを捉える。

「でも、また人里の方から制裁をされるんじゃないでしょうか」

 妖怪の動きが一瞬止まる。

「同じことを犯してしまったら、今度は以前よりも大きい制裁を受けてしまうかもしれないんですよ。それでもいいんですか?」

 ユキの言葉はしっかりと聞き取れるが、震えているのがよく分かった。

 

「……あんた。見た目からして妖精だな」

「ええ」

「腹立つな。格下の種族から、そんなことを言われると」

 そう言うと、妖怪はユキのもとへ駆けて行き、赤色の右手を振り降ろす。寸前でユキは後ろに下がって攻撃を避けたが、体の平衡を崩してそのまま転んでしまった。

 

 尻もちをついた彼女の眼前に、妖怪は右手を構えた。

「今の攻撃を避けたということは、私の能力については知っているようだな。ただ、戦闘には慣れていない感じのようだ。次は避けられると思わない方がいいぜ」

「た、卓郎さんを殺してしまったら、また制裁が……」

「そんなこと、どうでもいい。八年前は油断して人間共に制裁されたが、今回はこっそりと始末させてもらうよ。私の身の心配はご無用だ」

 血に飢えたような視線が向けられて、卓郎は戦慄する。

 

 もはや、言葉が通じる相手ではなさそうだった。だからと言って、自分とユキでは絶対に叶わない相手である。助けを呼ぼうにも、この近くに住んでいる者など誰もいない。最も近い人里ですら、ここから一時間は掛かってしまうのだ。

 絶体絶命の状況だった。

 すると、ここでユキが卓郎の方を振り返った。

 

「卓郎さん。逃げてください」

「えっ」

「逃げてください! ここは私が時間を稼いでおきますので!」

 それからユキの行動は素早かった。

 妖怪の両手首を掴むと、そのまま体ごと妖怪を押し倒したのだ。

 予想外の行動に、妖怪も為すすべなくユキと一緒に地面に倒れる。

「こ、この! 放せ!」

 もがく妖怪に対し、ユキは必死で相手の手首を掴み続ける。

 

 それは明らかに、死ぬことを前提にした行動であった。純粋な戦闘力は、明らかに妖怪の方が上だろう。妖精だからこそできる、捨て身の行動だった。

 ただ、他に対抗手段がない以上、卓郎はユキに頼るしか方法がなかった。

「悪い、ユキ!」

 彼女の言葉通りに、卓郎は全力疾走で来た道を戻り始めた。

 

 まさに、それは八年前に起こったことの再現だった。

 あの時も、体力が尽きるまで走り続けた。違う所といえば、あの時は川や獣道をなりふり構わず走ってきたが、今日は整備された道を走っていることくらいである。いつ妖怪がユキを倒して追いついてくるのかも分からない状況下、卓郎は死にもの狂いで逃げ続けた。

 

 異変が起こったのは、村を脱出した直後だった。

 突然、胸が締め付けられるような苦しさを覚え、卓郎はその場にうずくまってしまった。そして、口を抑えながら激しい咳を何度も繰り返した。

 焼けるような喉の感触を残して、ようやく咳は収まった。

 

 ぜえぜえと肩で息をしながら、卓郎は手元を見る。

 彼の両手は血に染まっていた。

 一瞬、何が起こったのか理解することができなかった。そして、それを証明するかのように、口の中にじわじわと鉄の味が広がっていく。

 ――喀血した?

 寒気が彼の中で襲ってきた。

 

 以前から、体の不調は気になっていた。ただ、ここ最近は忙しい日が続いてきたので、単に疲れているからだろうと思い込んできた。

 でも、これは明らかに異常事態だった。

 赤い血を眺めながら、卓郎は頭の中であることを自覚した。

 もう、自分にはあまり時間が残されていないのかもしれない、と。

 

 


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